4時頃に白猫に起こされる。
どうも最近うるさい。
とりあえず鳴いているふしがある。
それも、わめくように鳴く。
そういうものだ、と思われると困るので基本的に無視しているが、身体を動かしたり、声の様子が少し違うときがあって、そういうときは意味があるので対処する。
どうやら、眠っているときでも同じように反応するようだ。
おかげで5時は寝過ごす。
0730起床。
僕は子供の頃、とても恐がりだった。
暗闇がこわかったし、一人がこわかった。
そしてあるとき(正確には7歳の5月)「こわいと感じないようになりたい」と思った。
それから半年くらい経ったある日、ふと気がついてみると、以前恐いと感じていた状況に対して、まったく恐怖を感じていないことに気がついた。
気がついたのはよいが、それはそれでつまらない、物足りないと感じたので「やっぱりこわいと感じるようになりたい」と思った。
それから半年くらい経ったある日、ふと気がついてみると、元どおり、恐いと感じるようになっていることに気がついた。
結局、恐怖心が強いのは何かと不便なので、今は「こわいと感じないように」なっている。
おそらくそれが、僕が自分の感覚や価値観をコントロールした最初だろう。
意図的で直接的なコントロールでなかったにせよ、自分の意志で、自分の感覚や意識を通して、世界観を変えるというそれは。
何事でもそうだ。
もしも仮に「認められない」「許せない」「理解できない」という事象があったとしても、それが単一であれば(複数で、複雑に絡み合っていなければ)半年くらいで認めたり、許したり、理解することはできると僕は思う。
これは学問の単一項目についてもそうだし、他者の価値観や立場、感情や感覚についてもそうだ。
ひとつ、たしかなことがあるとすれば、僕たちは常にそういう選択肢をもっている、ということであり、それと同時に、そういう選択肢を忘れがちだ、ということだろう。
僕は17歳の頃、恋人に質問されると、20分も30分も答えられないことがよくあった。
特に電話のときに多かった。
質問の目的が分からなかったり、質問の意味が分からなかったりして、ひどく文句を言われたこともある。
おそらく、答えが出るまでひどく時間がかかるので、彼女は「自分は相手にされていないのではないか」「バカにされているのではないか」と思っただろう(実際にそう怒られた)。
彼女にとっては、とても当たり前の質問で、また答えも(おそらくはいくつか)容易に予測していたと思う。
けれども、僕には、そういった感覚系や思考系が、まったくなかったのだ。
やがて3ヶ月もすると、彼女は諦めたのか、何十分でも待ってくれるようになった。
僕が、ぽつり、ぽつりと、与えられた言葉から分かる範囲で認識し、理解した内容を、それに対する自分の考えを言うと、うん、うんと、ただ聞いていてくれた。
場合によっては、自分の言い方を途中で訂正してくれて、そうすると、そこからまた5分くらいは考え込むことになるのだが、それでも辛抱強く、待ってくれた。
のちに、彼女は「そうしてでも聞く価値のある答えだった」と言っていた。
僕にしてみれば、僕のもっている感覚や価値観を言っただけなので、逆にいぶかしく思ったものだ。
「脊髄反射で」とweb上で語られることがある。
誰かの言葉に対して、その場で解釈して、反射的にレスポンスすることをいうようだ。
もちろん「問題そのもの」に対する応対としては、決して間違った対応だとは思わない。
けれども、人に対する応対としては、あまり褒められる行為ではないと僕は思う。
本当に大切な人や事柄に対して、人間は、かならず一定の間をとる。
たとえば「あなたが生きる意味について教えてください」と言ったときに、間髪あけずにベラベラ喋るような人間を、僕は、仮に頭が良いと思うとしても、人間としては信用できないと判断すると思う。
そのひとつの質問は、いくつもの想いや願い、挫折や絶望、希望や意志、想い出や記憶を呼び起こさないではいられないだろう、と僕は想像する。
それら、いくたりの時間と、いくつもの思考が並列する中で、単一の回答を、単純な言葉として発することは、本当はとてもむつかしい。
本当はとてもむつかしいことを、いとも簡単にするのは、とてもアタマがよいか、いつもそれを考えているか、のどちらかだ。
しかし、生きる意味とは不思議なもので、とても大切なことのわりに、いつも考えていることはできない。
それをいつも考えることは、すなわち「生きること」そのものではないからだ。
まともに「生きる」というのは、生きる意味を考えるヒマもなく生きる、ということだからだ。
たとえば恋愛でも「あなたにとっての私の存在の意味について教えてください」と言われたときに、僕が本気で答えるとするならば、いくら待っても、言葉では答えないだろう。
僕は一生かけて、言葉以外で答えるだろう。
それが、その人が存在する、意味だから。
人間は生きていると、言葉を求められることがある。
それは仕事でもそうだろうし、恋愛でもそうだろうし、友人関係でもそういうことがあるかもしれない。
しかし、本当に大切なことには、言葉で答えてはいけないと僕は考えている。
また、本当は、言葉では、答えることも、教えることもできないと考えている。
確かに、自分にとって不鮮明な事象に対して、人間は他人や当事者に説明を求めることがある。
けれども、説明で理解できることは、まず、ない。何も、ない。
それは、説明を求める立場の自分にも、あるいは、説明をする立場の自分にも、当てはまることだ。
言葉で説明できることならば、そもそも不鮮明な事象にはならない。
言葉で理解できるならば、そもそも不鮮明な事象にはならない。
それを、簡単に説明したり、理解したりはできない。
きちんと説明しようとすれば、ものすごく時間がかかるし、きちんと理解しようとすれば、ものすごく時間がかかる。
僕がニュースを見ないのも、そういう理由だ。
政治家の言葉も、ニュースの言葉も、芸能レポータの言葉も、心がこもっていない。
心がこもった言葉というのは、いつも沈黙が混じっているし、その沈黙を、聞き手の心が代弁しなくては成り立たない。
そういう関係性を補完するためにこそ、言葉があると僕は思っている。
そして同時に、どこまでも、言葉は、補助的なものでしかない。
それは行動の、あるいは表現の。
人間は、自分以外の誰かに、言葉を、説明を求めることがある(僕はないけれど)。
そのときに、理解する、その結果や解釈については、言葉を発した相手ではなく、それを聞いて受け止める自分自身に多分の選択肢がある、ということを忘れないようにしたい。
23時半就寝。
どうも最近うるさい。
とりあえず鳴いているふしがある。
それも、わめくように鳴く。
そういうものだ、と思われると困るので基本的に無視しているが、身体を動かしたり、声の様子が少し違うときがあって、そういうときは意味があるので対処する。
どうやら、眠っているときでも同じように反応するようだ。
おかげで5時は寝過ごす。
0730起床。
僕は子供の頃、とても恐がりだった。
暗闇がこわかったし、一人がこわかった。
そしてあるとき(正確には7歳の5月)「こわいと感じないようになりたい」と思った。
それから半年くらい経ったある日、ふと気がついてみると、以前恐いと感じていた状況に対して、まったく恐怖を感じていないことに気がついた。
気がついたのはよいが、それはそれでつまらない、物足りないと感じたので「やっぱりこわいと感じるようになりたい」と思った。
それから半年くらい経ったある日、ふと気がついてみると、元どおり、恐いと感じるようになっていることに気がついた。
結局、恐怖心が強いのは何かと不便なので、今は「こわいと感じないように」なっている。
おそらくそれが、僕が自分の感覚や価値観をコントロールした最初だろう。
意図的で直接的なコントロールでなかったにせよ、自分の意志で、自分の感覚や意識を通して、世界観を変えるというそれは。
何事でもそうだ。
もしも仮に「認められない」「許せない」「理解できない」という事象があったとしても、それが単一であれば(複数で、複雑に絡み合っていなければ)半年くらいで認めたり、許したり、理解することはできると僕は思う。
これは学問の単一項目についてもそうだし、他者の価値観や立場、感情や感覚についてもそうだ。
ひとつ、たしかなことがあるとすれば、僕たちは常にそういう選択肢をもっている、ということであり、それと同時に、そういう選択肢を忘れがちだ、ということだろう。
僕は17歳の頃、恋人に質問されると、20分も30分も答えられないことがよくあった。
特に電話のときに多かった。
質問の目的が分からなかったり、質問の意味が分からなかったりして、ひどく文句を言われたこともある。
おそらく、答えが出るまでひどく時間がかかるので、彼女は「自分は相手にされていないのではないか」「バカにされているのではないか」と思っただろう(実際にそう怒られた)。
彼女にとっては、とても当たり前の質問で、また答えも(おそらくはいくつか)容易に予測していたと思う。
けれども、僕には、そういった感覚系や思考系が、まったくなかったのだ。
やがて3ヶ月もすると、彼女は諦めたのか、何十分でも待ってくれるようになった。
僕が、ぽつり、ぽつりと、与えられた言葉から分かる範囲で認識し、理解した内容を、それに対する自分の考えを言うと、うん、うんと、ただ聞いていてくれた。
場合によっては、自分の言い方を途中で訂正してくれて、そうすると、そこからまた5分くらいは考え込むことになるのだが、それでも辛抱強く、待ってくれた。
のちに、彼女は「そうしてでも聞く価値のある答えだった」と言っていた。
僕にしてみれば、僕のもっている感覚や価値観を言っただけなので、逆にいぶかしく思ったものだ。
「脊髄反射で」とweb上で語られることがある。
誰かの言葉に対して、その場で解釈して、反射的にレスポンスすることをいうようだ。
もちろん「問題そのもの」に対する応対としては、決して間違った対応だとは思わない。
けれども、人に対する応対としては、あまり褒められる行為ではないと僕は思う。
本当に大切な人や事柄に対して、人間は、かならず一定の間をとる。
たとえば「あなたが生きる意味について教えてください」と言ったときに、間髪あけずにベラベラ喋るような人間を、僕は、仮に頭が良いと思うとしても、人間としては信用できないと判断すると思う。
そのひとつの質問は、いくつもの想いや願い、挫折や絶望、希望や意志、想い出や記憶を呼び起こさないではいられないだろう、と僕は想像する。
それら、いくたりの時間と、いくつもの思考が並列する中で、単一の回答を、単純な言葉として発することは、本当はとてもむつかしい。
本当はとてもむつかしいことを、いとも簡単にするのは、とてもアタマがよいか、いつもそれを考えているか、のどちらかだ。
しかし、生きる意味とは不思議なもので、とても大切なことのわりに、いつも考えていることはできない。
それをいつも考えることは、すなわち「生きること」そのものではないからだ。
まともに「生きる」というのは、生きる意味を考えるヒマもなく生きる、ということだからだ。
たとえば恋愛でも「あなたにとっての私の存在の意味について教えてください」と言われたときに、僕が本気で答えるとするならば、いくら待っても、言葉では答えないだろう。
僕は一生かけて、言葉以外で答えるだろう。
それが、その人が存在する、意味だから。
人間は生きていると、言葉を求められることがある。
それは仕事でもそうだろうし、恋愛でもそうだろうし、友人関係でもそういうことがあるかもしれない。
しかし、本当に大切なことには、言葉で答えてはいけないと僕は考えている。
また、本当は、言葉では、答えることも、教えることもできないと考えている。
確かに、自分にとって不鮮明な事象に対して、人間は他人や当事者に説明を求めることがある。
けれども、説明で理解できることは、まず、ない。何も、ない。
それは、説明を求める立場の自分にも、あるいは、説明をする立場の自分にも、当てはまることだ。
言葉で説明できることならば、そもそも不鮮明な事象にはならない。
言葉で理解できるならば、そもそも不鮮明な事象にはならない。
それを、簡単に説明したり、理解したりはできない。
きちんと説明しようとすれば、ものすごく時間がかかるし、きちんと理解しようとすれば、ものすごく時間がかかる。
僕がニュースを見ないのも、そういう理由だ。
政治家の言葉も、ニュースの言葉も、芸能レポータの言葉も、心がこもっていない。
心がこもった言葉というのは、いつも沈黙が混じっているし、その沈黙を、聞き手の心が代弁しなくては成り立たない。
そういう関係性を補完するためにこそ、言葉があると僕は思っている。
そして同時に、どこまでも、言葉は、補助的なものでしかない。
それは行動の、あるいは表現の。
人間は、自分以外の誰かに、言葉を、説明を求めることがある(僕はないけれど)。
そのときに、理解する、その結果や解釈については、言葉を発した相手ではなく、それを聞いて受け止める自分自身に多分の選択肢がある、ということを忘れないようにしたい。
23時半就寝。
(初出:2009/03/26 第6工場だった気がする)
