150917

「なるほど。ときどきいるよね。自分のことをどこまでも正当化して、相手を隅に追い詰めていくタイプの人間て」
 彼女はそう言うと、グラスを片手に、窓の外を流れるテールランプをしばらく眺めていた。

 僕は特に何を言ったものか分からないので黙っていた。
「もちろん貴方の話を聞いただけだから、私にはその全容はまったくもって分からないし興味もないんだけれど、それでもね」
 言いながら、彼女はそっと視線を僕に向け直す。
 そう。彼女は何かを言うとき、こちらの目を見る。
 そして何かを考えるときは目を閉じたり近くを、何かを思い出すときは遠くをじっと見る。
「どうか。気を悪くしないで欲しいんだけれど。というより、気を悪くするかもしれないことを言うから覚悟して欲しいんだけれど」
 彼女は、はっきりとこちらの視線を捉える。
 僕は動じない。

 綺麗な瞳だ、と思う。
「それってね。DVやストーキングをするタイプの男と一緒だよ。私の前の旦那と一緒」
 僕は驚く。驚いた表情を表に出さないように瞬時にコントロールする。
 うまくいっただろうか。分からない。

 彼女は現在、いわゆるシングルマザーである。
 小学3年生になるであろう娘を自分の両親とともに育てている。
 そして彼女は僕の友達でもある。古くから。もう20年以上の。
「前の旦那」と離婚協定している話を6年ほど前に聞いたのが最後で、その顛末は今も聞いていない。
 聞く必要もないし、興味もなかった。
 DVの旦那によって、肋骨を骨折したとその当時に聞いた。怪我はそれだけではないとも。
 だから今、僕が驚いたのは、彼女の前の旦那がDVをするタイプだからということではない。

「ルールだ、常識だ、といろいろな物を持ち出して砦を築き、そうやって自分の逃げる領域はきちんと確保して、同じ物を今度は武器にして相手の逃げ場を奪っていくの。
 だってあなた、日記をまた全部捨てる羽目になったんでしょう? 携帯電話も預金通帳も覗かれて。
 きっとそれを正当化されて信じ込まされてるから『自分が悪かったんだ』って思い込んでいるはず。
『お前がこれこれこういう理由で悪いから、こうするんだ』って言われなかった? そう信じ込まされなかった? ありとあらゆる手段を、たとえば自身を傷つけるような真似まで選んで。
 だから、あなたは今、彼女の擁護さえするつもりでしょう?
 でも、よく考えて欲しいんだけれど、それを赤の他人がしたら、泥棒と同じでしょう? 家族だって、そんなことはしないでしょう?
 自分を傷つけることで相手を傷つける免罪符を作るのって、おかしいでしょう?」
 さらさらと、彼女は言う。
 僕は目が回る気分になったのは、僕のグラスの中の液体が強いアルコールだから、という理由ではない。

 僕の視線を彼女は見ている。
 そこに含まれている僕の動揺を、読み取っている。
(かなわん)と、僕は思う。

「もう一度、大事なことだから言うけれど。
 私は、全容が全く分からないし、きっと情報も偏ってる上、それらすべてに興味はないんだけれど。
 その上で、私は私の視点からはっきり言わせてもらうけれど。
 あなたは相変わらずの不器用さで、自分の逃げ道を次々塞がれたんだよ。
 そして貴方は相手を追い詰めなかった。追い詰められないように巧妙に作られたルートを、バカみたいに親切に走りつづけた」

 彼女の瞳に、おかしな色が見える。
 これは、怒りだろうか。悲しみだろうか。義憤だろうか。憎しみだろうか。とても熱がこもっている。
 僕はそう感じた。

「それは、道具としてしか考えていないからそういうことが出来るんじゃないかな、と思うよ。貴方、自分が追い詰められた自覚はなかったでしょう。
 牧羊犬だって、そんな逃げ場をなくすような追い詰め方はしないよ。
 追い詰められるのは『貴方が悪いからだ』って言われなかった? そう言いながら、追い詰められなかった?
 結局ね、人形が欲しいだけなんだよ、そういう人って。いたぶるなり、利用するなり、自分の思うようにして、思うようにならなければ癇癪を起こして、自分自身や貴方を傷つけようとする。
 そうすることで、最終的にはあたかも貴方主導で物事を運んだかのようにして、自分の責を逃れつつ、思った通りの状況を手に入れようとする。
 つまり『あなたが自分で選択したんでしょう?』っていう言い訳を用意するのね。
 結末は、たいてい悲惨なものだよ。人形はいずれ飽きられるなり壊されるなりするから。
 要するに、不要になるのね。
 でも、その不要になった人形さえ利用し続けようとする」

 彼女は、目を閉じた。
 目を閉じて、急に話をすることをやめてしまった。
 ぷるぷると、小刻みに、彼女の首が揺れる。
 僕はその仕種を、よく覚えている。

「なんていうか、こう」
 僕はゆっくりと言葉を発する。
「僕は君も知っているとおり、もともとぼんやりしているタイプだからね。誰かが『こうだ』ってあまりに力強くいうと、『案外そうかも』って簡単に思ってしまうんだ。
 自分の意見と人の意見を、およそ同じ重さで捉えてしまう。
 僕が何かを強く思うときがあるように、誰かが何かを強く思ったとして、何も不思議はない。
 たとえそれが、僕個人にとって、不愉快な内容だったとしてもね」

 彼女は、静かに深呼吸する。
 僕の知らない、それは仕種だ。
 そして彼女の瞳から、一切の熱が消えていた。

 そうか。彼女は大人になったんだ。
 それも。僕が想像できないくらい、人として強くなっているのかもしれない。

「それはそれでね。貴方の、昔からのいいところだと私は思うよ。
 だからね。単に私は、自分のフラッシュバックと戦っているのかも」
 そして彼女は微笑んだ。

「僕はね」
 彼女から目を逸らして、僕は天井を見た。
「僕なりの覚悟があったから、自分を崖っぷちに追いやった。僕自身がそれを許容したんだと思っているよ。つまり、自分で選択したんだと」

 ふーん、と彼女は鼻で笑う。
「貴方と同じだけの覚悟が相手にあったと思う? たとえば物理的な、あるいは精神的な逃げ場を自分で消していたと思う?」

 僕は彼女の顔を見つめて、そして笑った。
「それは僕には分からない。他人のことなんか、どこまでも分からないよ。
 覚悟っていうのはさ。自分のぶんしか見えないもの。他人の物まで見たがる人もいるとは思うけれど。それはどだい無理な話であってね。
 そうそう、誠意みたいなもんだね」

 彼女はにやりと笑って首をかしげて、続きを促す。
「『誠意を見せろ』って言う人を何度か見たけれど、あれはなんだろうね。
 見たがる人がいる割に、それを的確に見せられる人はおよそいなかった。
 ときどき見えたと思う人はいたみたいだけれど。
 もちろん子供の嘘を暴くみたいに、あれこれ証拠を出させるような下品なことをする人もいるね。
 そういう人がちょっと外れているタイプなのは事実。
 ただ結局、それは自分の品位を落としているだけだから。
 疑心は闇に鬼を見る。どこまで行っても無間地獄みたいなもんだよ。
 つまり、見たいと思うのも、見えたと思うのも、その人次第でしかないんだよね。
 覚悟もきっと同じだよ」

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 久しぶりに、その店で会ったとき、彼女は開口一番「元気? というか痩せたね!」と笑った。
 僕は「大人になったんだよ」と冗談めかして言ったものの、実際にはそんなこと、これっぽっちも思っていなかった。

 今も、思っていない。