151121

 不意に、腹筋が発達していることが分かった。
 シャワーを浴びていて、何気なく身体を見回したところ、腹筋が発達していることを視認できたというわけである。
 もっとも、人に見せびらかす趣味も、自分で眺める趣味もないので「ふうん」といった程度ではあるのだが。
 シャワーから出て確認すると、胸骨やら下腹部の腹筋やら、腸腰筋やら脛部やらに血管が浮き出しているので、なるほど贅肉はここまで減ったのかと思いつつ体重計に乗ったところ体脂肪が16%を切り、骨格筋率は38を越え、体重は60kgを少し越える程度だった。

 ただそれより、以前から懸念していたとおり、どうやら腹筋にも左右の「利き」があるらしく、たしかにトレーニングの際に確認してみて分かったのだけれど、神経系の発達が、どうしても僕は右に寄ってしまうようだ。

 目、耳、手、脚、ともに僕は右利きである。
 あるいは右鎖骨を骨折していたことが、長期的に筋力バランスや骨格に影響を及ぼしている可能性もある。
 実際、左の肋骨は、右のそれより少し開いているように思える。
 無論、僕も齢を重ねているわけで、不死身ではないし、使わなければ筋肉も衰えるし、使っていても長期的なクセは骨格に影響を残す。

 女子高生の立ち方、歩き方を笑っている場合ではないのである。
(参照URL:http://blogs.yahoo.co.jp/bluecat_engineering/39684647.html)

 けれど腹筋よりも、肩と背筋の発達を視認してびっくりした。
 これはいずれ、ボクシングジムに通ってもいいんじゃないかと思った。

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 僕が人間の心理的組成について、複数因子を持つ多次元配列変数的に把握していることは以前書いたと思う。
 にもかからわず、僕は人間というものについて、的確な理解をすることができなかった。
(過去形であるが、今もって、体系的に、的確な把握をすることができているとは思っていない)

 しかし最近、あるパラメータに着目することになり、その体系の把握に、少し近づけたように思っている。

 人間というのは、多くは記憶によって構成される価値観を複数パッケージして、ひとつの人格を形成しているように観察される。
 そこでは、記憶が非常に重要な役割を持つ反面、意識的/無意識的に記憶そのものが事象からフィルタされる事実を無視することはできない。
 つまり、人は「事象とはおよそ無関係に」記憶したいことを記憶し、自分の価値観に焼き付けているというわけだ。
 たとえば、すれたタイプの価値観を多く持っている人間は、環境的に、あるいは主観的に、事象に対して裏があるものと決めつけたり、そこにある事象の意味が決して楽天的ではないのだという価値観に基づいて行動することを決定して行動している。
 決定された因子が現象に含まれる場合、現象はその因子に影響を受ける。因子は現象に影響を及ぼすわけである。

 なんでもかんでも揚げ足をとるタイプの人間というのは、誰でも一度はお目に掛かったことがあるだろう。
 褒められれば「そんなことないですよ、だって……」と否定にかかり、けなされれば「そんなことないですよ。あなたに私の何が分かるんですか」と反論にかかる。いったいどうしろというのかと、僕などは面白おかしくなってしまうのだけれど、その人は、他人の価値観に対して一定以上の距離を置くことができず、とりあえず反発してしまうという反射をその人格に内包していることになる。

 もしかしたらうまくいくかもしれない、というプロジェクトにおいても、主観的に「これは無理だろう」なんて悲観的に決めつける人間が多ければ多いほど、そのプロジェクトは傾いてゆく。
 すなわち状況に左右されない、ある種、信念のようなものを持ち続けられるかどうかが、現象に対しても有効に作用するということになるだろう。

 反射しかできないタイプの人間には、つまり現象を左右することができないということになる。
 たとえ現象に左右されることがあるとしても、逆は存在しないということだ。
 何かひとつの物事を信じることというのは、真逆とも思える事象を突きつけられたときに、苦境に立たされる。
 あるいは根拠のない状況下で、それを信じ続けることの意味を自問せざるを得ないという、孤独な道のりがあったりもするだろう。

 現象というのは、ときに、なんとでも意味づけができることがある。
 自動車を運転していて、赤信号を無視してしまったとしても「肉親が危篤で」という人もいれば、「居眠りをしていました」という人もいる。
 実際の事象は何も変わらないのに、それを聞く側が影響を受けることが多くなれば、適当な理由をでっち上げる人も増える。
 そうした原理を知っている人は、必然的に、より自分の立場を守ることができる言い訳を、嘘であろうと、あたかもそれが事実であるかのように振る舞う習慣が付くだろう。

 それと同じように、自分を取り巻く環境に対しての意味づけを、自分の都合の良いように、もっと極端に言えば、自分の立場だけは危うくしないように、他人を信じたり自分の信念を貫くことよりもまず自分自身の評判のようなものを優先してしまう人がいるということだ。

 そしてそれらは結果的に、その人自身をその人が望んでいる場所へ運んで行かないということになる。

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 単一の人間にも、表と裏があり、綺麗な部分と汚れている部分が混在しているものだとは思う。
 一方で、汚れた部分だけを見続けるような性質を持っていたり、あるいはそうした特殊な環境にあった場合、必然的に、その人はその視界のフィルタによって、自分自身の方向性を図らずも限定する結果になるだろう。

 そしてそれは、周囲が何を言ったところで、結局改まることはないのだ。
 ましてそれがいっぱしの大人であるとしたら、いったい何を言えというのだろう。

 よい性質を持っていること。
 それはすなわち、よい性質を見続けていることに等しい。
 それと同時に、どんな性質の中にも、良い性質があることをきちんと見いだせる能力があり、それがどれくらいの劣悪な環境で限界を迎えるかが、ひとつのパラメータとして把握できることになる。

 まるでチキンレースのアクセルペダルのようなものだ。
 恐怖を感じれば、誰もそこから加速はしない。
 仮にその壁が、自分の作り出した幻であったとしても、意固地であればあるほど、それを見極めることはその当人には不可能になるだろう。

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 最近、眠っているときに汗だくになって目を覚ます。
 悪夢を見ていたのではないと思う。身体がかなりの熱を発散しているのだ。
 筋肉が増えたために、代謝が上がっているらしい。

 朝になって、久しぶりにまじまじと自分の顔を眺めたのだけれど、なるほど多くの人が心配して言っていたように、頬がくぼんでいた。






::「いや……」片手を広げる。「説明はいりません。過去のことを知ったところで、今の貴女がわかるわけではない」







引用は
「episode 2: Thinking sequence」(p.150)

From「The Mind Quencher」
(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)
によりました。