::「あ、あの、叔母様……。それ、どうなさるんです?」萌絵は顔を真っ赤にして尋ねた。「それ、まさか、あの、区役所に?」
 佐々木睦子は立ち上がって、萌絵の前に立つ。
「貴女……、私と区役所と、どっちが偉いと思っていて?」






 今日も雨。
 ゲームで使っていた人格(私は女性のキャラクタを、女性のプレイヤのフリをしてプレイしている)を演じることができなくなって一週間ほど経つ。
 キャラクタ(人格)を維持できない場合、他の人とのやりとりがある以上、ゲームをプレイすることはできないしする意味もなくなってしまう。

 他にも、青猫工場のタグの意味をうまく思い出せないなど、いくつか記憶が曖昧になっている部分がある。
 いや、もともと僕の記憶はかなり曖昧なので、はっきりしてることの方を提示した方がまだ正確なようにも思う。

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 配列要素を定義し、できる限りの精細なサンプリングを経て、導関数を出して演算する。
 僕はこれを「直感」として自分の周囲の物事に適用する。
 この手法は、たとえば何かを計画したり、あるいは将来や未来を予測する上でも役に立つ。

 たとえば僕は複数の料理(煮物とお味噌汁と焼き物、というような)をだいたい同時に仕上がるようにする方法を下ごしらえ以前の段階で算出することができる。
 段取りはとても自然に頭の中で再現できるし、どのタイミングでどの作業を開始するかというようなことはもちろん、どのタイミングでどの作業が終わっているべきかもはっきりイメージできる。
 実に同じくらいのタイミングですべての料理が適切な温度でお皿に盛りつけられ、テーブルに載るのであった。

 ところが、世の中にはこうした演算能力に乏しい人もいる。
 そもそもそれぞれの終わりの時間を計算できないし、段取りを組み立てることもできない。
 結果として、焼き魚は冷め、煮物は出来上がらないというような状況になる。

 また、シーケンシャルな計画しかイメージできないために、どこかでつまづくと、元の状態に立て直せない人もいる。
 計画というのは運動会のプログラムのように一直線に決まっているものではなくて、コンピュータプログラムのように条件分岐し、ときにループしながら、適切な出力のために演算し続けるものである。

 人間の身体をマッサージする場合でも、どこの部位(肩や脚)の、どこの箇所(筋肉や腱、血管など)が、どのように(痛い、冷たい、硬いといった)不具合になっているかを確認し、それに応じて、その原因になる場所(肩なら脚や腰や首やこめかみ、腕など)から調整するのが少なくとも僕にとっては一般的である。

 時間的なことに関しても、目的達成に関しても、勘の悪い人や計算能力に乏しい人の場合、どうしても直接的な方法を取ろうとする。
 こちらが提示した時間やプランに対して(それではダメだ)なんて平気でおっしゃる。
 もちろん、何かより具体的でスピーディかつ有効なアイディアがあるのかと思うと、そんなことはない。
 迷路のなかを餌に向かって一直線に猛進しようとするラットのごとく、壁をいつまでもかりかりしていることも少なくない。
 捕まえて食い散らかしてやろうかと思う瞬間である。

 料理店で時間のかかる料理(提供までに最低でも20分以上で、そうした調理に時間のかかる料理は、ウェイタやウェイトレスが注文時に確認を取るのが一般的である)を頼んでおきながら「早くしろ」なんて平気で言うような人もそうだろう。
 マッサージでも、肩が痛いからといって肩を強く押したりする人がいるが、逆効果になることもしばしばだと僕は思うのですがこれは僕だけでしょうか。

 とにかく、それらはひとことでいうと「道理が分かっていない」からこそのことである。

 時間も物事も精神状態も、相応に道理がある。
 道理を逆算して現在点からのコントロールを考えることが計画であるのだけれど、そもそも道理が狂っていれば先の例のように、時間やコントロールについて間違った対応をすることになる。

 僕は物事の実行にあたっては、最低必要時間の1.5倍の時間を見積もるし、だいたいこれでうまくいく。
 しかしながら道理の分からない人は「急げばその半分で出来るだろう」「もっと早くできるはずだ」と平気で言う。
 もちろん、そういう可能性もある。
 物事がすべて予想通り、あるいは予想以上にとんとん拍子に運べば、そういうことも可能だ。

 つまりこれは「肩が痛いから肩を強く押せば、なんとなく良くなったような気持ちになる」という考え方と一緒で、たまたまそれで良くなることもあるかもしれないけれど、たいていは間違った対応になる。
 時間的にもプロセス的にも間違った道理で事を運べば、結局のところすべてのバランスが崩れて行く。

 間違うことが悪いわけではない。
 プロセスで、予想外のことや想定外のことが発生するのはむしろ当然のことだし、だからこそそれを踏まえて余剰の時間を計画にあらかじめ盛り込まなくてはならない。
 その余剰を計算できないことが、想定外を盛り込めないことになり、ひとたび想定外の状況がひとつでも発生すれば、それだけで簡単にプロセスを破綻させ、プランを崩壊させるのだ。

 たとえば料理の本で「じゃがいもをレンジで5分加熱し」と書いてあっても、じゃがいものサイズによって、料理の内容によって、電子レンジの出力によって、それは適切に調整が必要になる。
 生では困るし、水分が抜けてカチカチになったらもっと困る。
「レシピに書いてあったから」という言い訳が平気で出来るとすれば、それはレシピを見て素材を見ず、という状況になる(諺っぽいけれど、そんな諺はない)。

 その人間の総合的な演算能力(算数の能力ではない)を観察する上で、食事一式を作ってもらうのはいちばん簡単な確認方法のように思う。
 もちろん、人には得手不得手があるものの、美味しい料理が好きだというわりに美味しい料理を適切に作れないとしたら、自身の目的と手段が不一致になりがちな傾向だと考えても良いのではないだろうか。
(なので、もともと食事はなんでも構わない、という人であればそれ以外のその人の得意な何かにおいてその能力を確認できるだろう)

 そうした総合的な計画能力や対応能力がない人間は、たとえ記憶力が良くて学業の成績が良かったとしても、結果的には致命的なバカだといえるだろう。

 僕がときおり、かなり優秀な頭脳の持ち主に(え! 高卒!?)と驚かれるのは、もしかしたらこの総合的な微分積分による演算をきわめて短時間で処理する直感として、物事から人の心理にまで応用し、対応しているからかもしれない。
 もちろん、誰かに褒められるために身につけた技術ではないから、誰が何と言おうと特に問題はない。
 ただ、自分の足下も見えていないバカに「お前はなにも分かっていない」と言われてしまうと、ちょっと笑ってしまう。

 そりゃ分かっていないように見えるでしょう。と。

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 以前ゲームの中の友人たちと話していて「私、バカが大っ嫌いなんだ」と話したところ、ドン引きされた。
「え? 俺もバカだと思われてる?」と皆、自分の心配をするのである。
 そんなに私はあなたを嫌っているように見えるのかと言って笑ったものである。

 そのとき私は説明をした。
「バカというのは相対的なものだから」と。

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 自分が相手のことをバカだと感じるとき、往々にして相手も自分のことをバカだと感じているのである。
 だから自分が相手をバカだと思ったときは、気を付けなくてはならない。

 それは相手が自分をバカだと思っているからかもしれないし、あるいは相手が自分をバカだと思う予兆かもしれない。
 誰が誰をバカと思おうがそんなことは関係ない、と誰もがきちんと認識できるならよいけれど、たいていの人間は、自分をバカだと思われたり言われたりすると適切なパフォーマンスを発揮できないものである。
 少しのことで「バカにされた」といってふて腐れる人間は数多いし、バカにされていると認識していても、目的を達成するためにそんな評価を気にせず、淡々と事を運べる人は少ない。
(多分、政治家や官僚はこの「淡々と事を運ぶ」能力に長けていると感じる。さすが国家を運営する人間は違うと素直に僕は感心する。もっとも国会中継を見たり聞いたりしないようにしているのだけれど)
(ここ、笑うところです)

 プランを現実のものにする上で、あるいは日常生活の中で、誰かを「バカだ」と感じることはたしかにあるかもしれない。
 僕はそのとき、バカだと思える対象が、いちばん自分にとって勉強になる対象だと考えている。
 自分の知らない基準に則って発言し、行動しているのである。だから自分からはバカに見えるのである。
 その基準を知ることで、バカの言動を予測し、サンプリングを精細にすることが可能だ。

 そして今後のプランを立案するときに、そのバカの要素を排除するなり、うまく組み込むなりすることでプランはより完全なものになってゆくだろう。

 ただ僕の場合、誰かに「もっと早くできるはずだ」なんて言われると、たとえそれが単なる気分や思いつきであったとしても(そうなのか。もしかしたらそういう方法があって、それをこの人は知っているのかもしれない)なんて思って勝手にプランの時間的な長さや内容を変更してしまって大失敗したりする。

 バカの言うことはアテにしたくないと思うものの、自分がバカなのか他人がバカなのか、最後まで僕には分からないのであった。








::佐々木睦子はゆっくりと笑みを浮かべ、一度大きく瞬いてから、優雅な動作で煙草を口に運んだ。まるで映画のワンシーンのようなその仕種は、多くの野心家の男性たちよりも、はるかに本ものの自信に満たされた女性の印象を刻むのに充分だった。
「許可します」佐々木睦子はそう言った。
 犀川は、ただ見とれていた。
 ゆっくりと煙を吹き出してから、彼女は続ける。「別に、私の許可なんて意味はないのです。そもそも誰の許可でも意味はありません。結婚なんて、言葉にも、その概念にも、意味はないわ。けれどね、犀川先生……。貴方は、今、イエスと言ったのよ。それは、とても意味があることです」
「そうだと良いですね」犀川は頷く。







冒頭引用は
「第8章:懐疑は虚空のなかに」(p.449)

文末引用は
「第7章:黙祷は懐疑のなかに」(p.362~363)

From「封印再度 ~ WHO IN SIDE ~」
(著作:森 博嗣 / 発行:講談社文庫)
によりました。