::「私……」萌絵は笑いながら言った。「明後日までは、とても待てない」






130527

 曇り。

 昨日、クリーニングに出かけたついでに(しては遠い場所にあるが)事務所に行き、自転車で帰宅した。

 妹の旦那様が家を建てたので、土曜日はその家に行き、お茶を飲んでソファで昼寝をした。
 何をしにいったのかよく分からない有様である。

 仕事の関係もあって行ったため、新築祝いなんて思いつきもしなかったのだけれど、近々また行って渡してこようと思う。

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 僕はモノよりもお金をプレゼントすることのほうが多い。
 もらうほうもこちらのほうが便利だろうという、僕なりの配慮だ。

 一部に、直接お金をやり取りすることを嫌って商品券で代用するケースもあるようだけれど、僕は現金である。
 商品券は使いづらい。たいていは使う場所や使い方が限定されている。ひどい場合は使う対象まで限定されている。
 相手に対する気遣いとしては悪くないかもしれないけれど、本当に使いやすいのはやはり現金だと感じる。

 ただ、現金のやり取りを嫌う人は多い。
 お見舞い、お祝い、その他もろもろ。
 品物をやりとりする風習が(たとえば縁起担ぎなどのために)根強く残っているものもあるけれど、商品券によるものも増えたように思う。
 そのためか、カタログギフトなんてものもある。

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 まったくの余談だけれど、僕はカタログギフトの類が嫌いなので、カタログを頂いても開きもしないで捨てることが多い。
 カタログよりも読みたい本があるし、カタログで商品を選ぶよりもしたいことがある。
 それに、欲しいものを「他人に与えられた範囲から選ぶ」という行為が、大嫌いなのだ。

 僕にとって、自分で使うモノは「自分で探すもの」であって、誰かに範囲を限定されたりするものではないと考えている。
 ところがそこで行われるのは「こんなものを使いなさい」というその潜在的な強要なのだ。
 もちろんそこから新しい発見があるときもある。
 ただ、他人に何かを強要する姿勢を、僕は持ちたくない。
 ものごとに「学ぶ」べきものはあっても「教えられる」べきものなどないと考える。
(意味が分からない人は、分からないままでいいと思う)

 たとえば車が好きな人に、だからといって車のプラモデルをプレゼントしても(たいてい、少なくとも本心では)喜ばれない。
 仮に実車をプレゼントしたとしても、好きなメーカの好きなクラスがあるわけで、それ以外のものはごみと一緒であるはずだ。
 中には、実車よりもプラモデルが好きな人や、エンジンが何より好きな人、メータやゲージこそを愛する人もいる。
 彼ら(彼女たち)にとって、それ以外はごみだと思う。
 すくなくとも僕はそういうセンスとその持ち主をこそ大切にする。
 何でも喜ぶような人間には、何を与える価値もないのだ。僕が与える意味さえない。

 誰かに、形の残る何かをプレゼントするのは、そのくらいリスキィで、破天荒だということ。
 本人の好きなものをあらかじめ下調べして、それ(もしくはそれに似たもの)をプレゼントしてもいいだろうけれど、それはそれで「自分で探したもの」を買ってあげるだけの行為になってしまうから、プレゼントとしてどうなのか、という気がしないでもない。
 それならば「購入する」という経験のすべてを含めて体験して貰う方が素敵ではないだろうか。

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「現金のやり取りはいやらしい」という気持ちが人の心にはあるのかもしれない。
 しかしお金は、果たして、いやらしい存在だろうか。
 お金が仮にいやらしいものだとしたら、それはいやらしいことにお金を使うからいやらしくなるのではないのか。

 たとえば店でモノを買う。サービスを買う。
 このときの金銭の交換は、特にいやらしいものではないだろう。
 仮にそこで購入するものが、ちょっと人前で言うことがはばかられるようなものであったとしても。

 では、どんなやり取りがいやらしいのだろう。

 モノやサービスが介在していないときに、お金は対価としての意味を失う。
 プレゼントやお祝い、お見舞いなどはまさにそうだ。
 そこでは、喜びの気持ちや、いたわりの気持ち、感謝の気持ちを伝えたいという意思が存在する。
 それがやり取りされるものの意味だ。

 意味の媒体がお金では不都合だろうか。いやらしいだろうか。
 お祝いやお見舞いがお金であるのは今では一般的になっているから、さほど抵抗はないように思う。

 たしかに、両方がお金でのやりとりをしてしまうと、容易に相殺ができてしまう。
 お祝いで1万円もらった。
 お返しで5千円返した。
 これなら「最初からお祝いとして5千円を渡せば手間が省けていいじゃない」ということになる。
 それでも、頂いたものに対して「その場あるいは直近に、お返しをしなくてはならない」というのが儀礼上は普通なのかもしれない。

 けれども、お祝いする側になることもあれば、お祝いされる側になることもあるわけで、そんなのはどうだっていいんじゃねーの? 持ちつ持たれつで、めぐりめぐって、まわるまわるよ時代も回るんじゃないの?
 なんて僕などは思うのだけれど。

 もしも現金のやりとりがいやらしいのだとしたら、それはその「価値があからさまに見える」ことが理由だろう。
 現金の価値は数字でしかない。
 ピン札だろうと、破れたお札だろうと、(通貨としての)価値は変わらない。
 だからこそ、紙幣を渡すときは、その渡し方が大切になる。

 しかし価値が変わらない以上は、結果的に「ああ、あの人はこの金額をくれたのだな」と、数値化されることになる。
 自分や他人の価値、その気持ちの数値化を嫌うために、人は現金のやりとりを嫌うようになったのだろう。

 ただ、もしも「気持ちが大切」という概念を持ちそれを信奉しているのならば、気持ちが数値化されるなんて概念など信じるに値しないと僕は思うがどうだろう。
 100円だって百万円だって、それは単なるカタチでしかない。
 もし本当にキモチが大事だというなら、カタチなど無視していいではないか。

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 僕は他人のお祝いやお見舞いばかりで、自分が祝われたり見舞われる機会に乏しいけれど、それで損をしていると感じることはない。
 祝いたくて祝っているし、見舞いたくて見舞っているのだ。
 意味に見合った価値を受け取ってもらうのだから「受け取ってくれてありがとう」という気持ちである。
 決まりに則るつもりは全くないから、結婚式やお葬式に手ぶらで行くことも辞さない覚悟だ。
 もちろん、そんな極端なことをしたことはないが、それは単に、行く価値のない場所へ僕は行かないからにすぎない。
(葬儀に上着なしのカラーシャツで出かけることはしばしばあるが、それが弔う気持ちの上で問題になるとはどうしても思えないので気にしていない)

 僕は「万障お繰り合わせ」が必要であればいくらでもするし、必要がないと感じればいくらでもしない。
 そういうポリシィだから、価値や意味を感じないことはできるかぎりしない。

 受け取る側になる場合も、遠慮も何もなくストレートに「ありがとう」と頂いてしまう。
 それが現金であれモノであれ、遠慮も疑問もなくいただいてしまう。
 そこでは受け取ることがむしろ大切だとすら思う。
 気持ちというのはそうやって、最低でも一度、ストレートに受けいれるのが礼にかない、渡す側にとっても嬉しいものだと僕は思っている。

 ただ、ギフト券は処分に困る。
 普段からお財布に入れておくものでもないし「あの店で買い物をしなくては!」という「あの店」は里にしかなく、山奥に棲んでいる僕にとって、そのためだけに里に下りるなんて果てしなく鬱陶しい。
 それに、カタログギフトも困る。
 本を開いて選んではがきを出すだけなんだから、それを受け取らないのは不義理だ! なんて伯母から叱られたこともあるけれど、それでも僕は一向にカタログギフトのシステムを利用して受け取らない。

 差し上げたものに対してお返しが来るものは、システムとして仕方ないとは思うけれど「好きなものを選びなさい」というのが苦痛だ。
 そのなかに気に入ったものがあったとしても、それは、それを見るまでは「なくても良かったもの」だろう。
 気に入るものがなかったらどうしたらいいのだろう。
「それでも何か適当に選びなさい、それが義理人情よ」と、伯母には言われそうではある(実際に言われたが)。

 欲しくもないものを受け取るのは確かに人情かもしれない。
 ただ、そんなふうにやり取りされるモノはたいそうかわいそうだ。
 それに「ああ、この人からはべつに欲しくもないものをもらったんだな」というのを関係性の記憶に上書きするくらいなら、受け取らないでいたほうが僕の精神衛生上はよい。

 ここから転じて考えれば、僕はプレゼントを「それ、好みじゃないからいらない」といわれても(捨てられても)気にしない、ということになる。
 そして実にそのとおりで、特に気にしないのだ。

 プレゼントは気持ちだ、と言われる。
 しかし、そこでやりとりするもの(媒介)は常に物質だ。エクトプラズムとか渡されても困るではないか。
 だから、気持ちを渡せたのなら、モノは捨てられても問題ない。そういう道理である。

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 そのようなわけで、僕は、お見舞いやお祝いで人に渡すモノはたいてい現金である。
 おそらく(この先まかりまちがって婚姻を結んでも)結婚式はしないと思うが、するとしたら、そうとう風変わりな決まり事があらかじめ通達されるだろう。
(僕の変人ぶりを考えるに、それだけで先が思いやられるというものだ)
 すなわち「祝宴だけ開くので、お祝いはとくに必要ありません。スピーチもありません。お返しもありません。僕には両親もありません。食事と雑談しかありませんから期待しないでください」というもの。

 現金のやりとりを嫌う人は、しかし、自分できちんとポリシィがあってそうしているのだろうか。
 僕にはよくわからない。
 ただ、僕は自分のポリシィに基づいてプレゼントを現金にしているだけで、現金でなければ必ず捨てる、というものではない。
 ポリシィのある人のプレゼントというのは素直に受け取って、嬉しいし、感心させられ、発見のあるものばかりだ。
 贈られるものは確かに無難といえば無難なのかもしれないが、そこには思慮深さがあったり、その人の考え方が見えたりすることもある。

 何事についても「こうでなくてはならない」とは思わないように心がけている。
 ただ、考えなしであること、意味や価値を当の本人が見いだしていないことは(その逆ももちろん)きちんと伝わると僕は思う。

 各種の式でやりとりされる品物を見ていて、そんなふうに思わないだろうか。
 僕は、つくづくそれを感じる。

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 先ほど述べたように「気持ちが大事」と声高に訴える人ほど、形式や物質に囚われすぎているように感じることが僕にはある。
 恋愛でも、気持ちや愛情などを、言葉まで使って固執している人ほど、形式や物質、言葉や肉体や関係性に囚われているように見える。
 まぁ、気持ちを計る手段がそれしかないと言われれば、言葉も出ないのだけれど。
「気持ちが大事」という概念そのものが、ひとつの様式で、ひとつの様式美として、深く考えられることもなく浸透している気がする。
 いったい「気持ちがいちばん大事」というのがどういうことなのか、考えたことがあるのだろうか。

 キモチを具現するために与えられたカタチ(あるいは形式)に固執してしまう人も、やはりいるのだろう。
「キモチがあるなら、こういうカタチになるはずだ」というような意味の言葉を、僕は職務でも何度となく耳にしている。
 たとえば「誠意を見せろ(たいていは懇願ではなく命令形である)」などがそれだ。
(正直なところ、僕は誠意というモノを見たことがなく、見えるモノとも思っていないため、そのたびにかすかな笑いや怒りを抑えなくてはならないのだけれど)

 その傲慢さに、僕はちょっと驚く。
 僕だってそうした傲慢さは持ち合わせているが、それをあからさまに他人に強要するのは、ちょっとした狂気だ。

 不思議とこうした物事は、フォーカスしたものを言葉にすればするほど、逆の方向に現象が流されるように思える。
「キモチが大事」という概念を自分の中で曖昧にしか形成していないから、他人の気持ちをカタチからしか測れないのだろう。
 カタチでキモチを測ろうとするから「カタチを重視してしまう」という逆転現象が起こる。
 そういうヒトたちは「キモチ、キモチ」と(なぜか自慢げに)言いながら、やっていることはカタチを追い続けることなのだ。
 もちろん、それが悪いとは思わない。価値観は人それぞれだ。
 ただ、僕はそういう「自分の持っている概念の逆転現象に気づこうともしない無神経さ」はどうかと思う。
 オマエらは十字軍か、という気もしてくる。

 僕は普段から「異性に求めているのはカラダだけ」と言っている。恋人にも平気で言い放つ。
 気持ちとか、優しさとか、愛情とか、癒しとか、そうしたものについて他人から施しを受ける必要などない、という気概を持って生きている。
(ありがちな誤解を多少でも回避するために、念のため付け加えるなら「セックスだけ」と言ったことは今まで一度もない)
 当然のように、そこでは「カラダだけ、と言っていたはずだが、何かがおかしい」という現象(これも逆転現象だ)が起こる。

 贈り物も同様で、それはモノを贈るのにあたって、さまざまに気遣いをするからこそ意味があるのだと僕は思う。
 相手を見ず、その気持ちを考えず、ただのお仕着せで、ルーティンになぞらえられた物が「渡される」だけならば、それをゴミだと言い切って、何の問題があるだろう。
「贈り」物が「気持ちだ」というのは、そういうことではないだろうか。
 それは「気持ち」を「渡すモノ」で示す(あるいは示せ)という概念とは、同じ現象にもかかわらず、真逆の事象である。

 実際にやってみると分かるけれど、お金を人に贈る(いかなる場合にも現金だけを贈る)というのは、これはこれでたいそうむつかしい。
 できるかぎりあっさりと、それをすんなり受け取ってもらえる人間になりたいと僕は常々思っている。
 そこには僕の気持ちや哲学があって、それを言葉ではなく感じ取ってもらえるならば、これほど嬉しいことはない。
 モノではなくキモチだ、というのなら、それはそういう意味だろう。





(初出は日付の通り。おそらく13工場のものと思われる)




::「私、先生が好きです」萌絵はすぐ言った。
「気持ちと思い込みは違う」
「私と結婚して下さい」
「いつ?」犀川は笑いながらきいた。
「いつでも、いいわ……。今でも……」
「今はできないね」
 犀川は車をバックさせる。彼の前髪は窓から入る風で揺れた。
「何故ですか?」
「酔っ払ってる君を、送っていかなくちゃいけないから」
「じゃあ、明日」
「さっき、言っただろう? 明日は東京に出張なんだ」
 萌絵は笑い出した。







引用は
「第9章:思考の道筋」(p.365~366)
From「詩的私的ジャック ~ JACK THE POETICAL PRIVATE ~」
(著作:森 博嗣 / 発行:講談社文庫)
によりました。