160219

 好きなものや好きな人、好きな出来事、好きな状態、少なくとも一日に一度は、そういうものを考えられたら、そういう時間をきちんと作ることができたら、人というのは、きっと少しずつでも「いい状態」になれるのだと僕は信じていたし、たぶん今も信じているんじゃないか、信じていなくてはいけないんじゃないか、と思っている。

 嫌なことや嫌な人間や、嫌な出来事や嫌な状況なんてものを毎日毎日ひっきりなしに考えていたら、本当に精神的にも疲れてしまうし、そういう心情は、誰かに対してはもちろんのこと、何より自分自身に対して優しくなれるはずの機能を、他ならぬ自身の力で壊してしまう。

 だから、毎日、たとえば起きたときであるとか、眠るときであるとかに、好きなものや好きな人、好きな状態、好きな出来事、あるいは未来についての好ましい願望(妄想でもいい)を持っていることは、とても大切なことなのだ。
 せめて10分でもいい。せめて5分でもいいから。
 それは大切なエンジニアリングのひとつだ。



 でも。
 でも、もし。

 好きなものや好きな人がまったく思い浮かばなくて、好きな状態がどういうものなのか(どういうものだったのか)思い浮かべることも思い出すこともできなくて、あるいは未来についても過去についても何らの好ましさを見出すことができなくて、そもそもありとあらゆる「好ましさ」についての定義が空白になってしまっていたら。
 皆目、見当が付かなくなってしまったら。意味が分からなくなってしまっていたら。

 メカニズムを理解しているのにもかかわらず、それを具現するための大切なピースを、失っていることになる。
 それなら、心が折れることはない。
 もはやそこには折れる心がないのだ。

 折れないから、奮い立たせる必要もなく、淡々とそこに立っていられる。
 立ち続けられる。
 しかし、それはいったいどんな意味だろう。

 あるいは嫌いの反対が好きだから、人は嫌いなものを挙げ連ねていって、囲い込むようにして「好き」を構築するのかもしれない。
 けれども直感的にいえば、そこに浮かび上がる「好き」はニセモノの「好き」だ。
 嫌いの逃げ場としての「好き」。ほんとはどうでもよいもの。なくても一向に問題のないもの。

 ほんとうにどうでもいいものは、本当は「嫌い」のほうのはずなのだ。
 でもそれは、日常の中、毎日の暮らし、仕事であるとか、家事であるとか、のんびりすごしている時間であるとか、友達と会ったとき、親と会ったとき、兄弟と話しているときに、不意に化学反応のようにしてそこに形成される。

 それがひとたびそこに現れると、どうしても、無視できない。
 それが生命らしい反応だとは思う。
 でも、その「嫌い」は、命を落とすほどの「嫌い」ではないはずなのだ。
 どうでもいい、どうにでも対処できるはずの「嫌い」のはずなのだ。

 そんなに人は無力ではないし、そんなに人は馬鹿でもないし愚かでもない。そのはず。
 ならばその「嫌い」を「なんでもないこと」や「好き」や、せめて「どうでもいいこと」にすることは、不可能ではないはずなのだと僕は思う。
 その程度の能力は、きっと誰にでも(もちろん僕にも)あるのだと。



「好き」を探して、「好き」を見つけるのも、だからこれは能力なのだとは思う。
 でも、そのためにはやはり自分の中の「好き」を、きちんと認識している必要がある。
 自分の中の「好き」を知らないものが、外に「好き」を見つけることはできない。

 そしてフリダシに戻る。
「好き」の定義が空白になってしまったとき、「好き」の拠り所なんてものはどこにもないのだと。

 そして「好き」もなく、その定義も失ったそれは、本当に「心」と呼べるのだろうかと。
 心を失ったイキモノに、魂などあるのだろうかと。
 もしないのだとしたら、この肉体は、いったい化学反応によってのみ動作しているものなのだろうかと。
 そしてそんなことに意味はあるのだろうかと。






 



::「実生活の役に立たないからこそ、数学の秩序は美しいのだ」
と、博士が言っていたのを思い出す。
「素数の性質が明らかになったとしても、生活が便利になる訳でも、お金が儲かる訳でもない。もちろんいくら世界に背を向けようと、結果的に数学の発見が現実に応用される場合はいくらでもあるだろう。楕円の研究は惑星の軌道となり、非ユークリッド幾何学はアインシュタインによって宇宙の形を提示した。素数でさえ、暗号の基本となって戦争の片棒を担いでいる。醜いことだ。しかしそれは数学の目的ではない。真実を見出すことのみが目的なのだ」





 色相マップというのが、実はなかなかニガテである。
 思ったような色を、うまくピンポイントに出せない。
 かといって数値入力でピンポイントできるほどの勘を、今の僕は失っている。
 色相マップによるカラーピッキング。
 古典的にして保守的な手段ではあるが、グラフィカルでいっそ直感的な気もする。
 メーカの提示する「直感的」が、まぁ、どれくらい押しつけがましい「直感的」であるかは別にしても。

>>>

 保守的ということがどういうものなのかといえば、それは端的には、変化を嫌い、できうる限りそれを避けようとすることなのだろう。
 齢を重ねるごと、人は保守的になるというのは、その意味で実に合理的ではある。
 一朝一夕に「はい、では今までの私の考えはなかったことにしましょう」というように、すっと切り替えができるわけではない。
 たとえばひとつの判断を、決断を、下すことそのものはきわめて短時間に行うことができるとしても、その結果は、その分岐の先は、瞬間や短時間などではなく、短くとも数時間、長ければ数十年も自分自身に影響を及ぼし続けることがある。
 そうした中で人は新たなことを学習して自分の中に蓄積し続けるわけだけれど、その蓄積は必ずといっていいほど次の決断のために行われるわけだ。そうした蓄積をもって人は判断を下すわけだから。

 ために定見を持たないというのは綺麗にしなやかなようでいて、ある意味、無責任で、考えなしなありようなのかもしれない。
 最近、つと思った。

 もとより僕は頑固な方であり(「かた」と敬語にしてもよい)、それを自覚していたからこそ定見を持たないようにと努めていたのではある。
 一方(つまりは自分の立場や知見)からの考えだけで物事を推し量ることがいかに短絡的であるかをおそらく何らかの経験を通して知ったからではあろう。
 あるいは、誰かから一方的に(つまりはその人の立場や知見に基づいて)物事を推し量られ、それによって何かしらを押しつけられることに単純な怒りを覚えたその、反動形成なのかもしれない。

 前者であるならば、確かにそれは思慮深い。
 自身の一方的で押しつけがましいありようを自覚し、内省し、それを中和することによって、物事がよりよい影響を相互に及ぼしやすくなるであろう、少なくともそうなる可能性が高いかもしれない、という考察の結果としてもたらされた無定見であるならば、それは確かに思慮深いようにも思える。

 しかし後者であるならば、これは由々しき問題かもしれない。
 つまるところそれは、単に反抗の一形態でしかない。
 反抗ならば反抗らしく、一方的に押しつけられた考え方に対して、反駁をするべきであるのだ。
「私はそうは思わない。私はこう思っている。なぜならこういう理由があるから」と。
 それが定見であるかどうかは別にしても自分の考えがある中で、他者の(これまた定見であるのか、それともその場の思いつきであるのかは別にして)定義なり判断なりに対して何らの反論を行わないというのは、それはそれでひとつの怠惰のカタチなのではないだろうか。

 反論に値しない、その程度の時間や手間を掛ける価値もないようなどうでもいい議論というのは実にたくさんある。
 掛けたコストに見合うリターンがどう転んでも見込めない(せいぜいちっぽけな自尊心が、ささやかな議論の勝利によって短期的に満たされるという程度の)ことも少なくないだろう。

 仮にそうだとしても、では一方的に押しつけられた価値観を、カタチだけでも飲み込んだフリをして、心の中でアカンベーをするのは、果たして「綺麗でしなやか」なのだろうか。
 それはカタチの上では反抗をしていないにもかかわらず、自分のちっぽけな自尊心を満たし、ささやかで巧妙な手段によって相手にそれを悟らせない、ある意味で平和的な解決なのかもしれない。
 綺麗かもしれないし、しなやかかもしれない、けれど狡猾で、もっといえば卑怯だ。さらにいえば相手に対して不誠実でさえある。
 もちろん、そもそもの段階で相手が誠実な気持ちで思いやりを持って、自身の定見に基づいて真っ正面から向き合ってその「何か」を言っているのかという問題はある。
 どういうわけかは分からないけれど、言葉はどんどん安くなって、易くなって、文字通りに「あることないこと」人は伝えることができるようになり、「あることないこと」伝える人が増えたようにも思える。

 あるいは心の中でアカンベーさえしないことはどうだろう。
 たしかに定見はないのかもしれないが、では最初に自分の中でかすかにであれ感じた反発は、いったいどこからどのようにして、そもそもなぜ生まれてきたものなのだろうか。

 その「何か」は簡単に言葉にできないものだったのかもしれない。
 しかし簡単に言葉にできなかったからといって、それは、私の中で、私の手によって、簡単に殺してしまってよいものだったのだろうか。
 あるいはその殺しによって汚れた手をして、相手にその殺しの責をなすりつけてよいものなのだろうか。
 殺した原因をつくったのは、ほんとうに相手なのだろうか。
 少なくとも殺したのは自分の手なのである。
 自分の中のその「何か」を殺す遠因をつくったのは、確かに相手なのかもしれない。
 では自分はそれ(自分の中の「何か」)をみすみす殺させて良かったのだろうか。少なくとも殺したのは自分の手であり、つまりは自分の意思である。

 そこまで考えて、僕は、はっとしたのだ。
 もしも僕が「定見を持たず」「しなやか」なフリをして、誰かの意見に耳を傾けつつそれに追従し、にもかかわらず本心は異なるものを持っていたことがあるのだとすれば。
 さらにいえば、その本心に気付いてか気付かずか、それを黙殺していたとするならば。
 僕を殺しているのは、殺し続けているのは、誰かではなく、僕自身なのだと。
 自分を殺すことで誰かをバカにする免罪符をつくり、あるいは誰かに殺されたと錯覚することで誰かを加害者に仕立て上げるような愚かしいことをしているのは自分なのではないのか。

 なんと恐ろしいことをしているのだと。

 そしてそれは、全くなかったなどと、僕には言えないのだ。
 僕は確実に、ことなかれと思って自分自身を殺したことがあり、心の中でアカンベさえすることなく黙殺したことさえあり、アカンベする場合であっても、あるいはそれをしないまま自分を殺した場合であっても、それは相手が悪いものだと思っていたのである。

 なんと恐ろしいことなのだろう。

>>>

 とまぁこのように「うまく言葉にならないもの」を、多少なりとも分かりやすいようにと説明をすることが僕にもできないわけではない。
 しかしこれまでの経験上、20人中16人は話している最中に「こいつ理屈っぽいなぁ」という態度を示し、そのうち13人は「理屈っぽくて付き合いきれん」という態度を示し、さらにそのうち9人はこちらを無視し、さらにそのうち5人(つまるところ4人に1人)は嫌悪感を示す。

 嫌悪されて嬉しいと思うほど僕も人間ができあがっているわけではないが、僕にも嫌いなものはあるから、嫌悪するのは(つまりされるのは)仕方がない。
 これはどうにもできないから、受け入れるしかないし、僕はその嫌悪感を尊重することさえできる。単にこちらから余計なアクセスをしなければよいのだ。
 しかし、理屈っぽいのかもしれないけれど、その根底にあるのは「理屈っぽくないこと」なのではある。
 直感的で、アナログで、ために複雑で、捉えようによって(つまり解像度によって)繊細なこと。
 それを、僕にとってはできる限りの解像度で(荒くすることは受け手の誰にでもできることのはずだから)言葉によって説明をしようとする。

 そうするとそれは、論理的で、デジタルで、ためにより複雑で、しかし直截的であるから繊細ではないことになる。
 直感的なものが直観的に変換されるわけだ。
 たとえば色にしても、3ビットで8色(ブラック/ブルー/レッド/マゼンタ/グリーン/シアン/イエロー/ホワイト)の定義をしていた頃の色はシンプルだけれど、より複雑な色調(極端に48bitカラーであるならば 000000000000 ~ FFFFFFFFFFFF の間の任意の中間色)は相対的に複雑なものではある。
(それでもデジタルで、つまりは複雑だけれど論理的で、直截的なのではある。少なくともアナログで絵の具を混ぜるよりは)
 料理に喩えるなら、炒り卵とスクランブルエッグと目玉焼きと固ゆで卵と温泉卵の違いと言ってもいいかもしれない。
 乱暴な人はどこまでも乱暴に「青は青だろ」と言い放つ。
「卵料理なんてどれも一緒だ」と言い放つのと同様に。
 しかし多くの人は目玉焼き(それも半熟か固焼きかで好みが分かれる)とスクランブルエッグを「全く別のもの」と認識し、つまりそれぞれに好みが分かれる。
 色や感情や感覚にしても同様で、どこまでも乱暴にすることは可能だし、どこまでも自分の中の感覚を厳密に捉えて表現し、それを共有しようとすることは可能で、実際に20人に1人くらいの人(希望的観測も含めるので実はもっと少ないだろう)は「ああ、あれでしょ!」と説明する途中には理解してくれることがある。

 実のところ人間の感覚するものとは、文字通りに感覚的で、ために直感的なものなのだ。
 もちろん相手が聞きたい内容でもないのに、僕がこうやって余計な説明を始めたら、それはもう、本当に迷惑なことだろうとは思う。
(中にはそれこそを面白がってくれる人がいることも知っている。それさえ含めて嫌う人はとことん嫌うであろうことも)
 しかしたとえば尋ねられた内容などに対して、僕の中に存在している相反する感覚などをきちんと説明しないと細かいニュアンスまでがきちんと伝わらないと僕が思ったならば(つまり、単純な好き/嫌いであるとか、GO/STOPであるとか、ではない部分まできちんと共有する必要があると僕が判断したならば)僕はそれを説明する。せざるを得ない。
 なぜならば(これも極端な例だけれど)僕の「NO」はときに「YES」であり、僕の「YES」は「NO」を含むことがあるから。
「嫌よ嫌よも好きのうち」という言葉にもあるとおり(サンプルが不適切だけれど)、そうした物事に含まれる機微の実体を他者に伝えようとするならばそれはやはり言葉に頼るしかなくて、するとそれは複雑な機微を含むために大きく回った表現をする必要があったり、余計で不適切な具体例や喩え話を持ち出したりしなくてはならなくなるのだ。

 だって「あなたの好きな食べ物とその好きな気持ちをパントマイムか私に対するスキンシップで表現してください。パントマイムか、スキンシップで」と言われても困るだろう。
 少なくとも僕なら困る。いくらなんでも無理がある。

 もっとも尋ねられた内容に対して答えている最中に、相手の理解能力(つまりは解像度や記憶容量)の上限を超えてしまったりすることがあり、その結果「理屈っぽい」「話が分からない」「むつかしく言い過ぎ」などという非難を受けることがあるのではある。もちろん、その気持ちは良く分かるのだけれど。

 単純にYESかNOか、という問いであれば、それは単純に答えられる。それは直感で済む問題だからだ。
 そして「おまえらこれをどう思う?」とか「あなたはそのことについてどう考えているのか」などと問われれば、それに対して「どう思うか」と「なぜそう思うか」はセットになっていなければ伝わらないことも多いのではないかと思う。
 その「なぜ」の部分を省略することによって誤解が生まれるのは、少なくとも僕のこれまでの人生ではかなりの主流を占めていた。

 たとえば「昨今マスコミで騒がれている有名人の不倫についてどう思いますか」という問いに対して、僕は「別にどうでもいいんじゃない? 私やあなたの生命に関わることじゃないし」と答えるだろう。
 そして同時にその「どうでもいい」について、実は「どうでもよくない」が含まれる。
 逆説的に「どうでもよくない」の中に「どうでもいい」が含まれている。
 解像度の高い人は「うんうん。その『どうでもよくないところ』をもっと聞かせてよ」となって、話しがより深いところに進む。
 解像度の低い人は「え?(困惑)どっちなのそれ?」となって、フリダシに戻る。

 僕から言わせれば、そんな機微の仕組みも理解できず、理解しようともしないバカが悪い。
 質問に対する答えを理解できないのは、多くの場合、回答者が悪いのではなくて質問が悪いのだ。
 にもかかわらず、何故か世俗の質問者というのは「自分は立場が上だから質問できる」と勘違いしているフシがある。
 たしかにずけずけ無遠慮な質問をする人間が世俗には確実に存在していて、そういう人たちはどういうわけかさまざまな領域において「そういう権利が自分にはある」という確固とした勘違いをしているためになんだかエラソーなのではある。

 学究の徒という存在のいる領域に足を踏み込めば、質問者と回答者は常に対等であり、あるいは教えを乞うものが立場としては下であり、何より絶対なのは質問者でも回答者でも、さらにいえば解答や正解でさえもなく、ただただ真実真理のみである、ということがわかるはずなのだけれど。
 大学などという「学究の徒のすくつ(ATOKだと変換できてしまう)」みたいな場所を経由して生産された人間でさえ、たやすくその罠にかかるものであるらしく、社会の仕組みの複雑さに僕は思いを馳せる次第である。

>>>

 かように、僕には定見を持たないように努力しようという定見がある。
 矛盾しているが、比較的すっきりした矛盾であり、もっと複雑怪奇に矛盾していてもいいとさえ思っている。
 自分の持つ定見が強いからこそ、一刀両断するのが容易だからこそ、ことを複雑に、矛盾させた方が面白いのであるし、じつにそのほうが物事を如実に(つまりはより正確に)表現できるのでもある。
 なぜなら人間や社会というものは、複雑で、矛盾しているから。当たり前ではないか。
 それを「単純だ」「首尾一貫している」などと思い違いをしているから、物事の答えは単純でシンプルなものだと思っている。
 そんなふうに物事を荒っぽい解像度で認識できる自分の単純さ(そしてその単純さを導き出しているところの、実は非常に矛盾していて、異常なほどまで複雑な自身というシステム)をよく認識して欲しいものだとは思う。

 変化することを僕は嫌わないし、むしろ好むと、ときどき僕は書いている。
(知らない人は、古い青猫工場を順番に読むことが今はできないので2年くらいROMるしかない)
 自分の中の判断基準などというものは、所詮は真実真理のうちのごくわずかなかけらを持ち合わせているに過ぎない。誰しも事実はそうなのではないだろうか。
 人間の判断能力などというのは、不確かな基礎の上に、曖昧模糊とした判断基準を噛ませて、その結果という柱を載せて、都合という梁でつなぎ合わせて成り立っている、それはそれは不安定なビルディングなのではないのか。
 しかしそれを拠り所にするしかない場面ばかりだ、というのもまた事実。

 それならそれで、せめて、その事実を、事実として認識するくらいの謙虚さは持っていていいと僕は思う。
 もっとも、そんな事実さえ残らないほど目の粗い、ザルな解像度の人間も、まぁ、いないわけではないのだ。
 そうなると、僕は、話が通じないが故に自分の意見を言わぬまま飲み込み、相手の意見は言われるまま飲み込み、となる。
 言い続けてもいいのだけれど、相手に聞く耳がない場合、馬に念仏、猫に小判、何も通じず、価値は逆転しさえする。
 ただ、今後は、せめて、心の中で強くアカンベしたり、中指を立てたりすることを忘れずにいようと思った。

 相手の価値観に飲み込まれてゆくのは確かに楽しい。
 そこには自分が変化することによって生まれる、自分の知らない新しさが、確かにあるのだ。
 でもその一方で(どんなに頑固で変わらないことが分かっているにしても)自分自身のかけらを、あろうことか自分自身の手で殺してはいけないのだ。
 飲み込むことと、飲み込まれることは、そのくらいには違うことなのだ。

 相手がバカでザルならばこそ、僕は自分の中の曖昧模糊として複雑怪奇で繊細な中間色の数々を、自分の手で守らないといけないのだ。

 色相マップで色を探しながら、見つからないことに悩みつつ、短い時間(およそ30秒ほどだろうか)でそれらを想った。

 人生はやはり長さなどではない。
 長いだけで何の発見もない人生よりは、短くても何も持たなくても、いつも何かを発見できる生き方がいい。

 もし今日死ぬなら、今日の発見を。



 それにしても、思った色が見つからない。
 願わくば、もし今日死ぬなら、今日の発見を。









::もちろん素数を見つけたときは気分がいい。ならば素数でなかった時、落胆するかと言えば、決してそうではない。素数の予想が外れた場合には、またそれなりの収穫がある。11と31を掛け合わせると、かくも紛らわしい偽素数が誕生するのかということは新鮮な発見であり、素数に最も似た偽素数を作り出す法則はないのだろうか、という思いがけない方向性を示してくれる。







 冒頭、文末の引用は、
「博士の愛した数式」(p.177-178)(著作:小川 洋子 / 発行:新潮文庫)
 によりました。






 



::ええか、これしかあれへんねん。
 一枚はオマエ。一枚はオマエ。
 で、もう一枚は……オレや。
 少のうて悪いがええか、コレで。





160216

 思い出したようにギターの練習をすることがある。
 送るこのとできる会社の全てに履歴書を送り、受けられる範囲で全ての面接を受け、しかし午後の予定が全くない、今日のような日に。

 一部の人が知るとおり、僕はギター用語に詳しくない。タブ譜(ギターのための「どの弦のどのフレットをどのように押さえてどう弾くか」についての譜面)は読めるが通常の楽譜は「ミ」か「ソ」か「ラ」の音を起点に探り当てる始末だ(DTMをしていた時代は、もうちょっと読めた気もするが、遠い昔のことだ)し、ギターのどの弦のどのフレットを押さえると何の音が出るのか、僕は知らない。
 かすかに覚えているのは、以下の用語くらいか。

○ハンマリング(左手のみで弦を上から押さえることで音を出す)
○プリング(左手のみで弦を引っ張って音を出す)
○チョーキング(弦をスライドさせて微妙に音を変調させる)
○スライディング(左手で押さえているフレットをスライドさせて大きく音を変化させる)

 道具や部品の名前も、ネックぐらいしか知らない気がする。
 当然のように、自分のギターのメーカも知らない。
 今見たら、Morris、と書いてあるのだが、それがどんなところなのか知らないし興味も特にない。

 たびたび書いているが、僕はコードも知らない。
 ちょっとやってみて、Cメジャーらしきものの音くらいは出せるが、あとは全く知らない。
 見ればなんとなく分かるし、コードが万能であることも心得てはいる。オリジナルにアレンジが効くのも理解している。
 でも、僕はコード奏法でギターを覚えなかったので、コードを弾いて歌っても、全く面白くない。
(学校で習ったときもそうだったから、僕はギターに興味を持たなかった)
 ピアノや琴を弾く人でもおそらくそうだろう。
 コードというのは、結局のところ和音を鳴らしているだけの状態でしかないから、演奏としてはとてもつまらない。
 弾き語りをするには、その単調さが便利だとは思うのだけれど、僕は自分のために弾いて歌うわけだから、上手かどうかより楽しいかどうかを重視してしまう。
 上手に、綺麗に弾けて退屈するくらいなら、下手くそに失敗しながら楽しいほうがいい。
(そういう弾き語りの楽しみ方を、僕はBPに教わった)

 さらにたびたび書いていることだけれど、僕は今のところ2曲しか弾けない。
 3曲目はタブ譜もあって練習している。
 4曲目はタブ譜もなく、ネットに出ている耳コピタブ譜は何度聴いてもニセモノにしか聞こえないので、自分でコピるしかない状況にある。だからこれはもっと先。



 最初に覚えたのは「Hey Hey」

 2年くらい掛かって、ようやく弾けるようになった。すごく遅いと自分でも思う。
 スライディングが特徴的でチョーキングしている箇所は脇役にもならない。
 久しぶりに弾くときに、この曲を何度も弾いていると、あっという間に左手の人差し指の皮が(スライディングで擦れて)なくなってゆくという恐ろしい曲。
(皮膚が硬くなるため)何度も練習してよくなるのは、だいたい4日目くらいから。
 硬くなる前に弾くと、皮が傷だらけのでこぼこになって、修復に長い期間を要する。
 1週間くらいかけて、少しずつ皮膚を馴らしてゆくという、何の修行なんだこれは。




 2番目に覚えたのは「Tears in Heaven」

 僕のギターの師であるBP(仮名)は、この曲がたいそう好きであり、僕に何度も推してくるので、Hey Hey を覚えたあとに練習を始めた。
(ちなみにBPは、いくつもの曲を並行して、そのうえサビから練習するため、細かい部分でモノになっていない曲も多いけれど、レパートリィはとても豊富だ)
 この曲、昔よりは慣れたが、フレットを押さえるのに親指を使わない(使えない)僕には、今でもちょっとむつかしく感じる部分がある。




 今、メインに覚えようとしている3曲目「More than words」

 これもBPが教えてくれた曲で、とても綺麗な曲だと思う。歌詞もなかなか深くていい。
 かじっただけでは甘ったるいだけに感じる(実際にそういう和訳も多い)が、甘ったるいモノしか知らない人間が作れる甘さではない。
 ということを http://ladysatin.exblog.jp/20748545/ このサイトの考察を読んで感じました。
(ぼくはえいごがあまりとくいではありません)
 英語は得意ではないものの、和訳のニュアンスが、他のサイトの訳に比べてすごくナチュラルなんですよ。
 なんていうんだろう、日本語吹き替えをした海外のコメディドラマにあるような「わざとらしいクサさ」が抜けているというか。

 で、この曲はギターの弦とか腹(なんて言うんだ、あの「腹」の部分を!w)を叩く。これが演奏の中でとてもいい効果を出していて、そこがとても好きなのだ。
 頻繁に「チャ」と入るリズムが弦を叩いている音(腹にもちょっと爪を当てたりしているみたい)、アクセントに「トトン」「トトト」と大きく響くのが腹(ほんとに腹なの!?)をノックしている音。
 綺麗に弾けるととても気持ちがよいのだけれど、4小節目に難関があり、ここで毎回ひどい音を出すため数年前から挫折を繰り返している。
 押さえているコードの1弦だけを1フレットだけスライドさせる。
 16分音符で。
 16分音符で!

 この一見どうでも良さそうで無駄に見える作業をいい加減に誤魔化すと、メロディが台無し。
 といってこの部分を完璧に演奏する技術がじつに簡単ではない。
 なので、そこばっかり練習する羽目になる。というわけです。
 これがこの曲だけで3年くらい掛かっている理由。もちろん、練習は毎日なんてしていませんが。
 ただ、最近はちょっと上手くなってきたと実感している。
 やはり少しずつ上達するものなんだなぁ、と感慨にふけったり。

 それにしても、どのミュージッククリップもそうなんですが、BPも言っていたとおり、本当に、左手だけをアップにして撮影してくれないのでしょうか。もうそれだけで需要があると思うんですよ。
 売れるはず。




いつか覚える予定の4曲目「楽園」

「TRIGUN」という漫画の、TVアニメ版で使われた曲(のはずなのだけれど当時から僕はTVを真面目に見ない性格なので、アニメ版のほとんどを見逃している)。
 Wolfwood という、主人公の相方みたいな役回りのキャラがおりまして、これがたいそういいキャラで、牧師のくせにとっても強いし優しいし面白いし生い立ちや背景がドス暗いし関西弁(それもエセ関西弁)だし非常にキャラが立っているわけなのですけれど、途中で死にます。
 原作でもそうですが、自分が育てられた孤児院にいる子どもたちのために殺し屋まがいの世界に足を踏み込んで、原作だと主人公を殺すための刺客だったりして、そのあたりの葛藤も含めて2人目の主人公と言っていい役なのですが。死にます。
 都合よく復活なんかしないストーリィです。
 で、その彼のための曲なんですね、多分。

 掠れかけた、でも優しく語りかけるような、祈るような、静かな歌声がセクシィだと思います。
 歌詞らしい歌詞がないぶん、込められた情感を、曲や声(やストーリィ)から補完すると、とても奥行きのある、いい曲だなぁと。

 しかしこの曲、ネット上に(耳コピしたであろう)タブ譜を公開している人もいるのですが、どうしても同じ音階に聞こえない(笑)。
 僕が耳コピすると、そもそも2フレット目をすべて押さえる必要があるように思えるんです。
(ネックをあるフレットで、丸ごと押さえるためのその器具を僕は持っているものの、その固有名詞を僕は知らない)
 しかし、押さえても、イマイチいい感じにコピーできない。

 たぶん練習開始から5年は掛かる気がしている。
 この四曲をマスターする頃、僕の人生は終わると思う。







::心配しとったんや。
 あんた、いつもニコニコ愛想ええけど笑い方がカラッポで胸が痛なるんや。
 ツラくてしゃあないクセに、やせガマンだけで笑っとる、そんなふうに見えとったで。







 引用は
「#18 魔人集結す」From「TRIGUN」第3巻(P.148-150)
(著作:内藤 泰弘 / 発行:徳間書店)
 によりました。







 

 


::男というのはオカシな動物で、自分が才能豊かな男であることと忙しいことは、比例の関係にあると思いこんでいる。私などは、そんなことはないと確信しているけれど、男のほうはなぜか、とくに日本の男の場合はほとんどといってよいくらい、忙しければ忙しいほど『たいした』男であり、それを女に誇示する傾向から無縁でいられない。
 そういう男たちは、暇をつくることこそ、とくに愛する女のために時間をひねりだすことこそ、男の才能の真の証明であります、などという正論で屈服させようとしてもまったく効き目のない人種であるから、それを独占するのは、目的のためには手段を選ばず、式の戦法でいくしかない。病気にならないかな、と悪魔にでも願うわけである。それに、病床に横たわる男は、意外にも色気を漂わせるものです。少なくとも、たいしたことをやってるわけでもないのにやたらと忙しがる男に比べれば、ずっとステキで可愛らしい。





160208

 インフルエンザで体重のおよそ5%を失った。3kgほどである。
 現在の体重は60kgにわずかに満たない。
 体脂肪率は16%より下回り、骨格筋率は相対的に上昇し38%を超えている。
 当然ながら、有酸素運動ができるほどの持久力を失っている。
 その能力は失われた3kgに含まれているから。

 そのようなわけで昆布と干し椎茸と人参と玉葱に少々の塩を加えて弱火で煮出しつつ、雑煮を作っている。
 まともに取った出汁というのは、なんというか、身体にきちんと沁みる味わいがある。
 美味しいものは数あれど、天然のものと人工のものとで、調味料ほど明確に分かるものもそうはない気がする。

 もちろんジャンクフードにはジャンクフードの美味しさがあるし、化学調味料には化学調味料の良さがある。
 それでも、病後や絶食後にはきちんとしたものを摂らせたい(でないと戻したりするから)。

 出汁の旨味の主成分は、グルタミン酸なのだろうか。
 いずれにしてもアミノ酸系に由来しているものであろう。つまるところ水溶性タンパク質であるわけだから、上手くすれば身体に蓄積してくれる。
 どういうわけか、粉末のアミノ酸をかき集めても、同様のものにはならない。このあたりが、きちんとした出汁の奥深いところだと思う。
 煮出した出汁から昆布を椎茸を取り出して、椎茸は細く切って鍋に戻す。

 塩と砂糖を少々加える。
 醤油を加える前から綺麗な黄金色をした、いい雑煮の汁だ。

 餅を焼いている。
 焼き上がったら、もうできあがりのようなものだ。

 ワークアウトを今日から再開した。
 体重はすぐには回復しないだろう。









::一度、夫でも恋人でもボーイ・フレンドでも、愛する人が病気になってくれないかなと願ったことのない女は、女ではない。
 といって、まじめな病気では困る。生命に心配のあるような病気では、話が深刻になるから「願う」どころではない。だから、風邪か骨折ぐらいの病気、ということにしよう。
 なぜ病気になってくれないかなと思うのは、病気にかかって寝床から起きあがれない状態になってはじめて、女は男を独占することができるからです。







引用は、
「第22章 男の色気について(その三)」(p.167 - 168)
From「男たちへ」(著作:塩野 七生 / 発行:文春文庫)
によりました。




 

 




まどろみの水色はねる君の髪の毛の先
ふわりきらめき反転急転直下の日差しの鈍角
吸い込むような呪文のようになめらかに流れる口もと
風に誘われるように足音はステップを呼ぶ

雲の陰の境界を追って君が僕を呼ぶのなら
水たまりを揺らす波動お日様はふるりと震え
角張った迷路の曲がり角をぶつけてみても
届かない夢色はカーペットで眠りを誘う



大あくびは陽射しあびる君の爪の先
ゆらりゆらめく暗転急上昇でも驚かないよ
吹き飛ばすような魔法のように超音速で笑う口もと
夢に踊るようにつま先でフラップを叩く

夜の影の境界を追って君が僕を呼ぶのなら
月明かりで照らす鼓動お月様はそっと見つめ
欲張った迷路の出口足をぶつけてみても
届かない鈍色はバスタオルの水気を誘う



爪を研いで引っかかるものなんてだいたいがまやかしさ
都合の良い嘘と共に消える口どけのよいクリィム
ただそれだけの白昼夢
誰も救わない狂詩曲



うすもやをはじく金色君の睫毛の先から漏れる
くるり回って反転超音速の朝陽の模様
吹き込むような夢幻にも似たゆるやかな微笑み
夜に追われるように追憶をクリップで留め

光と影の境界で迷う君が僕を呼ぶのなら
水の中に眠る望郷どんな距離さえもすっと超えて
入り組んだ迷路の扉をいくら歪めてみても
届かない虹色はカーテンでただ光を誘う






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~ Remainable Exist ~

Written by BlueCat

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//[Body]
 窓の外から汽笛が聞こえた。
 電気機関車だろうか。

 電気機関車といっても、今はたいてい電車だから当たり前のことだが、鉄道マニアの人には非難されるかも知れない。
 私はあまり鉄道には興味がないので、御容赦いただきたい。
 要するに、モータも電気機関だ、という程度の認識である。

 汽笛が鳴るということから、通常の旅客車ではなく、観客車、あるいは観覧車であろうと考えられる。
 通常、鉄道といえば移動(運搬)が、その機能であり、サービスであり、目的である。

 私が電車に乗る場合は、移動が目的なのだが、目的と手段が入れ替わる時、人間はそれを趣味と呼ぶのだろう。
 上記の「観客車(観覧車)」という表記はそれを意識しての記述である。
 あるいは「客観車」と呼んでもいいだろう。

 多分メカニズムは旧式。
 それでもそのカタチが生き残っているということは、それなりの理由があるはずだ。
 少なくともそれに乗って移動することは主な目的としていないのだろう。

 それを見ること(より正確には、その存在があるということ)に価値がある、という指標にもとづいた方向性だと思う。

 おそらく、私のいる地方のような、ローカル路線だからこそ実現できるサービスだろう。
 本来の運搬ではない目的で運搬機械を動かすのだから、これは結構フトコロの広い、太っ腹なサービスではないだろうか。

 もちろん「環境負荷が」なんて言い方もできるんだけれど、そこにファンタジーがあるならば、多少の環境負荷はいいじゃないか、というのが現代社会が成熟した証であるともいえる。

 たとえば花火大会なんてどうだろう。
 大量の火薬と、そこに集まる人間たちが費やす化石燃料。
 電気、渋滞、事故、マスコミ、人力、その他諸々。
 まさに目が回るほどの浪費ではないか。

 それが悪いというのではない。
 むしろ、歓迎している(私は出かけないが)。

 火薬で弾丸を飛ばし、燃料で戦闘兵器を動かすよりは、ずっといい。

 ただ、私は非凡なファンタジーよりも、平々凡々な日常をよりいっそう愛している。



 日本人に限らず現代先進国人の好奇心の方向性として、ハレとケのうち、ハレを特に歓迎する風潮がある。
 これにマスメディアや商業が加速をつけ、人間は自分でも知らないうちにそれを特別視するようになったのではないだろうか。
 バレンタインデー、クリスマス、誕生日、子供の日、各種宴会、まぁ、その他諸々。

 今はわざわざ祝うまでもない。
 なぜなら普通は子供も大人も、そう簡単には死なないようになったからだ。
 年が越せない、なんていうのは、冗談で使われこそすれ、実際に年貢の納めどきってやつで悪代官によって、見せしめに処刑されることもないだろう。

 七五三でお祝いをするのも、大晦日、お正月と祝うのも。
 人間が生きているということが、容易ではなく、特別であることを知っていたからこそ生まれたのではないだろうか。
 だから、祝ったのだろうし、自然と神々に(あるいは人々に)感謝をしたくもなる。

 それだけ昔は人が生きるのが難儀だったということだろう。

 今は生きているのが当たり前だから、何を祝っているのか分からない人も多いのではないだろうか。
 少なくとも、私は分からない。
 祝ったって祝わなくたって、生きていられる。
 死ぬほど困れば祈りもするが、そんなに困らないようにと作られた社会ではないのか。
 だから分からなくても問題ないと思うし、分かる必要もないと思う。
 分からないことが幸せの証なのだ。

 祈りが感謝に、感謝が祝いに、祝いが祭りになり、けれども昔は、それはあくまでも手段だった。
 神々に、豊作に、隣人に、人々に、
 自分が生きていることに、大切な人が生きていることに感謝する。

 感謝しないでは生きられなかったのだから、当然、命の重みも今とは違ったものだろう。

 今は豊かになったから、感謝しなくても生きていられる。
 徐々に手段は目的となり、本来の意味を失い形骸化していったのだろう。

 生きることも同様で、生きることが目的だった大昔と違って、生きることはただの手段になりつつある。
 その手段を使って、何をするべきか。
 まぁ、そこまで考えが及ばないのは過渡期だからだろうと、都合よく考えたい。

 本当に感謝の気持ちが鐘のように鳴りやまない、ということも確かにごくごく稀にあるが、
 そういうことは一般に騒がれる「お祭り」とは関係なしにやってくる。

 思った時に感謝すればよいのである。
 コンビニエントな指向性が時代の先端だと私は思っているから、間違ってはおるまい。



 たとえば恋愛についても同様で、十分に豊かになったにもかかわらず、いまだに人間がハレとケの原理意識を捨てられない場合、ついつい好奇心や射幸心が先に立ってハレの部分に目が行ってしまう。
 要するに、いつでも浮気相手や愛人の方が可愛く見える、ということ。

 もちろんそれはそれで結構なことだと思う。
 物質的にも、精神的にも(それ以外に知識や経験も)豊かでなければ、そういうことは不可能だろう。

 ただ、恋愛に限らず、人間関係や仕事、趣味など人間の持つすべての活動において、好奇心や目新しさだけに目が行ってしまうと、それで何かを見失うような気がする。

「女房と畳は新しい方がいい」なんて、タチの悪い冗談もあったものだ。
 同類の方向性に「女性は若い方がいい」とか「女性に年齢を尋ねるのは失礼」という考え方がある。

 私にはそれらの概念がさっぱり理解できない。
 まぁ、畳は新しい方がいいが、奥様は畳ではない。
 それを自身の片割れとして認識する場合には、古くても、馴染んでいることが大切である。

 これは工具などでも一緒で、高くていいものほど、馴染むのに時間がかかる分、馴染めば手放せなくなり、また長持ちする。
 電化製品が高級品であった頃のものは、だいたいが丈夫にできている。
 使い続けて飽きない雰囲気を持っている。

 最近のものにはそうした「残ろうとするテクノロジのカタチ」があまり感じられない。
 来年になったら飽きられて捨てられそうなモノ、
 来月に登場するものに負けそうなテクノロジがほとんどである。
(利口な人なら、そのほとんどが上塗りだけいじって、名前を付け替えただけのモノだとすぐに分かるだろうが)



 女性と話すことが年齢しかないというのも、かなりつまらない状況だけれど、

 そもそも「年齢を口外したくない」なんて本気で言っている女性というのは
「若い女性ほど価値がある」という、バカな男性の理論を認めていることになる。
(それ以前に「年齢に何の価値がある」と言えるようになれば、それが正しい)

 若い方が価値があるとしたら、赤ん坊が(より厳密には受精したばかりの胚が)もっとも価値があるということになる。

 そこにあるのは可能性であって、より正確な意味での価値ではない。
 可能性とはつまりギャンブルであって、当たればいいけれど、その分当たることは少ないといっていい。
 受精しない卵子と精子の数を考えれば、すぐに分かりそうなものである。

 ムダに年齢だけを重ねてしまった場合は、確かに難しいかもしれないが、それでも取り返しがつかないわけではあるまい。

 若さと引き換えに手に入れられる「価値」があるはずで、それはただ「若さ」を持っているだけではどうやっても手に入らないものである。

 これはテクノロジと同様の問題である。
 現在は未来よりも可能性に満ちている。
(「未来は可能性に満ちている」というのは視点が現在にあるからで、所有している可能性は現在の方が大きい)
 しかし、未来に至るまでにはその時間を消費して、今は実現していないものを実現できているかもしれない。
 価値とはそのように、可能性よりも確固とした機能ではないか。

 昔、人間の価値はそうやってはかられていた。
 今だって、基準が少しズレているだけで、本来の価値は変わらないと私は思う。

 よって「ガキはひっこんでろ」というのは常に正しい大人のあり方だ。
 現代は「ガキ」の定義を年齢で判断したりするが、これだけ多様化が進んでいるのだから、それは絶対ではない。
 10代で「ガキ」を脱ぐ者もいるし、いくつになっても「ガキ」が脱げない者もいる。



「自分に価値があるか自信がない」なんて、いい大人になったら口にするべきではないだろう。
 自分が、持てるすべてを削って、時に痛めつけられて、そうやって傷跡のようにカラダに刻み込まれたものが、時に価値となる。

 いわば宝石のようなもので、その価値は外部からしか観察できないかもしれない。

 けれども自分以外の人がどう感じるかをきちんと知っていることが優しさであるとするならば、
 優しい人はすべて、自分の価値をきちんと知っているものである。
 そしてその価値は、謙遜するでも誇示するでもなく、そこにある小さな光としてきちんと認められるべきものだろう。



 私は日常を、平凡さを愛している。
 特別である必要を感じないし、特別でありたいとも思わない。

 日々が平穏無事に過ぎ去ってくれることが、どれほど喜ばしいかを忘れたくないし
 時折振り返って、それがどれほど奇跡的であるかを感謝せずにはいられない。

 そんな、ありきたりを大切に過ごして。
 削られながらも生き残れる、
 そんなカタチでありたい。






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NEXUS
~ Junction Box ~
//[Cross Link]
// [[「カタチ」シリーズ目次>ShowCase#ld975ae0]]
[Interceptor]
  自分自身の価値は、自分には定められない (あえてInterceptor、実はCrossLink)
// 
//[Isotope]
//  [[カタチ>ShowCase#forms]]

[Traffics]
  [[やっぱり美女が好き>Archive/Beauty_shape_shows_silence]]
// [[それでもあなたが愛おしい>青猫工場:書庫/ひとになったゆめをみる/BlueCatな日常/06/1122]]

// ----- >>* Tag Division *<< //

// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-カタチ-:工場長の設計室:-主力製品--ShowCase-
:ひとになったゆめをみる。:いのちあるものたち





//何回リリースし直しているんだろう。もうほとほと嫌なんだけれど、この文書にリンクするものが多いのも事実なのではある。
//EOF
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//FileName:Archive/feelin_my_night_sight
//TimeLine:20080829

TITLE:ちりちりしてる/わたしという名の皮膚がいる
 
// ----- >>* Header Division *<< //
&aname(title);
* ちりちりしてる/わたしという名の皮膚がいる
~ feelin' my night sight. ~



// ----- >>* Lead Division *<< //
&aname(lead);

::それは、この種の男たちは、いかに書きまくろうがしゃべりまくろうが、自分自身の考えていることを述べるよりも、「解説」することのほうに熱心だからであろう。この種の男たちの一人の口ぐせは、学問的に言えば、という一句だった。それでいて、言うこととなると、非学問的なことを一見学問的に整理して述べるだけなのである。

(「インテリ男はなぜセクシーでないか」From 「男たちへ」)


// ----- >>* Contents Division - Deletable Area - *<< //
// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]


*ちりちりしてる 
Written by 工場長


 読みたいものを書いてくれる人が、どこにもいない場合、それは自分で作るしかない。
 それはいわゆる、自慰行為である。
 すなわちマスターベーションであり、そこに存在するのは、愛よりもむしろファンタジー(俗語に訳すと妄想)である。

 今日は久しぶりに日記を書こうと思う。
 なかなか、衆人環視の中で、それを行うのは、よくよく考えると、異常な行為ではある。
 それが、一般化したのが、ネットの気持ち悪さなのかもしれない。
 しかしそれでも、その異常さのいかんを問わず、そうした一種の排泄行為を求めている部分もあり、わたくしとしては、特に気にすることもなく、日記は書きたい。

 日記を書けなくなる時は、まず間違いなく、読者の存在を意識した時であり、それを忘れるために、僕自身は「(コメントする機能を有しているにもかかわらず)なるべくコメントしづらい」という様相を好む。
 主に、コメントは、自分で自分の日記に言及するために存在している。
 あるいはそれが、日記ではなくモノローグであるならば、自分自身で解説をはさんだりして自己完結するような、そういうものが好きなのだ。

 自分以外の何者かの媒介によって完成するような、そんな軟弱な世界観なら腐って溶けてしまえ、と思う。
 それは日記に限らない。

 人はそれぞれに、まったく違う世界を見て、そこに生きている。
 そこには、もちろん、なんらかのコモンセンスが存在するだろう。(日本語に訳すと)共通感覚。
 そして、その共通の部分と、独自の感覚の部分との、境界には、ちりちりとやけるような、壁があるのだろう。
 触れられそうで、触れない。
 行けそうで、行けない。

 もしも、日記を共有する意味が本当にあるならば、そこにはそのふたつが不可欠なのだと思う。
 誰もが「そだよねー」としか言えないような(たとえば、カラスって基本的に黒いよねぇ、といったような)日記は、できうるならばやめていただきたいし、どこからどこまでが青で緑か、みたいな、それこそ各人の感覚によるようなものについて「あーでもない、こーでもない」と言いあう愚は(少なくともわたしは)避けたい。そんなのつまんないから。

 逆に言えば、僕の場合、そういうものしか書いて公開しない、ということにもなるだろう。
 誰でもが「そですねぇー」としか言わないようなものなんて、書くのもばかばかしいし、だからといって誰でもが「いや、それはないと思う」としか思わないものも、まったく同じ性質のものなのだ。
 だから、自分でも書いていて、ちりちりしていたいし、そういうものを読んでいたい。
 共感を得るとか、同情を買うとか、総スカンを喰うとか、ひんしゅくを買うとかは、どうでもよろしい。

 読んで勝手にちりちりしておればよろしかろう、というのが、私の考え方だ。
 すなわち、書いて勝手にちりちりしておれば、それでよろしかろう。

 そういう場所が、私は好きなのだろうから。








*わたしという名の皮膚がいる
Written by 黒猫


 夏の半ばにあせもができてしまった。
 これにはいろいろな原因が考えられるのだが、まあとにかく、結果から申し述べてしまうと、夏の半ばにあせもができてしまったのである。

 しばらく苦悩の日々が続いていたため、日記を書くのをお休みしていた。
 結論から申し述べると、これは単なる言い訳である。

 皮膚というものを、わたしは存外大切に思っている。
 足の裏の角質が、分厚くなるのは耐えがたい。
 皮膚の感触が、にぶくなるのが耐えがたいし、皮膚そのものにはびこる違和感が、耐えがたい。

 皮膚の清潔さなんてものよりも、皮膚の感触を大切にしている。
 結論から申し述べると、これは同じ状態を指向することになる。

 いろんな美容法なるものが巷((みなとではない。))にはあふれているような気がする((真面目に観察したことはない))が、肌にとって大事なことは、新陳代謝を適切なレベルで保つことと、清潔に保つことと、それよりなにより、たくさん撫でてあげることだと思っている。

 できうるならば、美女にいたるところ、撫でてもらえれば幸甚至極なわけであり、
「アヲネコさんの肌ってば、撫でてるとこっちがうっとりしちゃうくらい気持ちいい♪」
 と、美女に言われるように日々努力(というほどのものでもない)をしているのだが、いかんせん、ぼんやりしていると、美女とデートするのを忘れてしまう。
 美女とデートしないと、よもや私の肌を撫でるものは私しかいないわけであり、それさえも、ぼんやりしていると、忘れてしまうわけであり、そうなると、肌が荒れるのである。

 肌が荒れると、気分がすさむ。
 気分がすさめば、何もする気が起きなくなる。
 それではよろしくないので、肌が荒れないように、普段から気を付けているのであるが、仮にデートしている女の子が、なかなか私のことをべたべたと撫でまわすことをしない(おそらく受け身、あるいは怠惰な)タイプであったりすると、私はそのうち肌が荒れて、気分がすさんでしまうので、そういう女の子とは、デートする時間を作りたくないなぁ、なんて思ったりするのである。
 結論を申し述べると、私のことを撫でまわすおにゃのことデートしたいです、ということになる。


 さて下劣なことを書くのもたいがいにしておこうか。

 いずれにしても、私は、皮膚がメインの生き物だ。
 肌に合わないものは、頑として拒むし、肌触りの善し悪しは、いかなる情報よりも信頼できる。

 情報の、入力を、どこでするか、ということでもある。
 考える生き物の時代など、もう終わりで良いではないか。
 ヘタな考え休むに似たり、とも言うし、人間なんぞの考えることなど、どのみち私利私欲に満ち満ちているではないか。
 目で見る、耳で聞く、それはそれで結構だけれど。


 肌をなまめかしくくすぐる感触。
 ほおをやわらかく撫でる風。
 背中をすばやく走る緊張。
 耳元をつたう甘やかさ。



 肌に感じないものなんて、とてもじゃないが信じられない。

// ----- >>* Clip Division *<< //



//







// ----- >>* Escort Division *<< //
&aname(escort);

::誰かわたしをあたためてー、と言いながら部屋じゅうをさがしまわり、電気ポットを見つける。
 抱きついたら、ものすごく暖かかった。抱きしめているだけで、てのひらも指先も首も胸もとも、全部あたたまった。

(「色ぼけ欲ぼけ?」 From 「東京日記 卵一個ぶんのお祝い。」)







// ----- >>* List of Cite Division *<< //
&aname(list_of_cite);
出典
~ List of Cite ~


 冒頭引用は
『男たちへ』(著作:塩野 七生 / 発行:文春文庫)

 文末引用は
『東京日記 卵一個ぶんのお祝い。』(著作:川上 弘美 / 発行:平凡社)

 によりました。





// ----- >>* Junction Division *<< //
&aname(nexus);
*NEXUS
~ Junction Box ~

[Isotope]
  [[カラダはすべて知っている]]


// ----- >>* Tag Division *<< //
&aname(key);
[key]
&tag(★★☆,Beauty,Create,Darkness,Ecology,Interface,Link,Mechanism);


// ----- >>* Categorize Division *<< //
&aname(category);
Category:青猫のひとりごと:暗闇エトランジェ







// ----- >>* Comment Division *<< //
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20160204

// ----- >>* Header Division *<< //
~ Reconnection to the nine lives. ~

Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::わかっている、と僕は思った。君には理不尽さに怒り、悲しむ権利がある。彼は目を閉じて、必死に何かを理解しようと努めているようだった。シャツがべったりと体に張り付いて、海辺にいるような匂いがした。




// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

160204

 当たり前のように知っている人も多いとは思うが、高熱や脱水症状、摂食困難な状態が続くような、たとえば一人暮らしのインフルエンザであるとか、下山途 中の転倒時下肢部複雑骨折であるとか、勤務先からの帰宅途中における右鎖骨骨折であるとかについて、もっとも大事なものは医者でもなければ添え木でも薬で もクスリでもない。
 なぜならそこでの最大の敵は、痛みやウィルスや体力ではなく、孤独による絶望だからだ。

 というようなことを得意顔で申し述べようものならばTU(僕の古くからの友人)が「じゃお前ダメじゃん。お前だけはダメじゃん!」と言う。

 そこ、わざわざ重ねて、しかも重ねて強調までして否定するところか!?
 とはいえ僕も少しは大人である。彼と僕との間において発生する(あるいは生成された)時空隙のごとき発言など、軽く歯ぎしりしながら舌打ちして返してやればだいたいのことは収まるのである。

 だいたいのことはそうではないだろうか。
 医者がいようが薬があろうが、お金があろうが時間があろうが、上司に恵まれようが、友達が100人いようが、恋人が眼鏡でロングヘアで清潔でエッチで可 愛かろうが、それでも孤独を感じる人間はいくらでもいるものだし、孤独により絶望している人間は、それだけでもうダメである。

 まさかと思うが周囲の人間関係が数値的に大きければ孤独が消せるなんて勘違いをしているわけもなかろう。
 そうなると、自分以外の人間と自分との関係の糸の多少に関わらずお声をおかけください、じゃなかった、その多少に関わらず、孤独を感じる人は深く感じるし、感じない人は、何もなくても感じないのである。
(俺なら孤独とワルツを踊るぜ)

 とくに青猫工場ではたびたび書いているけれど、僕の笑いと涙のポイントは、どうも他の人とズレているから「僕だけが楽しい」「僕だけに可笑しい」「僕だけが悲しい」という状況がとてもごく普通に発生する。
 しかしどう考えても「みんなが楽しい」「みんなに可笑しい」「みんなで悲しい」という状況のほうがよほど特殊だと思うんですけどォ……。

 にもかかわらず、たとえば僕が一人で「ボンカレーゴールド」の箱の説明書きを読んで面白可笑しくなっちゃって笑っていたとしても、たいていの人は僕をゴミを見るような目で見るわけですよ。
 まぁ、あれですよ、こう言っちゃ何ですが、ちょいツリ目の黒髪ロング、ミニスカートでサイハイブーツなんかが似合うガールが、ふわっとしたセーターの柔 らかい印象とは正反対にきっとした目つきで「この変態が!」とか罵ってくださるなら、ワタクシ、間違いなく逆襲しますけどね。更生してやりますけどね。

 悲しいことも楽しいことも面白可笑しいことも、みんな十人十色が当たり前で、他人にとって痛いことが自分にとってもまったく同じ痛みだなんて、まぁそうそうあるわけじゃないんですよ。
 あるわけじゃないことだからこそ「あっ~っ!! あるあるある! わかるよ! うんうん!!」という瞬間が格別嬉しいわけで、そういう風に思える相手が大事だなぁって思うわけじゃないですか。
 誰でもみんな一緒だったら気持ち悪いし、だからといって、何でもかんでも「みんな一緒なわけがない!」って否定して食ってかかるのもすごく下品でみっともない。

 そういう当たり前のことを「当たり前」って肌に感じながら生きていれば、誰かが笑うと「あ、何か楽しいんだ! でもお前の笑っていることは絶対俺には理 解できない」とか、そういうのもあると思うんです。分からないことを面白がっているのを見ていて可笑しい、みたいなことも。

 孤独っていうのは結局、自分で糸を切る行為の結果なんですよね。
 糸を太くしようと短くしようと、そういうのはお互いの中でなんとなく調整されて行くけれど、どちらかが糸を切ると、もうそれは切れた糸になってしまうから、元に戻すのは簡単なことではない。
 そういうのが分からない人って、本当に分からないから、いくらでも簡単に自分でも、他人に対しても、糸を切らせようとする。
 自分と同じだけ世界が孤独になれとでも思っているのかもしれません。
 逆に繋げようと思えば、いくらでも繋げることはできる。
 もちろん、繋げようと思った先に相手がいるのだから、相手が繋がってくれるかどうかはまた別の問題だけれど、繋がっている相手を感覚することは可能なわけです。
 それを自分で簡単に切り離すような考え方や行動をしておいて「私は孤独だしぃ……」とか言われても「そやね」としか答えようがない。

 なんでもそう。作る方が、壊すよりはむつかしい。
 料理ひとつ取ってもそうですから、知ってか知らずか、冗談抜きの「食べ専」の人って、おそろしいと思います。

 まぁ異性に関していえば僕も「食べ専」であり、いや待てよ? よもや「作る専」もアリといえばアリ?



 ……こほん(咳払い)。

>>>

 まぁそのようなわけで、僕はちょっとした孤独感の権化のような感じはあるんですが、孤独だからって絶望はしないだろう? というのが、僕の考え。だって、孤独って自由ですごく楽しいし。

 もうね、笑いたいことで遠慮なく笑いたいだけ笑えるって、どれだけ楽しいかと思いますよ。
 なんかこう、目の前の人間に遠慮しちゃって、自分は面白いのに思い切り笑えなかったりするのって、もう自分殺しと一緒ですからね。
 悲しいとかもおんなじ。
 頭に来たらとりあえず中指立てたりしたいじゃないですか。4文字言葉を叫びつつ。
(冗談はともかく)
 そりゃもう、ストレートにね、目の前の人の感情を受け入れてくれる人ばかりならいいんですけれど、中には「とりあえずビール」の勢いで、とりあえず否定 したりバカにしてかかってくる人がいますから(「何が可笑しいの?」「そこはあなたが悲しむところ?」といった具合)、こういうのが恋人とか友人だと、こ ころがしんでしまいます。
 可笑しいと思ったら可笑しくていいし、悲しいと思ったら悲しくていいし、アタマに来たらガン飛ばせばいいわけで。

 ということで(ということで?)長らく泣いたり笑ったりしなかったのですが、このところとても面白可笑しく過ごしております。
 主に、私のおかげです。私だけのおかげ。

 万歳自分! バンザイ俺! ビバ! ワタクシ。

 たぶんメデタイんだろうなぁ~(第三者的に)。








// ----- >>* Escort Division *<< //


::僕の指はそこに残された体温を辿る。彼と形作った記憶の輪郭をなぞる。何も消えていったりはしない。何も闇に沈んだりはしない。僕のなかの何かが勝手 に消えてしまうことを、僕は認めない。もし君が暗闇に呑まれるのなら、と僕は思う。僕は手を伸ばす。たとえBGMが流れなくても。




// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~

文頭および文末引用は
「コノコネコノコ」From「bicoid」
Written by Nobuyuki OKAHISA
によりました。




// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[Traffics]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]

[Object]
  -Cat--Friend-





// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  青猫のひとりごと:暗闇エトランジェ:いのちあるものたち





//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//FileName:Archive/Squared_real_and_dream
//TimeLine:2008121

// ----- >>* Header Division *<< //
*淡いブルーの交差点
~ Squared real and dream. ~

Written by 工場長



// ----- >>* Lead Division *<< //

::子供が空を見上げて,「わぁ気持ち悪~い,蕁麻疹みたい」と言ったら、その自由な発想を讃えよう。
 そのピュアな感覚に大人は心を洗われるべきだ。
 知らず知らずのうちに感染している「大人病」にどうかご注意を。




// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

 今でこそ使うことはないが、私は、方眼紙が大好きだった。
 一般的な、水色の罫線の1mm単位のものは、A4サイズとA3サイズを持っていたし、3mm幅、5mm幅のルーズリーフのリーフレットも持っていた。
 たまたま、方眼紙が、あった。それが始めだろう。

 その、規則正しい配列に、機能美を、感じたのではないだろうか。
 方眼紙に強く傾倒していったのは、7歳の秋だった。
 直角や直線はもちろん、罫線の交点を使った対角線、直角に交わる2直線とそれぞれの任意の点を結ぶなめらかな曲線に至るまで、それらすべてが楽しかったし、できあがるものを美しいと感じた。
 もちろん、7歳の僕は「美しい」なんて語彙を持たなかったし、実際には「うつくしい」よりも「かっこいい」に近い、すごさを感じた。
 それはなんというか、同心円が7つ集まるとぴったり重なって、円周同士を結ぶと6角形になった瞬間を初めて見たときにも似た、感動だった。
 完璧なものが存在すると信じられた、その瞬間だったし、その完璧に向かって、シャープペンシルと消しゴムとものさしを駆使する、一種のクライミング体験であった。

 あるとき、宇宙船の、絵を描いた。
(今思えば、それだけで恥ずかしくなるような事実である)
 おそらく、テレビか本の影響だろう。
 三面図が、書きたくなったのだ。

 三面図。

 これまた7歳の僕には、圧倒的な驚嘆に満ちたものであった。
 メカというのは、なるほど、そうすることでなんともテクニカルに映るし、そもそも、ひとつのものをそうやって、複数の視点から同時に描くことが当時の僕には新鮮な驚きだったのだ。

 まだ当時の僕は「先端がとがっているモノがカッコイイ」とか「左右対称こそがカッコイイ」と思っていて、それを忠実に描いた。
 多くの男の子たちが自動車や電車、エクスカヴェイタやブルドーザに代表される採掘重機などに魅了される中で、僕がそこに到達しなかったのは、僕なりのメカに対する美学が「あんなのヘボい」と思っていたからに他ならない。

 今振り返って思えば、僕が設計の仕事に手を染めたこともあったのは、そうした「設計図なんかを描いてみたい」という思いがあったからなのかもしれない。

 もっとも、実際にやってみると「設計をする仕事」というのは「思った通りのモノを作る」仕事などではない(あたりまえだが)。
 コンセプトデザインを作るのでもない限りは、もっとシビアな現実を突きつけられる。
 時間や予算など、さまざまな制限があるし、そもそも誰かが作った形状に基づいて、機能を詰め込んでゆくだけの作業だったりする。
 それに、制限は、数値化できるものだけではない。
 たとえば上司のコンセプトが自分のコンセプトと違ってしまえば、自分の設計は通らない。
 他部署であるとか、関連会社であるとか、そういうところの絡みだってある。
 つまり、それこそが「設計という仕事」だともいえる。

 純粋に何かを発想し、それをカタチに変換する、という意味での設計は、おそらく個人でしかできないのではないだろうか。
(有名なプロダクトデザイナとかなら話は別だろうけれど、それでも、そこにしがらみや自身の心理的応力などのつまらない外力が働かないとは、思えない)

 こんなものがあればいいと思う。
 こんなカタチであればいいと思う。
 それは、時に滑稽な、絵空事。
 お絵かきのお遊戯ごとでしかないこともあるだろう。
 しかし、それだけで終わってしまうとも、思えない。

 たとえば一面にしか引き出しのない物入れは多いが、実際は二面に引き出しがあって、上面もフタが開いて、という方が便利なことだってある。
 そういうものが、あればいいと思う。
 その最初の発想さえもが、思いつく前に姿を消してしまいかねないような、そんな環境に自分の身を置かないようにできるかどうか、だろう。

 既存の物から選ぶのも楽しいけれど、そこに溺れることのないように自身をストイックな環境に置くことが、時には新しい発想を生むことにつながるのではないだろうか。
 もちろん、既存の物を多く知っているからこそ出てくる、新しい発想もあるわけだから、何が正しい、何がよい、という話ではない。
 ただ「こういうものが、あればいい」という、その貪欲さを、失わずにいたいと思う。

 今では方眼紙を使うことはないし、この先もおそらくないだろう。
 代わりに私はCGソフトを手にしている(当然、グリッドを愛用している)。
 ツールが変わったからといって、何が変わるわけではないし、大切な基本も変わらない。

 いつもぎらぎらと、飢えた目で、見ていたい。
 あれもちがう、これもちがう、こういうものが欲しいんだ、と。

 まっさらな方眼紙に、めったやたらに、手の動きの速度さえもがじれったくて仕方ないような、焦燥と愉悦と感動を感じたい。 

// ----- >>* Clip Division *<< //

//








// ----- >>* Escort Division *<< //

::大人になれば,自分を制限しているのは基本的に自分だけである。
  もっとのびのびと自分に好きなことをさせてあげよう。
 大の男が着せ替え人形を買う。可愛いなと思ったら買う。
 どこに間違いがあるだろうか。
 それに顔をしかめる精神こそが,きっと何かに汚染されているのだろう。






// ----- >>* List of Cite Division *<< //
*出典
~ List of Cite ~


 引用は
「どうして1つ?」From『悠々おもちゃライフ』
(著作:森 博嗣 / 発行:小学館)
 によりました。





// ----- >>* Junction Division *<< //
*NEXUS
~ Junction Box ~


[Traffics]
  [[あたしのめあてをしっている>Archive/Little_thing_Little_think]]
  [[新しいもの、古いもの>Archive/Diary_070815]]
  [[やっぱりどうでもよいもの>Archive/Diary_070818]]
  [[デザインに見る美>Archive/Actuatable_Hunch]]
  [[たんぽぽパラシュート>Archive/the_end_of_lost_child]]



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Category:ひなたぼっこ:工場長の設計室:青猫のひとりごと:青猫TOOLBOX





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::生きる執着とか、そんなんじゃない。
  自分が何なのか、忘れた奴から死んでゆくのさ。





まるで掃き溜めのようなもので、

人間というのは何も書かないうちに何も書けなくなる。

私にとっては、それがもっとも恐ろしい。



部屋が散らかってゆくようにして

塵が積もる。

ノイズが溜まる。


本来見えているはずの、綺麗なものたちが

曇る。

錆びる。

乱れる。



それが許せなくて、少しずつ、綺麗にしつづける。

出力とはそういうもの。

たとえば抑圧を受ける場合もそうだろう。

「これはいいことだ」とやりたくもないことを刷り込まれ、

「これはいけないことだ」とやりたいことを禁じられ、

そういう抑圧によって、一時的には、きれいなカタチができるだろう。

しかし、それはいつか必ず、応力で崩壊する。



本来、そのカタチになるべくモノが、そのカタチになるのである。

圧力によって作られるカタチというのは、いずれ無理でひずむ。

歪まないためには、余計な力を抜きつづけなくてはならない。

回しつづけないエンジンは、使い物にならなくなるのである。

それが、恐ろしい。

なぜかといえば、自分は、使いまわしもきかないし、買い換えることもできない。

きちんとメインテナンスしてやる以外に、方法がないのだ。



それでもたまに、メインテナンスを忘れると、塵が溜まる。

綺麗な出力が思い出せなくて、

塵を吐き出しながら、本来のカタチを、

自分の機能を思い出す。



夢のような茫漠

あるいは砂のように雑多な日常

誰も扉を開けないガレージ

眠りつづけたメカニズムは

自分の正体を忘れて



イグニションさえ届かない

錆びついたまま動かない

その本来の動きが機構を壊して



自分が誰だかも分からず

機能が何だか思い出せず

刷り込まれたオブジェのままで

朽ち果てる日を待つ



それが嫌だから

いつまでも自分を確認しないではいられない。

綺麗に保って

動きを確かめて

潤滑をよくして



何とかみ合わなくても結構

何に伝達しなくても結構

何を動かさなくても結構

何に組み込まれても結構



とにかく動いていたい。

まわり続けていたい。

自分が自分であることを、確認していたい。

途切れたメカニズムに記憶を吹き込んで

薄れた排気の匂いを呼び戻して

かすれた声を

泣くように。
笑うように。

呼ぶように。
叫ぶように。

汚れた外殻から、汚れを引き剥がして



自分の姿だけは、忘れないように

どんなカウルを纏っていても

どんな機構が与えられても

燃料がそこにある限り

オイルが中に巡る限り

回っていたい

動いていたい



熱を、

忘れないでいたい。



動けなくなる

その日まで









::煙を吐き出しながら、あいつは笑っていた。
  笑いながら、しかし、気絶していた。







 引用は
『屋根』(青猫工場 第6工場[※閉鎖])
 によりました。