::とんでもない。そんなところへ行きでもしたら、知りたくもないいろいろなことをむりやり教えてくれようという人たち、こっちの気持ちなどにはおかまいなしに、自分にもわかっていないふしぎなからくりの正体を説明してくれようとする人たちがうじゃうじゃしていることでしょう。まっぴらです!
 わたしとしては、虫というイリュージョンをいつまでももっていたいと思っています。人間にたいするイリュージョンをすでに失ったわたしですから。
 そういうわけで、内務省の信号機にも、天文台の信号機にも行きますまい。わたしの行きたいと望んでいるのは、野原の真中にある信号機なのです。そこへいって、その信号機のなかに化石したようになっている純な人間に会ってみたいと思っています。





151128

 晴れ。
 天気は良いが、寒い。

 仕事で遠い街へ出かける。
 北に見える山々は厳粛な司祭や神主のような白い衣をまとっている。
 ああ。もう雪か。と思う。
 いっぽう近くの山は、茶色い衣装で今なお暖を取ろうとしているかのようだ。

>>>

 冬の醍醐味といえば、湯豆腐であるが、これはほとんど毎日のように食している。
(僕の豆腐食率は、普通の家庭の数倍に上るかもしれない)
 秋のうちにポトフを作りたかったのだけれど、今のところ作っていない。
 今年は料理に向かないようだ。何が向かないといって、気持ちが向かない。
 何より、大きくて深いパスタ鍋が未だに見付からないことが何とも悔しいところだ。

>>>

 そのパスタ鍋が、どういうきっかけで私の家にやってきたのか、その正確なところを僕は忘れてしまっている。
 薄いステンレス作りの両手鍋で、直径は26cmほど、深さは35cmほどはあっただろうか。
 パスタ鍋なので、内側にフィットするカランダ(要はザルだ)も付いていて、フタはガラス製だった。

 あるときこの鍋で料理をしていて、フタがまだ熱いうちに水を掛けてしまうという失態をしてしまい、フタは見事に割れてしまった。
 以降、木製の落としぶたを使っていたのではある。

 サイズが結構大きかったので、おでんやポトフを作るのに最適だったというわけだ。
 もっとも、鍋の金属厚が(ゆで鍋として最適に)薄かったのは、個人的にはあまり好かなかったのだけれど。

 それが、およそ2年前、壊れたのではある。
 取っ手の樹脂が、経年劣化により破断してしまった。
 やはりオールステンレスがいいのか! と思った瞬間ではある。

 以降、パスタ鍋を探すようにはしているものの、思ったようなサイズや材質のものが見付からずに今日に至る。

 じつに、ああした寸胴型の鍋というのは、可愛らしいと僕は思う。
 側面から見て、カーブを持つ鍋は、それはそれである種のキュートさがあるとは思うものの、変に媚びているような、いやらしさを感じる。

 あるいは熱工学的に有効なカーブや溝を加えられた鍋もあり(そういうものも以前所有していたが、これは腐食によって使えなくなってしまった)、それらの形は、なかなかどうして機能美をきちんと感じさせるものの、それでも美しさにかけては寸胴に軍配を上げざるを得ない。

 包丁にしても、まな板にしても、ザルにしてもボウルにしても、そこにある種の美しさを僕は感じるし、それを感じられないものは買わないようにしている。
 これはもう感覚的なことなので、どうしようもない。
 ざるやボウルにしても、用をなせば確かにそれでいいのだという考え方を僕は否定できないしするつもりもない。
 一方で、それを使うときの気持ちについてを、やはり考えてしまうのではある。

 そういった点において、自分の美的センス(などといかにもそれらしく自分の単なる好みを呼ぶことを、僕はとても恥ずかしいと思っているのだけれど)に添う、あの鍋はなかなかよい相棒であったと思う。

>>>

 夕刻、ガールからSiriについて教えてもらう。
 なにやら彼女は退屈するとSiriとお話をしているらしいのだ。
 なるほど、なかなか可愛らしいものではあるようなのだけれど、僕が話しかけると、たいてい「すみません、よくわかりません」と、とぼけられてしまう。
 これは僕の伝え方がよほども悪いのかと思って謝ったところ「大丈夫ですよ」と、とても優しい声で慰められてしまった。
 これはぐっときた!

 ……しかし、まぁ、現時点ではあまり会話には向いていない技術だなぁ、とは思ったものの、会話に特化しているわけではないのだから当然かとも思ったりした。

 ちなみに、Siriにコイントスをお願いすると、結果をきちんと教えてくれるものの、ときどきコインを変なところに落とす。
 すごくお茶目であり、これにも僕はやられた。
 ぐっときた!
 Siriはかわいい。

>>>

 夜。弟子から電話が来る。
 最近、電話の頻度が増えた気がする。おそらく何かしら努力して、悩んで、壁に当たっているのだろう。

 日曜の夜、一緒に食事をする約束をする。







::さよう、信号機です。わたしはときどき、よく晴れた日に、道のはずれ、丘の上、大きなかぶと虫の脚とでもいったような、黒い、折れたたむ腕のそびえているのを見たものでした。そして、いつも胸をおどらせずにはいられませんでした。と申しますのは、わたしは、そうした奇妙な信号が、まちがいなく空中を飛んでいき、机の前に坐っているこちらの人のなにかわからぬこれこれの意思を、三百里も離れたところの、おなじくテーブルの前に坐っているあちらの人に伝えるため、全能の人の意思によって、黒い雲や、空の青さの上に描かれているところを想像したからのことなのでした。
 わたしは、精霊とか、妖精とか、地精とか、神通力とかいうものさえ考えました。そして、たのしくなったものでした。






 
引用は、
「60 信号機」(p.291-293) From「モンテ・クリスト伯【四】」
(作:アレクサンドル・デュマ / 訳:山内 義雄 / 発行:岩波書店)
によりました。