151027

 未明に出発し、渋滞の首都高を走って横須賀へ。
 べっ別に軍事的な特務があって行くわけじゃないんだからねっ!
(中国の人工島に関連して中国側と米軍との緊張が予測されたこの日、少し変わった船舶がいくつか観察された)

 池袋から羽田、湾岸線にかけての立体的な風景は、最近あまり使わない空間認識の領域が活性化されるようで楽しい。
 僕の棲んでいる地方の山間部を走るのも、空間認識域が活性されるけれど、首都高は複数の車線を走る他の車両の位置と速度も認識しなくてはならないし、なかなかにストレスフルな状況には違いない。

 それでも、首都高には結構慣れた。
 以前の僕は高速道路を嫌っていたし、実際にほとんど走ったことがなかった。

 今では、羽田線で飛行機が見られるととても嬉しい気持ちになるし、横浜方面に向かう港の景色もたいそう好きになった。
 ただ、車の運転は、やはり好きではない。

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 今の仕事をするようになった約半年ほどで、4回指摘されたことがある。
 僕は気配がないらしい。

 こちらは相手を認識していて、相手もこちらを認識しているように思えたので挨拶をしたら、ひどく驚かれる、なんてことが4回あって、そのたびに指摘されたのである。

 確かに僕は身長と体重の割に、歩く音が静かなほうだし、気配も小さい。
 もちろん、いつもそうだというわけではない。
 僕の持っている一部の靴については小気味よい足音が鳴るようにできている。
 とはいえ靴を履いていても、あるいは室内であっても、他に誰かがいようと独りであろうと、僕は足音をあまり立てない。
 逆に、僕以外の人の足音をうるさく感じることは多い。

 駅の階段などでも、靴が立てている音ではなくて、明らかに体重が構造物にたたきつけられる振動と音が騒々しいと感じる。
 そんな歩き方ばかりしていたら、将来関節を悪くするぞと言いたいけれど、そんなことを知らない人に注意したところで警察を呼ばれるのがオチなので言わない。
 ちなみに僕は駅構内も含めてほとんどの階段を一段飛びで移動するが、足音をほとんどさせずに移動できる。
 上りであれば、同じ静粛性で駆け上がることもできる。

 以前の恋人に、一度足音についての話しをしたら、以降、とても静かに歩くようになった人がいた。

 あえて口に出して褒めたりはしなかったものの、実のところ、静かに歩くというのは一朝一夕に身につくものではないことを僕は(経験上)知っていたので、たいそう驚いて、かつ感心した。つまりは感嘆したのである。
 惚れ直したといってもいいだろう。
 僕は彼女に歩き方の手法についてほとんど何も説明しなかったのだけれど、彼女は歩く音について発言した僕に質問することも、僕の発言内容そのものについてケチをつけることも、まして自分の歩き方について屁理屈じみた言い訳もしなかった。
 余計なことは一切言うことなく、次に会ったときには当たり前のように静かに階段を上り下りしていたので驚き、感心したのだ。
 この人は前回のデートで話したことを実践するばかりか、もう身につけてしまったのか、と。

 思い起こすと、ひとつ説明すると十とは言わないまでも3から5くらいのことは率先して理解しようと努めてくれる恋人で、思い起こすまでもなくたいそうすぐれた人なのだと思っていた。

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 人の気配というのを、僕は光(視覚)以外に、温度(赤外線センサか?)や音(直接的な発信音ではなく、反射音でも感覚できる、といったら異常だろうか?)、振動によって感覚している。
 距離にすると半径3メートルほどは振動を、20メートルほどは音を使って可能な限り周囲の動体を把握するようにしている。
 深夜など、ほぼ無視界の状態であっても、家の中くらいなら普通に歩いているし、音が発信されている場所からの反響を視覚化して頭の中でイメージしたり、耳に入る音から反響を直感的に逆算して発信源の位置を特定したりもする。

 だから、歩いていても後ろにいる人の速度や距離が分かるし、自転車で走行中も(若干耳の向きを変える必要はあるが)後方の音から、おおよその距離と方向と速度と車種や車体サイズを判別している。
 そういう感覚や、身体の使い方をしていない人の場合、やはり他人の存在は視認するしかないだろう。

 つまりそうした「視覚頼り」の人たちにとって、僕は「認識が遅れる」タイプの存在なのだ。

 一方の僕にも欠点がある。
 人混み、つまり情報過多が発生したときの対処が遅れると、過剰なストレスで体調を崩す。
 いわゆる人混み酔いで、頭痛やめまい、吐き気などを催し、貧血のような状態になることもある。
 過去にも何度かあったのだけれど、全部を最低閾値で把握していると、把握しきれなくて参ってしまうようだ。

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 どうしてこんなに気配に敏感で、かつ自分の気配を消すのかと考えて思いついたのだが、僕は子供の頃から猫と遊んでいた。
 猫とじゃれることもあれば、ケンカをすることもあったし、寝込みを襲ったり、注意を引く罠(おもちゃや食べ物)で釣ったその背後を襲撃する、というような遊びもずいぶんした。
 結果、僕は猫に気配を悟られることなく襲撃し、彼らの反撃をなんなくかわし、それどころか彼らがパンチを引っ込める頃には攻撃を当てることさえ体得した。
 その場その場で、彼らがどのように動くか予測し、一瞬の先回りで動きを封じる、なんてこともできるようになった。

 そうすると、彼らから必然的に一目置かれるようになる。
「ご主人はボクよりも速くて強い」と思われるようになるので、叱ったときにもきちんということを聞くようになる(聞かない場合はただでは済まさない)し、なんでもないときはよく懐いてくれるものが多かった。
(一部の猫からはとことん嫌われたが)

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 情報過多への対処は慣れれば簡単だ。
 要は感知する情報をフィルタして、少なくすれば良い。
 範囲を狭めて、扱う情報の重要度を引き上げ、実行動に影響のない情報を、極力切り捨てる。

 たとえば、正面を歩いている人間の体重や重心の傾きを検知する必要はないので、足音や身体の傾きを検知したりしないようにする。
 視界に含まれる人間のうち、衝突の可能性が考えられない対象については、その動線を予測しない。
 側方と後方の足音のうち、速度の緩やかなものや、一定の距離より離れたものについてはその動線を予測しない。
 などなど。

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 おそらく、都会に棲んでいれば、こうした人間の気配には鈍感に、つまり閾値が自然に高くなるものなのだろう。
 満員電車に乗るときに、つくづくそう思う。
 自身にぶつかるこれらひとつひとつが、ひとりひとりの人間であるとして、都度都度「すみません」なんて謝っていたらきりがない(それでも、先日、つい謝ってしまったが)。

 とはいえ僕のような山奥に棲むものの生活範囲でも、多くの人は気配に鈍感だ。
 煌々とした灯りの中や、TVを点けたままで眠れる人を多く知っている。
 人の気配などいわずもがな。それがあると安心するという人までいる始末だ。
 僕は体温にせよ足音にせよ、それが「その人の特定の状態のものである」と認識できるまで(実際に、足音でたいていの人の体格から心理的な状態まで、ある程度は把握できるので)安心したりしない。
 よって僕が過敏である可能性は否定できない。

 きっとこれは相対的な問題なのだ。

 なので彼らの多く(実に、僕より気配を感じさせない人間に僕は出会ったためしがない)(あるいは単に、気配が感じられず、存在に気がつかなかったのかも知れない)は僕をして(気配もないのにいきなりいて驚かせる物騒な人)と思っているかもしれないし、一方の僕は(ここが戦場だったなら、あなた3回は死んでるわ)と思っているかもしれない。

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 最近では、犬や猫でも、人の気配に鈍感な奴を見かける。
 こいつら、ぜったい野生では暮らせないな、どうするものなのかと心配になったりするものの、そうか、これこそが人間の作る社会の、ひとつの具現なのだと直感する。

 一方、そんな人間社会の中にあっても、こちらの姿をかなり遠い場所から、あるいは視認できる以前からきちんと認識している野良猫どもがいることもまた事実であり(もうちょっと近うよれ!)と内心毒づきつつも、距離を置かずにいられない彼らの気持ちもまたよく分かるのである。

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 そういえば、
「私は、ジャングルに放り出されても独りで生きていける」くらいのことをうそぶく恋人が、過去に2人ほどいたが、僕から言わせると、水の濾過もできなければ、蛇除けも蚊除けも知らないような有様だったから、多分、ものの数日で死んでいたと思う。

 そういう僕はというと、ジャングルでは、とてもとてもサバイブできません。