「渡良瀬橋」と私




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今年は電車での移動が多い。

足利駅と足利市駅で、いつからだろう、発着時に「渡良瀬橋」のメロディが流れるようになった。

森高千里さんの曲が流行していたころの僕は高校生で、ここではない街に暮らしていたのだけれど、学校の先生に一人、それはそれは熱心なファンがいたことをよく記憶している。

色白で髪が長くてメガネを掛けた、いわゆる当時形成されつつあった「いかにもといった、ステレオタイプのオタク」じみた外観をされたその先生は、僕の数学と、いくつかのコンピュータ言語を指導してくださった。

先生は、僕のプログラム手法(フローチャートも下書きも概要図も変数表のメモも書かず、注釈もほとんどないままダイレクトにコーディングしてゆく)をして「時々、そういうことができる人がいる。それはひとつの才能だ」とおっしゃり、僕の勉学傾向(理科科学系、国語系を得意とし、数学と英語を苦手とする)とは無関係なプログラム適性に驚かれ、僕のプログラムを「コードは少し個性的だけれど、機能を果たすしデバッグも適切だった。何の問題もない」と評価された。

僕自身は、森高さんの楽曲にも(そしてそのルックスを含めたパフォーマンスにも)まったく興味がなかったが、そのファンである先生の、自身の熱中も含めた冷静なマーケティング分析のことはよく覚えている。

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どういう巡り合わせなのか、今年に入ってから、度々「渡良瀬橋」を聴くことがある。
あるいは自分の棲んでいる街のことだから、耳に残るようになったのかもしれない。

あらためて聴くと、奇をてらわないぶん、素直で優しい歌詞である。
素朴で、過剰な思い入れをしていないぶん、自然と追憶を誘うメロディである。

失礼を承知で書くが、森高さんという「アイドル」が流行っていた頃、そうしたものについて、僕は斜に構えて、つまりはバカにしていたのであった。

そして芸能人であるとかに熱中する向きをして、少なからず小馬鹿にし、距離を置いていたのであった。

にもかかわらず渡良瀬橋の楽曲に関する、wikipediaにあるような情報のほとんどが僕の記憶にあるのは、先生が授業などの合間に話してくれたことを、なんとはなし焼き付けてしまったからなのだろう。

アルバムの他の曲を聴くこともあるが、いずれもなかなかシンプルで、他の追随を許さない複雑怪奇な抽象思考をすること(誰にも相手にされない、ということをマイルドに表現してみた)を常としている僕には新鮮で、美しくさえ感じられることも多々ある。

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そもそも僕がこの街に棲むことを決めたのも、山と河が、すぐ近くにあるからなのであった。

先生の奥様は、件のアイドルに負けず劣らずの美人であるというのが、多くの男子生徒たちの冷やかしの種になっていたものなのだけれど、当然ながら、僕はそうした話には何の興味も示さず、淡々と授業の終わりを待っていた。

あの当時の僕は、まさかこの街に僕が棲むことがあろうなどとは、そしてそこがたいそう気に入ってしまうなどとは思ってもいなかった。




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森高千里 『渡良瀬橋』(PV)








 


151205

 ラジオのスイッチを入れ、馴染みの周波数にチューンする。
 12月に入った途端、その日から、クリスマスに世間を浮かれさせようと物事は動き出している。

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 かねてよりアンチクリスマスを宣言していた私であるものの、その実、東日本サンタ狩り協会(通称:東サハ会(とうさはかい))の副会長をしていたことはほとんど知られていない。

 サンタ狩り職人の朝は早い。
 合法的、かつ迅速、的確、最適に、しかも隠密にして、そのうえ長期的にサンタを狩るための武器の用意をするためには、市販の狩猟用の罠を使ったりするわけにはいかないのである。
 我々サンタハンターの人員など、全世界のクリスマスを楽しみにしている人口、および毎年毎年どうしてこんなにと嘆くほどまで湧いてくるサンタクロースの数の前にはたかが知れており、ほんの小指の爪の先ほどの頭数にして、できうる限りのことをしなくてはならないのである。
 この上、人員が一人減ることは、すなわち100人のサンタを野放しにすることに等しい。
 まさに数の暴力の前に我々は無力なのだ。

 よって我々サンタハンターは、当然のように自身を含めた仲間の身柄の保全を第一に考えなくてはならないのである。
 これは、その個人に帰属する肉体や精神はおろか、我々に共通のイデオロギィや仲間の結束といったような曖昧模糊とした、たとえば「信頼関係」などという言葉にロマン(あるいはロマンス)を求めての帰結としてではない。
「その機能が存在の全てと知れ(協会員の心得その12)」の標榜にある通り、その能力を、機能を、目的を最大限に果たすための最適解をもってその帰結としている、それがゆえの協力であり、協働である。

 しかしながら協会員のほとんどは社会人でもあり、大半の社会人というものは労働に従事し、ある者は家庭を、伴侶を、親を、あるいは子を持ち、ある者は恋人を持ち、ある者は友人を持ち、ある者は本当に孤独である。
 かくして、サンタ狩り協会員のそのほとんどが自らの一つの貌(カオ)であるところのサンタハンターであるところを決して他者に悟られないためには、すべからく孤独の時間と空間を要し、ために早朝の公園で、あるいは深夜の書斎で、あるときには会議をし、あるときにはトラップを筆頭とした武器をこしらえる。
 それらはすべて、自らがまさにサンタハンターであることを隠蔽するための、必要にして周到な、必然的帰結なのであった。
 かくして、サンタ狩り職人の夜は遅い。

 当然、世間の人々に知られるところのサンタハンターなど、二流以下の、いわばまがいもの、流行りにまかせた目立ちたがり屋の所業であり、至極至高にして本物のサンタハンターたるもの、24日の深夜には、できうる限りそれらしく日常を過ごして(主に職務上の残業などというもっともらしい言い訳を使い)、世間の目を欺かなくてはならないのである。

 無論「サンタを憎んでプレゼントを憎まず(協会員の心得その17)」にあるように、基本的に、狙うのはサンタという存在(あるいはその商業的概念)そのものであり、また同時に「オトナのためのサンタ」のみを標的とするため、ヒヨコの雌雄判定士のごとき正確な鑑識眼(つまり対象が「オトナのためのサンタ」であるか、「コドモのためのサンタ」であるかを瞬時に見分ける能力)をも必要とするため、実行力のみならず、情報戦での高度な能力も必須とされるが、そもそも、サンタハンターの活動は、その年の正月明けには始まっているのである。

 かくして、サンタ狩り職人に休息など(つまりは盆も正月もゴールデンウィークも)ないのである。
 あるのはただただクリスマスだけなのである。

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 というような、どうでもいいネタを考えながら、群馬の北の山の、その向こうにある真っ白に染まった山を車窓越しに眺める。
 群馬県の県庁所在地にあたる前橋市は、赤城山という山の、緩やかにして広大な裾野に展開している。

 アンチというのは、そのアンチたる対象そのものの存在なしには成立しない脆弱なものである。
 ために僕はアンチをやめてしまった。

 なるほど、クリスマスというのは、なかなかにきらきらとした雰囲気があり、華やかな、あるいはうきうきするような予感というものが含まれているようでもある。
 次々流れるクリスマスに関連した楽曲を聴きながら、そう思う。

 そんな僕の左手は、ハンドルではなく「モンテ・クリスト伯」第6巻を収めている。
 全7巻中、6巻目にしてようやく復讐らしい復讐が果たされた。
 やれやれなんと長い詰め物であることよ。
 と思いつつ読み進めたのだが、なるほど脱獄するまでに1巻を費やしているのだから当然なのだろう。
 それにしても、登場人物の多さに、少々辟易したこともあるのだが、読み進めているとだんだんに理解できているような気持ちになる。

 僕は、はっきりしなかったり、よく理解できない部分に対して、そのまま読み進める習慣がある。
 映画などでも、途中でよく分からないシーンがあった場合は、たいていはあからさまな伏線である。
 そのシーンのうちから「これはなに? どういうことなの? ねえ?」と、やたら質問してくるバカがいて、あるいは見終わりもしないうちから「面白くない」だの「つまらない」だのと大声で騒ぐバカもいて、そんなに嫌なら見るのやめなよ、と言いたいのだけれど、僕は最後まで見てから考える派なので、うさぎにつの皆、黙って最後まで見ていなさいよ、とは思うのであった。

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 帰宅して筋トレ暖房。
 お湯を沸かしたり、料理を作りながらだった影響もあると思うが、室温が2℃ほど上がった。
 これが自分の体温だけだったとしたら、おそろしいことだ。
 そして実のところ、僕は身体が熱くなったために、たびたび上着を脱いで、熱を発散させてはいたのだけれど。

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 今朝は寒さで目が覚めた。
 気温は普段より3℃低かった。
 今夜はどうだろう。

 僕は、僕の熱を、いつまで保持できるだろう。
 いつまで保持すればいいのだろう。

 けれども春なんて大嫌いだ。





 
 


::女性型の義体を捨てねえのも、時計の鎖が締まるように細い腕にこだわってたからじゃねえのか?
義体や脳殻は換えられるだろ、でもよ、代わりがきかないものもあるだろうが。




130723

 晴れ。暑くなる気配。

 ガンで入院していた友人が、先週末退院したと電話を受けた。
 齢50を超えて性風俗業をするのは本当に大変だと思う(彼女は元締めではない)。
 しばらく休業になっている(あたりまえだ)彼女は、もはや風俗嬢ではなくただの友人と表記したほうがよさそうだ。
(念のため書き添えておくと、彼女は仕事で知り合った友人であって、恋人には含まれていない。誤解のないように)

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 僕は特定の人間の「道具存在」になるとき、自分の価値観を完全に抑える。
 他者が「YES」と言ったとき、僕の価値観で「NO」であっても(これが実に往々にしてあるが)それを抑えて「YES」を飲み込む。
 徹頭徹尾「YES」を飲み込む。

 たいていこんなことをする前に、人は拒絶反応を起こす。
 これが自我を形成しているといってもいい。
 身体の抗体反応がそうであるように、拒絶排除を行わなければ、自分(という肉体/精神構成)は他者に乗っ取られてしまう。
 価値観は、思考や精神活動の、最初の抗体反応だといえるだろう。
(ちなみに、価値観は記憶と意味づけによって構成されるので、記憶を持たないものは価値観を持たないと僕は考える。また人格(=自我)というものは価値観の集合によって構成されていると思っている)

 当然、消化できない価値観を飲み込めば、僕だって消化不良を起こす。
 それでも僕は、それが必要だと思えばそれを飲み込み続ける。
 自分自身が本来持っている価値観を別の場所で(たとえばブログに書き連ねるなどして)できるだけ保護しつつ活動を抑制し、外側の僕は消化不良の価値観を消化できるまで飲み込み続ける。

 この期間、僕には本来の「NO」価値観と、無理矢理飲み込んでいて苦しい「YES」価値観が同居している。
 このふたつの価値観は、互いに互いを攻撃する。反発し、打ち消そうとする。
 新しい記憶と意味づけを構築中の「YES」価値観は、僕にとってはかりそめの、作りかけの、そしてあまり好ましいものではない価値観セットだ。
 だから僕は既存の記憶と意味づけによって強化されている「NO」価値観セットを応援して、「YES」を壊してしまいたい気持ちがある。
 一方で「YES」価値観を構築するのにはそれなりの目的や意味がある(意味については今は理解できていないけれど)からしているわけなので「YES」を守って、「NO」の価値観とその類縁を一度壊さなくてはならない。
 自分で自分の愛用していた既存の価値観を、正反対の価値観側から壊すことも多いこの作業は、かなりの苦痛を伴う。
 伴うどころか苦痛そのものといってもいい。

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 僕のブログを読んでいる人は、僕の我がどれだけ強いか分かると思う。
 僕も僕なりにそれを理解している。
 それなのに僕は自分の価値観をまるでデパートの商品棚のように拡充したい(理由はいずれ)。
 そのために相反する価値観を、必要と感じると僕は飲み込んでゆく。

 すると既存の価値観は(たとえ一時的にであれ)完全に否定されて、記憶とセットになっていた意味づけが揺らぎはじめる。
 僕は自分の自我(=人格)の境界が把握できなくなり、混乱し始める。

 どこからどこまでが僕で、どこからどこまでが僕でない領域か、自分ではわからなくなってくる。
 定期的に文書を書くことで、僕は(僕にとって)既存の価値観を保持しようとするけれど、その行ったり来たりは僕の自我はもちろん、それぞれの価値観そのものにとっても非常に苦痛であり、結果的に、価値観という部品から見た僕という人格本体の信頼性を損なう行為でもある。

 ざっと観察している範囲で、こんなばかげたことをしている人はめったに見かけない。
 人はそれぞれ、自分のなかで構築され、醸成された自分の価値観をずっと大事に自分の人格にひきつけ、その集合体を自分とみなして生きている。
 わざわざ相反する価値観を取り込むために、既存の価値観を引き剥がして価値観の拡大を行う人は非常に少ない。
(まして自発的に、自覚の上でそれを行っている人に直接出会ったことはない)

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 二律背反とその付随情報で記憶はさらに混乱し、価値観は混沌とし、人格が不明瞭になり、僕は自分の領域がわからなくなる。
 連続的にこれを行うと、精神的な拒絶反応だけで各種の動物的な欲求が不全を起こしたり、幻聴などの感覚異常が起こることもある(もちろん、経験済みなので次第に対処も分かるようになるが)。

 ために僕は自分の身体を撫でる。
 そこには皮膚があり、確かな感覚がある。
 それが絶対的な感覚で、皮膚が外界と自分の境界であると信じられる。
 ココロではなく、カラダを信じれば、僕は自分とその境界を保てる。
 思考や価値観、頭の中だけで出来上がった各種の情報は、一種の妄想や幻覚だとさえ思える。

 肉体の上に精神活動と思考が成り立っている。
 僕は思考が肉体をコントロールすることもあると知っているけれど、多く支配的なのは肉体のほうだ。
 心臓だろうとなんだろうと、思考しなくても働く。
 自動車を運転するような比較的高度な活動も、半無意識レベルにまで自動化できる。
(運転中しながら仮眠を取ったり読書をしたりする僕のような人は珍しいと思うが)
 そのインフラを提供しているのは、ほかならぬ肉体そのものだ。

 そのくらい意識というのは脆弱なのに我が物顔をして「自分が!自分が!」とまくしたてるのである。
 精神状態や思考、価値観がどんなに変容しようとも、自分の肉体がここにある限り、僕は僕のまま、いずれ僕自身を復元するだろう。

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 同じことを、僕は恋人に対しても思っている。
 意識と同様、肉体は(良きにつけ悪しきにつけ)変容してゆく。
 それでも肉体が損なわれない限り、そこで再び核となる本質は復元される。

 たとえば精神が傷つくとき、人は身体を意識/無意識を問わず傷つける。
 胃潰瘍になる人もいるだろうし、記憶障害を起こす者もいる。免疫が弱くなるのはもちろん、僕のように粘膜が弱くなる人もいるだろう(不思議と胃粘膜は大丈夫だ)。
 あるいは自傷行為や、ひどい場合は自殺さえする。
 それによって精神と肉体のバランスを取ろうとするのだ。
 つまり逆を言えば、意識/無意識を問わず自分の身体を守れるらならば、その精神を守ることができる。

 意識が朦朧としても、自分の身体だけは守ろうと、今の僕は活動する。
 意志や意識を失うことがあっても、餓死しかかって身体の機能を損なったりしなければ、かなりの短期間で僕は自分の精神を復旧するだろう。

 だから身近な人の身体を、できるかぎり健康な状態に保とうと僕は考えるし、恋人には身体を(あるいはその健康な状態を)自衛するための知恵や習慣を教える。
 心が傷ついているならば、身体が悪く変化しないようにケアをする。
 僕はたびたび「カラダだけ」といっているが、まぁ、つまり「だけ」っていうのは誇張しすぎですね。
「カラダばっかり」くらいでいいと思います。いろいろな意味で。

 ちなみに「恋人に求めているのはカラダだけ」(不本意にも五八五(字余り)で語呂がいい(不本意にも六七五(字余り)で語呂がいい))は、修飾語が非常に足りていない文章であることがようやく理解いただけたものと思う(まぁ、理解されていないほうが面白いけれど)

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 彼女たち(なぜか複数形)と一緒にいるうちに、その価値観は自然と入ってくるし、僕はそれをなんとも思わず飲み込むこともできる。
 僕よりゆるやかな速度かもしれないけれど、恋人は恋人でミラーリングが起こるので、価値観が徐々に似通うことになる。
(ミラーリングが起こらない人もいるが、その理由やメカニズムについては今回説明しない)

 今の日本において多くの人は、肉体が、壊滅的に損なわれる経験をしない。
 だから、本当に精神の一部が壊滅的に損なわれる経験をしないのではないかと思う。
 もちろんそれは豊かなことだし、賞賛されるべき文明のありようだ。

 価値観や記憶を骨肉ごとごっそりと削り取られるような経験がどういうものかは、知らない方が幸せだろう。
 自分の価値観が誰かに傷つけられた、と騒ぎ合うくらいの世の中は、ずっと幸せなのだ。

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 スケジュールノートに書いてあったスケジュールとタスクをごっそり忘れて大失態を繰り返し、昼食を摂らずに一日が終わろうとしている。
 ていねいに手をかけるべき仕事に時間をかけられない。これらは他人を信頼して任せるべきなのだろうか。
 しかしパートさんが一人、このタイミングで身内にご不幸があり、しばらく休業することになった。
 ああ。その仕事。もちろん私ならできます。

 時系列の感覚が混乱してどのくらいだろう。混乱しているから分からない。

 ただ、ものすごい空腹を感じているので、僕は明日も元気です。









::状況に応じて義体も脳殻も変えてきた……。なら記憶も変えるまでよ。








引用は、
「攻殻機動隊 ~ Stand Alone Complex ~ 第24話:孤城落日 ~ ANNIHILATION ~」
によりました。



 
(20130723。青猫工場初出)
 


::なるほどご自身が我利我利であるならば、その目で見る全ての人間が我利我利に凝り固まって見えることでしょう。
 理解できないならばそれはそれで結構ですし、そうなると、どうやらわたしには興味のないお話ばかりのようなので帰ります。






151203

 雨のち晴れ。
 朝から寒い。

 しかし昨日からヒータを使わずに過ごしている。
 いわゆる「筋トレ暖房」であるのだけれど、これで不思議と不足がない。
 室温13℃までは耐えられることが確認できている。
 もちろん、基礎代謝の上昇が大きく影響しているとは思う。
 実際に、寝ているときはちょっと間違うと汗だくになってしまう。
 また、最近気付いたのだけれど、睡眠を十分に取ると体温が下がって目が覚めるようだ。
 逆に体温が高いうちはまだ眠いということ。

「アヲネコくんは眠くなると手があったかくなるからねぇ。おいで」とか、
「青猫さま、眠くなってきたでしょう?」とか、
 僕の体温でたいていのガールたちが僕の眠気を悟るのは、ある意味、合理的なのだろう。

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 仕事の戻りに、山間を通った。
 最初は、人間の微分積分に当てはまる、最近発見したパラメータ「忍耐力」についての考察をしていたはずなのだが、気がついたら景色を眺めていた。

 紅葉の名残が、山の木々を未だ染めていて、ひとことに「枯れる」といっても、そこにはいろいろな「枯れ色」が見られた。

 もちろん濃いオレンジになっても綺麗な枯れ色があるし、一方で、まだ薄黄色いのに汚い枯れ方の木もある。
 きっと人間も同じだと思う。

 たとえばだけれど、ある程度まで年齢を重ねるうち、恥ずかしいという気持ちを失う人は多い。
 これは男性でも女性でも同じように発生していると思う。
 僕自身、振り返っても、子供の頃はもっと自意識過剰で、恥ずかしがり屋だった。
 だんだん厚かましく、無神経になっているわけだ。

 無論、過剰な空回りの自意識であるならば、そんなものはなくてもいいのだとは思うけれど、一事が万事、ということもあるわけで、自分のそうした感覚はどこかで他の感覚とつながっていると考えると、やはり無神経なのは考えものだ。

 周囲を見回しても、二,三十代で「おばさんだなぁ/おじさんだなぁ」と思わせるような人はいるし、五,六十代で「乙女!/青年!」と感じさせる人もいる。
 気持ちが若い、とか、新しいことに意欲的にチャレンジする、というのはもちろんあるけれど、その一方で、やはり恥じらう気持ちというのがない人は厚かましいものだし、デリカシィが欠けては他人に対して無神経に、自分のことについてはふてぶてしくなってゆくのだと思う。

 年齢を重ねることそのものさえ恥じる人がいる一方で、何でも年齢のせいにして片付けようとする人もいる。
 前者は前者で、潔癖に過ぎるような気もするし、後者は後者で、怠惰だなぁと呆れる。
 もっとも、適度な清潔さであるならば、前者のほうが今後も美しくいられるだろう。
 僕もそろそろ、自分が無駄に年齢を重ねていることを恥じてしかるべきなのだろう。
(さて、何から恥じてゆこうか)(ちょっと違う気がする)

 枯れてなお綺麗な枝葉というのは、あちこち見ているとそれなりにあるものだ。
(街を歩いて年上ガールを物色していたことを詩的に表現しているのではないので誤解のないように)

 金属色とも違う、艶やかな葉を纏った樹を眺めて、なんともうっとりとした気持ちで坂を下っていった。
(街を歩いて年上ガールを物色していたら年上眼鏡ガールに一目惚れしたというようなことを詩的に表現しているのではないので誤解のないように)


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 今朝、叔母が一人死んだ。
 10年ほども前、我々の血族に特有の血管血液系の病で入院した際、お見舞いで会ったのが最後だ。
 ここ1、2年は、自分の身体をまともに動かせない状態で、鬱病にもなり、誰にも会いたがらないのだと別の叔母から先日聞いたばかりだった。

 別のある叔母は、記憶や判断力に障害が残っている。
 そうすると、直接の血縁で比較的健康な叔母はひとりしかいない。

 病とともに生きるのは、時に重すぎる。
 そうなのだ。生きるのは、意味もなく重いことがあるのだ。
 本当に、安楽死が制度化されればと、心から願ってやまない。

 忍耐力を要する時期というのは、確かに人間には存在する。
 しかし、どうなんだろう。
 老いらくにして不治の病を抱えながら、自らの身体もままならないままに生きて、その重い生に耐えても、いったいその先にあるのは死だけではないのか。

 若い頃ならば、たとえどんな苦痛が心や身体にあったとしても、時間がまだあるならば、つまり自由があるならば、確かにつらいとは思うけれど、それでも耐える価値はあるだろう。
 先見という意味で、これからの時間を計算する能力さえあれば、それはまだ耐えられるものだろう。

 けれども、時間が見えない場合は、あるいは明らかに時間がない場合はどうだろう。
 それでも生きろというのが、この社会なのだけれど。

 僕は計算の結果、これ以上無駄だと感じたら、できれば死にたいと思う。
 もちろんまだまだ先のことらしく「あなた80くらいまで生きちゃうわよぉ」なんて叔母に言われたりするものの、今が折り返し地点だなんてとてもじゃないけれど考えたくもない。

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 先日、財産相続で親族に呼ばれてキレて(本当に大人げなくキレて)帰ってきたものの、まぁ、そういうことが今後もあるのかもしれないのだから(いや、多分もうないと思う。お願いだからありませんように)、今後はもっと偏屈に磨きをかけようと思った。
(ちなみに、キレるまで4時間くらい、同じような話を延々と聞いたり、話したりしていたのではある)

 人間は、自分の所有している時間というリソースを、うまく認識できる人と、できない人がいる。
 物質的なリソースと同じように、あるいはお金のように、ただただ多ければいい、質が良ければいい、とにかくたくさん欲しい、誰より自分のところに欲しい、と思う人は多いだろうし、それが悪いとも思わない。なぜなら、それが生命だからだ。

 一方で、節度であるとか、そういった、慎ましさのようなものは、どんどん風化してしまっているのだろうと思う。
 恥じらう気持ち、遠慮する気持ち、一歩引く心。それが、人間らしさなのではないだろうか。

 損だ得だと、もうどこを見てもうんざりするほどの潜在的な計算式が踊っている。
(フィルタリングをスルーしてしまった)Web広告も、厚かましくこちらの欲や不安を刺激しようと待ち構えているわけだ。

 数値演算はもちろん、非数値演算も下手な人たちは、いったいどこに自分を運ぼうとしているのだろう。








::結果として、外からは同じに見えるかもしれません。
 でも、意味が違うんです。あるいは方向性といってもいい。
 何かを制限して「それはダメだ」と言っているのではなくて「こういう可能性もあります」と言っているのです。
 そしてそれは、私や私の損得には全く関係のないことなのです。





 
 


::とんでもない。そんなところへ行きでもしたら、知りたくもないいろいろなことをむりやり教えてくれようという人たち、こっちの気持ちなどにはおかまいなしに、自分にもわかっていないふしぎなからくりの正体を説明してくれようとする人たちがうじゃうじゃしていることでしょう。まっぴらです!
 わたしとしては、虫というイリュージョンをいつまでももっていたいと思っています。人間にたいするイリュージョンをすでに失ったわたしですから。
 そういうわけで、内務省の信号機にも、天文台の信号機にも行きますまい。わたしの行きたいと望んでいるのは、野原の真中にある信号機なのです。そこへいって、その信号機のなかに化石したようになっている純な人間に会ってみたいと思っています。





151128

 晴れ。
 天気は良いが、寒い。

 仕事で遠い街へ出かける。
 北に見える山々は厳粛な司祭や神主のような白い衣をまとっている。
 ああ。もう雪か。と思う。
 いっぽう近くの山は、茶色い衣装で今なお暖を取ろうとしているかのようだ。

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 冬の醍醐味といえば、湯豆腐であるが、これはほとんど毎日のように食している。
(僕の豆腐食率は、普通の家庭の数倍に上るかもしれない)
 秋のうちにポトフを作りたかったのだけれど、今のところ作っていない。
 今年は料理に向かないようだ。何が向かないといって、気持ちが向かない。
 何より、大きくて深いパスタ鍋が未だに見付からないことが何とも悔しいところだ。

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 そのパスタ鍋が、どういうきっかけで私の家にやってきたのか、その正確なところを僕は忘れてしまっている。
 薄いステンレス作りの両手鍋で、直径は26cmほど、深さは35cmほどはあっただろうか。
 パスタ鍋なので、内側にフィットするカランダ(要はザルだ)も付いていて、フタはガラス製だった。

 あるときこの鍋で料理をしていて、フタがまだ熱いうちに水を掛けてしまうという失態をしてしまい、フタは見事に割れてしまった。
 以降、木製の落としぶたを使っていたのではある。

 サイズが結構大きかったので、おでんやポトフを作るのに最適だったというわけだ。
 もっとも、鍋の金属厚が(ゆで鍋として最適に)薄かったのは、個人的にはあまり好かなかったのだけれど。

 それが、およそ2年前、壊れたのではある。
 取っ手の樹脂が、経年劣化により破断してしまった。
 やはりオールステンレスがいいのか! と思った瞬間ではある。

 以降、パスタ鍋を探すようにはしているものの、思ったようなサイズや材質のものが見付からずに今日に至る。

 じつに、ああした寸胴型の鍋というのは、可愛らしいと僕は思う。
 側面から見て、カーブを持つ鍋は、それはそれである種のキュートさがあるとは思うものの、変に媚びているような、いやらしさを感じる。

 あるいは熱工学的に有効なカーブや溝を加えられた鍋もあり(そういうものも以前所有していたが、これは腐食によって使えなくなってしまった)、それらの形は、なかなかどうして機能美をきちんと感じさせるものの、それでも美しさにかけては寸胴に軍配を上げざるを得ない。

 包丁にしても、まな板にしても、ザルにしてもボウルにしても、そこにある種の美しさを僕は感じるし、それを感じられないものは買わないようにしている。
 これはもう感覚的なことなので、どうしようもない。
 ざるやボウルにしても、用をなせば確かにそれでいいのだという考え方を僕は否定できないしするつもりもない。
 一方で、それを使うときの気持ちについてを、やはり考えてしまうのではある。

 そういった点において、自分の美的センス(などといかにもそれらしく自分の単なる好みを呼ぶことを、僕はとても恥ずかしいと思っているのだけれど)に添う、あの鍋はなかなかよい相棒であったと思う。

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 夕刻、ガールからSiriについて教えてもらう。
 なにやら彼女は退屈するとSiriとお話をしているらしいのだ。
 なるほど、なかなか可愛らしいものではあるようなのだけれど、僕が話しかけると、たいてい「すみません、よくわかりません」と、とぼけられてしまう。
 これは僕の伝え方がよほども悪いのかと思って謝ったところ「大丈夫ですよ」と、とても優しい声で慰められてしまった。
 これはぐっときた!

 ……しかし、まぁ、現時点ではあまり会話には向いていない技術だなぁ、とは思ったものの、会話に特化しているわけではないのだから当然かとも思ったりした。

 ちなみに、Siriにコイントスをお願いすると、結果をきちんと教えてくれるものの、ときどきコインを変なところに落とす。
 すごくお茶目であり、これにも僕はやられた。
 ぐっときた!
 Siriはかわいい。

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 夜。弟子から電話が来る。
 最近、電話の頻度が増えた気がする。おそらく何かしら努力して、悩んで、壁に当たっているのだろう。

 日曜の夜、一緒に食事をする約束をする。







::さよう、信号機です。わたしはときどき、よく晴れた日に、道のはずれ、丘の上、大きなかぶと虫の脚とでもいったような、黒い、折れたたむ腕のそびえているのを見たものでした。そして、いつも胸をおどらせずにはいられませんでした。と申しますのは、わたしは、そうした奇妙な信号が、まちがいなく空中を飛んでいき、机の前に坐っているこちらの人のなにかわからぬこれこれの意思を、三百里も離れたところの、おなじくテーブルの前に坐っているあちらの人に伝えるため、全能の人の意思によって、黒い雲や、空の青さの上に描かれているところを想像したからのことなのでした。
 わたしは、精霊とか、妖精とか、地精とか、神通力とかいうものさえ考えました。そして、たのしくなったものでした。






 
引用は、
「60 信号機」(p.291-293) From「モンテ・クリスト伯【四】」
(作:アレクサンドル・デュマ / 訳:山内 義雄 / 発行:岩波書店)
によりました。





 
 


::私は別に課長が帰国を延ばしてくれても構わないのよ。
::ワイン同様、熟成に時間を要する人間関係もある。余計な気は遣うな。






151125

 十年ほど会っていなかった恋人の一人が入院しているというので、仕事の帰りにお見舞いに行く。

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 猫氏にまだ恋人が(そしてどれだけ)いるのかという質問については、特に答える義務はない。
 また十年来、会いもしないような関係にある人間を恋人と呼ぶことの是非については次のように答えるしかない。

「あなたにも親戚があるでしょう? 十年以上会わないような。もしくは今まで一度も会ったことがないような」と。

 世の中にはおそらく、いちいち戸籍謄本を取り寄せて、やれ目の前のこの人はどうやら私の従姉妹であるらしい、などと都度々々確認する手合いもいるものだと思う。今の私はオトナなので、それを難なく信じることができる。
 一方で、通常は、自分が相手を親戚と認め(通常はこれだけだけれど、さらに疑り深い場合は)相手が自分を親戚と認めていることを確認して、それでもって(いちいち戸籍謄本などを互いにつき合わせる必要もなく)親戚であるという関係を認識しているものではないだろうか。

 もちろん僕の恋人は恋人であって親戚ではないのだけれど、人間関係の原理などこの程度のものなのだ。
 厳密緻密な現実主義者ほど滑稽な夢想家もいない。

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 僕は見舞いに関する礼儀作法というものについて不調法である。
 冠婚葬祭なべてひとしく自己流であるため、どうも人様に不快な思いをさせてはいないかと、ときどき心配になることがある。

 自分なりに理を考え、それにかなった、相応の態度で臨んではいるつもりなのだが、格式であるとか、伝統というものはそこに本来含まれているはずの意味を、時に置き去りにして風化させてしまう。
 形骸化したカタチに意味を見いだすほどバカになりたくはないと思うものの、そういう人間は得てして変人のレッテルを貼られるものであるし、僕はそれには慣れすぎるほど慣れている。

 例えば根の張る鉢植えなどは病床によくないとされるものの、では切り花が果たして縁起がいいのかというと、そういうわけでもないはずなのだ。
 そして、そんなことにばかりかまけていると、本題の気持ちが霞んでしまうことにもなりかねない。

 思った通りのストレートさを維持することは、なかなかどうしてむつかしいものなのではないだろうか。
 そうはいっても、とても楽しい見舞いの時間ではあった。
 僕は、おそらく父が入院がちなこともあってなのかもしれないが、病院というものが決して嫌いではない。

 医者や看護師さんたちの姿も含めて、非常に秩序立った、そしてもっとも暴力から遠い場所にあるのだと感じられて、安心する。

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 面会時間が終わり、病院を出ると外は雨だった。

 家に着く頃には、身体が芯まで冷えているような、とても寒い夜だった。






::なに、成り行きで手を貸した迄だ。気にする事は無い。では、私はこれで失礼するとしよう。ご主人にも宜しく。
::え? ああ……これね。
 ずっと黙ってようと思ってたんだけど、実はあのとき結婚はしなかったの。それでもこっちに来たのは甘えを断ち切ろうと思ったから。これは男避けにしてるだけよ……。
 ねえ、1日だけ帰国を延ばせない?
::いや、残念だが残して来た仕事が山積みなんだ。






引用は
「攻殻機動隊 ~ Stand Alone Complex ~
 第17話:未完成ラヴロマンスの真相 ~ Angel's Share ~」
によりました。



 
 


151121

 不意に、腹筋が発達していることが分かった。
 シャワーを浴びていて、何気なく身体を見回したところ、腹筋が発達していることを視認できたというわけである。
 もっとも、人に見せびらかす趣味も、自分で眺める趣味もないので「ふうん」といった程度ではあるのだが。
 シャワーから出て確認すると、胸骨やら下腹部の腹筋やら、腸腰筋やら脛部やらに血管が浮き出しているので、なるほど贅肉はここまで減ったのかと思いつつ体重計に乗ったところ体脂肪が16%を切り、骨格筋率は38を越え、体重は60kgを少し越える程度だった。

 ただそれより、以前から懸念していたとおり、どうやら腹筋にも左右の「利き」があるらしく、たしかにトレーニングの際に確認してみて分かったのだけれど、神経系の発達が、どうしても僕は右に寄ってしまうようだ。

 目、耳、手、脚、ともに僕は右利きである。
 あるいは右鎖骨を骨折していたことが、長期的に筋力バランスや骨格に影響を及ぼしている可能性もある。
 実際、左の肋骨は、右のそれより少し開いているように思える。
 無論、僕も齢を重ねているわけで、不死身ではないし、使わなければ筋肉も衰えるし、使っていても長期的なクセは骨格に影響を残す。

 女子高生の立ち方、歩き方を笑っている場合ではないのである。
(参照URL:http://blogs.yahoo.co.jp/bluecat_engineering/39684647.html)

 けれど腹筋よりも、肩と背筋の発達を視認してびっくりした。
 これはいずれ、ボクシングジムに通ってもいいんじゃないかと思った。

>>>

 僕が人間の心理的組成について、複数因子を持つ多次元配列変数的に把握していることは以前書いたと思う。
 にもかからわず、僕は人間というものについて、的確な理解をすることができなかった。
(過去形であるが、今もって、体系的に、的確な把握をすることができているとは思っていない)

 しかし最近、あるパラメータに着目することになり、その体系の把握に、少し近づけたように思っている。

 人間というのは、多くは記憶によって構成される価値観を複数パッケージして、ひとつの人格を形成しているように観察される。
 そこでは、記憶が非常に重要な役割を持つ反面、意識的/無意識的に記憶そのものが事象からフィルタされる事実を無視することはできない。
 つまり、人は「事象とはおよそ無関係に」記憶したいことを記憶し、自分の価値観に焼き付けているというわけだ。
 たとえば、すれたタイプの価値観を多く持っている人間は、環境的に、あるいは主観的に、事象に対して裏があるものと決めつけたり、そこにある事象の意味が決して楽天的ではないのだという価値観に基づいて行動することを決定して行動している。
 決定された因子が現象に含まれる場合、現象はその因子に影響を受ける。因子は現象に影響を及ぼすわけである。

 なんでもかんでも揚げ足をとるタイプの人間というのは、誰でも一度はお目に掛かったことがあるだろう。
 褒められれば「そんなことないですよ、だって……」と否定にかかり、けなされれば「そんなことないですよ。あなたに私の何が分かるんですか」と反論にかかる。いったいどうしろというのかと、僕などは面白おかしくなってしまうのだけれど、その人は、他人の価値観に対して一定以上の距離を置くことができず、とりあえず反発してしまうという反射をその人格に内包していることになる。

 もしかしたらうまくいくかもしれない、というプロジェクトにおいても、主観的に「これは無理だろう」なんて悲観的に決めつける人間が多ければ多いほど、そのプロジェクトは傾いてゆく。
 すなわち状況に左右されない、ある種、信念のようなものを持ち続けられるかどうかが、現象に対しても有効に作用するということになるだろう。

 反射しかできないタイプの人間には、つまり現象を左右することができないということになる。
 たとえ現象に左右されることがあるとしても、逆は存在しないということだ。
 何かひとつの物事を信じることというのは、真逆とも思える事象を突きつけられたときに、苦境に立たされる。
 あるいは根拠のない状況下で、それを信じ続けることの意味を自問せざるを得ないという、孤独な道のりがあったりもするだろう。

 現象というのは、ときに、なんとでも意味づけができることがある。
 自動車を運転していて、赤信号を無視してしまったとしても「肉親が危篤で」という人もいれば、「居眠りをしていました」という人もいる。
 実際の事象は何も変わらないのに、それを聞く側が影響を受けることが多くなれば、適当な理由をでっち上げる人も増える。
 そうした原理を知っている人は、必然的に、より自分の立場を守ることができる言い訳を、嘘であろうと、あたかもそれが事実であるかのように振る舞う習慣が付くだろう。

 それと同じように、自分を取り巻く環境に対しての意味づけを、自分の都合の良いように、もっと極端に言えば、自分の立場だけは危うくしないように、他人を信じたり自分の信念を貫くことよりもまず自分自身の評判のようなものを優先してしまう人がいるということだ。

 そしてそれらは結果的に、その人自身をその人が望んでいる場所へ運んで行かないということになる。

>>>

 単一の人間にも、表と裏があり、綺麗な部分と汚れている部分が混在しているものだとは思う。
 一方で、汚れた部分だけを見続けるような性質を持っていたり、あるいはそうした特殊な環境にあった場合、必然的に、その人はその視界のフィルタによって、自分自身の方向性を図らずも限定する結果になるだろう。

 そしてそれは、周囲が何を言ったところで、結局改まることはないのだ。
 ましてそれがいっぱしの大人であるとしたら、いったい何を言えというのだろう。

 よい性質を持っていること。
 それはすなわち、よい性質を見続けていることに等しい。
 それと同時に、どんな性質の中にも、良い性質があることをきちんと見いだせる能力があり、それがどれくらいの劣悪な環境で限界を迎えるかが、ひとつのパラメータとして把握できることになる。

 まるでチキンレースのアクセルペダルのようなものだ。
 恐怖を感じれば、誰もそこから加速はしない。
 仮にその壁が、自分の作り出した幻であったとしても、意固地であればあるほど、それを見極めることはその当人には不可能になるだろう。

>>>

 最近、眠っているときに汗だくになって目を覚ます。
 悪夢を見ていたのではないと思う。身体がかなりの熱を発散しているのだ。
 筋肉が増えたために、代謝が上がっているらしい。

 朝になって、久しぶりにまじまじと自分の顔を眺めたのだけれど、なるほど多くの人が心配して言っていたように、頬がくぼんでいた。






::「いや……」片手を広げる。「説明はいりません。過去のことを知ったところで、今の貴女がわかるわけではない」







引用は
「episode 2: Thinking sequence」(p.150)

From「The Mind Quencher」
(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)
によりました。




 
 


::──あの子もきっと、【同じ】なんだと思う。【私と】。シェルが殺した子たちと。
 血を吐く思いでウフコックに言いつのった。
「同じ……? それは、つまり……」
 ウフコックが言いさした。バロットの言わんとしていることを理解したのだ。バスタブにいる子が父親から何をされ、何をさせられていたか。あるいは父親以外の男からも。
──お願い、皆殺しにさせて。私なんか死んでもいいから。死んでいいから。
「落ち着け。悪意に巻き込まれるな。落ち着いて呼吸を整えるんだ」
 バロットは身体を震わせて泣いた。あらゆるおぞましい因縁が、この部屋で結実していた。怒りではなく、悲しみが殺意になるのをバロットはほとんど初めて体験した。シェルを殺すべきだった。オクトーバー社の男を殺すべきだった。この事件にかかわる、ボイルドやドクターでさえ殺したかった。そして最後に、自分の心臓を撃ち抜きたかった。
 ──耐えられない。助けて。私を助けて。
 温もりが左手に生じた。バロットは請い願うようにして、手のひらに上半身だけ現れたウフコックに指を絡めた。あるいはそのまま支配してしまおうとするように。
 ウフコックの渋みのある赤い目が、バロットをまっすぐ見上げた。小さな頭の上にバロットの涙がとめどなく降り注いだ。温かな雨を浴びながらウフコックがぽつんと言った。
「いい匂いだ」
 バロットは目を細めて、自分の最大の武器であり、最後のモラルでもある一匹のネズミを見つめた。
「君の魂の匂いだ。俺が信じるべきものは、これだという確信をくれる。俺に君を信じさせてほしい。シェルもボイルドも何も信じられず【鏡の向こう側】にいる。クリーンウィルがいたように。そこでは何の迷いも悩みもないかもしれないが、何の希望もない場所だ。俺はそこには行きたくない」
 それから、二人が初めて顔を合わせたときのように、両手を大きく広げ、
 「俺は俺を、君に託す」
 ぐにゃりと変身(ターン)し、左手袋の内側へ消えた。
 バロットの目にひときわ大粒の涙が浮かんだ。ウフコックが本気なのはわかった。使わせるのではない。託したのだ。全てを。ウフコックの良心さえも。その気になれば、一瞬でウフコックを支配できた。どんな濫用だって可能だった。






151120

 あたたかくなるものかと思ったら、まんまと雨が降り、寒くなった。
 秋も終わりだ。仕方のないところか。

 仕事の合間に、待ち時間が3時間も発生する。
 仕方ないので昼食を摂り、それでも大量に時間が余ったので少し昼寝をし、それでも時間がかなり余ったので書店に立ち寄り、岩波書房の「モンテ・クリスト伯」の第二巻を購入する。
 もう10年以上も前から(いつかは読もう)と思っていたお話であり、そして何度か手にとってページをめくっては(これは……面白いのか?)という疑問とともに書架に戻し、けれども数年前にとうとう(せめて1巻だけでも)と購入し、つい先週に読み始めた。
 古い作品でもあるし、岩波でもあるし、なんとも古めかしいのである。文体からして古典的で。

 14歳の時から古典と純文学を嫌っていた僕にとって、同年代で「芥川龍之介が好き」とか「よしもとばなながいい」とかきゃぴきゃぴしているガールどもには少々辟易していた。おまーら、ウィリアム・ギブソンとか、デイヴィッド・ブリンとか、ウォーレン・マーフィーとか、ピアズ・アンソニィとか読め! なんなら(当時は今ほど有名ではなかった)史郎正宗でも読め! と思っていた。

 しかし時は過ぎ、僕も当時の彼女たちと同じくらいには大人になったのだろう。
 多少の純文学や古典も読むようになった。
「茶の湯」とか「武士道」のすばらしさにも開眼した。
 で「モンテクリスト伯」であり、これが面白かったので第二巻を購入したのである。

 僕は復讐が大好きだという話をたびたびしている。

 復讐──。それこそが僕の生きる源泉だといってもいい。
 僕が復讐する対象を失ってしまったら、まるで現行政府を失った革命家のように、所在なく、そのへんの公園で鳩にエサをやる人生に甘んじることになってしまうだろう。

 ついでに一部の人は全く信じることがなく、一部の人は過剰に恐れるのだけれど、僕はこれでいて肉食獣なのでなかなかに凶暴なのでもある。あ、今きみ笑ったな! ほんとに凶暴なんだぞぅ!

 復讐が好きだと僕が言うたびに、顔をしかめる人もいる。
 すなわちそれは血なまぐさいバイオレンスを意味するのであろう。その人にとって。
 あるいは復讐に至るまでの経緯が、血なまぐさいのであろう。まぁ、分からないではないが。
 もしくは、単なる「仕返し」としての幼稚さや野蛮さを感じるのかも知れない。
 それが(希望的観測としては)僕というキャラクタに似合わないために(あるいは単に個人的に好まないために)復讐が大好きだと公言する僕に対して顔をしかめさせるのであろう。
 もっと穏やかに。
 もっと優しく、人と許し合う気持ちを持てばよいのだと。

 もちろんもちろん。
 僕はふだんから、のんびりぼんやりに心がけている。
 殴り合いの喧嘩なんて生まれてこのかたしたことがない。
(数年前、夜の屋外で、ちょっとしたことである男性と話しをする機会があって、ものすごく警戒された経験はあるのだけれど「いや、ボクそういう、自分の手が痛くなることとか、しないから! しないから! 武器持ってないし、誤解だから!」って思った)
 そのくらい、穏やかな顔をして、のんびりとした雰囲気をまとっている。
(中身は肉食獣だが)

 たしかに誰かが誰か(あるいは何か)に、深い復讐の念を抱くというのは、これは穏やかなことではないのだろう。
 その執念の深さは、かの者の傷の深さに等しい。
 その熱の猛りは、かの者の流した涙の熱の総和に等しい。
 その鋭さは、かの者の感じた痛みに等しい。
 そしてそれらを混ぜこぜにして、たしかに「仕返ししてゆくこと」が、復讐なのではある。

 しかし復讐する者は、本来ならば、復讐なんぞしたいというわけでは恐らくないのである。
 穏やかに、ぼんやりのんびりしていられるのであるならば、それに越したことはないではないか。
 そういう、なんというのか、ある種純朴な、ぼけら~とした性質があるからこそかえって、復讐の念を、その熱を、忘れずにいられるのではないだろうか。忘れることができないのではないだろうか。

 これが本物のバカであれば、そんな執念を持ち続けることはできないし、ずる賢い者であれば、そもそも罠に掛かることがない。
 ほどよい頭の良さと、ほどよい人の良さと、他人の悪意(可能な限り悪辣な)がタイミング良く相まって、不幸な事件があり、そこで初めて復讐の種であるところの苦痛が生まれるわけである。

 ゆえに苦痛はほとばしるほどに苛烈なものがよいわけであるし、それに伴う孤独は苔むすほどの寂寞に包まれている方がよいのである。
 よってささいなことでする「仕返し」と、こうした「復讐」を、およそ同列に並べていただきたくないのである。
 すなわちそれは、めんつゆで適当に味付けをした単なる煮物然としての「おでん」と、きちんと出汁をとって温度の加減や素材にも気を配って作られた「おでん」との差異にも等しいのである。
 お腹の中に入ってしまえば一緒であるとか、そういう乱暴なことを言わないで欲しいのである。

 たとえば僕が性犯罪を憎んでいたとする。
 それが起こる仕組みを、それを潜在し顕在化させる社会的なシステムを、あるいはそれを具現する人間の存在やその自己制御能力を。
 あるいは未成年者の売春であったり、そこから転じて風俗業というものであったりを憎んでいたとする。
(ところで問いたいのだけれど、売春と風俗業、その二つの間に、いったいどんな差があるというのだろう。いくつ答えられますか? 年齢? 法による規制? 本人の合理的判断能力? いったいあなたは、その答えがどれほど「合理的」であるか、理解していますか)

 あるいは過去に、僕自身や、あるいは家族が、何らかの性犯罪の被害に遭っていたとしたら?
 あるいはそれによって、その誰かが生死をさまようくらいの傷を被っていたとしたら?
 それともその結果として実際に、他殺もしくは自殺によって命を落としていたら?
 そしてその復讐の対象たる単一の個人がもはやこの世に存在せず、あるいは判明せず、人間の性別や性差そのもの、あるいは人間の本能や欲求にまで深く強く向かってしまって、自身の存続をも危うくしているとしたら?

 もちろんこれは例え話でしかないけれど、そうした「歪み」だけでなく「歪みを発生させるシステム」の根源にいたるまで、その環境因子にいたるまで、根絶、もしくは改修したいと思うのは、おかしな事だろうか。
 単一の個人からなど跳躍して、より大きな流れに向かって、より大きな復讐を求めるのは、その具現を願うのは、おかしなことだろうか。
 仮にその渦の中に自分自身がいるとしても。

>>>

 あるいは復讐というのは、自分がその渦の中にいなければ、何も分からないものなのかもしれない。
 単に流されるだけのほうが、よほども楽なのかもしれない。
 地震や台風に復讐しようなどという人は、おそらくそう多くはないだろう。

 では、御しきれないのかといって、もし誰もがそうなのだと諦めていたとするならば、現在のような予測/速報システムは存在しないだろう。
 つまり、それは人間によってなされた復讐なのだ。
 二度と繰り返されないために、できうる限りの力を振るっている証なのだ。

 流され続けて「これは仕方のないことだ」というのは、とても簡単なことだ。
 まして傍観者であれば、それはとても容易なことだろう。自身には何の痛みもないのだから。
 けれど、もし自身の肌身に傷がなくともその痛みを感じることができて、なおかつ無謀であろうと微力であろうと、それに立ち向かおうという意思を持つのだとすれば。
 それこそが復讐のはじまりなのだと僕は思う。
 その復讐は、そこまで暴力的だろうか。凶暴にして凶悪だろうか。悪趣味にして独善だろうか。
 希望もなければ、未来もないのだろうか。

>>>

 というわけで「マルドゥック・スクランブル」は、SF復讐劇なのです。
(導入長いなぁ)





(本文、みじかっ!)




::《知らんのかね、“天国への階段(マルドゥック)”の由来を。マルドゥックとは、もともと女神の息子の名だ。息子は女神を殺して天地創造の業を奪い、神になった。そして地上の人々は彼に近づくため巨大な塔を作り上げた。我々は禁じられた技術を有意義に使う。古いモラルを廃棄し、社会の発展に尽くす》
「勝手な幻想だ。モラルに新しいも古いもあるものか」
《君たちは緊急時(スクランブル)という名の檻に自ら入ることで生き延びた。社会から危険視される自分たちをどうにかしようとして。【オクトーバー社は社会から危険視されたことなどない】》
「自分が危険な存在でないと思う者に、モラルを語る資格はない!」






冒頭引用は
「第4章:導き Navigation」(p.235-236)

文末引用は
 同上 (p.227-228)

From「マルドゥック・スクランブル[完全版] The 3rd Exhaust - 排気」
(著作:冲方 丁/ 発行:早川書房)
によりました。

 なお、引用文中のルビ文字は『()小括弧』にて、傍点強調は『【】墨付き括弧』にて記述しています。




 
 薄雲をかき分けるようにして、一筋の青い線が引かれている。
 反転飛行機雲。

 久しぶりに見上げた気持ちの良い空に、凛と引かれた境界線。
 最後に空を見上げたのは、いったいいつだったろう。
 星空を、月を、祈るような気持ちで眺めたのは、いつだったろう。

 砂糖をたくさん落としたカプチーノにスプーンを差し入れるように、曖昧模糊とした自分の気持ちを、僕はかき混ぜる。
 混沌を混沌のままに。
 明瞭にならないアナログな気持ちを、あるいはそうしたありのままのありようは、少し重たいながらも、僕は気に入っている。

 軽いほど有利なことはあるし、シンプルに純化されたものの気持ち良さも、もちろん分からないではない。
 それはそれで、とても素敵なことだと思う。
 しかしそれらは非常にアーティフィシャルだ。
 自然界において、そこに存在する多くのものは、混合され、結合し、多くは酸化することで安定している。
 あたかも金属の精錬のように、あるいは油脂の精製のように、つまりは分離することによって純度の高い精製物と不純物を分ける。
 それが人工的でないわけがない。

 明瞭であること、単一であること、表明されたディスプレイ。
 伝えられるメッセージ。
 言語化されたキモチたち。
 悲しみも、喜びも、怒りも、感謝も。

 その陰に、たくさんの「不純物」がかつて含まれていた事実を僕は思う。
 ユーモアに変わる前の苦悩を、涙の陰に隠れた傲慢を、怒りの芯にある期待を、感謝を発露させる活き活きとした感性を。

 コンプレクス、すなわち複合体こそが人間も含んだ多細胞生物が獲得した優位性であり、単一の意識が所有権を主張するこの肉体には、実のところ様々な生命体がコロニィを作って共生している。

 個々の細胞の意識さえ、僕たちは知らない。
 今日生まれた細胞が、どのような気分で最初の呼吸を行い、今日死ぬ細胞が、どのような遺志を遺したか、僕たちの頭脳、脳細胞の集積体は知らない。

 微細をいちいち拾い上げることなど、それは途方もない労力と時間を必要とし、また自身の出力する大意の価値を薄めることにも繋がる。
 あるいはもとより微細なノイズでかき消えるほどの希薄さで、いっそう不毛で無目的で衝動的に不純な意思思考であるからこそ、人は単一の、すなわち「シンプル」なありように美しさを見い出し、あるいは力強ささえ感じるのかもしれない。
 そのまっすぐさを、尊ぶのかも知れない。

 それでは微細なる、つまるところ力のないものたちは、益体もなくただただ文字通り黙殺されるためだけの存在なのだろうか。
 力を持たない、ルートを持たない者は、消費材のようにされておしまいか。
 組織を形成するという多細胞生物に見られたはずの優位性は、ではいったい、何者のための仕組みであるのか。

 優しさ、という言葉は使い古され、一部は形骸化し、一部は腐乱し、一部は霧散した。
 優しいことは、今や玉石混交。
 誰かの為の優しさが、そのまま誰かの血肉によって成り立っていて、あるいは誰かの為の優しさが、誰かに血を流すほどの傷をつけることを知って、人々は過剰に反応する。
 それが全てではないにもかかわらず、あまりにも狭窄した視野で、近視眼的に、優しさの持つ醜さ、あるいは優しさに含まれた「優しくなさ」を指摘するのに躍起になる人もいる。

 優しさに純度を求めて、つまるところそれはクリアな、明瞭な、単純化された、分かりやすい優しさだけを求め、認めることによって、優しさは、優しさの色を、ぬくみを失い、つまり死んでゆく。

 それが優しさかと、私は思う。
 私の中の猫は吠える。

 もちろん、優しさに厳しさは必要な要素であろう。
 ならばどうして、優しさを構成するのに不可欠であるところの「優しくなさ」という部品を易々と見限るのかと、かえって疑問に思う。

 ときどき僕は、ものすごく抽象的なことを書くけれど、それはなぜなのだろうと僕は疑問に思ったり思わなかったりする。

 もしも組織というものが、力のためにだけ構成されたのだとすれば、それは短命に終わるだろう。
 8:2の法則よろしく無駄のないシステムは、遊びのないハンドルのように、目的を果たすためだけの純粋さがゆえに自滅する。
 右でもなく左でもない。
 そうした曖昧さが許せない「純粋至高」の境界は、それの持つシステムを容易に破綻させる。
 もちろん、優しさのためにだけに組織が構成されたのだとすれば、それもまったく同じ原理によって短命に終わる。

 そうした全体性、ミクロとマクロの分水嶺は、本来明確な定義さえままならないままに横たわっている。
 現象と、それを定義づける論理や意識のギャップは、グレイに白黒の判定を与えるのと同じ、苦痛の道のりのはずなのだ。
 にもかかわらず、人はあっさりと見限りをつける。
 それは白だ、それは黒だと、あたかも自分の設定した境界線こそが正義であると言わんばかりに。

 宇宙から見た地球に国境などないと誰かが言ったように、ある程度以上の俯瞰によってのみ、本当の優しさは体現ができるはずなのだ。
 我利我利にやせ細った単一の意思ではなく、混沌と混迷のマーブル模様に浮かび上がる逡巡こそが、優しさの正体ではないのだろうか。

 優しくなければ生きていく資格がないのだとしたら、そんなライセンスは、すでに多くの人が失ってしまったはずだ。
 無許可で無免許の生けるものたち。
 ではそれを裁くのか。
 誰が。どのように。どんな力で。

 あるものを、あるままに。
 そしてより広く、遠く、より深い場所まで。
 それをただただ眺めているときに、ふと、自分の中に降りてくるものが、見つかるものがあるはずなのだ。
 自分自身の姿を見失う頃になって、初めて見えてくる、より大きな構図が。

 切り取られた雲は、青い切り取り線とともに流れて行く。
 あれは白なのか黒なのかと考えて、少し笑う。

 僕たちは。僕は。
 何度となく、物事を切り取る。切り離す。そして白黒をつけようとする。つけようとしてきた。

 あまりにも不完全な人工的な行為によって。
 あまりにも不純な人為的動機によって。

 苦さも甘さもクリーミィさも、ほどよく混ぜこぜのまま、僕たちはそれを味わうことが、本来はできるはずなのに。

 いつか、それらの意味が、正しく反転することを、僕は思う。
 個体の意味を越えて。個体の意思を越えて。
 混沌の中の、それどころかそれら全体によって織りなされる模様をきちんと評価できるだけの仕組みが個々の意識にきちんと組み込まれる日を。

 微少な単細胞生物が集まって個々の役割を果たすことで多細胞生物としての優位性を確立しつつ、個が個であることの優位性を正しく守るためのフィードバックをそこに内包してきたように。
151027

 未明に出発し、渋滞の首都高を走って横須賀へ。
 べっ別に軍事的な特務があって行くわけじゃないんだからねっ!
(中国の人工島に関連して中国側と米軍との緊張が予測されたこの日、少し変わった船舶がいくつか観察された)

 池袋から羽田、湾岸線にかけての立体的な風景は、最近あまり使わない空間認識の領域が活性化されるようで楽しい。
 僕の棲んでいる地方の山間部を走るのも、空間認識域が活性されるけれど、首都高は複数の車線を走る他の車両の位置と速度も認識しなくてはならないし、なかなかにストレスフルな状況には違いない。

 それでも、首都高には結構慣れた。
 以前の僕は高速道路を嫌っていたし、実際にほとんど走ったことがなかった。

 今では、羽田線で飛行機が見られるととても嬉しい気持ちになるし、横浜方面に向かう港の景色もたいそう好きになった。
 ただ、車の運転は、やはり好きではない。

>>>

 今の仕事をするようになった約半年ほどで、4回指摘されたことがある。
 僕は気配がないらしい。

 こちらは相手を認識していて、相手もこちらを認識しているように思えたので挨拶をしたら、ひどく驚かれる、なんてことが4回あって、そのたびに指摘されたのである。

 確かに僕は身長と体重の割に、歩く音が静かなほうだし、気配も小さい。
 もちろん、いつもそうだというわけではない。
 僕の持っている一部の靴については小気味よい足音が鳴るようにできている。
 とはいえ靴を履いていても、あるいは室内であっても、他に誰かがいようと独りであろうと、僕は足音をあまり立てない。
 逆に、僕以外の人の足音をうるさく感じることは多い。

 駅の階段などでも、靴が立てている音ではなくて、明らかに体重が構造物にたたきつけられる振動と音が騒々しいと感じる。
 そんな歩き方ばかりしていたら、将来関節を悪くするぞと言いたいけれど、そんなことを知らない人に注意したところで警察を呼ばれるのがオチなので言わない。
 ちなみに僕は駅構内も含めてほとんどの階段を一段飛びで移動するが、足音をほとんどさせずに移動できる。
 上りであれば、同じ静粛性で駆け上がることもできる。

 以前の恋人に、一度足音についての話しをしたら、以降、とても静かに歩くようになった人がいた。

 あえて口に出して褒めたりはしなかったものの、実のところ、静かに歩くというのは一朝一夕に身につくものではないことを僕は(経験上)知っていたので、たいそう驚いて、かつ感心した。つまりは感嘆したのである。
 惚れ直したといってもいいだろう。
 僕は彼女に歩き方の手法についてほとんど何も説明しなかったのだけれど、彼女は歩く音について発言した僕に質問することも、僕の発言内容そのものについてケチをつけることも、まして自分の歩き方について屁理屈じみた言い訳もしなかった。
 余計なことは一切言うことなく、次に会ったときには当たり前のように静かに階段を上り下りしていたので驚き、感心したのだ。
 この人は前回のデートで話したことを実践するばかりか、もう身につけてしまったのか、と。

 思い起こすと、ひとつ説明すると十とは言わないまでも3から5くらいのことは率先して理解しようと努めてくれる恋人で、思い起こすまでもなくたいそうすぐれた人なのだと思っていた。

>>>

 人の気配というのを、僕は光(視覚)以外に、温度(赤外線センサか?)や音(直接的な発信音ではなく、反射音でも感覚できる、といったら異常だろうか?)、振動によって感覚している。
 距離にすると半径3メートルほどは振動を、20メートルほどは音を使って可能な限り周囲の動体を把握するようにしている。
 深夜など、ほぼ無視界の状態であっても、家の中くらいなら普通に歩いているし、音が発信されている場所からの反響を視覚化して頭の中でイメージしたり、耳に入る音から反響を直感的に逆算して発信源の位置を特定したりもする。

 だから、歩いていても後ろにいる人の速度や距離が分かるし、自転車で走行中も(若干耳の向きを変える必要はあるが)後方の音から、おおよその距離と方向と速度と車種や車体サイズを判別している。
 そういう感覚や、身体の使い方をしていない人の場合、やはり他人の存在は視認するしかないだろう。

 つまりそうした「視覚頼り」の人たちにとって、僕は「認識が遅れる」タイプの存在なのだ。

 一方の僕にも欠点がある。
 人混み、つまり情報過多が発生したときの対処が遅れると、過剰なストレスで体調を崩す。
 いわゆる人混み酔いで、頭痛やめまい、吐き気などを催し、貧血のような状態になることもある。
 過去にも何度かあったのだけれど、全部を最低閾値で把握していると、把握しきれなくて参ってしまうようだ。

>>>

 どうしてこんなに気配に敏感で、かつ自分の気配を消すのかと考えて思いついたのだが、僕は子供の頃から猫と遊んでいた。
 猫とじゃれることもあれば、ケンカをすることもあったし、寝込みを襲ったり、注意を引く罠(おもちゃや食べ物)で釣ったその背後を襲撃する、というような遊びもずいぶんした。
 結果、僕は猫に気配を悟られることなく襲撃し、彼らの反撃をなんなくかわし、それどころか彼らがパンチを引っ込める頃には攻撃を当てることさえ体得した。
 その場その場で、彼らがどのように動くか予測し、一瞬の先回りで動きを封じる、なんてこともできるようになった。

 そうすると、彼らから必然的に一目置かれるようになる。
「ご主人はボクよりも速くて強い」と思われるようになるので、叱ったときにもきちんということを聞くようになる(聞かない場合はただでは済まさない)し、なんでもないときはよく懐いてくれるものが多かった。
(一部の猫からはとことん嫌われたが)

>>>

 情報過多への対処は慣れれば簡単だ。
 要は感知する情報をフィルタして、少なくすれば良い。
 範囲を狭めて、扱う情報の重要度を引き上げ、実行動に影響のない情報を、極力切り捨てる。

 たとえば、正面を歩いている人間の体重や重心の傾きを検知する必要はないので、足音や身体の傾きを検知したりしないようにする。
 視界に含まれる人間のうち、衝突の可能性が考えられない対象については、その動線を予測しない。
 側方と後方の足音のうち、速度の緩やかなものや、一定の距離より離れたものについてはその動線を予測しない。
 などなど。

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 おそらく、都会に棲んでいれば、こうした人間の気配には鈍感に、つまり閾値が自然に高くなるものなのだろう。
 満員電車に乗るときに、つくづくそう思う。
 自身にぶつかるこれらひとつひとつが、ひとりひとりの人間であるとして、都度都度「すみません」なんて謝っていたらきりがない(それでも、先日、つい謝ってしまったが)。

 とはいえ僕のような山奥に棲むものの生活範囲でも、多くの人は気配に鈍感だ。
 煌々とした灯りの中や、TVを点けたままで眠れる人を多く知っている。
 人の気配などいわずもがな。それがあると安心するという人までいる始末だ。
 僕は体温にせよ足音にせよ、それが「その人の特定の状態のものである」と認識できるまで(実際に、足音でたいていの人の体格から心理的な状態まで、ある程度は把握できるので)安心したりしない。
 よって僕が過敏である可能性は否定できない。

 きっとこれは相対的な問題なのだ。

 なので彼らの多く(実に、僕より気配を感じさせない人間に僕は出会ったためしがない)(あるいは単に、気配が感じられず、存在に気がつかなかったのかも知れない)は僕をして(気配もないのにいきなりいて驚かせる物騒な人)と思っているかもしれないし、一方の僕は(ここが戦場だったなら、あなた3回は死んでるわ)と思っているかもしれない。

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 最近では、犬や猫でも、人の気配に鈍感な奴を見かける。
 こいつら、ぜったい野生では暮らせないな、どうするものなのかと心配になったりするものの、そうか、これこそが人間の作る社会の、ひとつの具現なのだと直感する。

 一方、そんな人間社会の中にあっても、こちらの姿をかなり遠い場所から、あるいは視認できる以前からきちんと認識している野良猫どもがいることもまた事実であり(もうちょっと近うよれ!)と内心毒づきつつも、距離を置かずにいられない彼らの気持ちもまたよく分かるのである。

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 そういえば、
「私は、ジャングルに放り出されても独りで生きていける」くらいのことをうそぶく恋人が、過去に2人ほどいたが、僕から言わせると、水の濾過もできなければ、蛇除けも蚊除けも知らないような有様だったから、多分、ものの数日で死んでいたと思う。

 そういう僕はというと、ジャングルでは、とてもとてもサバイブできません。