::そもそもの最初から「私」なんてものは存在しなかったのかもしれない。
 周囲の反応や自分の思い込みから自己の輪郭の感触を得ているだけで、そこにあるのは単なる肉体、つまりハードウェアだけでしかないのかもしれない。
 自分が自分であるという根拠を私たちはどこから得ているというのだろう。
 誰もが「自分は自分だ」という確固たる幻想を抱いているだけのように私には思えるのだけれど。




 151012

 最後に心から笑ったのはいつだったろう。
 痛みを感じない。
 楽しさを感じない。
 怒りを感じない。
 悲しみを感じない。

 美しい景色を見ても。
 クールな音楽を聴いても。
 綺麗なガールを見ても。
 たとえそれがナイスバディ眼鏡女子であったとしても。

 今の僕は、何も感じない。

>>>

 僕の卓越した客観性は、時に周囲を惑わせることがある。
「自分のことでしょう?」というような反応は今まで何度も見てきた。

 たとえば僕は自分の感じていることを
「僕はこのように感じているようだ」と感覚する。
 これを率直に他者に表現すると「自分のことなのに、なに、それ?」という反応を誘発することになることが多い。
 僕にしてみると、これは「僕はこのように感じている可能性が高い」という、確率や割合の問題として表現している。
 しかし多くの人は自分が同時に複数の感覚や考え、感情を持ったりしていて、それが相反することもなく、それどころかそれらは常に単一のものとして自分の中に発現していると認識しているように観察される。

 僕は自分の考えていることや感じていることを上手く言葉にできないことが多いし、言葉にすることでかなり多くの情報が欠落していると、書いているそばから(たとえばこの瞬間も)感じている。
 そういうもどかしさを、きちんと理解して、あるいは少なくともそれを大切にしてくれた人はあまり多くはない。
(つまり、少ないけれど、大切にしてくれる人もいた)
「自分の感じていることくらい、きちんと言葉にできるでしょう?」
「自分の考えていることを言葉にすることは、私も練習して身につけたんだよ」
 とまぁ、それがあたかも上位互換であるかのように振る舞う人が多いのではあるが、そうした人の多くが、実のところ、まったく互換性を持ってはいない。
 それが自己の確立という感覚のために感覚や思考を単一化する末路であるかのようではある。

 単一化は、たしかに分かりやすい。
 自分自身にも、そして他者にも分かりやすくディスプレイすることができる。
 コミュニケーションをするうえで、僕などはかなりの不適格者だろう。
 書いているそばから、言っているそばから、果たしてそれが自分自身の考えていることなのか、感じていることなのか、そのすべてであるのかということについて、明確に断言することはできないのだから。

 しかしもし、単一化することが、その不確定な自分を許容するということの上位互換であるならば、単一化されたディスプレイの奥に、複数の、そしてときには容易に相反したり重複したりする感覚や感情、思考や予感に対しての理解を示すこともできるはずなのではないだろうか。
 けれども単純化された人たちは自分の感覚に基づいて「その曖昧な態度は何なのか」と非難する事が多い。
 多いというだけで、実際には例外もあるものの、そうした自己の単一性について疑問に思いもしない人は、自分が複数の感情や思考を並行していることを知らないか、そもそもそれを忘れているのだろう。

 生まれたばかりの頃、少なくとも僕は、笑うことを知らなかった。
 悲しみを知らなかった。
 空しさを知らなかった。
 友情を知らなかった。
 愛情を知らなかった。
 空の高さを知らなかった。
 雲の正体を知らなかった。
 虹の不思議を知らなかった。
 空を飛ぶ鳥の美しさを知らなかった。
 澄んだ水底の恐ろしさを知らなかった。
 暴力を知らなかった。
 狡猾さを知らなかった。
 欺瞞を知らなかった。
 喜ぶことを知らなかった。

 何も知らなかったこと、何も感じなかったこと、それを忘れてしまうから、何も知らない人や、何も感じない人を馬鹿にしたり、哀れんだりするのだろう。

 名前を変えればお前のことではないか、と僕は思う。
 いや、名前を変えるまでもない。
 自分だってそうだったのではないのか。








::実は僕、昔から不思議に思っていることがあるんだ。
::はい。なんでしょう?
::日本では「自分」「己」「手前」など、「my self」という意味と同時に「your self」という意味も持っている言葉がある。時代や地方によって違うみたいだね。
 いつしか、一人称代名詞の多くがそうなのかもしれないと思うようになったほどだ。
::ああ。そうですね。
::子供の頃ね「ボクの名前は?」とか「ボクはどこから来たの?」なんて大人に言われるたびに、僕はかなり怪訝な思いをしたんだ。
 英語にしてみると分かると思うけれど「What my name ?」「Where my come from ?」ってことでしょう?
 当時は二人称代名詞なんて知らなかったけれど「君の名前は?」とか「あなたはどこから来たの?」ってなるべきだと感じていたから、すごく違和感があってね。
「この大人はちゃんとした言葉を知らないんだろうか」って思っていたんだ。
::あはは。青猫様らしいですね。
::でも大人になってからね、それが日本の文化であり、精神性なんだと僕は思うようになったんだ。
 つまりね、かつての日本は、自分と他者を同じ土俵にきちんと立たせていたんじゃないかって。
::同じ土俵、ですか?
::そう。西洋文化だと、自分は自分で、他人は他人、その境界が明確なんだ。
 一方で、日本の文化では、自分と他人の境界が曖昧で、自分と他人を同じように感じることが多かったんじゃないかな、って。
 たとえば他人の痛みが分かるとかいう概念があるけれど、本当は分かるわけないじゃない?
 他人なんだし、痛みなんて人それぞれなんだから。
 でも、それをきちんと共感できる土壌があったんじゃないかな、って。
 もちろん今はその多くが失われてしまったとは思うけれど。
 たとえるなら、そういうこと。