::とんでもない。そんなところへ行きでもしたら、知りたくもないいろいろなことをむりやり教えてくれようという人たち、こっちの気持ちなどにはおかまいなしに、自分にもわかっていないふしぎなからくりの正体を説明してくれようとする人たちがうじゃうじゃしていることでしょう。まっぴらです!
 わたしとしては、虫というイリュージョンをいつまでももっていたいと思っています。人間にたいするイリュージョンをすでに失ったわたしですから。
 そういうわけで、内務省の信号機にも、天文台の信号機にも行きますまい。わたしの行きたいと望んでいるのは、野原の真中にある信号機なのです。そこへいって、その信号機のなかに化石したようになっている純な人間に会ってみたいと思っています。





151128

 晴れ。
 天気は良いが、寒い。

 仕事で遠い街へ出かける。
 北に見える山々は厳粛な司祭や神主のような白い衣をまとっている。
 ああ。もう雪か。と思う。
 いっぽう近くの山は、茶色い衣装で今なお暖を取ろうとしているかのようだ。

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 冬の醍醐味といえば、湯豆腐であるが、これはほとんど毎日のように食している。
(僕の豆腐食率は、普通の家庭の数倍に上るかもしれない)
 秋のうちにポトフを作りたかったのだけれど、今のところ作っていない。
 今年は料理に向かないようだ。何が向かないといって、気持ちが向かない。
 何より、大きくて深いパスタ鍋が未だに見付からないことが何とも悔しいところだ。

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 そのパスタ鍋が、どういうきっかけで私の家にやってきたのか、その正確なところを僕は忘れてしまっている。
 薄いステンレス作りの両手鍋で、直径は26cmほど、深さは35cmほどはあっただろうか。
 パスタ鍋なので、内側にフィットするカランダ(要はザルだ)も付いていて、フタはガラス製だった。

 あるときこの鍋で料理をしていて、フタがまだ熱いうちに水を掛けてしまうという失態をしてしまい、フタは見事に割れてしまった。
 以降、木製の落としぶたを使っていたのではある。

 サイズが結構大きかったので、おでんやポトフを作るのに最適だったというわけだ。
 もっとも、鍋の金属厚が(ゆで鍋として最適に)薄かったのは、個人的にはあまり好かなかったのだけれど。

 それが、およそ2年前、壊れたのではある。
 取っ手の樹脂が、経年劣化により破断してしまった。
 やはりオールステンレスがいいのか! と思った瞬間ではある。

 以降、パスタ鍋を探すようにはしているものの、思ったようなサイズや材質のものが見付からずに今日に至る。

 じつに、ああした寸胴型の鍋というのは、可愛らしいと僕は思う。
 側面から見て、カーブを持つ鍋は、それはそれである種のキュートさがあるとは思うものの、変に媚びているような、いやらしさを感じる。

 あるいは熱工学的に有効なカーブや溝を加えられた鍋もあり(そういうものも以前所有していたが、これは腐食によって使えなくなってしまった)、それらの形は、なかなかどうして機能美をきちんと感じさせるものの、それでも美しさにかけては寸胴に軍配を上げざるを得ない。

 包丁にしても、まな板にしても、ザルにしてもボウルにしても、そこにある種の美しさを僕は感じるし、それを感じられないものは買わないようにしている。
 これはもう感覚的なことなので、どうしようもない。
 ざるやボウルにしても、用をなせば確かにそれでいいのだという考え方を僕は否定できないしするつもりもない。
 一方で、それを使うときの気持ちについてを、やはり考えてしまうのではある。

 そういった点において、自分の美的センス(などといかにもそれらしく自分の単なる好みを呼ぶことを、僕はとても恥ずかしいと思っているのだけれど)に添う、あの鍋はなかなかよい相棒であったと思う。

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 夕刻、ガールからSiriについて教えてもらう。
 なにやら彼女は退屈するとSiriとお話をしているらしいのだ。
 なるほど、なかなか可愛らしいものではあるようなのだけれど、僕が話しかけると、たいてい「すみません、よくわかりません」と、とぼけられてしまう。
 これは僕の伝え方がよほども悪いのかと思って謝ったところ「大丈夫ですよ」と、とても優しい声で慰められてしまった。
 これはぐっときた!

 ……しかし、まぁ、現時点ではあまり会話には向いていない技術だなぁ、とは思ったものの、会話に特化しているわけではないのだから当然かとも思ったりした。

 ちなみに、Siriにコイントスをお願いすると、結果をきちんと教えてくれるものの、ときどきコインを変なところに落とす。
 すごくお茶目であり、これにも僕はやられた。
 ぐっときた!
 Siriはかわいい。

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 夜。弟子から電話が来る。
 最近、電話の頻度が増えた気がする。おそらく何かしら努力して、悩んで、壁に当たっているのだろう。

 日曜の夜、一緒に食事をする約束をする。







::さよう、信号機です。わたしはときどき、よく晴れた日に、道のはずれ、丘の上、大きなかぶと虫の脚とでもいったような、黒い、折れたたむ腕のそびえているのを見たものでした。そして、いつも胸をおどらせずにはいられませんでした。と申しますのは、わたしは、そうした奇妙な信号が、まちがいなく空中を飛んでいき、机の前に坐っているこちらの人のなにかわからぬこれこれの意思を、三百里も離れたところの、おなじくテーブルの前に坐っているあちらの人に伝えるため、全能の人の意思によって、黒い雲や、空の青さの上に描かれているところを想像したからのことなのでした。
 わたしは、精霊とか、妖精とか、地精とか、神通力とかいうものさえ考えました。そして、たのしくなったものでした。






 
引用は、
「60 信号機」(p.291-293) From「モンテ・クリスト伯【四】」
(作:アレクサンドル・デュマ / 訳:山内 義雄 / 発行:岩波書店)
によりました。





 
 


::私は別に課長が帰国を延ばしてくれても構わないのよ。
::ワイン同様、熟成に時間を要する人間関係もある。余計な気は遣うな。






151125

 十年ほど会っていなかった恋人の一人が入院しているというので、仕事の帰りにお見舞いに行く。

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 猫氏にまだ恋人が(そしてどれだけ)いるのかという質問については、特に答える義務はない。
 また十年来、会いもしないような関係にある人間を恋人と呼ぶことの是非については次のように答えるしかない。

「あなたにも親戚があるでしょう? 十年以上会わないような。もしくは今まで一度も会ったことがないような」と。

 世の中にはおそらく、いちいち戸籍謄本を取り寄せて、やれ目の前のこの人はどうやら私の従姉妹であるらしい、などと都度々々確認する手合いもいるものだと思う。今の私はオトナなので、それを難なく信じることができる。
 一方で、通常は、自分が相手を親戚と認め(通常はこれだけだけれど、さらに疑り深い場合は)相手が自分を親戚と認めていることを確認して、それでもって(いちいち戸籍謄本などを互いにつき合わせる必要もなく)親戚であるという関係を認識しているものではないだろうか。

 もちろん僕の恋人は恋人であって親戚ではないのだけれど、人間関係の原理などこの程度のものなのだ。
 厳密緻密な現実主義者ほど滑稽な夢想家もいない。

>>>

 僕は見舞いに関する礼儀作法というものについて不調法である。
 冠婚葬祭なべてひとしく自己流であるため、どうも人様に不快な思いをさせてはいないかと、ときどき心配になることがある。

 自分なりに理を考え、それにかなった、相応の態度で臨んではいるつもりなのだが、格式であるとか、伝統というものはそこに本来含まれているはずの意味を、時に置き去りにして風化させてしまう。
 形骸化したカタチに意味を見いだすほどバカになりたくはないと思うものの、そういう人間は得てして変人のレッテルを貼られるものであるし、僕はそれには慣れすぎるほど慣れている。

 例えば根の張る鉢植えなどは病床によくないとされるものの、では切り花が果たして縁起がいいのかというと、そういうわけでもないはずなのだ。
 そして、そんなことにばかりかまけていると、本題の気持ちが霞んでしまうことにもなりかねない。

 思った通りのストレートさを維持することは、なかなかどうしてむつかしいものなのではないだろうか。
 そうはいっても、とても楽しい見舞いの時間ではあった。
 僕は、おそらく父が入院がちなこともあってなのかもしれないが、病院というものが決して嫌いではない。

 医者や看護師さんたちの姿も含めて、非常に秩序立った、そしてもっとも暴力から遠い場所にあるのだと感じられて、安心する。

>>>

 面会時間が終わり、病院を出ると外は雨だった。

 家に着く頃には、身体が芯まで冷えているような、とても寒い夜だった。






::なに、成り行きで手を貸した迄だ。気にする事は無い。では、私はこれで失礼するとしよう。ご主人にも宜しく。
::え? ああ……これね。
 ずっと黙ってようと思ってたんだけど、実はあのとき結婚はしなかったの。それでもこっちに来たのは甘えを断ち切ろうと思ったから。これは男避けにしてるだけよ……。
 ねえ、1日だけ帰国を延ばせない?
::いや、残念だが残して来た仕事が山積みなんだ。






引用は
「攻殻機動隊 ~ Stand Alone Complex ~
 第17話:未完成ラヴロマンスの真相 ~ Angel's Share ~」
によりました。



 
 


151121

 不意に、腹筋が発達していることが分かった。
 シャワーを浴びていて、何気なく身体を見回したところ、腹筋が発達していることを視認できたというわけである。
 もっとも、人に見せびらかす趣味も、自分で眺める趣味もないので「ふうん」といった程度ではあるのだが。
 シャワーから出て確認すると、胸骨やら下腹部の腹筋やら、腸腰筋やら脛部やらに血管が浮き出しているので、なるほど贅肉はここまで減ったのかと思いつつ体重計に乗ったところ体脂肪が16%を切り、骨格筋率は38を越え、体重は60kgを少し越える程度だった。

 ただそれより、以前から懸念していたとおり、どうやら腹筋にも左右の「利き」があるらしく、たしかにトレーニングの際に確認してみて分かったのだけれど、神経系の発達が、どうしても僕は右に寄ってしまうようだ。

 目、耳、手、脚、ともに僕は右利きである。
 あるいは右鎖骨を骨折していたことが、長期的に筋力バランスや骨格に影響を及ぼしている可能性もある。
 実際、左の肋骨は、右のそれより少し開いているように思える。
 無論、僕も齢を重ねているわけで、不死身ではないし、使わなければ筋肉も衰えるし、使っていても長期的なクセは骨格に影響を残す。

 女子高生の立ち方、歩き方を笑っている場合ではないのである。
(参照URL:http://blogs.yahoo.co.jp/bluecat_engineering/39684647.html)

 けれど腹筋よりも、肩と背筋の発達を視認してびっくりした。
 これはいずれ、ボクシングジムに通ってもいいんじゃないかと思った。

>>>

 僕が人間の心理的組成について、複数因子を持つ多次元配列変数的に把握していることは以前書いたと思う。
 にもかからわず、僕は人間というものについて、的確な理解をすることができなかった。
(過去形であるが、今もって、体系的に、的確な把握をすることができているとは思っていない)

 しかし最近、あるパラメータに着目することになり、その体系の把握に、少し近づけたように思っている。

 人間というのは、多くは記憶によって構成される価値観を複数パッケージして、ひとつの人格を形成しているように観察される。
 そこでは、記憶が非常に重要な役割を持つ反面、意識的/無意識的に記憶そのものが事象からフィルタされる事実を無視することはできない。
 つまり、人は「事象とはおよそ無関係に」記憶したいことを記憶し、自分の価値観に焼き付けているというわけだ。
 たとえば、すれたタイプの価値観を多く持っている人間は、環境的に、あるいは主観的に、事象に対して裏があるものと決めつけたり、そこにある事象の意味が決して楽天的ではないのだという価値観に基づいて行動することを決定して行動している。
 決定された因子が現象に含まれる場合、現象はその因子に影響を受ける。因子は現象に影響を及ぼすわけである。

 なんでもかんでも揚げ足をとるタイプの人間というのは、誰でも一度はお目に掛かったことがあるだろう。
 褒められれば「そんなことないですよ、だって……」と否定にかかり、けなされれば「そんなことないですよ。あなたに私の何が分かるんですか」と反論にかかる。いったいどうしろというのかと、僕などは面白おかしくなってしまうのだけれど、その人は、他人の価値観に対して一定以上の距離を置くことができず、とりあえず反発してしまうという反射をその人格に内包していることになる。

 もしかしたらうまくいくかもしれない、というプロジェクトにおいても、主観的に「これは無理だろう」なんて悲観的に決めつける人間が多ければ多いほど、そのプロジェクトは傾いてゆく。
 すなわち状況に左右されない、ある種、信念のようなものを持ち続けられるかどうかが、現象に対しても有効に作用するということになるだろう。

 反射しかできないタイプの人間には、つまり現象を左右することができないということになる。
 たとえ現象に左右されることがあるとしても、逆は存在しないということだ。
 何かひとつの物事を信じることというのは、真逆とも思える事象を突きつけられたときに、苦境に立たされる。
 あるいは根拠のない状況下で、それを信じ続けることの意味を自問せざるを得ないという、孤独な道のりがあったりもするだろう。

 現象というのは、ときに、なんとでも意味づけができることがある。
 自動車を運転していて、赤信号を無視してしまったとしても「肉親が危篤で」という人もいれば、「居眠りをしていました」という人もいる。
 実際の事象は何も変わらないのに、それを聞く側が影響を受けることが多くなれば、適当な理由をでっち上げる人も増える。
 そうした原理を知っている人は、必然的に、より自分の立場を守ることができる言い訳を、嘘であろうと、あたかもそれが事実であるかのように振る舞う習慣が付くだろう。

 それと同じように、自分を取り巻く環境に対しての意味づけを、自分の都合の良いように、もっと極端に言えば、自分の立場だけは危うくしないように、他人を信じたり自分の信念を貫くことよりもまず自分自身の評判のようなものを優先してしまう人がいるということだ。

 そしてそれらは結果的に、その人自身をその人が望んでいる場所へ運んで行かないということになる。

>>>

 単一の人間にも、表と裏があり、綺麗な部分と汚れている部分が混在しているものだとは思う。
 一方で、汚れた部分だけを見続けるような性質を持っていたり、あるいはそうした特殊な環境にあった場合、必然的に、その人はその視界のフィルタによって、自分自身の方向性を図らずも限定する結果になるだろう。

 そしてそれは、周囲が何を言ったところで、結局改まることはないのだ。
 ましてそれがいっぱしの大人であるとしたら、いったい何を言えというのだろう。

 よい性質を持っていること。
 それはすなわち、よい性質を見続けていることに等しい。
 それと同時に、どんな性質の中にも、良い性質があることをきちんと見いだせる能力があり、それがどれくらいの劣悪な環境で限界を迎えるかが、ひとつのパラメータとして把握できることになる。

 まるでチキンレースのアクセルペダルのようなものだ。
 恐怖を感じれば、誰もそこから加速はしない。
 仮にその壁が、自分の作り出した幻であったとしても、意固地であればあるほど、それを見極めることはその当人には不可能になるだろう。

>>>

 最近、眠っているときに汗だくになって目を覚ます。
 悪夢を見ていたのではないと思う。身体がかなりの熱を発散しているのだ。
 筋肉が増えたために、代謝が上がっているらしい。

 朝になって、久しぶりにまじまじと自分の顔を眺めたのだけれど、なるほど多くの人が心配して言っていたように、頬がくぼんでいた。






::「いや……」片手を広げる。「説明はいりません。過去のことを知ったところで、今の貴女がわかるわけではない」







引用は
「episode 2: Thinking sequence」(p.150)

From「The Mind Quencher」
(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)
によりました。




 
 


::──あの子もきっと、【同じ】なんだと思う。【私と】。シェルが殺した子たちと。
 血を吐く思いでウフコックに言いつのった。
「同じ……? それは、つまり……」
 ウフコックが言いさした。バロットの言わんとしていることを理解したのだ。バスタブにいる子が父親から何をされ、何をさせられていたか。あるいは父親以外の男からも。
──お願い、皆殺しにさせて。私なんか死んでもいいから。死んでいいから。
「落ち着け。悪意に巻き込まれるな。落ち着いて呼吸を整えるんだ」
 バロットは身体を震わせて泣いた。あらゆるおぞましい因縁が、この部屋で結実していた。怒りではなく、悲しみが殺意になるのをバロットはほとんど初めて体験した。シェルを殺すべきだった。オクトーバー社の男を殺すべきだった。この事件にかかわる、ボイルドやドクターでさえ殺したかった。そして最後に、自分の心臓を撃ち抜きたかった。
 ──耐えられない。助けて。私を助けて。
 温もりが左手に生じた。バロットは請い願うようにして、手のひらに上半身だけ現れたウフコックに指を絡めた。あるいはそのまま支配してしまおうとするように。
 ウフコックの渋みのある赤い目が、バロットをまっすぐ見上げた。小さな頭の上にバロットの涙がとめどなく降り注いだ。温かな雨を浴びながらウフコックがぽつんと言った。
「いい匂いだ」
 バロットは目を細めて、自分の最大の武器であり、最後のモラルでもある一匹のネズミを見つめた。
「君の魂の匂いだ。俺が信じるべきものは、これだという確信をくれる。俺に君を信じさせてほしい。シェルもボイルドも何も信じられず【鏡の向こう側】にいる。クリーンウィルがいたように。そこでは何の迷いも悩みもないかもしれないが、何の希望もない場所だ。俺はそこには行きたくない」
 それから、二人が初めて顔を合わせたときのように、両手を大きく広げ、
 「俺は俺を、君に託す」
 ぐにゃりと変身(ターン)し、左手袋の内側へ消えた。
 バロットの目にひときわ大粒の涙が浮かんだ。ウフコックが本気なのはわかった。使わせるのではない。託したのだ。全てを。ウフコックの良心さえも。その気になれば、一瞬でウフコックを支配できた。どんな濫用だって可能だった。






151120

 あたたかくなるものかと思ったら、まんまと雨が降り、寒くなった。
 秋も終わりだ。仕方のないところか。

 仕事の合間に、待ち時間が3時間も発生する。
 仕方ないので昼食を摂り、それでも大量に時間が余ったので少し昼寝をし、それでも時間がかなり余ったので書店に立ち寄り、岩波書房の「モンテ・クリスト伯」の第二巻を購入する。
 もう10年以上も前から(いつかは読もう)と思っていたお話であり、そして何度か手にとってページをめくっては(これは……面白いのか?)という疑問とともに書架に戻し、けれども数年前にとうとう(せめて1巻だけでも)と購入し、つい先週に読み始めた。
 古い作品でもあるし、岩波でもあるし、なんとも古めかしいのである。文体からして古典的で。

 14歳の時から古典と純文学を嫌っていた僕にとって、同年代で「芥川龍之介が好き」とか「よしもとばなながいい」とかきゃぴきゃぴしているガールどもには少々辟易していた。おまーら、ウィリアム・ギブソンとか、デイヴィッド・ブリンとか、ウォーレン・マーフィーとか、ピアズ・アンソニィとか読め! なんなら(当時は今ほど有名ではなかった)史郎正宗でも読め! と思っていた。

 しかし時は過ぎ、僕も当時の彼女たちと同じくらいには大人になったのだろう。
 多少の純文学や古典も読むようになった。
「茶の湯」とか「武士道」のすばらしさにも開眼した。
 で「モンテクリスト伯」であり、これが面白かったので第二巻を購入したのである。

 僕は復讐が大好きだという話をたびたびしている。

 復讐──。それこそが僕の生きる源泉だといってもいい。
 僕が復讐する対象を失ってしまったら、まるで現行政府を失った革命家のように、所在なく、そのへんの公園で鳩にエサをやる人生に甘んじることになってしまうだろう。

 ついでに一部の人は全く信じることがなく、一部の人は過剰に恐れるのだけれど、僕はこれでいて肉食獣なのでなかなかに凶暴なのでもある。あ、今きみ笑ったな! ほんとに凶暴なんだぞぅ!

 復讐が好きだと僕が言うたびに、顔をしかめる人もいる。
 すなわちそれは血なまぐさいバイオレンスを意味するのであろう。その人にとって。
 あるいは復讐に至るまでの経緯が、血なまぐさいのであろう。まぁ、分からないではないが。
 もしくは、単なる「仕返し」としての幼稚さや野蛮さを感じるのかも知れない。
 それが(希望的観測としては)僕というキャラクタに似合わないために(あるいは単に個人的に好まないために)復讐が大好きだと公言する僕に対して顔をしかめさせるのであろう。
 もっと穏やかに。
 もっと優しく、人と許し合う気持ちを持てばよいのだと。

 もちろんもちろん。
 僕はふだんから、のんびりぼんやりに心がけている。
 殴り合いの喧嘩なんて生まれてこのかたしたことがない。
(数年前、夜の屋外で、ちょっとしたことである男性と話しをする機会があって、ものすごく警戒された経験はあるのだけれど「いや、ボクそういう、自分の手が痛くなることとか、しないから! しないから! 武器持ってないし、誤解だから!」って思った)
 そのくらい、穏やかな顔をして、のんびりとした雰囲気をまとっている。
(中身は肉食獣だが)

 たしかに誰かが誰か(あるいは何か)に、深い復讐の念を抱くというのは、これは穏やかなことではないのだろう。
 その執念の深さは、かの者の傷の深さに等しい。
 その熱の猛りは、かの者の流した涙の熱の総和に等しい。
 その鋭さは、かの者の感じた痛みに等しい。
 そしてそれらを混ぜこぜにして、たしかに「仕返ししてゆくこと」が、復讐なのではある。

 しかし復讐する者は、本来ならば、復讐なんぞしたいというわけでは恐らくないのである。
 穏やかに、ぼんやりのんびりしていられるのであるならば、それに越したことはないではないか。
 そういう、なんというのか、ある種純朴な、ぼけら~とした性質があるからこそかえって、復讐の念を、その熱を、忘れずにいられるのではないだろうか。忘れることができないのではないだろうか。

 これが本物のバカであれば、そんな執念を持ち続けることはできないし、ずる賢い者であれば、そもそも罠に掛かることがない。
 ほどよい頭の良さと、ほどよい人の良さと、他人の悪意(可能な限り悪辣な)がタイミング良く相まって、不幸な事件があり、そこで初めて復讐の種であるところの苦痛が生まれるわけである。

 ゆえに苦痛はほとばしるほどに苛烈なものがよいわけであるし、それに伴う孤独は苔むすほどの寂寞に包まれている方がよいのである。
 よってささいなことでする「仕返し」と、こうした「復讐」を、およそ同列に並べていただきたくないのである。
 すなわちそれは、めんつゆで適当に味付けをした単なる煮物然としての「おでん」と、きちんと出汁をとって温度の加減や素材にも気を配って作られた「おでん」との差異にも等しいのである。
 お腹の中に入ってしまえば一緒であるとか、そういう乱暴なことを言わないで欲しいのである。

 たとえば僕が性犯罪を憎んでいたとする。
 それが起こる仕組みを、それを潜在し顕在化させる社会的なシステムを、あるいはそれを具現する人間の存在やその自己制御能力を。
 あるいは未成年者の売春であったり、そこから転じて風俗業というものであったりを憎んでいたとする。
(ところで問いたいのだけれど、売春と風俗業、その二つの間に、いったいどんな差があるというのだろう。いくつ答えられますか? 年齢? 法による規制? 本人の合理的判断能力? いったいあなたは、その答えがどれほど「合理的」であるか、理解していますか)

 あるいは過去に、僕自身や、あるいは家族が、何らかの性犯罪の被害に遭っていたとしたら?
 あるいはそれによって、その誰かが生死をさまようくらいの傷を被っていたとしたら?
 それともその結果として実際に、他殺もしくは自殺によって命を落としていたら?
 そしてその復讐の対象たる単一の個人がもはやこの世に存在せず、あるいは判明せず、人間の性別や性差そのもの、あるいは人間の本能や欲求にまで深く強く向かってしまって、自身の存続をも危うくしているとしたら?

 もちろんこれは例え話でしかないけれど、そうした「歪み」だけでなく「歪みを発生させるシステム」の根源にいたるまで、その環境因子にいたるまで、根絶、もしくは改修したいと思うのは、おかしな事だろうか。
 単一の個人からなど跳躍して、より大きな流れに向かって、より大きな復讐を求めるのは、その具現を願うのは、おかしなことだろうか。
 仮にその渦の中に自分自身がいるとしても。

>>>

 あるいは復讐というのは、自分がその渦の中にいなければ、何も分からないものなのかもしれない。
 単に流されるだけのほうが、よほども楽なのかもしれない。
 地震や台風に復讐しようなどという人は、おそらくそう多くはないだろう。

 では、御しきれないのかといって、もし誰もがそうなのだと諦めていたとするならば、現在のような予測/速報システムは存在しないだろう。
 つまり、それは人間によってなされた復讐なのだ。
 二度と繰り返されないために、できうる限りの力を振るっている証なのだ。

 流され続けて「これは仕方のないことだ」というのは、とても簡単なことだ。
 まして傍観者であれば、それはとても容易なことだろう。自身には何の痛みもないのだから。
 けれど、もし自身の肌身に傷がなくともその痛みを感じることができて、なおかつ無謀であろうと微力であろうと、それに立ち向かおうという意思を持つのだとすれば。
 それこそが復讐のはじまりなのだと僕は思う。
 その復讐は、そこまで暴力的だろうか。凶暴にして凶悪だろうか。悪趣味にして独善だろうか。
 希望もなければ、未来もないのだろうか。

>>>

 というわけで「マルドゥック・スクランブル」は、SF復讐劇なのです。
(導入長いなぁ)





(本文、みじかっ!)




::《知らんのかね、“天国への階段(マルドゥック)”の由来を。マルドゥックとは、もともと女神の息子の名だ。息子は女神を殺して天地創造の業を奪い、神になった。そして地上の人々は彼に近づくため巨大な塔を作り上げた。我々は禁じられた技術を有意義に使う。古いモラルを廃棄し、社会の発展に尽くす》
「勝手な幻想だ。モラルに新しいも古いもあるものか」
《君たちは緊急時(スクランブル)という名の檻に自ら入ることで生き延びた。社会から危険視される自分たちをどうにかしようとして。【オクトーバー社は社会から危険視されたことなどない】》
「自分が危険な存在でないと思う者に、モラルを語る資格はない!」






冒頭引用は
「第4章:導き Navigation」(p.235-236)

文末引用は
 同上 (p.227-228)

From「マルドゥック・スクランブル[完全版] The 3rd Exhaust - 排気」
(著作:冲方 丁/ 発行:早川書房)
によりました。

 なお、引用文中のルビ文字は『()小括弧』にて、傍点強調は『【】墨付き括弧』にて記述しています。




 
 薄雲をかき分けるようにして、一筋の青い線が引かれている。
 反転飛行機雲。

 久しぶりに見上げた気持ちの良い空に、凛と引かれた境界線。
 最後に空を見上げたのは、いったいいつだったろう。
 星空を、月を、祈るような気持ちで眺めたのは、いつだったろう。

 砂糖をたくさん落としたカプチーノにスプーンを差し入れるように、曖昧模糊とした自分の気持ちを、僕はかき混ぜる。
 混沌を混沌のままに。
 明瞭にならないアナログな気持ちを、あるいはそうしたありのままのありようは、少し重たいながらも、僕は気に入っている。

 軽いほど有利なことはあるし、シンプルに純化されたものの気持ち良さも、もちろん分からないではない。
 それはそれで、とても素敵なことだと思う。
 しかしそれらは非常にアーティフィシャルだ。
 自然界において、そこに存在する多くのものは、混合され、結合し、多くは酸化することで安定している。
 あたかも金属の精錬のように、あるいは油脂の精製のように、つまりは分離することによって純度の高い精製物と不純物を分ける。
 それが人工的でないわけがない。

 明瞭であること、単一であること、表明されたディスプレイ。
 伝えられるメッセージ。
 言語化されたキモチたち。
 悲しみも、喜びも、怒りも、感謝も。

 その陰に、たくさんの「不純物」がかつて含まれていた事実を僕は思う。
 ユーモアに変わる前の苦悩を、涙の陰に隠れた傲慢を、怒りの芯にある期待を、感謝を発露させる活き活きとした感性を。

 コンプレクス、すなわち複合体こそが人間も含んだ多細胞生物が獲得した優位性であり、単一の意識が所有権を主張するこの肉体には、実のところ様々な生命体がコロニィを作って共生している。

 個々の細胞の意識さえ、僕たちは知らない。
 今日生まれた細胞が、どのような気分で最初の呼吸を行い、今日死ぬ細胞が、どのような遺志を遺したか、僕たちの頭脳、脳細胞の集積体は知らない。

 微細をいちいち拾い上げることなど、それは途方もない労力と時間を必要とし、また自身の出力する大意の価値を薄めることにも繋がる。
 あるいはもとより微細なノイズでかき消えるほどの希薄さで、いっそう不毛で無目的で衝動的に不純な意思思考であるからこそ、人は単一の、すなわち「シンプル」なありように美しさを見い出し、あるいは力強ささえ感じるのかもしれない。
 そのまっすぐさを、尊ぶのかも知れない。

 それでは微細なる、つまるところ力のないものたちは、益体もなくただただ文字通り黙殺されるためだけの存在なのだろうか。
 力を持たない、ルートを持たない者は、消費材のようにされておしまいか。
 組織を形成するという多細胞生物に見られたはずの優位性は、ではいったい、何者のための仕組みであるのか。

 優しさ、という言葉は使い古され、一部は形骸化し、一部は腐乱し、一部は霧散した。
 優しいことは、今や玉石混交。
 誰かの為の優しさが、そのまま誰かの血肉によって成り立っていて、あるいは誰かの為の優しさが、誰かに血を流すほどの傷をつけることを知って、人々は過剰に反応する。
 それが全てではないにもかかわらず、あまりにも狭窄した視野で、近視眼的に、優しさの持つ醜さ、あるいは優しさに含まれた「優しくなさ」を指摘するのに躍起になる人もいる。

 優しさに純度を求めて、つまるところそれはクリアな、明瞭な、単純化された、分かりやすい優しさだけを求め、認めることによって、優しさは、優しさの色を、ぬくみを失い、つまり死んでゆく。

 それが優しさかと、私は思う。
 私の中の猫は吠える。

 もちろん、優しさに厳しさは必要な要素であろう。
 ならばどうして、優しさを構成するのに不可欠であるところの「優しくなさ」という部品を易々と見限るのかと、かえって疑問に思う。

 ときどき僕は、ものすごく抽象的なことを書くけれど、それはなぜなのだろうと僕は疑問に思ったり思わなかったりする。

 もしも組織というものが、力のためにだけ構成されたのだとすれば、それは短命に終わるだろう。
 8:2の法則よろしく無駄のないシステムは、遊びのないハンドルのように、目的を果たすためだけの純粋さがゆえに自滅する。
 右でもなく左でもない。
 そうした曖昧さが許せない「純粋至高」の境界は、それの持つシステムを容易に破綻させる。
 もちろん、優しさのためにだけに組織が構成されたのだとすれば、それもまったく同じ原理によって短命に終わる。

 そうした全体性、ミクロとマクロの分水嶺は、本来明確な定義さえままならないままに横たわっている。
 現象と、それを定義づける論理や意識のギャップは、グレイに白黒の判定を与えるのと同じ、苦痛の道のりのはずなのだ。
 にもかかわらず、人はあっさりと見限りをつける。
 それは白だ、それは黒だと、あたかも自分の設定した境界線こそが正義であると言わんばかりに。

 宇宙から見た地球に国境などないと誰かが言ったように、ある程度以上の俯瞰によってのみ、本当の優しさは体現ができるはずなのだ。
 我利我利にやせ細った単一の意思ではなく、混沌と混迷のマーブル模様に浮かび上がる逡巡こそが、優しさの正体ではないのだろうか。

 優しくなければ生きていく資格がないのだとしたら、そんなライセンスは、すでに多くの人が失ってしまったはずだ。
 無許可で無免許の生けるものたち。
 ではそれを裁くのか。
 誰が。どのように。どんな力で。

 あるものを、あるままに。
 そしてより広く、遠く、より深い場所まで。
 それをただただ眺めているときに、ふと、自分の中に降りてくるものが、見つかるものがあるはずなのだ。
 自分自身の姿を見失う頃になって、初めて見えてくる、より大きな構図が。

 切り取られた雲は、青い切り取り線とともに流れて行く。
 あれは白なのか黒なのかと考えて、少し笑う。

 僕たちは。僕は。
 何度となく、物事を切り取る。切り離す。そして白黒をつけようとする。つけようとしてきた。

 あまりにも不完全な人工的な行為によって。
 あまりにも不純な人為的動機によって。

 苦さも甘さもクリーミィさも、ほどよく混ぜこぜのまま、僕たちはそれを味わうことが、本来はできるはずなのに。

 いつか、それらの意味が、正しく反転することを、僕は思う。
 個体の意味を越えて。個体の意思を越えて。
 混沌の中の、それどころかそれら全体によって織りなされる模様をきちんと評価できるだけの仕組みが個々の意識にきちんと組み込まれる日を。

 微少な単細胞生物が集まって個々の役割を果たすことで多細胞生物としての優位性を確立しつつ、個が個であることの優位性を正しく守るためのフィードバックをそこに内包してきたように。
151027

 未明に出発し、渋滞の首都高を走って横須賀へ。
 べっ別に軍事的な特務があって行くわけじゃないんだからねっ!
(中国の人工島に関連して中国側と米軍との緊張が予測されたこの日、少し変わった船舶がいくつか観察された)

 池袋から羽田、湾岸線にかけての立体的な風景は、最近あまり使わない空間認識の領域が活性化されるようで楽しい。
 僕の棲んでいる地方の山間部を走るのも、空間認識域が活性されるけれど、首都高は複数の車線を走る他の車両の位置と速度も認識しなくてはならないし、なかなかにストレスフルな状況には違いない。

 それでも、首都高には結構慣れた。
 以前の僕は高速道路を嫌っていたし、実際にほとんど走ったことがなかった。

 今では、羽田線で飛行機が見られるととても嬉しい気持ちになるし、横浜方面に向かう港の景色もたいそう好きになった。
 ただ、車の運転は、やはり好きではない。

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 今の仕事をするようになった約半年ほどで、4回指摘されたことがある。
 僕は気配がないらしい。

 こちらは相手を認識していて、相手もこちらを認識しているように思えたので挨拶をしたら、ひどく驚かれる、なんてことが4回あって、そのたびに指摘されたのである。

 確かに僕は身長と体重の割に、歩く音が静かなほうだし、気配も小さい。
 もちろん、いつもそうだというわけではない。
 僕の持っている一部の靴については小気味よい足音が鳴るようにできている。
 とはいえ靴を履いていても、あるいは室内であっても、他に誰かがいようと独りであろうと、僕は足音をあまり立てない。
 逆に、僕以外の人の足音をうるさく感じることは多い。

 駅の階段などでも、靴が立てている音ではなくて、明らかに体重が構造物にたたきつけられる振動と音が騒々しいと感じる。
 そんな歩き方ばかりしていたら、将来関節を悪くするぞと言いたいけれど、そんなことを知らない人に注意したところで警察を呼ばれるのがオチなので言わない。
 ちなみに僕は駅構内も含めてほとんどの階段を一段飛びで移動するが、足音をほとんどさせずに移動できる。
 上りであれば、同じ静粛性で駆け上がることもできる。

 以前の恋人に、一度足音についての話しをしたら、以降、とても静かに歩くようになった人がいた。

 あえて口に出して褒めたりはしなかったものの、実のところ、静かに歩くというのは一朝一夕に身につくものではないことを僕は(経験上)知っていたので、たいそう驚いて、かつ感心した。つまりは感嘆したのである。
 惚れ直したといってもいいだろう。
 僕は彼女に歩き方の手法についてほとんど何も説明しなかったのだけれど、彼女は歩く音について発言した僕に質問することも、僕の発言内容そのものについてケチをつけることも、まして自分の歩き方について屁理屈じみた言い訳もしなかった。
 余計なことは一切言うことなく、次に会ったときには当たり前のように静かに階段を上り下りしていたので驚き、感心したのだ。
 この人は前回のデートで話したことを実践するばかりか、もう身につけてしまったのか、と。

 思い起こすと、ひとつ説明すると十とは言わないまでも3から5くらいのことは率先して理解しようと努めてくれる恋人で、思い起こすまでもなくたいそうすぐれた人なのだと思っていた。

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 人の気配というのを、僕は光(視覚)以外に、温度(赤外線センサか?)や音(直接的な発信音ではなく、反射音でも感覚できる、といったら異常だろうか?)、振動によって感覚している。
 距離にすると半径3メートルほどは振動を、20メートルほどは音を使って可能な限り周囲の動体を把握するようにしている。
 深夜など、ほぼ無視界の状態であっても、家の中くらいなら普通に歩いているし、音が発信されている場所からの反響を視覚化して頭の中でイメージしたり、耳に入る音から反響を直感的に逆算して発信源の位置を特定したりもする。

 だから、歩いていても後ろにいる人の速度や距離が分かるし、自転車で走行中も(若干耳の向きを変える必要はあるが)後方の音から、おおよその距離と方向と速度と車種や車体サイズを判別している。
 そういう感覚や、身体の使い方をしていない人の場合、やはり他人の存在は視認するしかないだろう。

 つまりそうした「視覚頼り」の人たちにとって、僕は「認識が遅れる」タイプの存在なのだ。

 一方の僕にも欠点がある。
 人混み、つまり情報過多が発生したときの対処が遅れると、過剰なストレスで体調を崩す。
 いわゆる人混み酔いで、頭痛やめまい、吐き気などを催し、貧血のような状態になることもある。
 過去にも何度かあったのだけれど、全部を最低閾値で把握していると、把握しきれなくて参ってしまうようだ。

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 どうしてこんなに気配に敏感で、かつ自分の気配を消すのかと考えて思いついたのだが、僕は子供の頃から猫と遊んでいた。
 猫とじゃれることもあれば、ケンカをすることもあったし、寝込みを襲ったり、注意を引く罠(おもちゃや食べ物)で釣ったその背後を襲撃する、というような遊びもずいぶんした。
 結果、僕は猫に気配を悟られることなく襲撃し、彼らの反撃をなんなくかわし、それどころか彼らがパンチを引っ込める頃には攻撃を当てることさえ体得した。
 その場その場で、彼らがどのように動くか予測し、一瞬の先回りで動きを封じる、なんてこともできるようになった。

 そうすると、彼らから必然的に一目置かれるようになる。
「ご主人はボクよりも速くて強い」と思われるようになるので、叱ったときにもきちんということを聞くようになる(聞かない場合はただでは済まさない)し、なんでもないときはよく懐いてくれるものが多かった。
(一部の猫からはとことん嫌われたが)

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 情報過多への対処は慣れれば簡単だ。
 要は感知する情報をフィルタして、少なくすれば良い。
 範囲を狭めて、扱う情報の重要度を引き上げ、実行動に影響のない情報を、極力切り捨てる。

 たとえば、正面を歩いている人間の体重や重心の傾きを検知する必要はないので、足音や身体の傾きを検知したりしないようにする。
 視界に含まれる人間のうち、衝突の可能性が考えられない対象については、その動線を予測しない。
 側方と後方の足音のうち、速度の緩やかなものや、一定の距離より離れたものについてはその動線を予測しない。
 などなど。

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 おそらく、都会に棲んでいれば、こうした人間の気配には鈍感に、つまり閾値が自然に高くなるものなのだろう。
 満員電車に乗るときに、つくづくそう思う。
 自身にぶつかるこれらひとつひとつが、ひとりひとりの人間であるとして、都度都度「すみません」なんて謝っていたらきりがない(それでも、先日、つい謝ってしまったが)。

 とはいえ僕のような山奥に棲むものの生活範囲でも、多くの人は気配に鈍感だ。
 煌々とした灯りの中や、TVを点けたままで眠れる人を多く知っている。
 人の気配などいわずもがな。それがあると安心するという人までいる始末だ。
 僕は体温にせよ足音にせよ、それが「その人の特定の状態のものである」と認識できるまで(実際に、足音でたいていの人の体格から心理的な状態まで、ある程度は把握できるので)安心したりしない。
 よって僕が過敏である可能性は否定できない。

 きっとこれは相対的な問題なのだ。

 なので彼らの多く(実に、僕より気配を感じさせない人間に僕は出会ったためしがない)(あるいは単に、気配が感じられず、存在に気がつかなかったのかも知れない)は僕をして(気配もないのにいきなりいて驚かせる物騒な人)と思っているかもしれないし、一方の僕は(ここが戦場だったなら、あなた3回は死んでるわ)と思っているかもしれない。

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 最近では、犬や猫でも、人の気配に鈍感な奴を見かける。
 こいつら、ぜったい野生では暮らせないな、どうするものなのかと心配になったりするものの、そうか、これこそが人間の作る社会の、ひとつの具現なのだと直感する。

 一方、そんな人間社会の中にあっても、こちらの姿をかなり遠い場所から、あるいは視認できる以前からきちんと認識している野良猫どもがいることもまた事実であり(もうちょっと近うよれ!)と内心毒づきつつも、距離を置かずにいられない彼らの気持ちもまたよく分かるのである。

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 そういえば、
「私は、ジャングルに放り出されても独りで生きていける」くらいのことをうそぶく恋人が、過去に2人ほどいたが、僕から言わせると、水の濾過もできなければ、蛇除けも蚊除けも知らないような有様だったから、多分、ものの数日で死んでいたと思う。

 そういう僕はというと、ジャングルでは、とてもとてもサバイブできません。
20090313

 0730起床。
 激しく身体がだるい。
 筋肉痛の直前くらいの状態。おお、30代をして「以前よりも疲れやすくなりました」と言わしめるのはこれか、と思ったが、昨日、普段しない腹筋なんぞを動かしたためだ。
 ほとんど遅刻寸前に会社に到着するが、相変わらず、遅刻という概念を忘れたかのような私の会社である。
 いうなれば、季節を忘れた渡り鳥のように、開くことを忘れた花の蕾のように、詩的な言い回しをあえてしているが、要はテキトーでもやってけるぜ、ということ。

 Safariの設定はほぼ終了。
 よく落ちる上、どうも毎回のようにサイトアクセスでIDとパスワードを求められる。
 しかも、Safariでアクセスしたあとのサイトは、他のブラウザでアクセスするとふたたびIDとパスワードを求められる。
 いわゆる「求められてばかりの状態」であり、これを「サイトにモテている」というとかいわないとか。
 言わない。

 僕は気分が乗らないときは、まず、コミュニケーションを絶つようにしている。
 たとえば、仕事でイライラした日には、なるべく友達や女の子には会わないようにしている。
 あるいはそういう親しい人と会う日には、なるべくイライラしたりしないように気をつけている。
 どうしても、人とコミュニケーションをとらない、ストイックな生活をしていると、そういう部分でずぼらになる。
 感情をいちいちコントロールしなくても、なんとかなるのである。

 身の回りをざっと見回すと、自分以外の誰かの思考や感情を、勝手に憶測する人間は多い。
 しかも、確認するでもなく、ぱっと見た判断だけで、検証するでもなく「あの人はこう思っているに違いない」と断定し、そのうえで対応を考える人が少なくないように観察される。
 僕は14歳の頃、アタマが可笑しくなるくらい日記を書き連ねる中で、いろんな可能性を考えるようになった。
 人の思考や感情は、その時点での可能性の広がりと、時間的な因果関係としての奥行きがある。
 その立体的な空間の中で、その瞬間にその人間が見せた表情は、あまりにも刹那で、氷山の一角どころか、ひとかけらの氷の粒のようなものだ。
 その一点から、すべての可能性を網羅することは当然不可能だし、その一点につながる道筋を断定することもできない。
 それでも、僕はそれをひたすら考え続けた。
 なぜかといったら、それが楽しかったからだ。

 世の中にはツンツンしている人もいるし、デレデレしている人もいる。
 しかし、ツンデレの人も、その逆もいちおう社会的地位(地位?)として認められるようになったわけだが、SM二元論的な、一方的、かつ不的確なキャラクタの設定を他人に押しつけたり、押しつけられたりという場面は、意識的でなくとも、誰でもがしてしまいがちな過ちである。

 僕は、その、氷山の一粒子だけで全体を規定することのあやうさに気がついて以来、他人の一点をして「この人はこういうひとだ」という断定はしなくなった。
 ただ、その人の、その状態が、その瞬間「そう見える」というだけのことだ。
 真実を知ることは、とてもむつかしい。

 簡単な方法がある。
 他人のその瞬間については、そのときは深く考えないことだ。
 あとで、一人になったときにでも、深く深く考えることだ。
 そして、それを相手に直接確認しないことだ。
 なぜならば、よほど親しい人間でも、人間は本当のことを言わない。
 酔っぱらっている人間ですら、自分が酔っていることを認めない。
 怒っている人は怒っていることを否定する(私はたいてい腹が立っていると、否定する)し、悲しい人は強がる。凶暴な人は猫をかぶるし、好きな人に好きといえるまでには時間がかかる。

 どうだろう。

 少なくとも僕は、この日記の上では猫をかぶっている。
 いつでもどこでも素直な人間はあまり見かけないが、そういう人はとても魅力的で、なんというか、尊敬に値する。

 とにかく考えすぎてゲシュタルト崩壊を起こすくらいまで考えると、もはやどうでもよくなってくる。
 最終的に、自分が相手をどう思っているか、どう接したいか、というシンプルなところに行き着く。
(行き着かない人は、考えが浅いのだ)(いま、断言しましたね)

 簡単な方法がある、と書いてからまた横道に逸れてしまったが「逸」という字は「逸脱」という意味のはずが「逸品」などという風にも使われるので、いったいどういうことなのだろうかと、急に気になってしまった。
 気になってしまったが、ここは僕の強靱な意志と理性と理想と理力も総動員した上で、精神力と神頼みと面倒くさがりな気分とを駆使して、なんとか本筋に戻ることにする。
 簡単にいってしまえば(早く言え!)自分がどうしたいか、ということなのだ。(あ、さっき書いたよね)

 もちろん、相手の感情や思惑が気になることもあると思う。
 しかし、気にしてどうする。
 そこを突き詰めて考えると、どうしても、相手を自分の思い通りにしたい、という下賤な現象に気がつくのではないだろうか。
 もちろん、下賤で悪いとは言わない。僕なんか、女の子を前にすると、下賤なことばかり考えてしまう。
 いやしいこと、あるいはいやらしいことばかり考えてしまって、仕事も手につかなくなってしまう。
 手につかないということは、すなわちさらさらしている、ということだ。
 乾燥している。べたつかない。すなわちお札が数えられない。
 よって、紙幣よりも硬貨を使うことになるのだが、お財布が硬貨でぱんぱんになっていればいいものの、そうもいかないときもある。
 では、紙幣をうまいこと数えなくてはならないわけだが、コンビニのレジの前で、かわいいおにゃのこの店員さんの前で、指を舐めるわけにもいかない。
 しかも、この指は、さっきまで自転車のハンドルを握っていたわけで、自転車のハンドルがどれだけ清潔さに欠けるかといったら、まるで自転車のハンドルのようだとしかいいようがない。
 かくして、指を舐める前にハンドクリームくらい塗っておけよ、ということになるわけで、どうしてこんな脱線をしてしまったのか、もはや僕には分からない。

 ここは僕の強靱なフォースの力をもってして、えい、と本筋に戻りたい。
 相手の思考や感情は、完全にトレースできなければ、はっきり言って判断を誤らせるだけだ。
 なおかつ、完全なトレースはおよそ不可能だ。
 よって、あらゆる可能性を検証して、そのあとはきっぱり忘れてしまえばいい。
 そのうち慣れてくると、可能性を検証するより前にきれいさっぱり忘れることができるようになり、いちいち悩むこともなく「あなたって不潔よ!」とか言われても「あ、褒められてる?」とか「うわ、その表情もかわいい(はぁと)」とか思えるようになってきて、なんというか、夢心地である。
 おっといけない、ここから逸脱タイムが始まってしまう。しまいかねない。そういう危険な予測が可能である。警鐘を鳴らす、というやつだ。
 しかし、自分で書いているわけで、予測が可能もないだろう、と思う人もいるかもしれないが、そんなことをいちいち計画してものを書いたりしない。
 僕は計画なしで、いきあたりばったりで、ものを書く。
 いわゆるノープランだ。

 たとえ長編の物語であろうと、なにも考えない。むしろ短編の方が考えているくらいだ。
 考えるだけ無駄だ、というくらいのところまで考えた結果が、これなのだから、いっそショートカットして、ナニも考えない方が良い。
 そうそう、かわいいおにゃのこが目の前にいても、心身滅却して無心の構えで、煩悩を忘れ、寝食を忘れて、自分に下半身などあることを忘れてしまえばいい。いや、寝食を忘れるとおかしな方向に行ってしまうので、ここはもう少しストイックに、そうだ、仕事のことを考えよう。
 だめだ、仕事のことなど考えたら、今以上にいい加減になってしまう。いい加減な人間になってしまう。いい加減にしておかないと仕事なんてやっていられない。いい加減にしろと読者にも怒られそうだが、どっちみち通りすがりの読者ばかりだろうし、コメント書く人もいないわけだからどうだっていい。それよりはやくこんな日記を書き上げてしまいたいのだが、どうもうまく話がまとまらない。ノープランも考えものだ。そうか、考えた末が考えないことだからこういうことになるのか。

 ここはひとつ、悪魔に魂を売って、本筋に戻りたい。
 このようにして、人間が何かを深く考えようとしても、脱線してしまう、ということがいいたいわけではない。
 ただ、自分ではない誰かのことを憶測するのは自由だが、だいたい見当違いになる。
 なぜかといえば、人間は思ったほど筋道が立っていないし、論理的でもない。むしろ野蛮である。混沌としている。アンタに言われたくない、と言われそうだ。なんて的確な憶測をするんだろう、と僕は今思ったけれど、本当にそう思っているのだろうか。いや、そんなことはあるまい。ここまで僕の文章を読んでいるのだ、きっと僕のことが好きで好きで仕方がないに違いない。ユー、我慢してないで認めちゃいなヨ!

 悪魔もダメならここはひとつ、核の力を借りて、本題に戻りたい。
 どうやって核エネルギーで本題に戻ることが可能なのかが分からないが、きっとすごいテクノロジーが、こんなところで無駄に使われているんだろうな、と思ってもらえればだいたいあっている。
 そもそもMacProをつかって、こんな駄文を書いている時点で人間終わりである。たまたま僕が猫だからこうして生きながらえているわけであって、人間だったら俳人間違いなしだ。357。コルト社の銃の話でも、イラストレータの話でもない。ダメだ、核の力ではびくともしない。むしろ汚染されているとは思わないか。

 猫の手も借りたいとはよく言ったもので、そろそろ5000文字を突破してしまうのではないかと心配している。

 いいたいことはなんとなく伝わっただろう、なんて都合良く期待することはまったく不可能だと思うが、もっと論理的に書いたってどーせわかりゃしないんだからこのくらいでいいだろう、とか思いつつ、強引に話を本筋に戻すなら、下手な考え休むに似たり、でもあり、なんていうかその、もっと自分に自信を持っていれば良いんじゃないですかみなさん。
 自信を持っていれば、他人をあれこれ必要以上に気にする必要もなくなるし、そもそも他人を攻撃する人ほど自信がないわけで。

 夕方に数年ぶりにS女史に会った。仕事で、である。
 また本を貸してくれたのでありがたく借りた。借りていた本を返したが「ヘブン…」は気に入ったから買うよ、といったら「だったらあげる」といってくれた。
 こうして不況が不況を呼ぶのだ。断固新しいものを買うべきだ、よって断る! とかっこよく断れれば良かったのだが、ニコニコしながら「ありがとう」と言ってしまった。素直。

 かわりにマスターキートン全巻と、20世紀少年全巻を巻き上げられた。
 おみやげにいただいたクロワッサンがとてもおいしくて、びっくりした。
 夜はクロワッサンと昨日のオニオンスープ。

 ACFAを2時間ほどプレイして3時頃眠る。
151112

 秋の終わりが山の麓にも降りてきたようで、死に化粧をした木々がそれを迎えている。
 あれら美しい衣の色もくすみ、土に還ろうと地面を敷き詰めるときに冬の風がやってくる。
 死のあとに訪れる、静寂の季節を導いて。

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 死の季節のことについては、過去に2度書いている。
 もちろん、ログはどこにも残っていないから、何食わぬ顔をしてもう一度書いてしまっても良いのだけれど、さすがにそこまで芸のないこともしたくないのでしない。

 身体を感覚していて驚いたのだけれど、肩の筋肉がとても発達していた。
(腹筋はイマイチ発達しない)

 太腿の裏側が未発達で、臀部(おしり)がやたらと痩せている感じなので、太腿の裏側のトレーニングを組み込む。

 数ヶ月前から、シャワーを浴びているとき、太腿から先を洗うときは片足立ちで行っていたのだけれど、ようやくバランスを崩さないようになってきた。
 これはとてもむつかしいので、みなさん5秒くらいためしてみるといいと思います。
(床がシャンプーや石けんでぬるぬるしているときはやめたほうがいいと思います)

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 ときおり人生に疲れがちな僕は、衝動的にベランダから飛びたくなることがあるので、夏は すだれを掛けているものの、秋になれば当然そんなものは外してしまうので、飛びたくならないように窓を拭いたりしています。意味が分からない?

 飛ぶと言えばMRJが飛んで。まぁ、飛ぶよね、とは思っていましたけれど。飛ばすために設計されたものなんだから、飛ばなければおかしい。シミュレートや実験や設計というのは、そういうものだと思うものの。
 でも、リリース前から注目していて、つくづく綺麗なカタチだなぁ、と思っていました。

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 寒いので、ガールがいればガールで暖まるところなのだけれど、ガールはかけらも存在しないので筋トレをして暖をとっている。あと湯豆腐を食べてあたたまったフリをしている。
 いい加減、ヒータを使うべきか迷う。

 あとあと、街を歩いているとときどき、異常なほど歩き方がおかしくなっていて、骨格が歪んでいるガールを見かける。
 後ろから見ると、銭形のとっつぁんも真似できないような歩き方であったりする(どんなだ)。
 10代でこれでは先が思いやられる、と思う。
 20代でこれでは先が知れている、と思う。
 30代でこれでは先がないな、と思う。
 不思議と40代以上の人で、そんなにおかしな歩き方の人はいない。

 もしかして、ある日(40歳の誕生日あたりで)突然、天啓のように目覚めるのだろうか。
「私は今日から新しい歩き方をするの!」

 ……骨格は一朝一夕で変わらないから、そんなはずないよなぁ。
 


::「そもそも、なぜ抵抗しなかったのでしょうか?」
 弁護人が言った。もしシェルが身分を操作したり、レイプしたり、車に閉じ込めたりしたなら、少女は抵抗していたはずだと。検事が反論する間、バロットは施設を思い出していた。年中、ソーシャルワーカーから「お前は悪い子だ」と言われていた頃のことを。
 ワーカーにはそうでない者もいたが【そうである】者のほうが格段に影響力を持っていた。夜、二段ベッドの下の段で寝ている子供を、ワーカーの男がレイプしても、上の段の子供は恐怖に震えながら寝たふりをするしかなかった。みなそこで金もなく捨てられる恐怖を覚え、金ももらえず好きなようにされる屈辱と恐怖を覚えた。
 中には施設に順応する子もいた。権力というものを知る子が。だが大半は何とか逃げようとした。日常的に四方からナイフを突きつけられたような状況で、衣食住とあらゆる娯楽と友人関係をいいように操作され、挙げ句に少しも抵抗の道を示してくれなかった大人からなぜ抵抗しなかったかと訊かれたところで、バロットの返答は沈黙(サイレンス)以外になかった。

151107

 細い。
 なにがといって、ウエストが、である。細い。
 しかしながら華奢なのかというとそうでもなくて、油圧シャフトを組み合わせた機械のような形態を窺い知ることができる。
 が、それにしてもウエストが細い。

 ほとんどのスラックスが握り拳が3つは入りそうだし、ベルトを締めて一番内側で留めても、まだゆるゆるしているのである。

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 ある領域で人間を観察していると、個々人の境界設定に特徴があり、僕の持つそれとは少々異なっていたり、同じようであったりする。

 ここでいう個人の境界設定の定義というのは、個人の境界を成す境界面を、それぞれ(第一人者的/第三者的)にどのように認識し、どのように規定するかということ。
 そしてその境界面がどのように外部へ影響を及ぼし、どのように外部からの影響を受けるか、ということに当然ながら問題は波及する。
 そう、波のようにそれは力を受けたり発したりすることが多いと僕は認識しているのだけれど、それさえ波動系ではなく、粒子系の伝達をする人もいるようだ。
(波と粒子のイメージとしては下記URLの内容が個人的には分かりやすいかもしれないと感じた。
参照:http://taste.sakura.ne.jp/static/farm/science/wave_particle_duality.html

 ざっと観察した範囲で、この境界設定の方法は外骨格生物系と内骨格生物系に分かれるがそれは後述。

 そもそも個人境界設定というのは、他者がいなければ始まらない、かというとそうでもない。
 他者の定義がまずあって、現実の、実体を伴う他者がいて初めて他者というものが個人の中に発生し、境界設定が必要になる場合、というのが一般的ではある。
 人間は生まれながらにして(おおよそほとんどの場合においては)他者がまず存在しているから、この認識が広範囲において一般的であるとされるのは当然だろう。

 一方で、他者という実体が伴わなくても、個人の中で他者の存在を仮定することで、自身の境界設定が可能になるのもまた事実。

 前者は実体を伴っていて(おおよそほとんどの場合においては)生まれたときから多かれ少なかれ境界設定が外部から行われるのに対して、後者は実体を必要とせず、後天的に(おそらく思春期前後に形成される思考の中で)内部から設定されてゆく。

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 そもそも、外部と内部の境界(自己と他者の境界)面というのは、TPOによって、状況によって、相手によって、自分の立場によって、大きく変わるのではないだろうか。

 たとえば家の中では裸で過ごすことも多い私だけれど、外に出るときはスーツが多い、とか。
 ジョギングをするときはスポーツウェアで、仕事の時はスカートが多いけれど、帰宅するとまず着替える、という人もいるだろう。
 自転車で通勤するときの僕は上下ともサイクルウェアだけれど、勤務中は業務に則した服装に着替えるし、ジェームスボンドは潜水服の下にタキシードを着ているものだ。

 そう。服装もまた自分と他者や環境を隔てる境界であり、あるいは目に見えない心理的区画や認識領域についても同様のことがいえる。
 親(特に哺乳類の母親)の多くは、子供を自分の領域に、自分の一部として含んで認識しているように観察される。
 組織や国家のリーダーは(やはり全てではないかもしれないが)そこに含まれる一人一人を、自分自身のように大切に思っているものだと思う。
 中には人類すべて、あるいは生き物すべてを、自身や自分の親族のように感じることのできる人もいるだろう。
 簡単にいうと、これは存在ではなくて、状態である。

 このように自己認識の境界は状況で変わるのだから、それはあるようでいてない。ないようでいてある。
「辛そうで辛くない、少し辛いラー油」というのが以前あったように「有りそうで無い、少しある個人境界面」という存在がここで浮き彫りになるわけである。
 だからといって彫刻刀を持って、僕がそれを彫り出したりしているわけではないので誤解のないように。え、そんな誤解はしない?

>>>

 さてもこの境界面設定というもの。
 僕はかなりフリーダムな人間関係の中で生きてきたので、周囲から(たとえ親とされる人間であっても)何かを強要されることによって、制限されることがほとんどなかった。
 つまり外部から強く境界設定の影響を受けることがなかった。
(子供の頃からの親の不在をありがたいことだと僕が感じる理由のひとつである)

 人間関係で周囲(たいていは親や家族、友人や先生、上司や恋人などだろうか)から境界設定を受ける人、受け続けている人、受け続けてきた人というのは、まず他者ありきである。
 他者があって、境界設定を強制されて、それでやっと自分の境界が認識できるようだ。
 僕からすると柵で囲われた家畜のように思えなくもないのだけれど、まぁ、それは仕方ないよね(口調が変)。

 外部から設定(あるいは強要)されるものだから、必ず実体を伴うし、それを仮想する必要はない。
 むしろ仮想他者によって自律的に形成される個人境界面など単なるまやかしごとでなはいかと、こうした人たちは笑うだろう。

 外部から設定されるため、その境界はかなり明確であり、それゆえに行動として具現しやすい。
 たとえば「上着のボタンは必要もないのに外さない」「スカートは膝上10センチより短くしてはならず、膝下10センチより長くしてもならない」「靴下は白いハイソックスとする(ただし黒いニーソックスは例外とする)」といったように。

 極論かもしれないし、そうであると信じたいのだけれど、こうした人たちは、境界を他者に押しつけることによって、他者を規定し、他者から境界を押しつけられることで自己を規定する足がかりにしているように観察される。
 規定の根源にあるのはすなわち興味関心であり、あるいは愛情表現であると認識(ありていにいうと誤認)しているように見えることさえある。
 つまり境界面を押しつけたり押しつけられたりすることによって、自分や他者の境界面を「より明確に」規定しようとして、その行為全体が人間関係だと認識しているように観察されるのである。

 もっともこれにも問題点はあって、境界というのは明確にしようとすればするほど、その厳密なラインがぼやけてしまうもので、駅のホームでも僕などは「黄色い線の内側」がどこを指しているのかを考えると夜も眠れなくなりそうなほど、おもしろおかしい気持ちになってしまったりする(そして夜にはそんなことは忘れてぐっすり眠る)し、「前向き駐車」の意味がやっぱりどうにも分からなかったりする。え、これは境界問題とは関係ない?

 仮想他者でとりあえずの境界設定をする場合(ま、こんな程度でとりあえず不快を生むことはないだろう)というある程度のラインを踏まえてゆく。
 もちろん、それでも誰かの不興を買うことはある。
 シャツのボタンを閉めすぎるのがよくないこともあるし、恋人が多すぎるのが問題になることもある。
 それとてTPOでなんとでもするのは、僕にとって境界面がそもそもあやふやで、どうでもいいものだからだ。

 その場をやり過ごすためであれば、境界面などその場で作ってしまってもいい。
 本当に必要な本質を満たすことができるのであれば、表面のことはどうでもいい。
 というのが極論的な内部設定型の境界面設定方式の根底にあるとした場合、ある程度のアウトラインで境界を設定し、あとは現物合わせで何とでも対応しましょう、ということになる。

 外部強制型の境界設定をしている人からすると、非常識なほどいい加減であるけれど、逆に内部設定型の人が外部強制型の人を見ると、その人間関係は窮屈でキモチワルい。

 もちろんこれは極端なパターンを定義しただけだから、誰かが100%外部強制型であるはずもなく、また誰かが100%フリーダムな内部設定型であるはずもない。
 人はそれぞれにそれぞれの割合で、外部からの強制を受けて、内部からの境界を予測も含めてしているものだと思う。
 どちらが一概に優れているというものでもない。窮屈なほうは明白だが。

>>>

 外骨格生物系の個人境界設定とは、すなわち外部からの強制による境界設定を一般とする認識のことだ。
 そこでは境界が外側から決められていて、もちろん他者にもそういう接し方をすることになる。
「これはこうでなくてはならない」「こうでなければあなたをあなたとして認めない」
 とまぁ、そういうことです。
 与えられ、受け取ってきたものを、ストレートに他者に与える。とても分かりやすいですね。
 こうした手法は境界が非常に明確で、バカにも対応しやすい利便性を持っているものの、ワタクシなどには少々窮屈に思えるのですがここでの私見は不要ですか、そうですか。

 たとえばカブトムシなどを見ると分かりやすい。
 充分な栄養状態と適切な環境を与えた場合、ほとんどの個体は同じようなサイズと外観に育つ。
 べつにクローンではないはずなのだけれど、そうなる。
 これが外骨格生物系の個人境界設定にも同じように作用しているのではないかと僕は感じる。

 他者に規格を与え、他者から規格を受けることによって、確かに「誰も」「何も」考えなくて済むのではある。
 それではそこに出来上がるのはいったい何なのかというと、個を喪失したかのように画一的な「規格どおりの誰か」なのである。

 よって他者から境界設定をされることでしか自己認識をできなかった人間というのは、ある程度以上の大人になってから自己認識の境界面が自分で設定できないという類のアイデンティティ不全で自殺したり、あるいはモノやお金に対する異常なほどの執着によって自身の境界を保とうとする。

 内骨格系の個人境界設定は、制限がない。
 太ったイヌもいれば痩せたオオカミもいるのと一緒で、自分の芯にある骨格が支えることのできる限りにおいて、自由に存在することができる。
 制限がない、は言い過ぎた。制限が緩い、といったところだろうか。

 しかし自律が必然的に必要で、考えなしでテキトーに、というわけにはなかなかいかない。
 ある程度のフィードバックに伴う自律性が系として出来上がってしまえば、ほとんどのことは勘でどうにでもなるのだけれど、それが形成されるにはアタマを使うだけではどうにもならないような気がする。

 それでも、続けていれば何となく身につくものだ。

 もし仮に、自分が外骨格型で内骨格型の比重を高くしたいとか、あるいは逆に内骨格型から外骨格型にシフトしたいという場合は、とりあえずしてみようとすれば何とかなると思う。
 自分はこういうものだと制限し続けているのは、本当のところ、いったい誰なのか、ときどき立ち止まって考えた方がいい。
 それは本当に他者なのか。それは本当に自分なのか。
 どこからどこまでが社会で、どこからどこまでが自分なのか。
 その境界は、いったいどこにあるというのか。

 もちろん自分の中に骨格がありさえすれば、そんなフレーム問題などは取るに足らない些事でしかないのだけれど。

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 体重は61kgを行ったり来たりしている。63kgにするのはもう諦めた。
 体脂肪率は16%を切らないのでこれはよしとしよう。
 骨格筋率が38%を越えて計上されることがしばしば。そろそろ腹筋が付いたのだろうか。
 観察するに、贅肉は減ったのだけれど、そもそも自分の身体をしげしげ眺める習慣がないのでよくわからない。

::──その言い訳(エクスキューズ)は知ってる。【あなたたち男はいつも、お前もそれを望んでたって私に言うから。】

冒頭引用は
「第3章:発動 Crank-up」(p.161-162)

文末引用は
「第2章:混合気 Mixture」(p.86)

From「マルドゥック・スクランブル[完全版] The 1st Compression - 圧縮」
(著作:冲方 丁/ 発行:早川書房)
によりました。

 なお、引用文中のルビ文字は『()小括弧』にて、傍点強調は『【】墨付き括弧』にて記述しています。
 


::あの一件で、私の周りもずいぶん変わったよ。もちろん私もね。
 最初は大変だったなぁ。
 なんだかんだと言ってもね、人にとって、いえきっと誰にとっても、新しいものと、今まで知っているものとの間に、なんていうんだろ、段差があるんだよね。
::段差。
::そう段差。ある種のショック/衝撃と言い換えてもいいかな。
::ああ、分かる気がする。
::その段差をね。上ることのできる人、埋めることのできる人もいて、そういう人は当然なんの問題もないわけ。
 一方で、その段差に対して背を向けて、あるいは打ち消そうと否定して、そうすることで自分のありようを守ろうとする人もいる。
 どちらも労力としては、たいして変わらないんだけど、人は歳をとると、どうも自分を変えることを厭がるみたいね。まぁ確かに自分の足場を崩して作り直すなんて、面倒ですもの。
 だから。もしかしたら、私もそうなのかも。
 もちろん足場を確保しておくことは「私」という存在を私自身にアンカする上で必要不可欠なことだとは思うの。
 でも、それを考えるとね、いつかあなたが言っていたことを思い出すんだ。
::なにそれ?
::「自分」「自分」とみな言うけれど「自分」っていったい何のことだろう、って。
::あははは。昔からずいぶん哲学的なことを言ったもんだね、僕は。






151016

 体脂肪率が17%を切った。
 体重を61kgまで回復させた。
 が、下腹部の筋肉をつけたせいなのか、うつ伏せになると恥骨(それとも座骨?腸骨?)と骨盤が当たって少し痛い。
 骨盤回りの贅肉がほとんどなくなったためだろう。腸腰筋の脂肪が無くなって血管が浮いている。
 しかし腹筋はなかなか付かない(使い方の結果としての)体質なので多少苦心している。
 太腿の内側に贅肉が残っていたのだけれど、新しいトレーニングを組み込んだらあっさりなくなってしまった。
 太腿を内側に閉じるための筋肉を使う機会は、考えてみるとなかなかないかもしれない。
 特に男性の場合は。

 以前書いたかもしれないが、僕は痩せると、足の裏のクッションが薄くなる。
 足の厚みが薄くなるのだ。
 結果、硬い床を歩くとごつごつ当たって痛い。
 しかし歩き方を工夫して、猫歩きをするようになったら、ぐっと改善された。
 猫歩きというのは、単純につま先の指の付け根を中心に着地して、足首と膝と腰で重量をクッションする歩行方法のことで今名付けた造語である。

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 ちょうど一年前の今頃か。
 感情も感受性も情緒も、なるほど不要であるならばと、消失することを自身に許可し、抹消することを決定したのは。
 まったくもって。
 それは僕の生活に不要で、それどころか日々をやっかいな苦痛にまみれさせた。
 それに前後するようにして、僕の皮膚粘膜は爛れはじめていた。

 なるほど感情や感覚というのは筋肉のように随意にすることはむつかしいと一般には思われているかもしれない。
 しかしそれは、長期的な感受性をコントロールできる人間からすれば単なる怠惰な言い訳でしかない。
 できないのではない。できないと信じ、しないことに徹しているのだ。

 いかに悲痛なニュースであっても、人は半無意識に自分の反応をコンロトールしている。
 たとえば自分からの距離でその痛みが変わるのがその証拠である。
 無選択的であるならば、自身の身近になるほど痛ましいはずもない。
(それが悪いと言っているのではない。ただ無自覚にそうであるのだとすれば「自分」などないのと一緒ではないかと言っているのである)
 多くは生まれてから子供の頃までに形成されるそうした感情の反射パターンは、しかしその実、自身の手によって再構成が可能なものだと僕は考えている。
 価値観の形成が多くの場合、記憶とそれに付随させられた情報に依存しているのだから。
 時間を要し、また外的要因が多かったとしても、ある程度になったら自分でそれらを選択できるはずだ。
 30を過ぎたら、人間は自分の顔に責任を持たなくてはならないのと同じように、生まれを越えて自身をデザインする能力を有してしかるべきなのではないだろうか。

 結果的に人間というものは自身という存在に固執するあまりに自己を喪失する。少なくとも僕にはそう見える。

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 実のところ、このひと月ほどで一番発達したのは肩の筋肉で、それが悪かったのか、数日前から「いわゆるむちうち症」(鉤括弧の付け方は誤りではなく冗句です)のごとくにひどく首が痛む。
 ちなみに僕は肩の筋肉を「上部に位置する背筋」と認識している。

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 凍結していた感覚の解除を先日開始した。
 以降、皮膚粘膜も回復に向かっている。
 私を守れるのは私だけなのかもしれない。
 それにしても、私とはいったい誰のことだろう。








::多くの場合、人は過去に、特に子供の頃の記憶に縛られちゃう場合が多いよね。
 結果として過去を繰り返す。人の攻撃特性や防御特性はその端的な現れで、自分が子供の頃に受けたことを、そのまま子供に仕返ししたりするのは典型よね。
 幸い私は、そういう不幸な子供時代をまったく抱えていなかったから良かったけれど。
::そうだね。僕はそうしたことをして「それのどこに自分があるのか」って言っていたんだろうね。
::え? 私が幸せな子供時代を送ったってことに?
::ううん。子供の頃の不幸に縛られる人間の存在に。
::……そうね。過去の意味を変えられない者に未来を作ることはできない。
::なにそのかっこいい格言。
::忘れてるんでしょう。これも貴方の言葉だよ。
::僕は過去を変えてるからなのか、思い出せないなぁ。
::そうしないと生きられない。
::そうなの?
::あはは。それも言ってたことだよ。
::あははは。そんなの全部忘れたよ。