// ----- >>* Initialize Division *<< //
//FileName:Archive/feelin_my_night_sight
//TimeLine:20080829

TITLE:ちりちりしてる/わたしという名の皮膚がいる
 
// ----- >>* Header Division *<< //
&aname(title);
* ちりちりしてる/わたしという名の皮膚がいる
~ feelin' my night sight. ~



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&aname(lead);

::それは、この種の男たちは、いかに書きまくろうがしゃべりまくろうが、自分自身の考えていることを述べるよりも、「解説」することのほうに熱心だからであろう。この種の男たちの一人の口ぐせは、学問的に言えば、という一句だった。それでいて、言うこととなると、非学問的なことを一見学問的に整理して述べるだけなのである。

(「インテリ男はなぜセクシーでないか」From 「男たちへ」)


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//[Body]


*ちりちりしてる 
Written by 工場長


 読みたいものを書いてくれる人が、どこにもいない場合、それは自分で作るしかない。
 それはいわゆる、自慰行為である。
 すなわちマスターベーションであり、そこに存在するのは、愛よりもむしろファンタジー(俗語に訳すと妄想)である。

 今日は久しぶりに日記を書こうと思う。
 なかなか、衆人環視の中で、それを行うのは、よくよく考えると、異常な行為ではある。
 それが、一般化したのが、ネットの気持ち悪さなのかもしれない。
 しかしそれでも、その異常さのいかんを問わず、そうした一種の排泄行為を求めている部分もあり、わたくしとしては、特に気にすることもなく、日記は書きたい。

 日記を書けなくなる時は、まず間違いなく、読者の存在を意識した時であり、それを忘れるために、僕自身は「(コメントする機能を有しているにもかかわらず)なるべくコメントしづらい」という様相を好む。
 主に、コメントは、自分で自分の日記に言及するために存在している。
 あるいはそれが、日記ではなくモノローグであるならば、自分自身で解説をはさんだりして自己完結するような、そういうものが好きなのだ。

 自分以外の何者かの媒介によって完成するような、そんな軟弱な世界観なら腐って溶けてしまえ、と思う。
 それは日記に限らない。

 人はそれぞれに、まったく違う世界を見て、そこに生きている。
 そこには、もちろん、なんらかのコモンセンスが存在するだろう。(日本語に訳すと)共通感覚。
 そして、その共通の部分と、独自の感覚の部分との、境界には、ちりちりとやけるような、壁があるのだろう。
 触れられそうで、触れない。
 行けそうで、行けない。

 もしも、日記を共有する意味が本当にあるならば、そこにはそのふたつが不可欠なのだと思う。
 誰もが「そだよねー」としか言えないような(たとえば、カラスって基本的に黒いよねぇ、といったような)日記は、できうるならばやめていただきたいし、どこからどこまでが青で緑か、みたいな、それこそ各人の感覚によるようなものについて「あーでもない、こーでもない」と言いあう愚は(少なくともわたしは)避けたい。そんなのつまんないから。

 逆に言えば、僕の場合、そういうものしか書いて公開しない、ということにもなるだろう。
 誰でもが「そですねぇー」としか言わないようなものなんて、書くのもばかばかしいし、だからといって誰でもが「いや、それはないと思う」としか思わないものも、まったく同じ性質のものなのだ。
 だから、自分でも書いていて、ちりちりしていたいし、そういうものを読んでいたい。
 共感を得るとか、同情を買うとか、総スカンを喰うとか、ひんしゅくを買うとかは、どうでもよろしい。

 読んで勝手にちりちりしておればよろしかろう、というのが、私の考え方だ。
 すなわち、書いて勝手にちりちりしておれば、それでよろしかろう。

 そういう場所が、私は好きなのだろうから。








*わたしという名の皮膚がいる
Written by 黒猫


 夏の半ばにあせもができてしまった。
 これにはいろいろな原因が考えられるのだが、まあとにかく、結果から申し述べてしまうと、夏の半ばにあせもができてしまったのである。

 しばらく苦悩の日々が続いていたため、日記を書くのをお休みしていた。
 結論から申し述べると、これは単なる言い訳である。

 皮膚というものを、わたしは存外大切に思っている。
 足の裏の角質が、分厚くなるのは耐えがたい。
 皮膚の感触が、にぶくなるのが耐えがたいし、皮膚そのものにはびこる違和感が、耐えがたい。

 皮膚の清潔さなんてものよりも、皮膚の感触を大切にしている。
 結論から申し述べると、これは同じ状態を指向することになる。

 いろんな美容法なるものが巷((みなとではない。))にはあふれているような気がする((真面目に観察したことはない))が、肌にとって大事なことは、新陳代謝を適切なレベルで保つことと、清潔に保つことと、それよりなにより、たくさん撫でてあげることだと思っている。

 できうるならば、美女にいたるところ、撫でてもらえれば幸甚至極なわけであり、
「アヲネコさんの肌ってば、撫でてるとこっちがうっとりしちゃうくらい気持ちいい♪」
 と、美女に言われるように日々努力(というほどのものでもない)をしているのだが、いかんせん、ぼんやりしていると、美女とデートするのを忘れてしまう。
 美女とデートしないと、よもや私の肌を撫でるものは私しかいないわけであり、それさえも、ぼんやりしていると、忘れてしまうわけであり、そうなると、肌が荒れるのである。

 肌が荒れると、気分がすさむ。
 気分がすさめば、何もする気が起きなくなる。
 それではよろしくないので、肌が荒れないように、普段から気を付けているのであるが、仮にデートしている女の子が、なかなか私のことをべたべたと撫でまわすことをしない(おそらく受け身、あるいは怠惰な)タイプであったりすると、私はそのうち肌が荒れて、気分がすさんでしまうので、そういう女の子とは、デートする時間を作りたくないなぁ、なんて思ったりするのである。
 結論を申し述べると、私のことを撫でまわすおにゃのことデートしたいです、ということになる。


 さて下劣なことを書くのもたいがいにしておこうか。

 いずれにしても、私は、皮膚がメインの生き物だ。
 肌に合わないものは、頑として拒むし、肌触りの善し悪しは、いかなる情報よりも信頼できる。

 情報の、入力を、どこでするか、ということでもある。
 考える生き物の時代など、もう終わりで良いではないか。
 ヘタな考え休むに似たり、とも言うし、人間なんぞの考えることなど、どのみち私利私欲に満ち満ちているではないか。
 目で見る、耳で聞く、それはそれで結構だけれど。


 肌をなまめかしくくすぐる感触。
 ほおをやわらかく撫でる風。
 背中をすばやく走る緊張。
 耳元をつたう甘やかさ。



 肌に感じないものなんて、とてもじゃないが信じられない。

// ----- >>* Clip Division *<< //



//







// ----- >>* Escort Division *<< //
&aname(escort);

::誰かわたしをあたためてー、と言いながら部屋じゅうをさがしまわり、電気ポットを見つける。
 抱きついたら、ものすごく暖かかった。抱きしめているだけで、てのひらも指先も首も胸もとも、全部あたたまった。

(「色ぼけ欲ぼけ?」 From 「東京日記 卵一個ぶんのお祝い。」)







// ----- >>* List of Cite Division *<< //
&aname(list_of_cite);
出典
~ List of Cite ~


 冒頭引用は
『男たちへ』(著作:塩野 七生 / 発行:文春文庫)

 文末引用は
『東京日記 卵一個ぶんのお祝い。』(著作:川上 弘美 / 発行:平凡社)

 によりました。





// ----- >>* Junction Division *<< //
&aname(nexus);
*NEXUS
~ Junction Box ~

[Isotope]
  [[カラダはすべて知っている]]


// ----- >>* Tag Division *<< //
&aname(key);
[key]
&tag(★★☆,Beauty,Create,Darkness,Ecology,Interface,Link,Mechanism);


// ----- >>* Categorize Division *<< //
&aname(category);
Category:青猫のひとりごと:暗闇エトランジェ







// ----- >>* Comment Division *<< //
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20160204

// ----- >>* Header Division *<< //
~ Reconnection to the nine lives. ~

Written by BlueCat

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::わかっている、と僕は思った。君には理不尽さに怒り、悲しむ権利がある。彼は目を閉じて、必死に何かを理解しようと努めているようだった。シャツがべったりと体に張り付いて、海辺にいるような匂いがした。




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//[Body]

160204

 当たり前のように知っている人も多いとは思うが、高熱や脱水症状、摂食困難な状態が続くような、たとえば一人暮らしのインフルエンザであるとか、下山途 中の転倒時下肢部複雑骨折であるとか、勤務先からの帰宅途中における右鎖骨骨折であるとかについて、もっとも大事なものは医者でもなければ添え木でも薬で もクスリでもない。
 なぜならそこでの最大の敵は、痛みやウィルスや体力ではなく、孤独による絶望だからだ。

 というようなことを得意顔で申し述べようものならばTU(僕の古くからの友人)が「じゃお前ダメじゃん。お前だけはダメじゃん!」と言う。

 そこ、わざわざ重ねて、しかも重ねて強調までして否定するところか!?
 とはいえ僕も少しは大人である。彼と僕との間において発生する(あるいは生成された)時空隙のごとき発言など、軽く歯ぎしりしながら舌打ちして返してやればだいたいのことは収まるのである。

 だいたいのことはそうではないだろうか。
 医者がいようが薬があろうが、お金があろうが時間があろうが、上司に恵まれようが、友達が100人いようが、恋人が眼鏡でロングヘアで清潔でエッチで可 愛かろうが、それでも孤独を感じる人間はいくらでもいるものだし、孤独により絶望している人間は、それだけでもうダメである。

 まさかと思うが周囲の人間関係が数値的に大きければ孤独が消せるなんて勘違いをしているわけもなかろう。
 そうなると、自分以外の人間と自分との関係の糸の多少に関わらずお声をおかけください、じゃなかった、その多少に関わらず、孤独を感じる人は深く感じるし、感じない人は、何もなくても感じないのである。
(俺なら孤独とワルツを踊るぜ)

 とくに青猫工場ではたびたび書いているけれど、僕の笑いと涙のポイントは、どうも他の人とズレているから「僕だけが楽しい」「僕だけに可笑しい」「僕だけが悲しい」という状況がとてもごく普通に発生する。
 しかしどう考えても「みんなが楽しい」「みんなに可笑しい」「みんなで悲しい」という状況のほうがよほど特殊だと思うんですけどォ……。

 にもかかわらず、たとえば僕が一人で「ボンカレーゴールド」の箱の説明書きを読んで面白可笑しくなっちゃって笑っていたとしても、たいていの人は僕をゴミを見るような目で見るわけですよ。
 まぁ、あれですよ、こう言っちゃ何ですが、ちょいツリ目の黒髪ロング、ミニスカートでサイハイブーツなんかが似合うガールが、ふわっとしたセーターの柔 らかい印象とは正反対にきっとした目つきで「この変態が!」とか罵ってくださるなら、ワタクシ、間違いなく逆襲しますけどね。更生してやりますけどね。

 悲しいことも楽しいことも面白可笑しいことも、みんな十人十色が当たり前で、他人にとって痛いことが自分にとってもまったく同じ痛みだなんて、まぁそうそうあるわけじゃないんですよ。
 あるわけじゃないことだからこそ「あっ~っ!! あるあるある! わかるよ! うんうん!!」という瞬間が格別嬉しいわけで、そういう風に思える相手が大事だなぁって思うわけじゃないですか。
 誰でもみんな一緒だったら気持ち悪いし、だからといって、何でもかんでも「みんな一緒なわけがない!」って否定して食ってかかるのもすごく下品でみっともない。

 そういう当たり前のことを「当たり前」って肌に感じながら生きていれば、誰かが笑うと「あ、何か楽しいんだ! でもお前の笑っていることは絶対俺には理 解できない」とか、そういうのもあると思うんです。分からないことを面白がっているのを見ていて可笑しい、みたいなことも。

 孤独っていうのは結局、自分で糸を切る行為の結果なんですよね。
 糸を太くしようと短くしようと、そういうのはお互いの中でなんとなく調整されて行くけれど、どちらかが糸を切ると、もうそれは切れた糸になってしまうから、元に戻すのは簡単なことではない。
 そういうのが分からない人って、本当に分からないから、いくらでも簡単に自分でも、他人に対しても、糸を切らせようとする。
 自分と同じだけ世界が孤独になれとでも思っているのかもしれません。
 逆に繋げようと思えば、いくらでも繋げることはできる。
 もちろん、繋げようと思った先に相手がいるのだから、相手が繋がってくれるかどうかはまた別の問題だけれど、繋がっている相手を感覚することは可能なわけです。
 それを自分で簡単に切り離すような考え方や行動をしておいて「私は孤独だしぃ……」とか言われても「そやね」としか答えようがない。

 なんでもそう。作る方が、壊すよりはむつかしい。
 料理ひとつ取ってもそうですから、知ってか知らずか、冗談抜きの「食べ専」の人って、おそろしいと思います。

 まぁ異性に関していえば僕も「食べ専」であり、いや待てよ? よもや「作る専」もアリといえばアリ?



 ……こほん(咳払い)。

>>>

 まぁそのようなわけで、僕はちょっとした孤独感の権化のような感じはあるんですが、孤独だからって絶望はしないだろう? というのが、僕の考え。だって、孤独って自由ですごく楽しいし。

 もうね、笑いたいことで遠慮なく笑いたいだけ笑えるって、どれだけ楽しいかと思いますよ。
 なんかこう、目の前の人間に遠慮しちゃって、自分は面白いのに思い切り笑えなかったりするのって、もう自分殺しと一緒ですからね。
 悲しいとかもおんなじ。
 頭に来たらとりあえず中指立てたりしたいじゃないですか。4文字言葉を叫びつつ。
(冗談はともかく)
 そりゃもう、ストレートにね、目の前の人の感情を受け入れてくれる人ばかりならいいんですけれど、中には「とりあえずビール」の勢いで、とりあえず否定 したりバカにしてかかってくる人がいますから(「何が可笑しいの?」「そこはあなたが悲しむところ?」といった具合)、こういうのが恋人とか友人だと、こ ころがしんでしまいます。
 可笑しいと思ったら可笑しくていいし、悲しいと思ったら悲しくていいし、アタマに来たらガン飛ばせばいいわけで。

 ということで(ということで?)長らく泣いたり笑ったりしなかったのですが、このところとても面白可笑しく過ごしております。
 主に、私のおかげです。私だけのおかげ。

 万歳自分! バンザイ俺! ビバ! ワタクシ。

 たぶんメデタイんだろうなぁ~(第三者的に)。








// ----- >>* Escort Division *<< //


::僕の指はそこに残された体温を辿る。彼と形作った記憶の輪郭をなぞる。何も消えていったりはしない。何も闇に沈んだりはしない。僕のなかの何かが勝手 に消えてしまうことを、僕は認めない。もし君が暗闇に呑まれるのなら、と僕は思う。僕は手を伸ばす。たとえBGMが流れなくても。




// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~

文頭および文末引用は
「コノコネコノコ」From「bicoid」
Written by Nobuyuki OKAHISA
によりました。




// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[Traffics]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
  -Cat--Friend-





// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  青猫のひとりごと:暗闇エトランジェ:いのちあるものたち





//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//FileName:Archive/Squared_real_and_dream
//TimeLine:2008121

// ----- >>* Header Division *<< //
*淡いブルーの交差点
~ Squared real and dream. ~

Written by 工場長



// ----- >>* Lead Division *<< //

::子供が空を見上げて,「わぁ気持ち悪~い,蕁麻疹みたい」と言ったら、その自由な発想を讃えよう。
 そのピュアな感覚に大人は心を洗われるべきだ。
 知らず知らずのうちに感染している「大人病」にどうかご注意を。




// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

 今でこそ使うことはないが、私は、方眼紙が大好きだった。
 一般的な、水色の罫線の1mm単位のものは、A4サイズとA3サイズを持っていたし、3mm幅、5mm幅のルーズリーフのリーフレットも持っていた。
 たまたま、方眼紙が、あった。それが始めだろう。

 その、規則正しい配列に、機能美を、感じたのではないだろうか。
 方眼紙に強く傾倒していったのは、7歳の秋だった。
 直角や直線はもちろん、罫線の交点を使った対角線、直角に交わる2直線とそれぞれの任意の点を結ぶなめらかな曲線に至るまで、それらすべてが楽しかったし、できあがるものを美しいと感じた。
 もちろん、7歳の僕は「美しい」なんて語彙を持たなかったし、実際には「うつくしい」よりも「かっこいい」に近い、すごさを感じた。
 それはなんというか、同心円が7つ集まるとぴったり重なって、円周同士を結ぶと6角形になった瞬間を初めて見たときにも似た、感動だった。
 完璧なものが存在すると信じられた、その瞬間だったし、その完璧に向かって、シャープペンシルと消しゴムとものさしを駆使する、一種のクライミング体験であった。

 あるとき、宇宙船の、絵を描いた。
(今思えば、それだけで恥ずかしくなるような事実である)
 おそらく、テレビか本の影響だろう。
 三面図が、書きたくなったのだ。

 三面図。

 これまた7歳の僕には、圧倒的な驚嘆に満ちたものであった。
 メカというのは、なるほど、そうすることでなんともテクニカルに映るし、そもそも、ひとつのものをそうやって、複数の視点から同時に描くことが当時の僕には新鮮な驚きだったのだ。

 まだ当時の僕は「先端がとがっているモノがカッコイイ」とか「左右対称こそがカッコイイ」と思っていて、それを忠実に描いた。
 多くの男の子たちが自動車や電車、エクスカヴェイタやブルドーザに代表される採掘重機などに魅了される中で、僕がそこに到達しなかったのは、僕なりのメカに対する美学が「あんなのヘボい」と思っていたからに他ならない。

 今振り返って思えば、僕が設計の仕事に手を染めたこともあったのは、そうした「設計図なんかを描いてみたい」という思いがあったからなのかもしれない。

 もっとも、実際にやってみると「設計をする仕事」というのは「思った通りのモノを作る」仕事などではない(あたりまえだが)。
 コンセプトデザインを作るのでもない限りは、もっとシビアな現実を突きつけられる。
 時間や予算など、さまざまな制限があるし、そもそも誰かが作った形状に基づいて、機能を詰め込んでゆくだけの作業だったりする。
 それに、制限は、数値化できるものだけではない。
 たとえば上司のコンセプトが自分のコンセプトと違ってしまえば、自分の設計は通らない。
 他部署であるとか、関連会社であるとか、そういうところの絡みだってある。
 つまり、それこそが「設計という仕事」だともいえる。

 純粋に何かを発想し、それをカタチに変換する、という意味での設計は、おそらく個人でしかできないのではないだろうか。
(有名なプロダクトデザイナとかなら話は別だろうけれど、それでも、そこにしがらみや自身の心理的応力などのつまらない外力が働かないとは、思えない)

 こんなものがあればいいと思う。
 こんなカタチであればいいと思う。
 それは、時に滑稽な、絵空事。
 お絵かきのお遊戯ごとでしかないこともあるだろう。
 しかし、それだけで終わってしまうとも、思えない。

 たとえば一面にしか引き出しのない物入れは多いが、実際は二面に引き出しがあって、上面もフタが開いて、という方が便利なことだってある。
 そういうものが、あればいいと思う。
 その最初の発想さえもが、思いつく前に姿を消してしまいかねないような、そんな環境に自分の身を置かないようにできるかどうか、だろう。

 既存の物から選ぶのも楽しいけれど、そこに溺れることのないように自身をストイックな環境に置くことが、時には新しい発想を生むことにつながるのではないだろうか。
 もちろん、既存の物を多く知っているからこそ出てくる、新しい発想もあるわけだから、何が正しい、何がよい、という話ではない。
 ただ「こういうものが、あればいい」という、その貪欲さを、失わずにいたいと思う。

 今では方眼紙を使うことはないし、この先もおそらくないだろう。
 代わりに私はCGソフトを手にしている(当然、グリッドを愛用している)。
 ツールが変わったからといって、何が変わるわけではないし、大切な基本も変わらない。

 いつもぎらぎらと、飢えた目で、見ていたい。
 あれもちがう、これもちがう、こういうものが欲しいんだ、と。

 まっさらな方眼紙に、めったやたらに、手の動きの速度さえもがじれったくて仕方ないような、焦燥と愉悦と感動を感じたい。 

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//








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::大人になれば,自分を制限しているのは基本的に自分だけである。
  もっとのびのびと自分に好きなことをさせてあげよう。
 大の男が着せ替え人形を買う。可愛いなと思ったら買う。
 どこに間違いがあるだろうか。
 それに顔をしかめる精神こそが,きっと何かに汚染されているのだろう。






// ----- >>* List of Cite Division *<< //
*出典
~ List of Cite ~


 引用は
「どうして1つ?」From『悠々おもちゃライフ』
(著作:森 博嗣 / 発行:小学館)
 によりました。





// ----- >>* Junction Division *<< //
*NEXUS
~ Junction Box ~


[Traffics]
  [[あたしのめあてをしっている>Archive/Little_thing_Little_think]]
  [[新しいもの、古いもの>Archive/Diary_070815]]
  [[やっぱりどうでもよいもの>Archive/Diary_070818]]
  [[デザインに見る美>Archive/Actuatable_Hunch]]
  [[たんぽぽパラシュート>Archive/the_end_of_lost_child]]



// ----- >>* Tag Division *<< //
[key]
&tag(★★☆,Close,Create,Design,Generator,History,Light,Technology,ToolBox);

// ----- >>* Categorize Division *<< //
Category:ひなたぼっこ:工場長の設計室:青猫のひとりごと:青猫TOOLBOX





// ----- >>* Comment Division *<< //
//EOF
 


::生きる執着とか、そんなんじゃない。
  自分が何なのか、忘れた奴から死んでゆくのさ。





まるで掃き溜めのようなもので、

人間というのは何も書かないうちに何も書けなくなる。

私にとっては、それがもっとも恐ろしい。



部屋が散らかってゆくようにして

塵が積もる。

ノイズが溜まる。


本来見えているはずの、綺麗なものたちが

曇る。

錆びる。

乱れる。



それが許せなくて、少しずつ、綺麗にしつづける。

出力とはそういうもの。

たとえば抑圧を受ける場合もそうだろう。

「これはいいことだ」とやりたくもないことを刷り込まれ、

「これはいけないことだ」とやりたいことを禁じられ、

そういう抑圧によって、一時的には、きれいなカタチができるだろう。

しかし、それはいつか必ず、応力で崩壊する。



本来、そのカタチになるべくモノが、そのカタチになるのである。

圧力によって作られるカタチというのは、いずれ無理でひずむ。

歪まないためには、余計な力を抜きつづけなくてはならない。

回しつづけないエンジンは、使い物にならなくなるのである。

それが、恐ろしい。

なぜかといえば、自分は、使いまわしもきかないし、買い換えることもできない。

きちんとメインテナンスしてやる以外に、方法がないのだ。



それでもたまに、メインテナンスを忘れると、塵が溜まる。

綺麗な出力が思い出せなくて、

塵を吐き出しながら、本来のカタチを、

自分の機能を思い出す。



夢のような茫漠

あるいは砂のように雑多な日常

誰も扉を開けないガレージ

眠りつづけたメカニズムは

自分の正体を忘れて



イグニションさえ届かない

錆びついたまま動かない

その本来の動きが機構を壊して



自分が誰だかも分からず

機能が何だか思い出せず

刷り込まれたオブジェのままで

朽ち果てる日を待つ



それが嫌だから

いつまでも自分を確認しないではいられない。

綺麗に保って

動きを確かめて

潤滑をよくして



何とかみ合わなくても結構

何に伝達しなくても結構

何を動かさなくても結構

何に組み込まれても結構



とにかく動いていたい。

まわり続けていたい。

自分が自分であることを、確認していたい。

途切れたメカニズムに記憶を吹き込んで

薄れた排気の匂いを呼び戻して

かすれた声を

泣くように。
笑うように。

呼ぶように。
叫ぶように。

汚れた外殻から、汚れを引き剥がして



自分の姿だけは、忘れないように

どんなカウルを纏っていても

どんな機構が与えられても

燃料がそこにある限り

オイルが中に巡る限り

回っていたい

動いていたい



熱を、

忘れないでいたい。



動けなくなる

その日まで









::煙を吐き出しながら、あいつは笑っていた。
  笑いながら、しかし、気絶していた。







 引用は
『屋根』(青猫工場 第6工場[※閉鎖])
 によりました。





 

 


::飛行機が美しく見えるのは、たとえば電化製品や洋服などのように「人に優しい」という部分がないからではないだろうか。
 飛行機は、空を向いている。
 飛ぶための形をしているのであって、地上にいる人間たちのウケを狙って翼を広げているのではない。
 その意味では、人間に優しい形ではないことは明らかだ。
 それが、どことなく伝わってくる。無駄がない、贅肉をそぎ落とした形に見える。その洗練が、感覚的にわかる。
 だからこそ、本当に格好良いと感じるのだ。

(「飛行機の証明」 From 「工作少年の日々」/ 森 博嗣)





 写真を、持っていない。

 14歳の秋のとある夜、さんざん思案した末、すべて捨ててしまった。

 タンスの抽斗のなかに、永らく眠っていた写真、そしてそのネガ。

 実にその頃は、我が家では写真を撮る機会もなくなって久しく、写真を撮る者もいなかった。
(巨大な冊子としての)アルバムは、どこかの戸袋に仕舞われたままで、アルバムに入り損ねたか、あるいはアルバムから取り出されたかした、写真たちとそのネガが、そのタンスの抽斗に納まっていた。

 私はその抽斗を空にしたかった。

 空にして、自分の思うように使いたかった。

 けれども、そこには写真がある。

 私の生まれた時のものから、私だけではない(当時はもういない)家族のものもあった。

 自分の知らない自分や、自分の知らない家族の画像。

「ああ、こんなこともあったなぁ」などと思い起こしてみたり、
「はて、こんなこともあったのか」と驚いたりしながら、
 一枚一枚、しばらく眺めていた。

 眺めながら、しばらく考えていた。

 そして、おもむろに捨てた。

 抽斗を丸々引きずり出して、ポリ袋(当時は黒かった)の中で、逆さにした。



 そのときの僕の思考をトレースすると、以下のようになる。

 抽斗を空にしたい。

 写真が邪魔である。

 別の場所に整理して仕舞うのは面倒である。

 捨ててしまいたい。

 しかし、数年後、数十年後、また見たいとは思わないだろうか。

 私が思わなくても、家族の誰かが、見たいと思ったりはしないだろうか。



 いや、すでにいない家族の者は、見たいと思っても、見ようがないだろう。

 今いる家族は、これまでの数年間にわたって、アルバムを開いたり、写真を掘り返すようなことはしていない。きっとこの先も見ないだろう。

 では、最終的に、将来にわたって自分がどう思うか、だな。



 そう思いながら、1枚1枚、眺めていた。

 姉たちの写真があり、妹の写真があり、自分の写真があり、父の写真があり、母の写真があり、夫婦の写真があり、家族の写真があった。

 これらの写真におさめられた過去はともあれ、これらの写真1枚1枚が、それぞれの者にとっていかほどのものであるかを考えた。

 皆で旅行に出かけた時の写真があり、幼い妹と遊んでいる、(女の子に見えるが)私と思しき子供の写真があり、母に抱かれている誰か(私か、妹か、姉か、判別ができない。日付けもない)の写真がある。
 若い頃の父と母が、手をつないで立っている写真がある(誰が撮ったんだろう)。

 はて。

 と思う。

 はて、一体これらを、私は将来、見たい(あるいは誰かに見てもらいたい)などと、思うだろうか、と。

 もちろん、ネガごと全て捨てるか、全て残すか、という岐路に(誠に勝手ながら)立っている訳なので、その(誠に手前勝手な)責任は、重大である。

 しかも、誰かに相談すれば、絶対に「いや、捨てない方がいいだろう」と答えるに決まっているのである。
(少なくとも、私ならそう答えるはずだ)

 見もしないのに持っていることで安心してか、そんな重荷で(いや、写真は軽いが)自らの空間自由度を低下させ、そこに安住する文化様式が、思考概念が、そこには存在するのである。

 果たして、それでいいのだろうか、と僕は思った。

 どうせ見ないのなら、捨ててしまえば良い。

 なのにどうして、捨てることが後ろめたいのだろう。

 これが写真だからであろうか。

 それとも、自分や家族の写真だからであろうか。

 これが、自分の歴史の証明だからだろうか。

 だから、捨てられないのだろうか。

 一体誰が、それを私に教えたのだろうか。



 いや、写真など、いくらでも捨てられる。

 家族のものであろうと、自分のものであろうと、見ない写真に価値はない。

 これは歴史ではなく、あくまでも写真である。

 写真を捨てても、歴史は変わらない。

 ならば。



 そう思い、きちんと1枚1枚を見納めして。

 そして捨てた。

 空っぽの抽斗という自由と、記憶に焼き付いた家族の画像を、僕は引き換えに手に入れた。





 その頃すでに、僕は視覚で人を記憶しなかった。

 声や匂いや空気で、その人物やその時点での状態を把握するのは生来のものなのかもしれない。

 あの時の写真も同様で、映像の細部のほとんどを記憶してはいない。

 ただ、あの夜、1枚1枚に封じ込められた過去に思いを馳せて、それを捨てる決意をした時、大げさかもしれないが、
「ああ、これが生きるということなんだな」
 と、そんなふうに感じた。

 記憶は記憶、歴史は歴史、過去は過去、モノはモノ。

 人は人、自分は自分、家族は家族。

 大切なものは、どうやったって大切なもの。

 そして、今は、今しかないという事実。

 確固とした今は、今この瞬間にしかなく、過去も未来も、曖昧で確かなことなどひとつもない。

 だからこそ、人間はそれを形に残したいと思い、記録に残したいと思うのだろう。

 そしてあるいは、カタチにしてしまったがために、それで安心してしまったがために、結果として壊すことになってしまったのかもしれない。



 ならば、と思った。

 今という抽斗のなかを、なるべく自由に、からっぽにして。

 本当に大切なものは、

 たとえカタチに残したとしても、胸の中に、いつまでも残し続けよう。
 カタチを捨てても、心から捨てることはないようにしよう、と。



 必要なくなったものは、どんどん捨ててゆく。

 気に入らないものは、次々処分してゆく。

 邪魔なものは、できるだけ排除する。

 いつからか、そんな、燃料の切れた飛行機のような生き方を指向するようになった。

 モノを捨てられない人からは、ずいぶん冷たい人間だと思われるようだ。



 写真についてもう一度触れると、僕は旅先でも写真を撮らない。

 集合写真などの場合はにっこり笑って撮ってもらうが、送られた写真は一度見て、捨てるようにしている。

 風景にしても、一緒に行った人にしても同様。

 本当に綺麗なもの、本当に大切なものは、勝手に心に焼き付くものだ。

 学生時代の文集の類いも、半年開かなければ捨てるようになった。
 半年開かないことが分かっていれば、その日のうちに捨ててしまう。
(結果、一冊も残っていないが、不便を感じたことは一度もない。きっとこの先も、ない)

 記憶も、想いも、感情も、カタチではない。

 それをカタチにして残すのは、本当は簡単なことではない。
 簡単なことではないのだから、安易にするべきでもないと思っている。

 しかし、私や私の家族の写真があったことには、感謝している。

 もし、あの写真がなければ、僕の知らない、あるいは忘れていた記憶を知ることはできなかった。

 存在しない写真では、捨てることもできなかった。

 皮肉なことと思うかもしれないが、僕の記憶に画像以外の情報として、決意や悟りというべきものと共に焼き付けられ、捨てられるべくしてあったと思えば、あれらの写真はなくてはならないものだったのだと思う。

 増槽(フュエル・タンク)のように、燃料を本体に回して、より遠くへ、より高くへ、到達させるために。

 不要になったら切り離される。

 それは、モノだからこそ、道具だからこその機能。



 人間はカタチにする生き物である。

 カタチが豊かさの象徴であり、カタチが確かさの証だと思っていた。
 カタチに残せないからこそ、カタチに残そうとし続けた。
 そういう歴史を経てきた生き物である。

 いつか、そんな愚かさを捨てられる日が来るだろうか。

 カタチではなく、記録ではなく、物質ではなく。
 こころに残る、記憶に残る、思い出に、歴史に残る。

 そんな生き物に。

 未来に変わらず残れる。

 そんな、壊れない、捨てられない、カタチに。



 翼の切っ先が青い無地に描く、鮮やかなカーブのように。

 時間と共に消えてゆこうとも、見るものの胸に、焼き付いて離れないではいられない。

 カタチではない驚きを、喜びを。

 いつも抱かせていたい。いつでも、抱いていたい。

 いつまでも。







 文頭引用は
「飛行機の証明」 From 「工作少年の日々」(p.202)
(著作:森 博嗣 / 発行:集英社)
 によりました。
 



わたしはあなたのゆめをみよう

ねむりがやみにとざされていても

あしたがむなしくおもえても



わたしはあなたのゆめをみよう

たとえばそれがのろいでも

どこにゆきつくあてがなくても



わたしはあなたのゆめをみよう

たとえばめざめることがなくとも

いつまでもつづくゆめだとしても



わたしはあなたのゆめをみよう

あかるくつきのてらすよも

あるいはひかりのさしこむごごも



わたしはあなたのゆめをみよう

かぜのひめいのきこえるよるも

あめのしずくのながれるよるも



わたしはあなたのゆめをみよう

やさしくそよぐかぜのもとでも

さえずるとりのうたのなかにも



わたしはあなたのゆめをみよう

めぶいたきぎのといきのなかにも

はらはらはなびらまいおりるときも



わたしはあなたのゆめをみよう

まっすぐさしこむひかりのなかにも

そらにむかってのびたつくさにも



わたしはあなたのゆめをみよう

ゆらゆらゆれるかわものなかにも

とびたつとりのみつめるさきにも



わたしはあなたのゆめをみよう

こぼれるわたしのかなしみさえも

たけれるわたしのいかりにさえも



わたしはあなたのゆめをみよう

このゆびのさきに

このむねのなかに

あなたのゆめをみよう



そっと

あなたを

みよう




 

01/29の昼過ぎまでは元気に走り回っていたのだが、夜から喉に違和感を覚え、翌朝には発熱。
30日の仕事はこなしたものの、31日以降の仕事はキャンセル。

30日の夜から寝たきりである。
子供の頃は高熱にも強くて、38℃くらいなら普通にしていられたのだけれど、最近はダメだ。
まず立っていられない。
あっ、違うんです奥さん、立つっていっても姿勢の話であってあっ、奥さん違うんですあっ。

……高熱なので下ネタも冴えないのである。

トイレに行くにもよろけながら這うように移動し、あちこちにぶつかる。
手を洗っている最中に前触れもなく転ぶ。
ちょっと待って、立ってるだけで転ぶってどういうことなの?

熱は38℃から39.5℃。
死ぬほど高いわけではないが、全身打撲を受けたような痛みから、多分インフルエンザかな、と当たりをつける。
鼻と喉の粘膜と胸の奥が焼けるように痛んでいて、それ以外の筋肉も痛いものだから、感覚が把握しきれなくて意識が朦朧とする。
あ、これは熱だからか?

以後、寝たきり。
基本、白湯を飲む生活。

3日目の昨日までに摂取したのはいくつかのビタミン剤、コーラ(糖分大事)、ヨーグルト(半分以上食べ残す)、ポカリスウェット(カラダも喜ぶ安定の吸収力)、薄めに作った調整ココア(これは受け付けず嘔吐した)。
(乳製品、アウトかよ!)と思ったので以降、白湯のみ。
買い物に出ようにも何をしようにも、まっすぐ歩けないのでは玄関を出られない。
(多分、階段を転げ落ちる気がする)
いつもの通りろくに声も出ない。

ついでに石油ファンヒータの温風に鼻と喉が反応して具合が悪くなるため(あれって密室内を排気で温めてるわけですから)使えず、エアコンは半年前に使ったきりで掃除をしていないから使うのがはばかられ、要は暖房レスの状況を余儀なくされている。

ひたすら着込んで布団に潜り込むぞ。白湯だけが頼りだ。

通常だと勘のいい、優しくて気立ても良くてサイコパスじみたりしていない、まともな女子力溢れるガール(眼鏡着用)がおかゆを作りに来てくれるのだが、今年は恵方の向きが悪いみたいで勘が働かないようだ。

自力でおかゆを作ろうと台所に立って、転ぶ。
神様、もうこのカラダは嫌です。

仕方なく白湯を作り足して布団にくるまる。

それにしても、まったく空腹を感じない相変わらずの超少食。

明日は粥を作ろう。
とりあえず白湯だ!
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20160124

// ----- >>* Header Division *<< //
Written by 黒猫


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
160124

 とうとうこの日がやってきた。
 まさか心不全に「慢性」があろうとは僕も知らなかったのだが、どうやらあるらしい。
 慢性心不全。

 ご存じの人も多いとは思うが、心臓の機能が、身体の要求に対して充分でない状態のことである。
 たとえば心筋梗塞や狭心症、弁膜症などなど、とにかく心臓が動かなくなったり、充分な血液を全身に巡らせるだけの能力がなくなれば(乱暴だけれど)心不全だといっていいだろう。
 充分でないということは、血液がきちんと循環していないということになる。

 その原因は僕の身体が昔よりオトナになったからなのか、心臓が子どものままだからなのか、逆に心臓だけおじいちゃんの大きなのっぽの古時計になったから なのか、今はもう動かなかったら死んでしまうのではないのか。レイディオが壊れるように、心臓もホントのシアワセを教えてくれたりはしないのか。ギザギザ ハートが子守歌では痛くて眠れないのではないのか。あ、あれはそういう歌なのか!(発見)

 ま、とにかくそれ(発見のことではない)が慢性的に発生している状態というのは、要は常に貧血状態のようなものだともいえる。(要するに、の適切な使用方法として秀逸)
 寝ている身体を起こしたり、お風呂に入ったり、階段の上り下りはもちろん平地を歩くだけでも心臓はその活動を適切に変化させている。
 子どもの頃の僕は、しゃがんでいて、急に立ち上がると立ちくらみがしたものだけれど、あれは単純に僕が貧血だったからではある。

 その「慢性心不全」とやらに該当するのだと、医者に言われた。

 どのくらい生きられるものなのかはよく分からないのだけれど、まぁ、10年くらいは生きるだろうし、生きなくてもとくに気にしない。僕ではなく姉のことだから。

>>>

 Y!ブログに標準装備されたアクセス解析をふと覗いて、恐ろしいことに気がついた。
 およそ毎日、誰かが僕のブログを見ている。
 それも、わざわざ検索までしている。毎日である。

 普通に考えると、ブラウザのブックマークをすればよいのである。
 それ以外にも、Y!ユーザなら、お気に入り登録をするのが厭だったとしても、Y!BMなりなんなり、手段はあるものだと思う。
 それが、ほぼ毎日検索を掛けられている。

 もちろん、僕ほどのモテともなると、ネットストーキングごときを気にすることはあまりない(するだけ無駄である)のだけれど、遡ること一年近く、毎日(同じ人物どうかは不明だけれど)、多いときには10回以上も検索されている。
 しかしY!ブログ上の訪問者数よりも、アクセス解析上の訪問者数が多い。
 おそらく、ログインしていない(IDのない)検索によるものもあるようなのではある。

 僕が何も書いていなくても。
 僕がログインしていなくても。
 ほぼ毎日である。

 さらにあろうことか(恥ずかしいけれど)自分で「青猫工場」を検索すると、もれなく「青猫工場 evernote」という単語セットが検索エンジンからサゼッションされる。
(解析の検索ワードにもときどき登場する)

 信じられるだろうか。
 つまりこれは誰か(たぶん僕ではない)が「青猫工場」を検索し、「青猫工場 Evernote」も検索し続けてきたせいで「あっはい(察し)」をされてしまったのである。検索エンジン=サンに。
 うまく探し回ると、リンクを消したオープン Evernote を見つけることができる。

 一体どうしてこんなことになっているのだろう。
 かなり気味が悪いので日記を書くのをやめていた。
 座敷童は悪いことはしないというけれど、やはり人のいないはずの自分の家に見ず知らずの子どもが居たら、それは怖いと思う。
 昨晩は飲み過ぎてしまったのだけれど、目が覚めてみるとベッドの隣で見ず知らずの美女が半裸で眠っているくらい怖い。

 そもそもお酒を飲んで記憶がなくなることがすごく怖い(そんなことは10年に一度くらいしかないけれど)。
「だ、だれだおまえは!」という気持ちが半分、それから「これらを把握できていない俺は誰なんだ!」という気持ちも半分。
 この「把握できない俺は誰なんだ」という気持ちこそが、記憶や意識をなくしていることの恐怖である。

 しかしながらこのような10代の青少年のごとき自意識過剰さを僕はかなぐり捨てて、たまには日記を書こうかとも思ったのだけれど、全体に沈鬱なことしか書かない予感がするのでやっぱりやめます。

 といっても昔から、僕は日記のようで日記でない、少し日記のように思えなくもない日記を書いているのであって、これだって、今日あったことについてはほとんど何も書いていない。

 僕が書いている「今日」は、今日ではないかもしれない。
 1年前のことを「最近」とか「昨日」と書くこともあると思うし、ありもしないことを書いたりすることは昔からしている。

 読む人間の反応というのは、ときに面倒なものだ。
 こちらが書いているときに思っていることが10あるとして、そのうち僕は読む人が分かるように書く気がないので、2くらいしか書かない。
「あっはい(察し)」が上手な人は、抽象した情報を自分の中で組み立てて意味を構築することができると思うし、それで充分だとも思っている。
 もちろん、そこで構築される意味が10であるとは僕は思わないし、仮に10であったとしても、僕の思っている10の要素のうち、ひとつも合致しないかもしれない。
 でもそれでいいと僕は思っている。

 2つくらいしか書いていないのに、勝手に10に膨らませて噛みつく類の人間はいくらでもいて、もうこれは言葉の機能や弊害というのではなくて、単純に人間の自意識や認識能力の死角に原因があるのではないかとも思う。
 たとえば両目できちんと見ているのに、見えていると認識していて見えていない領域がある。
(分からない人は勝手に調べてくれい)
 それと同じように、個人の意識や認識能力は「意識している」「認識している」という錯覚(つまりは意識していないし、認識していない)を含んでいるはずだ。
 それを自覚することが謙虚さだと僕は思うので、僕は謙虚に僕の知っていることをわざわざ自分のために検証したりすることがある。

 自分で理解しているつもりが、論理として矛盾していたりすることは多々あるものだから。
 もちろん、僕は矛盾が好きだし、かなりの状況において「俺は今、ちゃんと矛盾しているだろうか」と心配したりする。
 矛盾していない人間はだいたいチャーミングさに欠けるし、矛盾を自覚していない人間はたいてい傲慢だからだ。
 だから自覚して、わざと矛盾する勢いで、落とし穴に向かって全力で進んでいく構えを最初から取るのである。

>>>

 全力疾走といえば、最近の僕に全力疾走ブームがやってきた。
 外を移動するときに、もう全力疾走なのである。
 重い荷物があっても全力疾走。思いついたら全力疾走。
 周囲の目をはばからず全力疾走。思い立ったら全力疾走。

 それというのも各部に筋肉は付いたものの(3年も折を見て腹筋をしていれば、ちゃんと腹筋も発達する)僕の心肺機能が、それに追いついていないことに気がついたからである。
 筋肉に負荷を掛けてそれが発達したとしても、心肺機能が低下していれば「身体は疲れていないのに息が苦しくて動けない」という状態になる。当たり前である。
 というわけで、全力疾走なのである。

 子どもの頃から走るのがニガテだったので、とても新鮮である。
 今まで認識していなかった筋肉が、きちんと使われていると感覚できるのである。
(こうやって走ると速く走れるんだ)と不惑に至ってようやく発見したのである。

 しかし周囲をざっと見回すと、自分の身体のことや、身体感覚にずぼらな人は多い。
 先日も職場のあるガールが「私、高気圧だと頭痛がすることがあるんです」というので(まぁそれは気圧の関係だから低気圧と同じような作用が起こることもあるでしょう)と説明した上で、身体のどこをどのようにすると改善されるかを説明した。

 たとえば肩が凝るという人の多くは、肩の筋肉を一生懸命もみほぐそうとするが、いきなりそんなことをしては逆効果だと僕は思っている。
 いわば北風と太陽のようなものだ。いきなり抽象した。抽象的すぎて怖いくらいだ。

 ところで人間の関節のうち、ひとつの関節でもっとも可動自由度が高いのは肩である。
 手首だって、腰だって、単一の関節がこんなに自由に、広く大きく動くことはない。
 それだけ複雑な形状になっていて、いくつもの骨や筋肉が交差している。
 しかし肩に繋がっているどの筋肉がどの動きの時に力を発揮し、またどの骨がどんな動きを支えているのか、認識している人は少ないだろう。
 それでも肩は動くから。それでも地球は丸いから。丸いから。あと青いから。

 自分の身体のことも、人間はきちんと理解してなどいない。
 具合が悪ければ、医者にアウトソーシングする人を僕はたくさん知っている。

 お前の身体だろう、と僕などは思うが、まぁ、そうやって外注するのもその人の自由ですよね(悟り)。

 職場のガールの唇の血色が悪かったので、くるぶしと膝のマッサージを少し教えた。
「もっとして欲しいです」と言われたものの、事務所の中でガールの足元に跪いて膝やらなにやらに手を添えている姿を発見された場合、風紀的にかなり問題だと思ったので「自分で何とかしてください」と言って僕は事務所をあとにした。
 時間と場所さえ弁えてもらえるならば、まぁやぶさかではないものの。

>>>

 少し寒いな、と思ってヒータの温度計を見ると室温が11℃でちょっとビビった。
 ヒータが切れてどのくらいの時間が経ったのか、把握していない。




// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[Traffics]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
  -Tool-





// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  青猫のひとりごと:いのちあるものたち





//EOF
 


::<人間による自律を期待して一度停止して、条件を変えて仕切り直すという選択肢を、私は取ることができます。量によって愛が担保されるのであれば、知性体が多数いることには意義があり、一つの正答よりも多数の誤答が選ばれることは、充分な妥当性があります>






160107

 人間不信という関数を含んだプログラムが、思考という回路に常駐している。
 僕というシステムに含まれたサブシステムのほとんど全てが、その関数の欺瞞に対して警告を発している。

 苦痛だ。
 欺瞞と知っているコードがのうのうと自分の中を走っていることが許し難い。
 まるでウィルスに冒されたアプリケーションを、それと知っているのに使い続けなくてはいけないようなものだ。

 不快だ。
 いつも通りの引数を渡したのにもかかわらず、いびつさを抱える関数の戻り値はどれも不正解で、ために不採用なのだけれど、それでも吐き出された戻り値は僕の心にぶつかって、衝撃を与え、波動を伝える。
 それなのにこの関数を排斥するなり、置き換えるなりの仕組みが整わない。

 それはずっと、今も続いている。
 けれども僕は知っている。
 そんな関数は、いずれなくなる。
 なぜなら僕は、一度はそれを経験し、その自己矛盾の欺瞞をデバッグすることで最適化を図ったからだ。

>>>

 子供の頃、まだ漢字も知らないうちから、僕は大人を信じていなかった。
 しかし自分と同じ年齢域や血縁上おなじくそれに属する子供も信じなかった。
 性別というものがある程度の意味を持ち始めた頃の僕の混乱については書いたことがある。
 僕は自分の性別はもちろん、同性を信じなかった。
 しかし(当然だけれど)異性からは異性に属する者として扱われた。

 僕は自分を信じなかった。
 だから同じように、他人を信じなかった。
 他人を信じないから、自分を信じることなどできなかった。
 自分を信じないから、何も信じられなかった。

>>>

 人間不信という概念は、自己矛盾をはらんでいる。
 人間を信じるという行為は、通常、人間しか行わない。
 それは比較的高度な思考基盤を必要とし、意思によって実行される見えない行為だからだ。

 当然「人間」という集合に自身が含まれる以上、人間不信という概念は、それを抱える自身にも降りかかり、単純明快なパラドクスを起こす。
 不信であるという対象に自分が含まれるとき、自分の持つ不信という認識に対しても同じように不信という反応を示すのが普通だろう。

 それを起こさず当たり前のように人間不信というプログラムを走らせることのできる人間を僕は何人か知っているけれど、たいていはまともな社会生活を送ることのできる狂人、もしくは異常者だ。
 その程度の欺瞞など、しかし社会はあっさりと受け入れて流れて行く。

 彼ら/彼女たちの何が狂っているといって、パラドクスを自分の中で見事にねじ曲げて真っ直ぐにしているのが狂っている。
 彼らの「人間不信」は単なる演技に過ぎなくて、そこで演じられる不信の対象は「甘えたい他者」でしかないとさえ思える。
「信じられない」のではなくて「甘えさせてもらえない」という真意が見え透いて空々しい。
「信じたい」という意思などなく、出まかせに粉飾された自意識が鼻につく。
 しかもその甘えに自分は気がついておらず、それどころか自分は被害者ヅラをしてときに対象を憎んでさえいる。
「人間」という集合の定義もされていないし、自己の定義を放り出している上、他者の定義が曖昧で、不信の意味を取り違えている。
 だから身勝手な愚か者ほど「人間不信」なんて言葉に浸ることができる。
 そこにあるのは、排他的でご都合主義的な自己保存のプログラムでしかない。

>>>

 動物は人間に懐いたりするけれど、それは信じているからではない。
 経験上、その瞬間の人間が自分にとって有益かどうかを判断しているに過ぎない。
 だから普通は、それが飼い主であっても、怒られれば逃げたり隠れたりしようとする。
 信じているから近づいてきたりするのではなく、有益だから、役に立つから、自分に得だから近づいてくるだけである。

 もちろん、人間と動物との間にも信頼関係を構築することはできる。
 しかし、苦痛を与えられてもそれに耐えることができたり、さらにはそれが自身にとって意味のある行為なのだと理解できるまでの信頼関係を構築するのは、容易なことではない。
 たとえば動物病院に行くとそれがよくわかる。

 飼い主が、苦痛も含めて躾をしていない動物というのは、結局のところ人間を信じていない。
 人間が自分に苦痛を与えるのは、自分が悪いことをしたからだとは考えない。
 まして成獣ともなれば、そんなことを躾けることは不可能だ。
 だから自身に苦痛を与える者は敵だと考え、噛みついたり、ひっかいたりする。
 飼い主が何を言おうと、もはや関係ない。
 そのときのそれは、ペットではなく、ただの獣だ。

 躾のされていない獣は、だから悲しい。
 人間に懐くことを知らないまま路地裏に逃げる痩せ細った野良犬や野良猫を見るのと同じ気持ちだ。
 彼らは、痩せ細って、疑うことしか知らないまま死んで行くのだ。
 助ければ助けたで、たとえば置き餌することさえも、他の人間や、あるいはその動物自身をも、 最終的には苦しめることになる。
 だから、存在そのものを放置するよりない。
 それは、少なくとも僕にとっては、多少なりとも悲しいことだ。

 動物同士の集団の中でさえ、躾が身につかず、はぐれる個体は当然いる。
 彼らは孤独に死ぬしかないのだ。

 躾のされていない獣は、だから悲しい。
 人間に愛され、また人間を慕い続けることを知っている動物に比べて、あるいは人間との関わりなど持たず、同胞と共に野生の中で暮らし続ける動物たちと比べても。

 だから躾のされていないペットは悲しい。
 餌を与えられて太っただけの、それは孤独な獣でしかないのだから。
 愛玩という欲を満たすための糧食にされる、それは家畜でしかないのだから。

>>>

 今の僕は、人間不信という変なプログラムを抱えてしまっている。
 おかしなミラーリングでもしたのかもしれない。
 いうなれば価値観の拾い食いのようなもので、それが今まで構築したシステムの中で消化不良を起こしている。

 当たり前だ。
 人間不信の概念には重大な欠陥がある。
 僕の内側のほとんどはそれを知っていて、その欺瞞に対して警告を発し続ける。

 にもかかわらず他者をみだりに信頼できないという条件反射は一種の感情の作用でもあるから、今の僕はその欺瞞を抱えたまま、その反射を無視することでしか対応できない。
仕事であってさえ他者とほとんど接することのない現在の環境は、そういう意味ではありがたい。
 なるべく誰にも関わりたくない。
 そう思うのは、不自然だろうか。

 感情だろうが価値観だろうが、僕は行為の一部としてコントロールする。
 だからいずれ、こんな感覚も消えると知っている。
 もしそうでないなら救いがない。

>>>

 自分と他人は同じ類のものだと僕は考える。
 一方で、自分と他人はまったく違うものだと考える人もいる。
 これらは、まったく逆のことを言っているように思える人もいるとは思う。
 でも僕にはこれらが全く同じことを言っているように思えて仕方ない。

 日本語を勉強し直せと、学校の先生になら言われるかもしれない。
 しかし考えてもみると、どうして他人と自分が違うものだと思うのだろう。
 身体の組成はほとんど一緒で、遺伝子も9割方は同じものだろう。
 考え方は人それぞれ多少の違いはあるかもしれないが、たいていの生きた人間は自分の身体を刃物で刺されれば痛みも感じるしショックも受ける。
 誰だって争いごとは嫌いだろうし、できることなら心地よく日々を過ごしたいだろうと思う。
 なるべくなら人から愛されていたいと思うものだと思うし、できることなら他の誰かをできるだけ多く愛していたいと思うのではないだろうか。

 もちろん個々の差異は知っている。
 ことあるごと他者との考え方についての違いをまざまざと感じて僕は生きてきた。
 けれどもきっとそれだって、誰でも同じだろう。
 当たり前のことなのだ。

 つまり個々に差異があることが、結局のところ「個々に差異があるという同一性」を生んでいる。
 あなたと私は違うね、という同一性だ。違うということが同じなのだ。
 これが翻って、あなたと私は同じだね、という感覚に(僕の場合は)収まる。

 自分という存在は特別なものだという意識が、結果的に猥雑で没個性的な意識に過ぎないのと同じように。
 違うという、差異を主張し、それによって自己を確立したり世界を定義しようとする行為は、 なんとも幼稚に映る。

 そんなのは当たり前のこと。
 わざわざ主張する価値もないし、他者に説明する必要も、説得する意味もない。

 それでも時折、声高に申し立てる人もいるのだ。
「私とあなたはそもそも違う人間なのだから」と。
 考え方も経歴も出生も生い立ちも違う。
 国籍も違えば文化も違うし性別も違えば習慣が違うし年齢も違えば経験も違う。

 ええ。ええ。
 そもそも種族が違いますよ僕は猫ですからね。
 という心の言葉を僕は飲み込む。
「そもそも違う」なんて当たり前のことをわざわざ議題のテーブルに載せてくるような愚者には、この冗句(本当は冗句ではないのだけれど)を言っても通用しない。
 そもそもというのなら、そういうタイプの人間どもとはそもそも次元が違うのだ(言った、言ったよ。今、言い切ったよ)。

>>>

 私とあなたは違う。
 あの国とこの国は違う。
 この次元とあの次元は違う。
 人間と猫は違う。
 男と女は違う。
 東と西は違う。
 北と南は違う。

 僕は、つい笑ってしまう。
 できることなら問いたいのだ。
 本当に? と。

 陸と海とは違うというけれど、では海と湾の違いは? その境は?
 湾と川の違いは。その境は。
 湖と海の違いは。湖と池の違いは。池と大きな水たまりの違いは。
 小さな水たまりと、そうでない地面の違いは。

 結論として乱暴なことを言いますが。

 海も陸も一緒じゃねーか!

 ああ、もちろん。もちろん。
 分かるんですよ。違いますよね、陸と海。ね。海水と淡水も違うし。はいはい分かりますよ。陸と海は違いますよね。はいはい。陸と海、ドライ&ウェットね、はいはい。
 ホワイト・アンド・ブラックというのがね、仮装大賞の演目に昔ありましてね、テレビでね。あ、古くて分かんないですよね。

 要はそのくらいどうでもいい違い。
 違うことはよく分かるんですけれども、そこに含まれる、あるいはそれを含んでいる同一性、統一性、そういうものについて考えると、違いというものは、たとえそれらが対立関係にあったとしても、結局同じことにしか思えないのだ。
 たとえるならコインの裏と表のように。

>>>

 欺瞞を含むコードがたとえ今の僕を支配していたとしても。
 僕は忘れていない。
 他のすべてを忘れても、けっして忘れたりしない。

 僕は人間を信じていた。
 僕は大人を信じていた。
 僕は子供を信じていた。
 僕は他者を信じていた。
 僕は同性を信じていた。
 僕は異性を信じていた。
 僕は自分を信じていた。

 僕は猫を信じている。

 猫と、猫の神様を。








::心臓すらないレイシアはそれでも言う。
「魂はありません」
 アラトは天を仰いだ。
 浮ついていたからこそ、突き落とされた痛みがいや増して、目を閉じる。まぶたの裏に、迷ったとき浮かぶのは、彼にとってのスタートラインだ。赤黒い爆発と、しっぽを振る白い犬を思い出す。ほぅと温かい息が漏れる。しっぽを振る楽しそうな“振る舞い”に、ちいさかったアラトは 救われた。自分から始めようと思えた。
 彼には、意味なんてなくても手を伸ばせる。
「魂がないからって響かないわけじゃない」
 自分に腹が立った。アラトは子どもの頃、あの白い犬の魂なんて見たことはなかった。それでも、楽しそうな様子に勇気をもらった。
「それでも、僕のこころは動いたんだ」








文頭引用は、
『Last Phase「image and life」』(p.642)
文末引用は、
『Phase 1「contact」』(p.35-36)

ともに
「BEATLESS」(著作:長谷 敏司 / 発行:角川書店)
によりました。



 


::ああ、そうか。
そうだったんですね、神様。
僕は……間違っていたんですね。






151215

 那須だ。那須にいる。

 高原のさらに先まで山は続き、頂は雲に隠れている。
 冬に特有のうっすらとした青いグラデーションは、陽光を吸収した薄くまばゆい雲が半分ほどを覆っている。

 十数年前、この辺りに来たことを思い出す。
 あれは父上が死ぬ前だったか、死んだあとだったか。

>>>

 いろいろなことに疲れてしまった。

 不要なものが家の中の1/3ほどを占拠し、普段なら間違いなく捨てているはずが、大きいやらおよそ新品であるやら何やらで、手間や時間やコストを掛ける余裕もなくそのままになっている。

 第一、発送した履歴書の返事がまだ来ない。
 不安だ。

>>>

 自分で作ったルールとやらを他人に押し付けて、やれ信頼だ、信用だとのたまいつつも、自分についてはそのルールを守ろうともしていない、あるいは守っていないことさえ覚えていない人間がいる。

 他人の人生を歩んだこともなく、自分の人生もまだ終えてもいないのにもかかわらず、わけ知り顏で、もちろん何の責任を持つでもなしに、あれはこうしろ、これはこうでなければ、これは貴方のためなんだよ、と図々しく、厚かましく、もっともらしく、優しげな表情で、しかし暗に高圧的に指図する人間がいる。

 何か、良くない結果になったとしても、そういう連中は、
「あの時はそうするべきだと思った」
「最終的には、あなたが自分で決めたのでしょう」
 と、最後まで自論の誤りなど認めることなくご高説くださる始末。
 たいそう有難いことである。

 人間なんぞ、みな噛み殺してやるから死に腐れ、と思う。


 だいたいこんな感じ。

 このCMを見ても、何も感じない人のほうが、もしかしたら多いのかもしれない。
 ネットで炎上したという話も聞かないから、きっと何も感じない人が多いのだろう。
 僕はラジオCMしか聞いたことがないが、薄気味悪いのと、虫酸が走るのとで、しばらく嫌な思いをした。
 もちろんオトナなので、苦情を申し立てたりはしない。
 たびたび聞くうち慣れもした。

 頭数を揃えて、無言の圧力を掛けるのが不愉快だ。
 圧力を掛けておきながら「それはあなたが決めることよ」と白々しい責任逃れをする欺瞞が不愉快だ。
(他者に対する欺瞞であれ、自己欺瞞であれ、欺瞞は欺瞞だ)

 暗黙の数の暴力を行使しておいて、結果論的な正当化によって予め自己防衛していることが不愉快だ。
 まるで強姦されるような不愉快さだ。

 私の身体に許可なく触るな、と思う。
 私の思考に、私の生き方に、無理やり何かをねじ込むな、と思う。

 しかもそういう連中は決まって一対一ではなくて、なんだか得体の知れない(金メッキのように薄っぺらに光り輝く)仲間だか味方だかを引き連れて、つるんでこちらを囲んでかかる。
 人の話を聞くフリをして、そのジェスチュアの儀式が済めば、ただただ自分の論理を人の中に突っ込んで、反論を許さずねじ伏せる。
 要は狩猟と一緒だ。
 だから暴力なのだ。
 その時点で正論の正論性なんてものはなくなる。

 それはそうだ。
 強姦する集団の中にあっては、強姦することと、されることが、等しく正論なのだから。

 考えられるだろうか。
 ああ、考えられる。
 集団の狂気であるとか、数の暴力であるとかは、つまるところそういう理屈で動作するメカニズムだ。

 しかしながら、許可なく、本来の意思に反して、対価も支払わず、責任も取らず、他者の身体はもちろん、思考や、未来や、財産や、価値観といったようなものを暴力や脅迫によって自分の思うように操ったり奪ったりするのであれば、すなわちそれは強姦と一緒だ。凌辱なのだ。
 いかにそれが「その場」における正論であり、あるいは必然であり、あるいは必要であったとしても、それは許されざる行いではないだろうか。
 肉体に傷を受けるわけではないけれど、同じくタチが悪い。

 そういう連中の「いかにも私は正しいです」という涼しい顔が、不気味を通り越して不愉快なのである。

 端的に言うと、
「ああ、こいつら、よってたかって人の考えをレイプしたくてうずうずしてるんだな」
 ということになる。

>>>

 そんな人間たちに疲れて、僕は那須にやってきた。
 ……のではなく単に仕事である。

 山はいいものだ。
 そこに流れる川の水を眺めていると、それだけで楽しい。

 自然は、こちらが学ぶ姿勢を忘れない限り、いろいろなことを教えてくれる。
 なのに、決して何かを押し付けてくるようなことはない。

 現象というものの多くは自然現象で、つまりは日常の、たとえばガラスのコップを落とすと割れるとか、料理を加熱し続けると焦げるとか、植物に水をやらないと枯れるとか、猫を拾って育てるとか、そういったことから、僕は多くを学んだ。

 もちろん、そうした基本的な姿勢を教えてくれた先生がいたのだと思うけれど、それは手取り足取り教えてくれたのではなく、単にありようを示してくれていただけで、それを勝手に僕は学んだのだ。

 自分が示すでもなく、ただ頭ごなしに空虚な能書きを(それも雁首揃えて)垂れて、なおかつそれを当たり前のように人の中に突っ込んでくる品性下劣なイキモノを見るたび、僕はひどい気分になる。

 アンタが本気で正しいと思うことがあるなら、ひとりでやってみなよ。
 何の、誰の支援もなく、自分だけで、何から何までやってみて、それからモノを言いなよ、と思う。

 白々しい、うわべの正義を人の中に射精していい気分になるような暴力はやめてほしいと、最近大人になった僕は、ようやく思えるようになった。

 指示を出して理屈を押しつけたとしても、実行した結果から理屈が正当であると理解できて、あるいは思わぬ結果になったとしてもそれをきちんと受け止め、責任を取ってくれるような人は、今までの人生でも3人しかいなかった。

 つまるところ、今日もどこかで数の暴力によって、誰かがいいようにねじ伏せられている。
 あるいはそれが人間関係だと、勘違いしている者もいるだろう。










::暗くてじめじめしたところに棲む生き物を日の当たる地面に放り出したり、あるいは陽光をたくさん必要とする植物を暗闇に閉じ込めたりするのは、いずれも正しいことではない。
 松を杉のように真っ直ぐに育てることはむつかしいし、杉を松のようにしなったカタチに育てることもむつかしい。
 人間の欲は、時に歪んだ優しさを示して、あるいは裏返った正義を示して、自分の正論に酔う。

 僕には救えなかった。
 救うおうとすべきではなかったし、救おうと考えるべきでもなかった。
 なぜなら、それは僕の欲でしかなかったから。
 不自然を、他者に押しつけることでしかなかったから。

 神様。
 僕は、間違っていたんです。