::飛行機が美しく見えるのは、たとえば電化製品や洋服などのように「人に優しい」という部分がないからではないだろうか。
 飛行機は、空を向いている。
 飛ぶための形をしているのであって、地上にいる人間たちのウケを狙って翼を広げているのではない。
 その意味では、人間に優しい形ではないことは明らかだ。
 それが、どことなく伝わってくる。無駄がない、贅肉をそぎ落とした形に見える。その洗練が、感覚的にわかる。
 だからこそ、本当に格好良いと感じるのだ。

(「飛行機の証明」 From 「工作少年の日々」/ 森 博嗣)





 写真を、持っていない。

 14歳の秋のとある夜、さんざん思案した末、すべて捨ててしまった。

 タンスの抽斗のなかに、永らく眠っていた写真、そしてそのネガ。

 実にその頃は、我が家では写真を撮る機会もなくなって久しく、写真を撮る者もいなかった。
(巨大な冊子としての)アルバムは、どこかの戸袋に仕舞われたままで、アルバムに入り損ねたか、あるいはアルバムから取り出されたかした、写真たちとそのネガが、そのタンスの抽斗に納まっていた。

 私はその抽斗を空にしたかった。

 空にして、自分の思うように使いたかった。

 けれども、そこには写真がある。

 私の生まれた時のものから、私だけではない(当時はもういない)家族のものもあった。

 自分の知らない自分や、自分の知らない家族の画像。

「ああ、こんなこともあったなぁ」などと思い起こしてみたり、
「はて、こんなこともあったのか」と驚いたりしながら、
 一枚一枚、しばらく眺めていた。

 眺めながら、しばらく考えていた。

 そして、おもむろに捨てた。

 抽斗を丸々引きずり出して、ポリ袋(当時は黒かった)の中で、逆さにした。



 そのときの僕の思考をトレースすると、以下のようになる。

 抽斗を空にしたい。

 写真が邪魔である。

 別の場所に整理して仕舞うのは面倒である。

 捨ててしまいたい。

 しかし、数年後、数十年後、また見たいとは思わないだろうか。

 私が思わなくても、家族の誰かが、見たいと思ったりはしないだろうか。



 いや、すでにいない家族の者は、見たいと思っても、見ようがないだろう。

 今いる家族は、これまでの数年間にわたって、アルバムを開いたり、写真を掘り返すようなことはしていない。きっとこの先も見ないだろう。

 では、最終的に、将来にわたって自分がどう思うか、だな。



 そう思いながら、1枚1枚、眺めていた。

 姉たちの写真があり、妹の写真があり、自分の写真があり、父の写真があり、母の写真があり、夫婦の写真があり、家族の写真があった。

 これらの写真におさめられた過去はともあれ、これらの写真1枚1枚が、それぞれの者にとっていかほどのものであるかを考えた。

 皆で旅行に出かけた時の写真があり、幼い妹と遊んでいる、(女の子に見えるが)私と思しき子供の写真があり、母に抱かれている誰か(私か、妹か、姉か、判別ができない。日付けもない)の写真がある。
 若い頃の父と母が、手をつないで立っている写真がある(誰が撮ったんだろう)。

 はて。

 と思う。

 はて、一体これらを、私は将来、見たい(あるいは誰かに見てもらいたい)などと、思うだろうか、と。

 もちろん、ネガごと全て捨てるか、全て残すか、という岐路に(誠に勝手ながら)立っている訳なので、その(誠に手前勝手な)責任は、重大である。

 しかも、誰かに相談すれば、絶対に「いや、捨てない方がいいだろう」と答えるに決まっているのである。
(少なくとも、私ならそう答えるはずだ)

 見もしないのに持っていることで安心してか、そんな重荷で(いや、写真は軽いが)自らの空間自由度を低下させ、そこに安住する文化様式が、思考概念が、そこには存在するのである。

 果たして、それでいいのだろうか、と僕は思った。

 どうせ見ないのなら、捨ててしまえば良い。

 なのにどうして、捨てることが後ろめたいのだろう。

 これが写真だからであろうか。

 それとも、自分や家族の写真だからであろうか。

 これが、自分の歴史の証明だからだろうか。

 だから、捨てられないのだろうか。

 一体誰が、それを私に教えたのだろうか。



 いや、写真など、いくらでも捨てられる。

 家族のものであろうと、自分のものであろうと、見ない写真に価値はない。

 これは歴史ではなく、あくまでも写真である。

 写真を捨てても、歴史は変わらない。

 ならば。



 そう思い、きちんと1枚1枚を見納めして。

 そして捨てた。

 空っぽの抽斗という自由と、記憶に焼き付いた家族の画像を、僕は引き換えに手に入れた。





 その頃すでに、僕は視覚で人を記憶しなかった。

 声や匂いや空気で、その人物やその時点での状態を把握するのは生来のものなのかもしれない。

 あの時の写真も同様で、映像の細部のほとんどを記憶してはいない。

 ただ、あの夜、1枚1枚に封じ込められた過去に思いを馳せて、それを捨てる決意をした時、大げさかもしれないが、
「ああ、これが生きるということなんだな」
 と、そんなふうに感じた。

 記憶は記憶、歴史は歴史、過去は過去、モノはモノ。

 人は人、自分は自分、家族は家族。

 大切なものは、どうやったって大切なもの。

 そして、今は、今しかないという事実。

 確固とした今は、今この瞬間にしかなく、過去も未来も、曖昧で確かなことなどひとつもない。

 だからこそ、人間はそれを形に残したいと思い、記録に残したいと思うのだろう。

 そしてあるいは、カタチにしてしまったがために、それで安心してしまったがために、結果として壊すことになってしまったのかもしれない。



 ならば、と思った。

 今という抽斗のなかを、なるべく自由に、からっぽにして。

 本当に大切なものは、

 たとえカタチに残したとしても、胸の中に、いつまでも残し続けよう。
 カタチを捨てても、心から捨てることはないようにしよう、と。



 必要なくなったものは、どんどん捨ててゆく。

 気に入らないものは、次々処分してゆく。

 邪魔なものは、できるだけ排除する。

 いつからか、そんな、燃料の切れた飛行機のような生き方を指向するようになった。

 モノを捨てられない人からは、ずいぶん冷たい人間だと思われるようだ。



 写真についてもう一度触れると、僕は旅先でも写真を撮らない。

 集合写真などの場合はにっこり笑って撮ってもらうが、送られた写真は一度見て、捨てるようにしている。

 風景にしても、一緒に行った人にしても同様。

 本当に綺麗なもの、本当に大切なものは、勝手に心に焼き付くものだ。

 学生時代の文集の類いも、半年開かなければ捨てるようになった。
 半年開かないことが分かっていれば、その日のうちに捨ててしまう。
(結果、一冊も残っていないが、不便を感じたことは一度もない。きっとこの先も、ない)

 記憶も、想いも、感情も、カタチではない。

 それをカタチにして残すのは、本当は簡単なことではない。
 簡単なことではないのだから、安易にするべきでもないと思っている。

 しかし、私や私の家族の写真があったことには、感謝している。

 もし、あの写真がなければ、僕の知らない、あるいは忘れていた記憶を知ることはできなかった。

 存在しない写真では、捨てることもできなかった。

 皮肉なことと思うかもしれないが、僕の記憶に画像以外の情報として、決意や悟りというべきものと共に焼き付けられ、捨てられるべくしてあったと思えば、あれらの写真はなくてはならないものだったのだと思う。

 増槽(フュエル・タンク)のように、燃料を本体に回して、より遠くへ、より高くへ、到達させるために。

 不要になったら切り離される。

 それは、モノだからこそ、道具だからこその機能。



 人間はカタチにする生き物である。

 カタチが豊かさの象徴であり、カタチが確かさの証だと思っていた。
 カタチに残せないからこそ、カタチに残そうとし続けた。
 そういう歴史を経てきた生き物である。

 いつか、そんな愚かさを捨てられる日が来るだろうか。

 カタチではなく、記録ではなく、物質ではなく。
 こころに残る、記憶に残る、思い出に、歴史に残る。

 そんな生き物に。

 未来に変わらず残れる。

 そんな、壊れない、捨てられない、カタチに。



 翼の切っ先が青い無地に描く、鮮やかなカーブのように。

 時間と共に消えてゆこうとも、見るものの胸に、焼き付いて離れないではいられない。

 カタチではない驚きを、喜びを。

 いつも抱かせていたい。いつでも、抱いていたい。

 いつまでも。







 文頭引用は
「飛行機の証明」 From 「工作少年の日々」(p.202)
(著作:森 博嗣 / 発行:集英社)
 によりました。
 



わたしはあなたのゆめをみよう

ねむりがやみにとざされていても

あしたがむなしくおもえても



わたしはあなたのゆめをみよう

たとえばそれがのろいでも

どこにゆきつくあてがなくても



わたしはあなたのゆめをみよう

たとえばめざめることがなくとも

いつまでもつづくゆめだとしても



わたしはあなたのゆめをみよう

あかるくつきのてらすよも

あるいはひかりのさしこむごごも



わたしはあなたのゆめをみよう

かぜのひめいのきこえるよるも

あめのしずくのながれるよるも



わたしはあなたのゆめをみよう

やさしくそよぐかぜのもとでも

さえずるとりのうたのなかにも



わたしはあなたのゆめをみよう

めぶいたきぎのといきのなかにも

はらはらはなびらまいおりるときも



わたしはあなたのゆめをみよう

まっすぐさしこむひかりのなかにも

そらにむかってのびたつくさにも



わたしはあなたのゆめをみよう

ゆらゆらゆれるかわものなかにも

とびたつとりのみつめるさきにも



わたしはあなたのゆめをみよう

こぼれるわたしのかなしみさえも

たけれるわたしのいかりにさえも



わたしはあなたのゆめをみよう

このゆびのさきに

このむねのなかに

あなたのゆめをみよう



そっと

あなたを

みよう




 

01/29の昼過ぎまでは元気に走り回っていたのだが、夜から喉に違和感を覚え、翌朝には発熱。
30日の仕事はこなしたものの、31日以降の仕事はキャンセル。

30日の夜から寝たきりである。
子供の頃は高熱にも強くて、38℃くらいなら普通にしていられたのだけれど、最近はダメだ。
まず立っていられない。
あっ、違うんです奥さん、立つっていっても姿勢の話であってあっ、奥さん違うんですあっ。

……高熱なので下ネタも冴えないのである。

トイレに行くにもよろけながら這うように移動し、あちこちにぶつかる。
手を洗っている最中に前触れもなく転ぶ。
ちょっと待って、立ってるだけで転ぶってどういうことなの?

熱は38℃から39.5℃。
死ぬほど高いわけではないが、全身打撲を受けたような痛みから、多分インフルエンザかな、と当たりをつける。
鼻と喉の粘膜と胸の奥が焼けるように痛んでいて、それ以外の筋肉も痛いものだから、感覚が把握しきれなくて意識が朦朧とする。
あ、これは熱だからか?

以後、寝たきり。
基本、白湯を飲む生活。

3日目の昨日までに摂取したのはいくつかのビタミン剤、コーラ(糖分大事)、ヨーグルト(半分以上食べ残す)、ポカリスウェット(カラダも喜ぶ安定の吸収力)、薄めに作った調整ココア(これは受け付けず嘔吐した)。
(乳製品、アウトかよ!)と思ったので以降、白湯のみ。
買い物に出ようにも何をしようにも、まっすぐ歩けないのでは玄関を出られない。
(多分、階段を転げ落ちる気がする)
いつもの通りろくに声も出ない。

ついでに石油ファンヒータの温風に鼻と喉が反応して具合が悪くなるため(あれって密室内を排気で温めてるわけですから)使えず、エアコンは半年前に使ったきりで掃除をしていないから使うのがはばかられ、要は暖房レスの状況を余儀なくされている。

ひたすら着込んで布団に潜り込むぞ。白湯だけが頼りだ。

通常だと勘のいい、優しくて気立ても良くてサイコパスじみたりしていない、まともな女子力溢れるガール(眼鏡着用)がおかゆを作りに来てくれるのだが、今年は恵方の向きが悪いみたいで勘が働かないようだ。

自力でおかゆを作ろうと台所に立って、転ぶ。
神様、もうこのカラダは嫌です。

仕方なく白湯を作り足して布団にくるまる。

それにしても、まったく空腹を感じない相変わらずの超少食。

明日は粥を作ろう。
とりあえず白湯だ!
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//TimeLine:20160124

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Written by 黒猫


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//[Body]
160124

 とうとうこの日がやってきた。
 まさか心不全に「慢性」があろうとは僕も知らなかったのだが、どうやらあるらしい。
 慢性心不全。

 ご存じの人も多いとは思うが、心臓の機能が、身体の要求に対して充分でない状態のことである。
 たとえば心筋梗塞や狭心症、弁膜症などなど、とにかく心臓が動かなくなったり、充分な血液を全身に巡らせるだけの能力がなくなれば(乱暴だけれど)心不全だといっていいだろう。
 充分でないということは、血液がきちんと循環していないということになる。

 その原因は僕の身体が昔よりオトナになったからなのか、心臓が子どものままだからなのか、逆に心臓だけおじいちゃんの大きなのっぽの古時計になったから なのか、今はもう動かなかったら死んでしまうのではないのか。レイディオが壊れるように、心臓もホントのシアワセを教えてくれたりはしないのか。ギザギザ ハートが子守歌では痛くて眠れないのではないのか。あ、あれはそういう歌なのか!(発見)

 ま、とにかくそれ(発見のことではない)が慢性的に発生している状態というのは、要は常に貧血状態のようなものだともいえる。(要するに、の適切な使用方法として秀逸)
 寝ている身体を起こしたり、お風呂に入ったり、階段の上り下りはもちろん平地を歩くだけでも心臓はその活動を適切に変化させている。
 子どもの頃の僕は、しゃがんでいて、急に立ち上がると立ちくらみがしたものだけれど、あれは単純に僕が貧血だったからではある。

 その「慢性心不全」とやらに該当するのだと、医者に言われた。

 どのくらい生きられるものなのかはよく分からないのだけれど、まぁ、10年くらいは生きるだろうし、生きなくてもとくに気にしない。僕ではなく姉のことだから。

>>>

 Y!ブログに標準装備されたアクセス解析をふと覗いて、恐ろしいことに気がついた。
 およそ毎日、誰かが僕のブログを見ている。
 それも、わざわざ検索までしている。毎日である。

 普通に考えると、ブラウザのブックマークをすればよいのである。
 それ以外にも、Y!ユーザなら、お気に入り登録をするのが厭だったとしても、Y!BMなりなんなり、手段はあるものだと思う。
 それが、ほぼ毎日検索を掛けられている。

 もちろん、僕ほどのモテともなると、ネットストーキングごときを気にすることはあまりない(するだけ無駄である)のだけれど、遡ること一年近く、毎日(同じ人物どうかは不明だけれど)、多いときには10回以上も検索されている。
 しかしY!ブログ上の訪問者数よりも、アクセス解析上の訪問者数が多い。
 おそらく、ログインしていない(IDのない)検索によるものもあるようなのではある。

 僕が何も書いていなくても。
 僕がログインしていなくても。
 ほぼ毎日である。

 さらにあろうことか(恥ずかしいけれど)自分で「青猫工場」を検索すると、もれなく「青猫工場 evernote」という単語セットが検索エンジンからサゼッションされる。
(解析の検索ワードにもときどき登場する)

 信じられるだろうか。
 つまりこれは誰か(たぶん僕ではない)が「青猫工場」を検索し、「青猫工場 Evernote」も検索し続けてきたせいで「あっはい(察し)」をされてしまったのである。検索エンジン=サンに。
 うまく探し回ると、リンクを消したオープン Evernote を見つけることができる。

 一体どうしてこんなことになっているのだろう。
 かなり気味が悪いので日記を書くのをやめていた。
 座敷童は悪いことはしないというけれど、やはり人のいないはずの自分の家に見ず知らずの子どもが居たら、それは怖いと思う。
 昨晩は飲み過ぎてしまったのだけれど、目が覚めてみるとベッドの隣で見ず知らずの美女が半裸で眠っているくらい怖い。

 そもそもお酒を飲んで記憶がなくなることがすごく怖い(そんなことは10年に一度くらいしかないけれど)。
「だ、だれだおまえは!」という気持ちが半分、それから「これらを把握できていない俺は誰なんだ!」という気持ちも半分。
 この「把握できない俺は誰なんだ」という気持ちこそが、記憶や意識をなくしていることの恐怖である。

 しかしながらこのような10代の青少年のごとき自意識過剰さを僕はかなぐり捨てて、たまには日記を書こうかとも思ったのだけれど、全体に沈鬱なことしか書かない予感がするのでやっぱりやめます。

 といっても昔から、僕は日記のようで日記でない、少し日記のように思えなくもない日記を書いているのであって、これだって、今日あったことについてはほとんど何も書いていない。

 僕が書いている「今日」は、今日ではないかもしれない。
 1年前のことを「最近」とか「昨日」と書くこともあると思うし、ありもしないことを書いたりすることは昔からしている。

 読む人間の反応というのは、ときに面倒なものだ。
 こちらが書いているときに思っていることが10あるとして、そのうち僕は読む人が分かるように書く気がないので、2くらいしか書かない。
「あっはい(察し)」が上手な人は、抽象した情報を自分の中で組み立てて意味を構築することができると思うし、それで充分だとも思っている。
 もちろん、そこで構築される意味が10であるとは僕は思わないし、仮に10であったとしても、僕の思っている10の要素のうち、ひとつも合致しないかもしれない。
 でもそれでいいと僕は思っている。

 2つくらいしか書いていないのに、勝手に10に膨らませて噛みつく類の人間はいくらでもいて、もうこれは言葉の機能や弊害というのではなくて、単純に人間の自意識や認識能力の死角に原因があるのではないかとも思う。
 たとえば両目できちんと見ているのに、見えていると認識していて見えていない領域がある。
(分からない人は勝手に調べてくれい)
 それと同じように、個人の意識や認識能力は「意識している」「認識している」という錯覚(つまりは意識していないし、認識していない)を含んでいるはずだ。
 それを自覚することが謙虚さだと僕は思うので、僕は謙虚に僕の知っていることをわざわざ自分のために検証したりすることがある。

 自分で理解しているつもりが、論理として矛盾していたりすることは多々あるものだから。
 もちろん、僕は矛盾が好きだし、かなりの状況において「俺は今、ちゃんと矛盾しているだろうか」と心配したりする。
 矛盾していない人間はだいたいチャーミングさに欠けるし、矛盾を自覚していない人間はたいてい傲慢だからだ。
 だから自覚して、わざと矛盾する勢いで、落とし穴に向かって全力で進んでいく構えを最初から取るのである。

>>>

 全力疾走といえば、最近の僕に全力疾走ブームがやってきた。
 外を移動するときに、もう全力疾走なのである。
 重い荷物があっても全力疾走。思いついたら全力疾走。
 周囲の目をはばからず全力疾走。思い立ったら全力疾走。

 それというのも各部に筋肉は付いたものの(3年も折を見て腹筋をしていれば、ちゃんと腹筋も発達する)僕の心肺機能が、それに追いついていないことに気がついたからである。
 筋肉に負荷を掛けてそれが発達したとしても、心肺機能が低下していれば「身体は疲れていないのに息が苦しくて動けない」という状態になる。当たり前である。
 というわけで、全力疾走なのである。

 子どもの頃から走るのがニガテだったので、とても新鮮である。
 今まで認識していなかった筋肉が、きちんと使われていると感覚できるのである。
(こうやって走ると速く走れるんだ)と不惑に至ってようやく発見したのである。

 しかし周囲をざっと見回すと、自分の身体のことや、身体感覚にずぼらな人は多い。
 先日も職場のあるガールが「私、高気圧だと頭痛がすることがあるんです」というので(まぁそれは気圧の関係だから低気圧と同じような作用が起こることもあるでしょう)と説明した上で、身体のどこをどのようにすると改善されるかを説明した。

 たとえば肩が凝るという人の多くは、肩の筋肉を一生懸命もみほぐそうとするが、いきなりそんなことをしては逆効果だと僕は思っている。
 いわば北風と太陽のようなものだ。いきなり抽象した。抽象的すぎて怖いくらいだ。

 ところで人間の関節のうち、ひとつの関節でもっとも可動自由度が高いのは肩である。
 手首だって、腰だって、単一の関節がこんなに自由に、広く大きく動くことはない。
 それだけ複雑な形状になっていて、いくつもの骨や筋肉が交差している。
 しかし肩に繋がっているどの筋肉がどの動きの時に力を発揮し、またどの骨がどんな動きを支えているのか、認識している人は少ないだろう。
 それでも肩は動くから。それでも地球は丸いから。丸いから。あと青いから。

 自分の身体のことも、人間はきちんと理解してなどいない。
 具合が悪ければ、医者にアウトソーシングする人を僕はたくさん知っている。

 お前の身体だろう、と僕などは思うが、まぁ、そうやって外注するのもその人の自由ですよね(悟り)。

 職場のガールの唇の血色が悪かったので、くるぶしと膝のマッサージを少し教えた。
「もっとして欲しいです」と言われたものの、事務所の中でガールの足元に跪いて膝やらなにやらに手を添えている姿を発見された場合、風紀的にかなり問題だと思ったので「自分で何とかしてください」と言って僕は事務所をあとにした。
 時間と場所さえ弁えてもらえるならば、まぁやぶさかではないものの。

>>>

 少し寒いな、と思ってヒータの温度計を見ると室温が11℃でちょっとビビった。
 ヒータが切れてどのくらいの時間が経ったのか、把握していない。




// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[Traffics]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
  -Tool-





// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  青猫のひとりごと:いのちあるものたち





//EOF
 


::<人間による自律を期待して一度停止して、条件を変えて仕切り直すという選択肢を、私は取ることができます。量によって愛が担保されるのであれば、知性体が多数いることには意義があり、一つの正答よりも多数の誤答が選ばれることは、充分な妥当性があります>






160107

 人間不信という関数を含んだプログラムが、思考という回路に常駐している。
 僕というシステムに含まれたサブシステムのほとんど全てが、その関数の欺瞞に対して警告を発している。

 苦痛だ。
 欺瞞と知っているコードがのうのうと自分の中を走っていることが許し難い。
 まるでウィルスに冒されたアプリケーションを、それと知っているのに使い続けなくてはいけないようなものだ。

 不快だ。
 いつも通りの引数を渡したのにもかかわらず、いびつさを抱える関数の戻り値はどれも不正解で、ために不採用なのだけれど、それでも吐き出された戻り値は僕の心にぶつかって、衝撃を与え、波動を伝える。
 それなのにこの関数を排斥するなり、置き換えるなりの仕組みが整わない。

 それはずっと、今も続いている。
 けれども僕は知っている。
 そんな関数は、いずれなくなる。
 なぜなら僕は、一度はそれを経験し、その自己矛盾の欺瞞をデバッグすることで最適化を図ったからだ。

>>>

 子供の頃、まだ漢字も知らないうちから、僕は大人を信じていなかった。
 しかし自分と同じ年齢域や血縁上おなじくそれに属する子供も信じなかった。
 性別というものがある程度の意味を持ち始めた頃の僕の混乱については書いたことがある。
 僕は自分の性別はもちろん、同性を信じなかった。
 しかし(当然だけれど)異性からは異性に属する者として扱われた。

 僕は自分を信じなかった。
 だから同じように、他人を信じなかった。
 他人を信じないから、自分を信じることなどできなかった。
 自分を信じないから、何も信じられなかった。

>>>

 人間不信という概念は、自己矛盾をはらんでいる。
 人間を信じるという行為は、通常、人間しか行わない。
 それは比較的高度な思考基盤を必要とし、意思によって実行される見えない行為だからだ。

 当然「人間」という集合に自身が含まれる以上、人間不信という概念は、それを抱える自身にも降りかかり、単純明快なパラドクスを起こす。
 不信であるという対象に自分が含まれるとき、自分の持つ不信という認識に対しても同じように不信という反応を示すのが普通だろう。

 それを起こさず当たり前のように人間不信というプログラムを走らせることのできる人間を僕は何人か知っているけれど、たいていはまともな社会生活を送ることのできる狂人、もしくは異常者だ。
 その程度の欺瞞など、しかし社会はあっさりと受け入れて流れて行く。

 彼ら/彼女たちの何が狂っているといって、パラドクスを自分の中で見事にねじ曲げて真っ直ぐにしているのが狂っている。
 彼らの「人間不信」は単なる演技に過ぎなくて、そこで演じられる不信の対象は「甘えたい他者」でしかないとさえ思える。
「信じられない」のではなくて「甘えさせてもらえない」という真意が見え透いて空々しい。
「信じたい」という意思などなく、出まかせに粉飾された自意識が鼻につく。
 しかもその甘えに自分は気がついておらず、それどころか自分は被害者ヅラをしてときに対象を憎んでさえいる。
「人間」という集合の定義もされていないし、自己の定義を放り出している上、他者の定義が曖昧で、不信の意味を取り違えている。
 だから身勝手な愚か者ほど「人間不信」なんて言葉に浸ることができる。
 そこにあるのは、排他的でご都合主義的な自己保存のプログラムでしかない。

>>>

 動物は人間に懐いたりするけれど、それは信じているからではない。
 経験上、その瞬間の人間が自分にとって有益かどうかを判断しているに過ぎない。
 だから普通は、それが飼い主であっても、怒られれば逃げたり隠れたりしようとする。
 信じているから近づいてきたりするのではなく、有益だから、役に立つから、自分に得だから近づいてくるだけである。

 もちろん、人間と動物との間にも信頼関係を構築することはできる。
 しかし、苦痛を与えられてもそれに耐えることができたり、さらにはそれが自身にとって意味のある行為なのだと理解できるまでの信頼関係を構築するのは、容易なことではない。
 たとえば動物病院に行くとそれがよくわかる。

 飼い主が、苦痛も含めて躾をしていない動物というのは、結局のところ人間を信じていない。
 人間が自分に苦痛を与えるのは、自分が悪いことをしたからだとは考えない。
 まして成獣ともなれば、そんなことを躾けることは不可能だ。
 だから自身に苦痛を与える者は敵だと考え、噛みついたり、ひっかいたりする。
 飼い主が何を言おうと、もはや関係ない。
 そのときのそれは、ペットではなく、ただの獣だ。

 躾のされていない獣は、だから悲しい。
 人間に懐くことを知らないまま路地裏に逃げる痩せ細った野良犬や野良猫を見るのと同じ気持ちだ。
 彼らは、痩せ細って、疑うことしか知らないまま死んで行くのだ。
 助ければ助けたで、たとえば置き餌することさえも、他の人間や、あるいはその動物自身をも、 最終的には苦しめることになる。
 だから、存在そのものを放置するよりない。
 それは、少なくとも僕にとっては、多少なりとも悲しいことだ。

 動物同士の集団の中でさえ、躾が身につかず、はぐれる個体は当然いる。
 彼らは孤独に死ぬしかないのだ。

 躾のされていない獣は、だから悲しい。
 人間に愛され、また人間を慕い続けることを知っている動物に比べて、あるいは人間との関わりなど持たず、同胞と共に野生の中で暮らし続ける動物たちと比べても。

 だから躾のされていないペットは悲しい。
 餌を与えられて太っただけの、それは孤独な獣でしかないのだから。
 愛玩という欲を満たすための糧食にされる、それは家畜でしかないのだから。

>>>

 今の僕は、人間不信という変なプログラムを抱えてしまっている。
 おかしなミラーリングでもしたのかもしれない。
 いうなれば価値観の拾い食いのようなもので、それが今まで構築したシステムの中で消化不良を起こしている。

 当たり前だ。
 人間不信の概念には重大な欠陥がある。
 僕の内側のほとんどはそれを知っていて、その欺瞞に対して警告を発し続ける。

 にもかかわらず他者をみだりに信頼できないという条件反射は一種の感情の作用でもあるから、今の僕はその欺瞞を抱えたまま、その反射を無視することでしか対応できない。
仕事であってさえ他者とほとんど接することのない現在の環境は、そういう意味ではありがたい。
 なるべく誰にも関わりたくない。
 そう思うのは、不自然だろうか。

 感情だろうが価値観だろうが、僕は行為の一部としてコントロールする。
 だからいずれ、こんな感覚も消えると知っている。
 もしそうでないなら救いがない。

>>>

 自分と他人は同じ類のものだと僕は考える。
 一方で、自分と他人はまったく違うものだと考える人もいる。
 これらは、まったく逆のことを言っているように思える人もいるとは思う。
 でも僕にはこれらが全く同じことを言っているように思えて仕方ない。

 日本語を勉強し直せと、学校の先生になら言われるかもしれない。
 しかし考えてもみると、どうして他人と自分が違うものだと思うのだろう。
 身体の組成はほとんど一緒で、遺伝子も9割方は同じものだろう。
 考え方は人それぞれ多少の違いはあるかもしれないが、たいていの生きた人間は自分の身体を刃物で刺されれば痛みも感じるしショックも受ける。
 誰だって争いごとは嫌いだろうし、できることなら心地よく日々を過ごしたいだろうと思う。
 なるべくなら人から愛されていたいと思うものだと思うし、できることなら他の誰かをできるだけ多く愛していたいと思うのではないだろうか。

 もちろん個々の差異は知っている。
 ことあるごと他者との考え方についての違いをまざまざと感じて僕は生きてきた。
 けれどもきっとそれだって、誰でも同じだろう。
 当たり前のことなのだ。

 つまり個々に差異があることが、結局のところ「個々に差異があるという同一性」を生んでいる。
 あなたと私は違うね、という同一性だ。違うということが同じなのだ。
 これが翻って、あなたと私は同じだね、という感覚に(僕の場合は)収まる。

 自分という存在は特別なものだという意識が、結果的に猥雑で没個性的な意識に過ぎないのと同じように。
 違うという、差異を主張し、それによって自己を確立したり世界を定義しようとする行為は、 なんとも幼稚に映る。

 そんなのは当たり前のこと。
 わざわざ主張する価値もないし、他者に説明する必要も、説得する意味もない。

 それでも時折、声高に申し立てる人もいるのだ。
「私とあなたはそもそも違う人間なのだから」と。
 考え方も経歴も出生も生い立ちも違う。
 国籍も違えば文化も違うし性別も違えば習慣が違うし年齢も違えば経験も違う。

 ええ。ええ。
 そもそも種族が違いますよ僕は猫ですからね。
 という心の言葉を僕は飲み込む。
「そもそも違う」なんて当たり前のことをわざわざ議題のテーブルに載せてくるような愚者には、この冗句(本当は冗句ではないのだけれど)を言っても通用しない。
 そもそもというのなら、そういうタイプの人間どもとはそもそも次元が違うのだ(言った、言ったよ。今、言い切ったよ)。

>>>

 私とあなたは違う。
 あの国とこの国は違う。
 この次元とあの次元は違う。
 人間と猫は違う。
 男と女は違う。
 東と西は違う。
 北と南は違う。

 僕は、つい笑ってしまう。
 できることなら問いたいのだ。
 本当に? と。

 陸と海とは違うというけれど、では海と湾の違いは? その境は?
 湾と川の違いは。その境は。
 湖と海の違いは。湖と池の違いは。池と大きな水たまりの違いは。
 小さな水たまりと、そうでない地面の違いは。

 結論として乱暴なことを言いますが。

 海も陸も一緒じゃねーか!

 ああ、もちろん。もちろん。
 分かるんですよ。違いますよね、陸と海。ね。海水と淡水も違うし。はいはい分かりますよ。陸と海は違いますよね。はいはい。陸と海、ドライ&ウェットね、はいはい。
 ホワイト・アンド・ブラックというのがね、仮装大賞の演目に昔ありましてね、テレビでね。あ、古くて分かんないですよね。

 要はそのくらいどうでもいい違い。
 違うことはよく分かるんですけれども、そこに含まれる、あるいはそれを含んでいる同一性、統一性、そういうものについて考えると、違いというものは、たとえそれらが対立関係にあったとしても、結局同じことにしか思えないのだ。
 たとえるならコインの裏と表のように。

>>>

 欺瞞を含むコードがたとえ今の僕を支配していたとしても。
 僕は忘れていない。
 他のすべてを忘れても、けっして忘れたりしない。

 僕は人間を信じていた。
 僕は大人を信じていた。
 僕は子供を信じていた。
 僕は他者を信じていた。
 僕は同性を信じていた。
 僕は異性を信じていた。
 僕は自分を信じていた。

 僕は猫を信じている。

 猫と、猫の神様を。








::心臓すらないレイシアはそれでも言う。
「魂はありません」
 アラトは天を仰いだ。
 浮ついていたからこそ、突き落とされた痛みがいや増して、目を閉じる。まぶたの裏に、迷ったとき浮かぶのは、彼にとってのスタートラインだ。赤黒い爆発と、しっぽを振る白い犬を思い出す。ほぅと温かい息が漏れる。しっぽを振る楽しそうな“振る舞い”に、ちいさかったアラトは 救われた。自分から始めようと思えた。
 彼には、意味なんてなくても手を伸ばせる。
「魂がないからって響かないわけじゃない」
 自分に腹が立った。アラトは子どもの頃、あの白い犬の魂なんて見たことはなかった。それでも、楽しそうな様子に勇気をもらった。
「それでも、僕のこころは動いたんだ」








文頭引用は、
『Last Phase「image and life」』(p.642)
文末引用は、
『Phase 1「contact」』(p.35-36)

ともに
「BEATLESS」(著作:長谷 敏司 / 発行:角川書店)
によりました。



 


::ああ、そうか。
そうだったんですね、神様。
僕は……間違っていたんですね。






151215

 那須だ。那須にいる。

 高原のさらに先まで山は続き、頂は雲に隠れている。
 冬に特有のうっすらとした青いグラデーションは、陽光を吸収した薄くまばゆい雲が半分ほどを覆っている。

 十数年前、この辺りに来たことを思い出す。
 あれは父上が死ぬ前だったか、死んだあとだったか。

>>>

 いろいろなことに疲れてしまった。

 不要なものが家の中の1/3ほどを占拠し、普段なら間違いなく捨てているはずが、大きいやらおよそ新品であるやら何やらで、手間や時間やコストを掛ける余裕もなくそのままになっている。

 第一、発送した履歴書の返事がまだ来ない。
 不安だ。

>>>

 自分で作ったルールとやらを他人に押し付けて、やれ信頼だ、信用だとのたまいつつも、自分についてはそのルールを守ろうともしていない、あるいは守っていないことさえ覚えていない人間がいる。

 他人の人生を歩んだこともなく、自分の人生もまだ終えてもいないのにもかかわらず、わけ知り顏で、もちろん何の責任を持つでもなしに、あれはこうしろ、これはこうでなければ、これは貴方のためなんだよ、と図々しく、厚かましく、もっともらしく、優しげな表情で、しかし暗に高圧的に指図する人間がいる。

 何か、良くない結果になったとしても、そういう連中は、
「あの時はそうするべきだと思った」
「最終的には、あなたが自分で決めたのでしょう」
 と、最後まで自論の誤りなど認めることなくご高説くださる始末。
 たいそう有難いことである。

 人間なんぞ、みな噛み殺してやるから死に腐れ、と思う。


 だいたいこんな感じ。

 このCMを見ても、何も感じない人のほうが、もしかしたら多いのかもしれない。
 ネットで炎上したという話も聞かないから、きっと何も感じない人が多いのだろう。
 僕はラジオCMしか聞いたことがないが、薄気味悪いのと、虫酸が走るのとで、しばらく嫌な思いをした。
 もちろんオトナなので、苦情を申し立てたりはしない。
 たびたび聞くうち慣れもした。

 頭数を揃えて、無言の圧力を掛けるのが不愉快だ。
 圧力を掛けておきながら「それはあなたが決めることよ」と白々しい責任逃れをする欺瞞が不愉快だ。
(他者に対する欺瞞であれ、自己欺瞞であれ、欺瞞は欺瞞だ)

 暗黙の数の暴力を行使しておいて、結果論的な正当化によって予め自己防衛していることが不愉快だ。
 まるで強姦されるような不愉快さだ。

 私の身体に許可なく触るな、と思う。
 私の思考に、私の生き方に、無理やり何かをねじ込むな、と思う。

 しかもそういう連中は決まって一対一ではなくて、なんだか得体の知れない(金メッキのように薄っぺらに光り輝く)仲間だか味方だかを引き連れて、つるんでこちらを囲んでかかる。
 人の話を聞くフリをして、そのジェスチュアの儀式が済めば、ただただ自分の論理を人の中に突っ込んで、反論を許さずねじ伏せる。
 要は狩猟と一緒だ。
 だから暴力なのだ。
 その時点で正論の正論性なんてものはなくなる。

 それはそうだ。
 強姦する集団の中にあっては、強姦することと、されることが、等しく正論なのだから。

 考えられるだろうか。
 ああ、考えられる。
 集団の狂気であるとか、数の暴力であるとかは、つまるところそういう理屈で動作するメカニズムだ。

 しかしながら、許可なく、本来の意思に反して、対価も支払わず、責任も取らず、他者の身体はもちろん、思考や、未来や、財産や、価値観といったようなものを暴力や脅迫によって自分の思うように操ったり奪ったりするのであれば、すなわちそれは強姦と一緒だ。凌辱なのだ。
 いかにそれが「その場」における正論であり、あるいは必然であり、あるいは必要であったとしても、それは許されざる行いではないだろうか。
 肉体に傷を受けるわけではないけれど、同じくタチが悪い。

 そういう連中の「いかにも私は正しいです」という涼しい顔が、不気味を通り越して不愉快なのである。

 端的に言うと、
「ああ、こいつら、よってたかって人の考えをレイプしたくてうずうずしてるんだな」
 ということになる。

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 そんな人間たちに疲れて、僕は那須にやってきた。
 ……のではなく単に仕事である。

 山はいいものだ。
 そこに流れる川の水を眺めていると、それだけで楽しい。

 自然は、こちらが学ぶ姿勢を忘れない限り、いろいろなことを教えてくれる。
 なのに、決して何かを押し付けてくるようなことはない。

 現象というものの多くは自然現象で、つまりは日常の、たとえばガラスのコップを落とすと割れるとか、料理を加熱し続けると焦げるとか、植物に水をやらないと枯れるとか、猫を拾って育てるとか、そういったことから、僕は多くを学んだ。

 もちろん、そうした基本的な姿勢を教えてくれた先生がいたのだと思うけれど、それは手取り足取り教えてくれたのではなく、単にありようを示してくれていただけで、それを勝手に僕は学んだのだ。

 自分が示すでもなく、ただ頭ごなしに空虚な能書きを(それも雁首揃えて)垂れて、なおかつそれを当たり前のように人の中に突っ込んでくる品性下劣なイキモノを見るたび、僕はひどい気分になる。

 アンタが本気で正しいと思うことがあるなら、ひとりでやってみなよ。
 何の、誰の支援もなく、自分だけで、何から何までやってみて、それからモノを言いなよ、と思う。

 白々しい、うわべの正義を人の中に射精していい気分になるような暴力はやめてほしいと、最近大人になった僕は、ようやく思えるようになった。

 指示を出して理屈を押しつけたとしても、実行した結果から理屈が正当であると理解できて、あるいは思わぬ結果になったとしてもそれをきちんと受け止め、責任を取ってくれるような人は、今までの人生でも3人しかいなかった。

 つまるところ、今日もどこかで数の暴力によって、誰かがいいようにねじ伏せられている。
 あるいはそれが人間関係だと、勘違いしている者もいるだろう。










::暗くてじめじめしたところに棲む生き物を日の当たる地面に放り出したり、あるいは陽光をたくさん必要とする植物を暗闇に閉じ込めたりするのは、いずれも正しいことではない。
 松を杉のように真っ直ぐに育てることはむつかしいし、杉を松のようにしなったカタチに育てることもむつかしい。
 人間の欲は、時に歪んだ優しさを示して、あるいは裏返った正義を示して、自分の正論に酔う。

 僕には救えなかった。
 救うおうとすべきではなかったし、救おうと考えるべきでもなかった。
 なぜなら、それは僕の欲でしかなかったから。
 不自然を、他者に押しつけることでしかなかったから。

 神様。
 僕は、間違っていたんです。




 





「渡良瀬橋」と私




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今年は電車での移動が多い。

足利駅と足利市駅で、いつからだろう、発着時に「渡良瀬橋」のメロディが流れるようになった。

森高千里さんの曲が流行していたころの僕は高校生で、ここではない街に暮らしていたのだけれど、学校の先生に一人、それはそれは熱心なファンがいたことをよく記憶している。

色白で髪が長くてメガネを掛けた、いわゆる当時形成されつつあった「いかにもといった、ステレオタイプのオタク」じみた外観をされたその先生は、僕の数学と、いくつかのコンピュータ言語を指導してくださった。

先生は、僕のプログラム手法(フローチャートも下書きも概要図も変数表のメモも書かず、注釈もほとんどないままダイレクトにコーディングしてゆく)をして「時々、そういうことができる人がいる。それはひとつの才能だ」とおっしゃり、僕の勉学傾向(理科科学系、国語系を得意とし、数学と英語を苦手とする)とは無関係なプログラム適性に驚かれ、僕のプログラムを「コードは少し個性的だけれど、機能を果たすしデバッグも適切だった。何の問題もない」と評価された。

僕自身は、森高さんの楽曲にも(そしてそのルックスを含めたパフォーマンスにも)まったく興味がなかったが、そのファンである先生の、自身の熱中も含めた冷静なマーケティング分析のことはよく覚えている。

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どういう巡り合わせなのか、今年に入ってから、度々「渡良瀬橋」を聴くことがある。
あるいは自分の棲んでいる街のことだから、耳に残るようになったのかもしれない。

あらためて聴くと、奇をてらわないぶん、素直で優しい歌詞である。
素朴で、過剰な思い入れをしていないぶん、自然と追憶を誘うメロディである。

失礼を承知で書くが、森高さんという「アイドル」が流行っていた頃、そうしたものについて、僕は斜に構えて、つまりはバカにしていたのであった。

そして芸能人であるとかに熱中する向きをして、少なからず小馬鹿にし、距離を置いていたのであった。

にもかかわらず渡良瀬橋の楽曲に関する、wikipediaにあるような情報のほとんどが僕の記憶にあるのは、先生が授業などの合間に話してくれたことを、なんとはなし焼き付けてしまったからなのだろう。

アルバムの他の曲を聴くこともあるが、いずれもなかなかシンプルで、他の追随を許さない複雑怪奇な抽象思考をすること(誰にも相手にされない、ということをマイルドに表現してみた)を常としている僕には新鮮で、美しくさえ感じられることも多々ある。

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そもそも僕がこの街に棲むことを決めたのも、山と河が、すぐ近くにあるからなのであった。

先生の奥様は、件のアイドルに負けず劣らずの美人であるというのが、多くの男子生徒たちの冷やかしの種になっていたものなのだけれど、当然ながら、僕はそうした話には何の興味も示さず、淡々と授業の終わりを待っていた。

あの当時の僕は、まさかこの街に僕が棲むことがあろうなどとは、そしてそこがたいそう気に入ってしまうなどとは思ってもいなかった。




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森高千里 『渡良瀬橋』(PV)








 


151205

 ラジオのスイッチを入れ、馴染みの周波数にチューンする。
 12月に入った途端、その日から、クリスマスに世間を浮かれさせようと物事は動き出している。

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 かねてよりアンチクリスマスを宣言していた私であるものの、その実、東日本サンタ狩り協会(通称:東サハ会(とうさはかい))の副会長をしていたことはほとんど知られていない。

 サンタ狩り職人の朝は早い。
 合法的、かつ迅速、的確、最適に、しかも隠密にして、そのうえ長期的にサンタを狩るための武器の用意をするためには、市販の狩猟用の罠を使ったりするわけにはいかないのである。
 我々サンタハンターの人員など、全世界のクリスマスを楽しみにしている人口、および毎年毎年どうしてこんなにと嘆くほどまで湧いてくるサンタクロースの数の前にはたかが知れており、ほんの小指の爪の先ほどの頭数にして、できうる限りのことをしなくてはならないのである。
 この上、人員が一人減ることは、すなわち100人のサンタを野放しにすることに等しい。
 まさに数の暴力の前に我々は無力なのだ。

 よって我々サンタハンターは、当然のように自身を含めた仲間の身柄の保全を第一に考えなくてはならないのである。
 これは、その個人に帰属する肉体や精神はおろか、我々に共通のイデオロギィや仲間の結束といったような曖昧模糊とした、たとえば「信頼関係」などという言葉にロマン(あるいはロマンス)を求めての帰結としてではない。
「その機能が存在の全てと知れ(協会員の心得その12)」の標榜にある通り、その能力を、機能を、目的を最大限に果たすための最適解をもってその帰結としている、それがゆえの協力であり、協働である。

 しかしながら協会員のほとんどは社会人でもあり、大半の社会人というものは労働に従事し、ある者は家庭を、伴侶を、親を、あるいは子を持ち、ある者は恋人を持ち、ある者は友人を持ち、ある者は本当に孤独である。
 かくして、サンタ狩り協会員のそのほとんどが自らの一つの貌(カオ)であるところのサンタハンターであるところを決して他者に悟られないためには、すべからく孤独の時間と空間を要し、ために早朝の公園で、あるいは深夜の書斎で、あるときには会議をし、あるときにはトラップを筆頭とした武器をこしらえる。
 それらはすべて、自らがまさにサンタハンターであることを隠蔽するための、必要にして周到な、必然的帰結なのであった。
 かくして、サンタ狩り職人の夜は遅い。

 当然、世間の人々に知られるところのサンタハンターなど、二流以下の、いわばまがいもの、流行りにまかせた目立ちたがり屋の所業であり、至極至高にして本物のサンタハンターたるもの、24日の深夜には、できうる限りそれらしく日常を過ごして(主に職務上の残業などというもっともらしい言い訳を使い)、世間の目を欺かなくてはならないのである。

 無論「サンタを憎んでプレゼントを憎まず(協会員の心得その17)」にあるように、基本的に、狙うのはサンタという存在(あるいはその商業的概念)そのものであり、また同時に「オトナのためのサンタ」のみを標的とするため、ヒヨコの雌雄判定士のごとき正確な鑑識眼(つまり対象が「オトナのためのサンタ」であるか、「コドモのためのサンタ」であるかを瞬時に見分ける能力)をも必要とするため、実行力のみならず、情報戦での高度な能力も必須とされるが、そもそも、サンタハンターの活動は、その年の正月明けには始まっているのである。

 かくして、サンタ狩り職人に休息など(つまりは盆も正月もゴールデンウィークも)ないのである。
 あるのはただただクリスマスだけなのである。

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 というような、どうでもいいネタを考えながら、群馬の北の山の、その向こうにある真っ白に染まった山を車窓越しに眺める。
 群馬県の県庁所在地にあたる前橋市は、赤城山という山の、緩やかにして広大な裾野に展開している。

 アンチというのは、そのアンチたる対象そのものの存在なしには成立しない脆弱なものである。
 ために僕はアンチをやめてしまった。

 なるほど、クリスマスというのは、なかなかにきらきらとした雰囲気があり、華やかな、あるいはうきうきするような予感というものが含まれているようでもある。
 次々流れるクリスマスに関連した楽曲を聴きながら、そう思う。

 そんな僕の左手は、ハンドルではなく「モンテ・クリスト伯」第6巻を収めている。
 全7巻中、6巻目にしてようやく復讐らしい復讐が果たされた。
 やれやれなんと長い詰め物であることよ。
 と思いつつ読み進めたのだが、なるほど脱獄するまでに1巻を費やしているのだから当然なのだろう。
 それにしても、登場人物の多さに、少々辟易したこともあるのだが、読み進めているとだんだんに理解できているような気持ちになる。

 僕は、はっきりしなかったり、よく理解できない部分に対して、そのまま読み進める習慣がある。
 映画などでも、途中でよく分からないシーンがあった場合は、たいていはあからさまな伏線である。
 そのシーンのうちから「これはなに? どういうことなの? ねえ?」と、やたら質問してくるバカがいて、あるいは見終わりもしないうちから「面白くない」だの「つまらない」だのと大声で騒ぐバカもいて、そんなに嫌なら見るのやめなよ、と言いたいのだけれど、僕は最後まで見てから考える派なので、うさぎにつの皆、黙って最後まで見ていなさいよ、とは思うのであった。

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 帰宅して筋トレ暖房。
 お湯を沸かしたり、料理を作りながらだった影響もあると思うが、室温が2℃ほど上がった。
 これが自分の体温だけだったとしたら、おそろしいことだ。
 そして実のところ、僕は身体が熱くなったために、たびたび上着を脱いで、熱を発散させてはいたのだけれど。

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 今朝は寒さで目が覚めた。
 気温は普段より3℃低かった。
 今夜はどうだろう。

 僕は、僕の熱を、いつまで保持できるだろう。
 いつまで保持すればいいのだろう。

 けれども春なんて大嫌いだ。





 
 


::女性型の義体を捨てねえのも、時計の鎖が締まるように細い腕にこだわってたからじゃねえのか?
義体や脳殻は換えられるだろ、でもよ、代わりがきかないものもあるだろうが。




130723

 晴れ。暑くなる気配。

 ガンで入院していた友人が、先週末退院したと電話を受けた。
 齢50を超えて性風俗業をするのは本当に大変だと思う(彼女は元締めではない)。
 しばらく休業になっている(あたりまえだ)彼女は、もはや風俗嬢ではなくただの友人と表記したほうがよさそうだ。
(念のため書き添えておくと、彼女は仕事で知り合った友人であって、恋人には含まれていない。誤解のないように)

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 僕は特定の人間の「道具存在」になるとき、自分の価値観を完全に抑える。
 他者が「YES」と言ったとき、僕の価値観で「NO」であっても(これが実に往々にしてあるが)それを抑えて「YES」を飲み込む。
 徹頭徹尾「YES」を飲み込む。

 たいていこんなことをする前に、人は拒絶反応を起こす。
 これが自我を形成しているといってもいい。
 身体の抗体反応がそうであるように、拒絶排除を行わなければ、自分(という肉体/精神構成)は他者に乗っ取られてしまう。
 価値観は、思考や精神活動の、最初の抗体反応だといえるだろう。
(ちなみに、価値観は記憶と意味づけによって構成されるので、記憶を持たないものは価値観を持たないと僕は考える。また人格(=自我)というものは価値観の集合によって構成されていると思っている)

 当然、消化できない価値観を飲み込めば、僕だって消化不良を起こす。
 それでも僕は、それが必要だと思えばそれを飲み込み続ける。
 自分自身が本来持っている価値観を別の場所で(たとえばブログに書き連ねるなどして)できるだけ保護しつつ活動を抑制し、外側の僕は消化不良の価値観を消化できるまで飲み込み続ける。

 この期間、僕には本来の「NO」価値観と、無理矢理飲み込んでいて苦しい「YES」価値観が同居している。
 このふたつの価値観は、互いに互いを攻撃する。反発し、打ち消そうとする。
 新しい記憶と意味づけを構築中の「YES」価値観は、僕にとってはかりそめの、作りかけの、そしてあまり好ましいものではない価値観セットだ。
 だから僕は既存の記憶と意味づけによって強化されている「NO」価値観セットを応援して、「YES」を壊してしまいたい気持ちがある。
 一方で「YES」価値観を構築するのにはそれなりの目的や意味がある(意味については今は理解できていないけれど)からしているわけなので「YES」を守って、「NO」の価値観とその類縁を一度壊さなくてはならない。
 自分で自分の愛用していた既存の価値観を、正反対の価値観側から壊すことも多いこの作業は、かなりの苦痛を伴う。
 伴うどころか苦痛そのものといってもいい。

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 僕のブログを読んでいる人は、僕の我がどれだけ強いか分かると思う。
 僕も僕なりにそれを理解している。
 それなのに僕は自分の価値観をまるでデパートの商品棚のように拡充したい(理由はいずれ)。
 そのために相反する価値観を、必要と感じると僕は飲み込んでゆく。

 すると既存の価値観は(たとえ一時的にであれ)完全に否定されて、記憶とセットになっていた意味づけが揺らぎはじめる。
 僕は自分の自我(=人格)の境界が把握できなくなり、混乱し始める。

 どこからどこまでが僕で、どこからどこまでが僕でない領域か、自分ではわからなくなってくる。
 定期的に文書を書くことで、僕は(僕にとって)既存の価値観を保持しようとするけれど、その行ったり来たりは僕の自我はもちろん、それぞれの価値観そのものにとっても非常に苦痛であり、結果的に、価値観という部品から見た僕という人格本体の信頼性を損なう行為でもある。

 ざっと観察している範囲で、こんなばかげたことをしている人はめったに見かけない。
 人はそれぞれ、自分のなかで構築され、醸成された自分の価値観をずっと大事に自分の人格にひきつけ、その集合体を自分とみなして生きている。
 わざわざ相反する価値観を取り込むために、既存の価値観を引き剥がして価値観の拡大を行う人は非常に少ない。
(まして自発的に、自覚の上でそれを行っている人に直接出会ったことはない)

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 二律背反とその付随情報で記憶はさらに混乱し、価値観は混沌とし、人格が不明瞭になり、僕は自分の領域がわからなくなる。
 連続的にこれを行うと、精神的な拒絶反応だけで各種の動物的な欲求が不全を起こしたり、幻聴などの感覚異常が起こることもある(もちろん、経験済みなので次第に対処も分かるようになるが)。

 ために僕は自分の身体を撫でる。
 そこには皮膚があり、確かな感覚がある。
 それが絶対的な感覚で、皮膚が外界と自分の境界であると信じられる。
 ココロではなく、カラダを信じれば、僕は自分とその境界を保てる。
 思考や価値観、頭の中だけで出来上がった各種の情報は、一種の妄想や幻覚だとさえ思える。

 肉体の上に精神活動と思考が成り立っている。
 僕は思考が肉体をコントロールすることもあると知っているけれど、多く支配的なのは肉体のほうだ。
 心臓だろうとなんだろうと、思考しなくても働く。
 自動車を運転するような比較的高度な活動も、半無意識レベルにまで自動化できる。
(運転中しながら仮眠を取ったり読書をしたりする僕のような人は珍しいと思うが)
 そのインフラを提供しているのは、ほかならぬ肉体そのものだ。

 そのくらい意識というのは脆弱なのに我が物顔をして「自分が!自分が!」とまくしたてるのである。
 精神状態や思考、価値観がどんなに変容しようとも、自分の肉体がここにある限り、僕は僕のまま、いずれ僕自身を復元するだろう。

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 同じことを、僕は恋人に対しても思っている。
 意識と同様、肉体は(良きにつけ悪しきにつけ)変容してゆく。
 それでも肉体が損なわれない限り、そこで再び核となる本質は復元される。

 たとえば精神が傷つくとき、人は身体を意識/無意識を問わず傷つける。
 胃潰瘍になる人もいるだろうし、記憶障害を起こす者もいる。免疫が弱くなるのはもちろん、僕のように粘膜が弱くなる人もいるだろう(不思議と胃粘膜は大丈夫だ)。
 あるいは自傷行為や、ひどい場合は自殺さえする。
 それによって精神と肉体のバランスを取ろうとするのだ。
 つまり逆を言えば、意識/無意識を問わず自分の身体を守れるらならば、その精神を守ることができる。

 意識が朦朧としても、自分の身体だけは守ろうと、今の僕は活動する。
 意志や意識を失うことがあっても、餓死しかかって身体の機能を損なったりしなければ、かなりの短期間で僕は自分の精神を復旧するだろう。

 だから身近な人の身体を、できるかぎり健康な状態に保とうと僕は考えるし、恋人には身体を(あるいはその健康な状態を)自衛するための知恵や習慣を教える。
 心が傷ついているならば、身体が悪く変化しないようにケアをする。
 僕はたびたび「カラダだけ」といっているが、まぁ、つまり「だけ」っていうのは誇張しすぎですね。
「カラダばっかり」くらいでいいと思います。いろいろな意味で。

 ちなみに「恋人に求めているのはカラダだけ」(不本意にも五八五(字余り)で語呂がいい(不本意にも六七五(字余り)で語呂がいい))は、修飾語が非常に足りていない文章であることがようやく理解いただけたものと思う(まぁ、理解されていないほうが面白いけれど)

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 彼女たち(なぜか複数形)と一緒にいるうちに、その価値観は自然と入ってくるし、僕はそれをなんとも思わず飲み込むこともできる。
 僕よりゆるやかな速度かもしれないけれど、恋人は恋人でミラーリングが起こるので、価値観が徐々に似通うことになる。
(ミラーリングが起こらない人もいるが、その理由やメカニズムについては今回説明しない)

 今の日本において多くの人は、肉体が、壊滅的に損なわれる経験をしない。
 だから、本当に精神の一部が壊滅的に損なわれる経験をしないのではないかと思う。
 もちろんそれは豊かなことだし、賞賛されるべき文明のありようだ。

 価値観や記憶を骨肉ごとごっそりと削り取られるような経験がどういうものかは、知らない方が幸せだろう。
 自分の価値観が誰かに傷つけられた、と騒ぎ合うくらいの世の中は、ずっと幸せなのだ。

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 スケジュールノートに書いてあったスケジュールとタスクをごっそり忘れて大失態を繰り返し、昼食を摂らずに一日が終わろうとしている。
 ていねいに手をかけるべき仕事に時間をかけられない。これらは他人を信頼して任せるべきなのだろうか。
 しかしパートさんが一人、このタイミングで身内にご不幸があり、しばらく休業することになった。
 ああ。その仕事。もちろん私ならできます。

 時系列の感覚が混乱してどのくらいだろう。混乱しているから分からない。

 ただ、ものすごい空腹を感じているので、僕は明日も元気です。









::状況に応じて義体も脳殻も変えてきた……。なら記憶も変えるまでよ。








引用は、
「攻殻機動隊 ~ Stand Alone Complex ~ 第24話:孤城落日 ~ ANNIHILATION ~」
によりました。



 
(20130723。青猫工場初出)
 


::なるほどご自身が我利我利であるならば、その目で見る全ての人間が我利我利に凝り固まって見えることでしょう。
 理解できないならばそれはそれで結構ですし、そうなると、どうやらわたしには興味のないお話ばかりのようなので帰ります。






151203

 雨のち晴れ。
 朝から寒い。

 しかし昨日からヒータを使わずに過ごしている。
 いわゆる「筋トレ暖房」であるのだけれど、これで不思議と不足がない。
 室温13℃までは耐えられることが確認できている。
 もちろん、基礎代謝の上昇が大きく影響しているとは思う。
 実際に、寝ているときはちょっと間違うと汗だくになってしまう。
 また、最近気付いたのだけれど、睡眠を十分に取ると体温が下がって目が覚めるようだ。
 逆に体温が高いうちはまだ眠いということ。

「アヲネコくんは眠くなると手があったかくなるからねぇ。おいで」とか、
「青猫さま、眠くなってきたでしょう?」とか、
 僕の体温でたいていのガールたちが僕の眠気を悟るのは、ある意味、合理的なのだろう。

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 仕事の戻りに、山間を通った。
 最初は、人間の微分積分に当てはまる、最近発見したパラメータ「忍耐力」についての考察をしていたはずなのだが、気がついたら景色を眺めていた。

 紅葉の名残が、山の木々を未だ染めていて、ひとことに「枯れる」といっても、そこにはいろいろな「枯れ色」が見られた。

 もちろん濃いオレンジになっても綺麗な枯れ色があるし、一方で、まだ薄黄色いのに汚い枯れ方の木もある。
 きっと人間も同じだと思う。

 たとえばだけれど、ある程度まで年齢を重ねるうち、恥ずかしいという気持ちを失う人は多い。
 これは男性でも女性でも同じように発生していると思う。
 僕自身、振り返っても、子供の頃はもっと自意識過剰で、恥ずかしがり屋だった。
 だんだん厚かましく、無神経になっているわけだ。

 無論、過剰な空回りの自意識であるならば、そんなものはなくてもいいのだとは思うけれど、一事が万事、ということもあるわけで、自分のそうした感覚はどこかで他の感覚とつながっていると考えると、やはり無神経なのは考えものだ。

 周囲を見回しても、二,三十代で「おばさんだなぁ/おじさんだなぁ」と思わせるような人はいるし、五,六十代で「乙女!/青年!」と感じさせる人もいる。
 気持ちが若い、とか、新しいことに意欲的にチャレンジする、というのはもちろんあるけれど、その一方で、やはり恥じらう気持ちというのがない人は厚かましいものだし、デリカシィが欠けては他人に対して無神経に、自分のことについてはふてぶてしくなってゆくのだと思う。

 年齢を重ねることそのものさえ恥じる人がいる一方で、何でも年齢のせいにして片付けようとする人もいる。
 前者は前者で、潔癖に過ぎるような気もするし、後者は後者で、怠惰だなぁと呆れる。
 もっとも、適度な清潔さであるならば、前者のほうが今後も美しくいられるだろう。
 僕もそろそろ、自分が無駄に年齢を重ねていることを恥じてしかるべきなのだろう。
(さて、何から恥じてゆこうか)(ちょっと違う気がする)

 枯れてなお綺麗な枝葉というのは、あちこち見ているとそれなりにあるものだ。
(街を歩いて年上ガールを物色していたことを詩的に表現しているのではないので誤解のないように)

 金属色とも違う、艶やかな葉を纏った樹を眺めて、なんともうっとりとした気持ちで坂を下っていった。
(街を歩いて年上ガールを物色していたら年上眼鏡ガールに一目惚れしたというようなことを詩的に表現しているのではないので誤解のないように)


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 今朝、叔母が一人死んだ。
 10年ほども前、我々の血族に特有の血管血液系の病で入院した際、お見舞いで会ったのが最後だ。
 ここ1、2年は、自分の身体をまともに動かせない状態で、鬱病にもなり、誰にも会いたがらないのだと別の叔母から先日聞いたばかりだった。

 別のある叔母は、記憶や判断力に障害が残っている。
 そうすると、直接の血縁で比較的健康な叔母はひとりしかいない。

 病とともに生きるのは、時に重すぎる。
 そうなのだ。生きるのは、意味もなく重いことがあるのだ。
 本当に、安楽死が制度化されればと、心から願ってやまない。

 忍耐力を要する時期というのは、確かに人間には存在する。
 しかし、どうなんだろう。
 老いらくにして不治の病を抱えながら、自らの身体もままならないままに生きて、その重い生に耐えても、いったいその先にあるのは死だけではないのか。

 若い頃ならば、たとえどんな苦痛が心や身体にあったとしても、時間がまだあるならば、つまり自由があるならば、確かにつらいとは思うけれど、それでも耐える価値はあるだろう。
 先見という意味で、これからの時間を計算する能力さえあれば、それはまだ耐えられるものだろう。

 けれども、時間が見えない場合は、あるいは明らかに時間がない場合はどうだろう。
 それでも生きろというのが、この社会なのだけれど。

 僕は計算の結果、これ以上無駄だと感じたら、できれば死にたいと思う。
 もちろんまだまだ先のことらしく「あなた80くらいまで生きちゃうわよぉ」なんて叔母に言われたりするものの、今が折り返し地点だなんてとてもじゃないけれど考えたくもない。

>>>

 先日、財産相続で親族に呼ばれてキレて(本当に大人げなくキレて)帰ってきたものの、まぁ、そういうことが今後もあるのかもしれないのだから(いや、多分もうないと思う。お願いだからありませんように)、今後はもっと偏屈に磨きをかけようと思った。
(ちなみに、キレるまで4時間くらい、同じような話を延々と聞いたり、話したりしていたのではある)

 人間は、自分の所有している時間というリソースを、うまく認識できる人と、できない人がいる。
 物質的なリソースと同じように、あるいはお金のように、ただただ多ければいい、質が良ければいい、とにかくたくさん欲しい、誰より自分のところに欲しい、と思う人は多いだろうし、それが悪いとも思わない。なぜなら、それが生命だからだ。

 一方で、節度であるとか、そういった、慎ましさのようなものは、どんどん風化してしまっているのだろうと思う。
 恥じらう気持ち、遠慮する気持ち、一歩引く心。それが、人間らしさなのではないだろうか。

 損だ得だと、もうどこを見てもうんざりするほどの潜在的な計算式が踊っている。
(フィルタリングをスルーしてしまった)Web広告も、厚かましくこちらの欲や不安を刺激しようと待ち構えているわけだ。

 数値演算はもちろん、非数値演算も下手な人たちは、いったいどこに自分を運ぼうとしているのだろう。








::結果として、外からは同じに見えるかもしれません。
 でも、意味が違うんです。あるいは方向性といってもいい。
 何かを制限して「それはダメだ」と言っているのではなくて「こういう可能性もあります」と言っているのです。
 そしてそれは、私や私の損得には全く関係のないことなのです。