160224

 寒いな、と感じて窓の外を見たら、もくもくと雪が積もっている。

 なんでやねん。

 Web検索で「オレダーギブスンダー」と検索すると、それなりの上位に青猫工場がヒットするようになった。
 ここ数日、使っているだけなのに。

 なんでやねん。

 姉は動脈生肺高血圧症の疑いが高いと診断された。
 症例も少なく、原因も不明な部分が多いため、難病指定されている。
 大学病院の担当の先生をして「こんな病気知らんがな(意訳)」と言わしめたらしい。

 姉は5mほども歩くと息切れしてしまう状態なので、病状はかなり進行しているのだろうと想像する。
 もともと喘息を持っているのが災いしたようだ(苦しくなるたび喘息の発作だと思っていたらしい)。
 血流に大きく影響するため、入浴は数ヶ月控えているらしい。
 一般的に、発病してから5年後の生存率は40%を切るらしい。
 つまり5年後、4割近くの確率で、まだ生きているのである。しぶとい。さすがである。

「俺だ。ギブスンだ。助けに来てやったぜ」というセリフは僕の数ある好きな科白リストの中でもトップ5に入るが、この「俺だ──」をきちんと知ったのは1週間ほど前である。

 基礎代謝がかなり高いのか、一日二食にしてけっこうなカロリィを摂取していると思うのだが、体重が増えない。
 食べたり飲んだりするとすぐに体温が上がるのだけれど、身体に入るそばから消耗していっているんだろうか。

 日々の疑問は絶えない。
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//TimeLine:20160221

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SUBTITLE:
自然なままでは死んでしまうが、不自然ならば生きていない。
Artificial human nature.

Written by BlueCat

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::「ツキコさん、ワタクシはいったいあと、どのくらい生きられるでしょう」
 突然、センセイが聞いた。センセイと、目が合った。静かな色の目。
「ずっと、ずっとです」わたしは反射的に叫んだ。隣のベンチに座っている若い男女が驚いてふり向いた。鳩が何羽か、空中に舞い上がる。
「そうもいきませんでしょう」
「でも、ずっと、です」





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//[Body]

 一緒に長生きをしてくれなくては嫌だ、と言った恋人が以前、いた。
 たいそうアタマのデキのワルい人だ、と私は思ったのだったか。
 おそらく。いや間違いなくそう思ったろう。私は呆れたことだろう。
 私のことをきちんと観察もしていなければ、ろくに知ろうともしていない、なんとも短絡的で直情的な人もいたものだと内心、嘆いたかもしれない。
 それでもまぁ、恋人というのはかわいらしいイキモノではあるし、だいたいはいいイキモノでもある。
 だから私は「わかりました、ではできる限りには」と答えただろう。

 もとより自分が短命であることを、僕は周囲の人間にきちんと伝えるようにしている。

 通常であれば、今の僕の年齢までに一度は遺伝性の体質を原因とした大病に臥し、たいていは60代のうちに鬼籍に入ること。
 遅くとも80代にはこの世を去ること。
(そうなのだ、我々の家系は医学の進歩と共に、長命になる傾向が出てきている)
 ひらがなも書けないうちから、それを目にし続けてきた僕にとって、死は、あまりにも身近な存在だった。

 ジェダイの騎士がフォースと共にあるように、死は常に私のそばにある。
 何のことはない、私に限らず、実のところすべての人がそうなのである。
 ただ、たまたまそれを自分の運命として知らないだけで、通学途中で車にはねられて死ぬ子どももいれば、庭木の剪定の最中に脚立が倒れて死ぬ大人もいる。
 友人知人恋人に殺される人もいれば、見ず知らずの人に殺される人もいる。
 病院で処置を間違えられて死ぬ人もいれば、病院で処置を受けられず死ぬ人もいる。
 食中毒や食物アレルギーのショックで死ぬ人もいれば、餓死する人もいる。
 まだ生きたいと悔やみながら死ぬ人もいれば、何も考えられぬまま死ぬ人もいる。

 科学技術を利用したり、個人的な努力によって、それは少しずつ遠ざけることはできる。
 でも、避けることはできない。遠ざけられるかもしれないけれど、ないことにはできない。

>>>

 猫を飼うこと、猫を育てることについての僕の考えを、以前ブログに書いたことがある。
(その文書はすでに存在しない)
 ペットというのは、たいていは、主人より先に死ぬ。ほとんどの場合はそうだ。
 その意味において、飼い主は幸せだと僕は思う。
 なぜなら飼い主を失い、引き取り手もない動物たちは、果たしてどうなるだろう。
 あるいは僕のように一人暮らしの人間の場合、そもそも僕の死の発覚が致命的に遅くなることだってあり得る。
 できることならば、僕の死体を平気で食い散らかすようなペットであればと思うけれど、必ずしもそうなるとは限らない。

 そういったことを踏まえて、僕は自分の猫を育てた。
 僕がいつ死んでもいいように。
 僕以外の人に、きちんと、かつ、とても愛されるように。
 死に限らず、何らかの事情で僕と離ればなれになっても(仮に捨てられて野良になっても)可能な限り自力で生存し続けられるように。

 前者は厳しく躾けることで成し遂げられる。
 後者も日々の暮らしの中で学習させることができる。

 たいていの猫は僕より先に死ぬのだけれど。
 でも僕は彼ら(あるいは彼女たち)の死を看取ることに、過剰な思い入れをしない。
 動物にとっての死の意味というのは、人間の持っているそれよりも、ずっと軽い。
 なぜなら彼らにとって(僕にとってそうであると同じように)死はいつもそこにあるにもかかわらず、彼らの知らないものだから。

>>>

 人間だけが、死を忌み嫌い、精神的に遠ざけ、隠そうとしてきた。
 生に執着するのは生命の基本ではあるけれど、反対の概念である死を、人間は弄ぶことができるから。
 ために「生に執着」するだけではなく「死を意識して」それを遠ざけようと考えてきた。

 生命活動は現象であるけれど、死は生命活動の停止、生命を確認できない状態を示しているだけであって、死という形を持った存在や何らかの作用によって新しい現象が発生するわけでは、本当は、ない。
 だから逆に、死という概念を弄ぶことができない動物は、自殺をしない。

>>>

 ペットは多くの場合、飼い主よりも先に死ぬ。
「人間性」の豊かな人たちは、その死に過剰に思い入れをし、つまりは失われた生を過剰に悔やむだろう。
 それはそれで、確かな痛みだろうとは思う。

 では、逆の場合はどうなのか。
 飼い主を失ったペットは、どうなるのか。
「人間性」を持たない彼ら(彼女たち)は、主人の死を前に、たいして心を痛めることはないだろう。
(駅で主人を待ち続けていた犬などは、習慣が抜けないだけのただのドジっ子と考えられなくもない)

 ただ、彼らペットの生命が危ぶまれることは避けなくてはならない。
 彼らが必要のない苦痛を受けることがないようにしなくてはならない。
 それがペットを愛するということではないのだろうか。

 だから、他の人に懐かないような躾をして(自分が愛されていると勘違いして)得意になって自慢するものではないのだ。
「私のいうことしか聞かない」ような愚かなペットにするべきではないのだ。
 飼い主の命令を無視して他者に危害を加えるような獣に育てるべきではないのだ。

 そしてそうした姿勢は、何も、動物に対してのみ発揮されるものでもないように思うのだ、僕は。

>>>

 たとえば僕が死ぬとそのくだらない死体を前に、恋人やら友人やら姉妹やらが馬鹿ヅラを提げてわあわあ泣くだろうとは思う。
 彼ら(彼女たち)は死の概念を過剰に弄ぶから。
 でも、彼女たち(彼ら)は僕が死んだからといって死なない。死ぬわけがない。死は概念だから。
 僕の生命活動の停止と、他者の生命活動には、たいした相関性はない。
 仮に「死ぬほど悲しい」と言ったとしても「悲しさで生命活動が停止する現象」なんてものは、そう簡単には起こらない。
 でももし仮に、残された配偶者や子どもがいたらどうだろう。
 悲しいかどうかは別にして、生命活動が低迷する危機が、困難になる危機が、現象として起こりうるのだ。
 それを避けるだけの技術や考え方というものを彼女たちが持っていないなら、世を去る僕がそれを残すべきだろう。

 恋人だって、死んだ人間にいつまでも心情的に囚われているよりは、さっと忘れる(少なくとも必要なときには忘れているフリをする)程度の賢さが必要だと 思うし、何より、他の人にもきちんと愛されるような人(忘れるフリというのはそういう意味だ)であり続けるべきだと思うし、独りでいることを恐れるあまり 悲嘆に暮れ続けるような愚かしい人間でいて欲しいとも思わない。
(死んだ者は、自らの死を悲しんだりはしないのだから)

 それに(少なくとも青猫工場を読む人には)自明のことと思うが、恋人や友人(あるいは親友)や家族が何人いようが、人間は孤独だ。
 むしろ人数が増えれば増えるほど、時に孤独は色濃くなる。
 自分の道を進むことが、彼らすべての意見に逆らうことに等しくなるとき、1000人いた味方は、1000人の敵になる。
 あるいは1000人の味方が、1000人の(親しかったはずの)無関心な他人に思えることもあるだろう。
 誰もいない孤独ほど、軽くて扱いやすいものはない。

>>>

 他者に長生きをして欲しいと、平気で言える傲慢を僕は考える。
 他に恋人を作らないで欲しい、あなたが作るなら私も作るなどというようなことを平気で言葉にできる愚劣さを僕は考える。
 あるいは、自分が先に死んだらどうしよう、恋人が他の誰にも愛されなかったらどうしようと考える僕も、ある種の傲慢を抱えているのだろうけれど。
 それでも僕は、前者の傲慢を自分に許すことはなかったし、今後もないだろう。
 ために僕は、常に自分の恋人よりは長生きすることを考えつつ、同時に自分が明日死ぬことを考える。

 観察すれば分かるが、僕は過剰な暴飲暴食をしたりしないし、喫煙も致命的ではない。
 過不足のない運動を心がけ、自分の身体や精神の状態を適切な範囲内に制御する努力を惜しまない。
 それは、誰かに命令されたからではなくて自分の身体がそれを求めているからだ。
 人間に制御できるのは、自分だけでも手に余るだからだ。

 しかしどういうわけだろう。
 他者を制御しようなどという傲岸な概念を弄ぶ人間ほど、自身の心身さえまともに制御できていないように観察されるのは。

 むろん何が正しいカタチだと断言することはできない。
 ただ、姿勢から力学を学ぶことはできる。
 力学から運動を制御する術を学ぶこともできる。
 それらの技術知識を、現象の制御だけではなくて、概念や思考、精神や哲学に適用することもできる。
 確かに時間はかかるだろうけれど、運動を続ければ、おのずと姿勢もカタチも変わってゆく。
 それが有機体、生命の優位性だ。
 機械などの(傲岸な意識によって創造された)アーティフィシャルな存在にはできないこと。

 生まれながらにして生命を持たない彼らには、変化することも、死ぬこともできないのだ。






// ----- >>* Escort Division *<< //


::「ずっと、でなければ、ツキコさんは満足しませんでしょうか」
 え、とわたしは口を半びらきにした。センセイは自分のことをぐずだと言ったが、ぐずなのはわたしの方だ。こういう話をしているときなのに、しまりなく半びらきになるわたしの可哀相な口。
 いつの間にか母子は姿を消していた。日が暮れかかっている。闇の気配が薄く薄くしのびよろうとしていた。
「ツキコさん」と言いながら、センセイが左手のひとさし指の先っぽを、わたしのひらいた口の中にひゅっとさし入れた。仰天して、わたしは反射的に口を閉じた。センセイはわたしの歯の間にはさまれる前に、素早く指を引き抜いた。
「何するんですかっ」わたしはふたたび叫んだ。センセイはくすくす笑った。
「だって、ツキコさんがあんまりぼうっとしているから」
「センセイが言ったことを真面目に考えてたんじゃありませんか」
「ごめんなさいね」
 ごめんなさいね、と言いながら、センセイはわたしを抱き寄せた。
 抱き寄せられたとたんに、時間が止まってしまったような感じがした。
 センセイ、とわたしはささやいた。ツキコさん、とセンセイもささやいた。
「センセイ、センセイが今すぐ死んじゃっても、わたし、いいんです。我慢します」そう言いながら、わたしはセンセイの胸に顔を押しつけた。




// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~


 文頭文末の引用は、
「公園で」From「センセイの鞄」(p.248-249)
(著作:川上 弘美 / 発行:文春文庫)
 によりました。






// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~

[Traffics]
// ----- >>* Initialize Division *<< //
//TimeLine:20160221

// ----- >>* Header Division *<< //
Written by 工場長 


// ----- >>* Lead Division *<< //


::「長い目で見れば、俺たちはみんな死んでいるんだぜ」




// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

 160221

 久しぶりに文書のフォームを構築した。
 これは13工場のデータの一部を復元できたからでもあるし、復元しきれなかった詳細の部分についてを、構築しながらでもなんとか取り戻したいという願望があってのことでもある。

 ところで、Y!ブログの「かんたん」モードでは、フォントを自由に設定することができないものの、外部アプリケーションによってフォント指定されたテキストを、そのままコピー&ペーストすることで、テキストフォームを移行することができる。
 フォントも、フォントサイズも、思いのままである。
 実際のところ、こうした編集上のコントロールについてはほとんど諦めていた。
 なにせY!ブログだし。大きな声では文句を言わないけれど、なにせY!ブログだし。

 一番の問題は青猫工場に特有の内部リンクシステムで、一文書あたりの文字数制限がタイトだった昔には、かなり難儀した記憶がある。
 今は文字数制限も拡張されたし、リンクも手軽に(そして不便に)なったので、これをうまく活用できればとは考えている。
 通常のブログ内検索だと、デフォルトで「タイトル」を検索し「詳細」(全文書)を表示するようになっているので、タグ検索を掛けたときに「内容」で検索し「リスト」表示するようにリンクを再作成している。
 もっとも文書が少ないし、今後もどれだけ増やせるかは疑問符なので、何をしているのか自分でも疑問符なのだけれど。
 それでも複数の書庫をまたがる文書の作成などは、これによって随分ラクになる。
 もちろん、そんなことで喜ぶような人間は、多分私自身くらいのもので、読む人からすると迷惑千万なのかもしれないけれど。

 いずれにしてもEvernoteで文書を作成して、リンクもそのなかで編集して、Y!ブログのフォームで最終調整をするという手法でゆくしかないかな、と今は思っている。

 それにしても、文書のタグが、いくつかのクラス(あるいはレイヤ)とでもいうべき構造を持っていて、それぞれのクラスの中でタグのカテゴライズがされていて、はっきりいって追跡しきれない。
 かつては、僕にしか見えないようにして、この工場内にそれぞれのタグとクラスについての詳細な設定が記述されていたのだけれど、そんなものはもうない!(きっぱり)
 ええ、ええ。そうですとも、自分が悪いんですとも。

 これらの設定をただ考えただけではなくて、自分の中にイメージとしてきっぱり持っていたかつての自分は、ホントにある種の天才なんじゃないかと今は思っている。
 だからこうやって、かつての残骸を拾い集めて、多少でも元のカタチに近づけられれば、とは思っている。
 幸い、完全に失われたと思っていた文書のいくつかについては、今も発掘を続けることができている。
 もっとも、古い(かつてリリースされた)文書など、読みたくもない人のほうが多いと思えなくもないので、リリースしないまま、発掘しただけで終わってしまうかもしれないが。

 それにしても、Y!ブログの日付設定機能は、なんとも中途半端だと思う。
 どうせ数値データなんだから、自由に操らせてほしいものだとは感じるが、まぁ、仕様というのは何事も製作者にゆだねられたものであるから、大きな声では文句を言わない。
 言っても仕方のないことというのは確かにあるのだー。
(長音はわざとだー)







// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~


 文頭の引用は、
「第一部」From「屍者の帝国」(p.179)
(著作:円城 塔・伊藤 計劃 / 発行:河出文庫)
 によりました。






// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~



// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

[InterMethod]

[Module]
  -Resistor-

[Object]
  -Tool-




// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lie]
工場長の設計室





//EOF
 



160220

 体重が戻らない。
 61kgになったかと思うと、半日程度で60kgに逆戻り。
 体脂肪率は15%前後。ときどき15%を下回る。
 骨格筋率は38%前後。ときどき40%になって驚くがこれは誤差と考えた方が妥当だろう。

 基礎代謝が上がったのだろうか、今日は日中、軽い立ちくらみが起きた。
 手っ取り早く、糖分補給をする。

 そういえば、身体じゅうの脂肪が、確かに減った気がする。
 お尻に脂肪がないために、ときどき、お尻から脚がしびれるときがある。
 腸腰筋群と下腹部の腹直筋にうっすらと(腸腰筋はくっきりと)血管が浮かんでいるので、もうこれ以上脂肪を落とす必要はないだろう。要カロリィ。ギブミーカロリィといったところか。
 第一、ベッドのマットレスのスプリングに骨盤が当たることがあって、これがけっこう痛い。

 とにかく、体重が増えない以上、筋肉を重くするくらいしか思いつかない。それともよほど高カロリィ食をするか……(ちょっと考えただけで気が重い。この気の重さを体重に変換したいくらいだ)。

 でも、腹直筋は、やっぱり思ったほどには発達しない(どう考えても使わないよ、こんな筋肉)。
 腹斜筋は、腹直筋に比べたら簡単に発達するので、苦労は少ない。
 左側の腹直筋のことは、もう忘れよう、いいね。

 何年かかったか忘れてしまったけれど、お風呂で足を洗うときに膝でお腹が圧迫されたりすることは当面なさそうだ。
 むしろ、皮が余る部分がいくつかあるので、身体を膨張させてもいいかもしれない。
(60kgでは無理もない)
 だけれど筋肉で5kg太るのは、ほんとにむつかしいのだ。(贅肉5kgも、体質上、簡単には付かないのだけれど)

 あとは、前屈で掌が地面に付くようにしたい。
 今は人差し指/中指の第二関節くらいがやっとなので。

>>>

 会社に、すごーく好きな人がいる。
 去年の夏くらいから、ずっと気になっている。
 だって好きなんだもん。

 どのくらい好きかというと、朝、顔を見るだけでめちゃくちゃ笑顔で「おはよー!」って両手を振りたくなるくらいに嬉しくなってしまうほど好きである。
 ほかにも、移動で一緒の電車の車両に乗るだけだって、跳びはねたくなるくらい嬉しくなる。
 隣に座って話しをしていると、満面の笑みを浮かべてしまうくらい嬉しい。
 同じ車両で無防備にうたた寝している姿を見ると、ガッツポーズしたくなるくらい嬉しい。
 コンビニの外で、一緒におにぎりだのを食んでいるとき(わぁ、一緒にごはん食べてるよ!)と嬉しくなる。そのくらい好きである。

 その人は、なんというのか、すごく空気がいい。
 そう簡単に誰か(あるいは何か)を悪く言わない。
 結構いろんな話しや、職場の人間関係のことも話したことがあるのだけれど(そしてどんな職場にも、クセのある人はいるものなのだけれど)、悪い物言いというのを、ほとんど聞いたことがない。

 その人の言うところによると、陰湿な悪口を言うような人はレゲエ文化の人たちから「Bad mind people」と呼ばれて、たいそう嫌われるものなのだそうだ。
 だからその人自身も、そういう方向には自分から向かわないらしくて、だからそういう気持ちの良さが漂っている気がする。
 悪口が、軽くて、あとに残らない、そういう、端的にさわやかで、気持ちのよい雰囲気なのである。

 その人は、ミュージシャンを目指しているらしくて、時間が余っているときは、スマートフォンで何かをつくっている。音とか、リズムとか。
(そういえば、今度、ミキシングしてCDを作ってくれると言っていたので、心待ちにしている)
 で、僕にいろんなことを教えてくれる。フリーメーソンとか、イルミナティとか、そういう、なんだろう、「月刊ムー」に載っていそうな、でもそれよりももうちょっとマニアックなこと。
 さいとうたかおさんの事とかも、すごく詳しくて、僕は話を聞いていて、いつも驚く。
 僕の知らないことばかり教えてくれるのである。

「ねぇねぇ、青猫さん」といって、あれこれ教えてくれる。
 別に教えることで優越感に浸るわけでもなくて、一緒に
「えー! ほんとに? すごいね!」
「でしょ? すごいですよね!」
 なんて言い合っているだけなのではある。そういう、何があっても同じ目線を維持してくれるところもすごく優しいというか、心地よい人なんだなぁ、と思う。

 たとえば何かの物事に対する意見が、僕とその人で正反対だったとしても、僕がそう思うようになった経緯を説明すると「うん、確かに青猫さんが経験した経緯から考えると、そういうのもアリですよね」なんて言う。
「自分でも、同じ立場ならそうなると思います」なんて言う。
 もちろん、僕も、その人の意見が私と正反対だからといって、それを非難する性質ではない。だから余計に心地よいのかもしれない。

 ただ、残念なのは、彼が、男だ、ということなのである。
 そう、彼は、オトコ、なのである。

 ちょう好きなんですが、オトコで、かつ既婚者で、子どももいるので、恋愛関係にはなれないのである。無理なのである。いくら私のストライクゾーンが広くても、ダメなのである。
 いや、正確に申し上げるならば、既婚者であるとか、子どもがいることについては、僕のストライクゾーンにはほとんどまったく影響を及ぼさないのだけれど、いかんせんオトコはダメである。
 スキンシップが成り立たない相手との恋愛は、無理である。
 ……いや、大丈夫かな?
 いや、そこまで無理したくない。冒険したくないし!

 というわけで(僕の中で)一線を越える機会はない。
 まして相手にも選ぶ権利はあるし、どう考えても彼はストレートだし。
 いや、僕もストレートだし。
 ストレートだし!

 先日は、ムエタイのキックを教わったので、ワークアウトに組み込んだ。
 いつか一緒にお酒を飲もうという約束をしたので、いつかは果たしたい。

>>>

 インフルエンザに罹ったときに、どうやら肺か気管支に炎症を起こしたらしく、未だに乾いた咳が出る。
(喉が炎症を起こしているときは、身体から絞り出すような大きくて重い咳をするので)
 でもせっかくインフルエンザも治ったのだからと、久しぶりにパイプ煙草を喫む。
 数ヶ月ぶりである。
 とても美味しい。

 先日、ある恋人に「青猫さん、煙草やめなよ」と言われたのだけれど(彼女はやめたようだ)、僕はできる限り煙草はやめたくない。
「やめたい、やめたい」と言いながら吸っている人はいるけれど、僕はやめるときは何でもなくやめてしまうだろうし、それに今は愛煙家である。(だから誰に言われようがやめない)
 昔に比べると、自分でも驚くほど、かなり煙草が好きである。(それでも数ヶ月くらい喫まないこともあるけれど、それはパイプ煙草が嫌いだからではない。ちょっと「特別」なだけである)

 パイプ煙草の良いところは、吸い殻や灰が、シガレットのように臭わないことだ。
 これは本当に不思議である。
 シガレットは結局あまり好きになれなかったけれど、パイプ煙草は嫌いになる部分がほとんどない。
 手間が掛かるのも、まぁそれはそれでいいかな、と思うし。

 今日は仕事から戻ってから「Verginia No.1」(単純にヴァージニア葉だけの煙草)を1ボウル。
 そしてこれを書きながら「BLUE NOTE」という着香系に火を着けた。
 外が雨で気温も低いので「Dunhill965」や「Early Morning」といったラタキア系は避けた。
(独特の強い香りがあるので、換気の良い状態でないと、ちょっと気が引ける煙草葉なのである)





 
 


160219

 好きなものや好きな人、好きな出来事、好きな状態、少なくとも一日に一度は、そういうものを考えられたら、そういう時間をきちんと作ることができたら、人というのは、きっと少しずつでも「いい状態」になれるのだと僕は信じていたし、たぶん今も信じているんじゃないか、信じていなくてはいけないんじゃないか、と思っている。

 嫌なことや嫌な人間や、嫌な出来事や嫌な状況なんてものを毎日毎日ひっきりなしに考えていたら、本当に精神的にも疲れてしまうし、そういう心情は、誰かに対してはもちろんのこと、何より自分自身に対して優しくなれるはずの機能を、他ならぬ自身の力で壊してしまう。

 だから、毎日、たとえば起きたときであるとか、眠るときであるとかに、好きなものや好きな人、好きな状態、好きな出来事、あるいは未来についての好ましい願望(妄想でもいい)を持っていることは、とても大切なことなのだ。
 せめて10分でもいい。せめて5分でもいいから。
 それは大切なエンジニアリングのひとつだ。



 でも。
 でも、もし。

 好きなものや好きな人がまったく思い浮かばなくて、好きな状態がどういうものなのか(どういうものだったのか)思い浮かべることも思い出すこともできなくて、あるいは未来についても過去についても何らの好ましさを見出すことができなくて、そもそもありとあらゆる「好ましさ」についての定義が空白になってしまっていたら。
 皆目、見当が付かなくなってしまったら。意味が分からなくなってしまっていたら。

 メカニズムを理解しているのにもかかわらず、それを具現するための大切なピースを、失っていることになる。
 それなら、心が折れることはない。
 もはやそこには折れる心がないのだ。

 折れないから、奮い立たせる必要もなく、淡々とそこに立っていられる。
 立ち続けられる。
 しかし、それはいったいどんな意味だろう。

 あるいは嫌いの反対が好きだから、人は嫌いなものを挙げ連ねていって、囲い込むようにして「好き」を構築するのかもしれない。
 けれども直感的にいえば、そこに浮かび上がる「好き」はニセモノの「好き」だ。
 嫌いの逃げ場としての「好き」。ほんとはどうでもよいもの。なくても一向に問題のないもの。

 ほんとうにどうでもいいものは、本当は「嫌い」のほうのはずなのだ。
 でもそれは、日常の中、毎日の暮らし、仕事であるとか、家事であるとか、のんびりすごしている時間であるとか、友達と会ったとき、親と会ったとき、兄弟と話しているときに、不意に化学反応のようにしてそこに形成される。

 それがひとたびそこに現れると、どうしても、無視できない。
 それが生命らしい反応だとは思う。
 でも、その「嫌い」は、命を落とすほどの「嫌い」ではないはずなのだ。
 どうでもいい、どうにでも対処できるはずの「嫌い」のはずなのだ。

 そんなに人は無力ではないし、そんなに人は馬鹿でもないし愚かでもない。そのはず。
 ならばその「嫌い」を「なんでもないこと」や「好き」や、せめて「どうでもいいこと」にすることは、不可能ではないはずなのだと僕は思う。
 その程度の能力は、きっと誰にでも(もちろん僕にも)あるのだと。



「好き」を探して、「好き」を見つけるのも、だからこれは能力なのだとは思う。
 でも、そのためにはやはり自分の中の「好き」を、きちんと認識している必要がある。
 自分の中の「好き」を知らないものが、外に「好き」を見つけることはできない。

 そしてフリダシに戻る。
「好き」の定義が空白になってしまったとき、「好き」の拠り所なんてものはどこにもないのだと。

 そして「好き」もなく、その定義も失ったそれは、本当に「心」と呼べるのだろうかと。
 心を失ったイキモノに、魂などあるのだろうかと。
 もしないのだとしたら、この肉体は、いったい化学反応によってのみ動作しているものなのだろうかと。
 そしてそんなことに意味はあるのだろうかと。






 



::「実生活の役に立たないからこそ、数学の秩序は美しいのだ」
と、博士が言っていたのを思い出す。
「素数の性質が明らかになったとしても、生活が便利になる訳でも、お金が儲かる訳でもない。もちろんいくら世界に背を向けようと、結果的に数学の発見が現実に応用される場合はいくらでもあるだろう。楕円の研究は惑星の軌道となり、非ユークリッド幾何学はアインシュタインによって宇宙の形を提示した。素数でさえ、暗号の基本となって戦争の片棒を担いでいる。醜いことだ。しかしそれは数学の目的ではない。真実を見出すことのみが目的なのだ」





 色相マップというのが、実はなかなかニガテである。
 思ったような色を、うまくピンポイントに出せない。
 かといって数値入力でピンポイントできるほどの勘を、今の僕は失っている。
 色相マップによるカラーピッキング。
 古典的にして保守的な手段ではあるが、グラフィカルでいっそ直感的な気もする。
 メーカの提示する「直感的」が、まぁ、どれくらい押しつけがましい「直感的」であるかは別にしても。

>>>

 保守的ということがどういうものなのかといえば、それは端的には、変化を嫌い、できうる限りそれを避けようとすることなのだろう。
 齢を重ねるごと、人は保守的になるというのは、その意味で実に合理的ではある。
 一朝一夕に「はい、では今までの私の考えはなかったことにしましょう」というように、すっと切り替えができるわけではない。
 たとえばひとつの判断を、決断を、下すことそのものはきわめて短時間に行うことができるとしても、その結果は、その分岐の先は、瞬間や短時間などではなく、短くとも数時間、長ければ数十年も自分自身に影響を及ぼし続けることがある。
 そうした中で人は新たなことを学習して自分の中に蓄積し続けるわけだけれど、その蓄積は必ずといっていいほど次の決断のために行われるわけだ。そうした蓄積をもって人は判断を下すわけだから。

 ために定見を持たないというのは綺麗にしなやかなようでいて、ある意味、無責任で、考えなしなありようなのかもしれない。
 最近、つと思った。

 もとより僕は頑固な方であり(「かた」と敬語にしてもよい)、それを自覚していたからこそ定見を持たないようにと努めていたのではある。
 一方(つまりは自分の立場や知見)からの考えだけで物事を推し量ることがいかに短絡的であるかをおそらく何らかの経験を通して知ったからではあろう。
 あるいは、誰かから一方的に(つまりはその人の立場や知見に基づいて)物事を推し量られ、それによって何かしらを押しつけられることに単純な怒りを覚えたその、反動形成なのかもしれない。

 前者であるならば、確かにそれは思慮深い。
 自身の一方的で押しつけがましいありようを自覚し、内省し、それを中和することによって、物事がよりよい影響を相互に及ぼしやすくなるであろう、少なくともそうなる可能性が高いかもしれない、という考察の結果としてもたらされた無定見であるならば、それは確かに思慮深いようにも思える。

 しかし後者であるならば、これは由々しき問題かもしれない。
 つまるところそれは、単に反抗の一形態でしかない。
 反抗ならば反抗らしく、一方的に押しつけられた考え方に対して、反駁をするべきであるのだ。
「私はそうは思わない。私はこう思っている。なぜならこういう理由があるから」と。
 それが定見であるかどうかは別にしても自分の考えがある中で、他者の(これまた定見であるのか、それともその場の思いつきであるのかは別にして)定義なり判断なりに対して何らの反論を行わないというのは、それはそれでひとつの怠惰のカタチなのではないだろうか。

 反論に値しない、その程度の時間や手間を掛ける価値もないようなどうでもいい議論というのは実にたくさんある。
 掛けたコストに見合うリターンがどう転んでも見込めない(せいぜいちっぽけな自尊心が、ささやかな議論の勝利によって短期的に満たされるという程度の)ことも少なくないだろう。

 仮にそうだとしても、では一方的に押しつけられた価値観を、カタチだけでも飲み込んだフリをして、心の中でアカンベーをするのは、果たして「綺麗でしなやか」なのだろうか。
 それはカタチの上では反抗をしていないにもかかわらず、自分のちっぽけな自尊心を満たし、ささやかで巧妙な手段によって相手にそれを悟らせない、ある意味で平和的な解決なのかもしれない。
 綺麗かもしれないし、しなやかかもしれない、けれど狡猾で、もっといえば卑怯だ。さらにいえば相手に対して不誠実でさえある。
 もちろん、そもそもの段階で相手が誠実な気持ちで思いやりを持って、自身の定見に基づいて真っ正面から向き合ってその「何か」を言っているのかという問題はある。
 どういうわけかは分からないけれど、言葉はどんどん安くなって、易くなって、文字通りに「あることないこと」人は伝えることができるようになり、「あることないこと」伝える人が増えたようにも思える。

 あるいは心の中でアカンベーさえしないことはどうだろう。
 たしかに定見はないのかもしれないが、では最初に自分の中でかすかにであれ感じた反発は、いったいどこからどのようにして、そもそもなぜ生まれてきたものなのだろうか。

 その「何か」は簡単に言葉にできないものだったのかもしれない。
 しかし簡単に言葉にできなかったからといって、それは、私の中で、私の手によって、簡単に殺してしまってよいものだったのだろうか。
 あるいはその殺しによって汚れた手をして、相手にその殺しの責をなすりつけてよいものなのだろうか。
 殺した原因をつくったのは、ほんとうに相手なのだろうか。
 少なくとも殺したのは自分の手なのである。
 自分の中のその「何か」を殺す遠因をつくったのは、確かに相手なのかもしれない。
 では自分はそれ(自分の中の「何か」)をみすみす殺させて良かったのだろうか。少なくとも殺したのは自分の手であり、つまりは自分の意思である。

 そこまで考えて、僕は、はっとしたのだ。
 もしも僕が「定見を持たず」「しなやか」なフリをして、誰かの意見に耳を傾けつつそれに追従し、にもかかわらず本心は異なるものを持っていたことがあるのだとすれば。
 さらにいえば、その本心に気付いてか気付かずか、それを黙殺していたとするならば。
 僕を殺しているのは、殺し続けているのは、誰かではなく、僕自身なのだと。
 自分を殺すことで誰かをバカにする免罪符をつくり、あるいは誰かに殺されたと錯覚することで誰かを加害者に仕立て上げるような愚かしいことをしているのは自分なのではないのか。

 なんと恐ろしいことをしているのだと。

 そしてそれは、全くなかったなどと、僕には言えないのだ。
 僕は確実に、ことなかれと思って自分自身を殺したことがあり、心の中でアカンベさえすることなく黙殺したことさえあり、アカンベする場合であっても、あるいはそれをしないまま自分を殺した場合であっても、それは相手が悪いものだと思っていたのである。

 なんと恐ろしいことなのだろう。

>>>

 とまぁこのように「うまく言葉にならないもの」を、多少なりとも分かりやすいようにと説明をすることが僕にもできないわけではない。
 しかしこれまでの経験上、20人中16人は話している最中に「こいつ理屈っぽいなぁ」という態度を示し、そのうち13人は「理屈っぽくて付き合いきれん」という態度を示し、さらにそのうち9人はこちらを無視し、さらにそのうち5人(つまるところ4人に1人)は嫌悪感を示す。

 嫌悪されて嬉しいと思うほど僕も人間ができあがっているわけではないが、僕にも嫌いなものはあるから、嫌悪するのは(つまりされるのは)仕方がない。
 これはどうにもできないから、受け入れるしかないし、僕はその嫌悪感を尊重することさえできる。単にこちらから余計なアクセスをしなければよいのだ。
 しかし、理屈っぽいのかもしれないけれど、その根底にあるのは「理屈っぽくないこと」なのではある。
 直感的で、アナログで、ために複雑で、捉えようによって(つまり解像度によって)繊細なこと。
 それを、僕にとってはできる限りの解像度で(荒くすることは受け手の誰にでもできることのはずだから)言葉によって説明をしようとする。

 そうするとそれは、論理的で、デジタルで、ためにより複雑で、しかし直截的であるから繊細ではないことになる。
 直感的なものが直観的に変換されるわけだ。
 たとえば色にしても、3ビットで8色(ブラック/ブルー/レッド/マゼンタ/グリーン/シアン/イエロー/ホワイト)の定義をしていた頃の色はシンプルだけれど、より複雑な色調(極端に48bitカラーであるならば 000000000000 ~ FFFFFFFFFFFF の間の任意の中間色)は相対的に複雑なものではある。
(それでもデジタルで、つまりは複雑だけれど論理的で、直截的なのではある。少なくともアナログで絵の具を混ぜるよりは)
 料理に喩えるなら、炒り卵とスクランブルエッグと目玉焼きと固ゆで卵と温泉卵の違いと言ってもいいかもしれない。
 乱暴な人はどこまでも乱暴に「青は青だろ」と言い放つ。
「卵料理なんてどれも一緒だ」と言い放つのと同様に。
 しかし多くの人は目玉焼き(それも半熟か固焼きかで好みが分かれる)とスクランブルエッグを「全く別のもの」と認識し、つまりそれぞれに好みが分かれる。
 色や感情や感覚にしても同様で、どこまでも乱暴にすることは可能だし、どこまでも自分の中の感覚を厳密に捉えて表現し、それを共有しようとすることは可能で、実際に20人に1人くらいの人(希望的観測も含めるので実はもっと少ないだろう)は「ああ、あれでしょ!」と説明する途中には理解してくれることがある。

 実のところ人間の感覚するものとは、文字通りに感覚的で、ために直感的なものなのだ。
 もちろん相手が聞きたい内容でもないのに、僕がこうやって余計な説明を始めたら、それはもう、本当に迷惑なことだろうとは思う。
(中にはそれこそを面白がってくれる人がいることも知っている。それさえ含めて嫌う人はとことん嫌うであろうことも)
 しかしたとえば尋ねられた内容などに対して、僕の中に存在している相反する感覚などをきちんと説明しないと細かいニュアンスまでがきちんと伝わらないと僕が思ったならば(つまり、単純な好き/嫌いであるとか、GO/STOPであるとか、ではない部分まできちんと共有する必要があると僕が判断したならば)僕はそれを説明する。せざるを得ない。
 なぜならば(これも極端な例だけれど)僕の「NO」はときに「YES」であり、僕の「YES」は「NO」を含むことがあるから。
「嫌よ嫌よも好きのうち」という言葉にもあるとおり(サンプルが不適切だけれど)、そうした物事に含まれる機微の実体を他者に伝えようとするならばそれはやはり言葉に頼るしかなくて、するとそれは複雑な機微を含むために大きく回った表現をする必要があったり、余計で不適切な具体例や喩え話を持ち出したりしなくてはならなくなるのだ。

 だって「あなたの好きな食べ物とその好きな気持ちをパントマイムか私に対するスキンシップで表現してください。パントマイムか、スキンシップで」と言われても困るだろう。
 少なくとも僕なら困る。いくらなんでも無理がある。

 もっとも尋ねられた内容に対して答えている最中に、相手の理解能力(つまりは解像度や記憶容量)の上限を超えてしまったりすることがあり、その結果「理屈っぽい」「話が分からない」「むつかしく言い過ぎ」などという非難を受けることがあるのではある。もちろん、その気持ちは良く分かるのだけれど。

 単純にYESかNOか、という問いであれば、それは単純に答えられる。それは直感で済む問題だからだ。
 そして「おまえらこれをどう思う?」とか「あなたはそのことについてどう考えているのか」などと問われれば、それに対して「どう思うか」と「なぜそう思うか」はセットになっていなければ伝わらないことも多いのではないかと思う。
 その「なぜ」の部分を省略することによって誤解が生まれるのは、少なくとも僕のこれまでの人生ではかなりの主流を占めていた。

 たとえば「昨今マスコミで騒がれている有名人の不倫についてどう思いますか」という問いに対して、僕は「別にどうでもいいんじゃない? 私やあなたの生命に関わることじゃないし」と答えるだろう。
 そして同時にその「どうでもいい」について、実は「どうでもよくない」が含まれる。
 逆説的に「どうでもよくない」の中に「どうでもいい」が含まれている。
 解像度の高い人は「うんうん。その『どうでもよくないところ』をもっと聞かせてよ」となって、話しがより深いところに進む。
 解像度の低い人は「え?(困惑)どっちなのそれ?」となって、フリダシに戻る。

 僕から言わせれば、そんな機微の仕組みも理解できず、理解しようともしないバカが悪い。
 質問に対する答えを理解できないのは、多くの場合、回答者が悪いのではなくて質問が悪いのだ。
 にもかかわらず、何故か世俗の質問者というのは「自分は立場が上だから質問できる」と勘違いしているフシがある。
 たしかにずけずけ無遠慮な質問をする人間が世俗には確実に存在していて、そういう人たちはどういうわけかさまざまな領域において「そういう権利が自分にはある」という確固とした勘違いをしているためになんだかエラソーなのではある。

 学究の徒という存在のいる領域に足を踏み込めば、質問者と回答者は常に対等であり、あるいは教えを乞うものが立場としては下であり、何より絶対なのは質問者でも回答者でも、さらにいえば解答や正解でさえもなく、ただただ真実真理のみである、ということがわかるはずなのだけれど。
 大学などという「学究の徒のすくつ(ATOKだと変換できてしまう)」みたいな場所を経由して生産された人間でさえ、たやすくその罠にかかるものであるらしく、社会の仕組みの複雑さに僕は思いを馳せる次第である。

>>>

 かように、僕には定見を持たないように努力しようという定見がある。
 矛盾しているが、比較的すっきりした矛盾であり、もっと複雑怪奇に矛盾していてもいいとさえ思っている。
 自分の持つ定見が強いからこそ、一刀両断するのが容易だからこそ、ことを複雑に、矛盾させた方が面白いのであるし、じつにそのほうが物事を如実に(つまりはより正確に)表現できるのでもある。
 なぜなら人間や社会というものは、複雑で、矛盾しているから。当たり前ではないか。
 それを「単純だ」「首尾一貫している」などと思い違いをしているから、物事の答えは単純でシンプルなものだと思っている。
 そんなふうに物事を荒っぽい解像度で認識できる自分の単純さ(そしてその単純さを導き出しているところの、実は非常に矛盾していて、異常なほどまで複雑な自身というシステム)をよく認識して欲しいものだとは思う。

 変化することを僕は嫌わないし、むしろ好むと、ときどき僕は書いている。
(知らない人は、古い青猫工場を順番に読むことが今はできないので2年くらいROMるしかない)
 自分の中の判断基準などというものは、所詮は真実真理のうちのごくわずかなかけらを持ち合わせているに過ぎない。誰しも事実はそうなのではないだろうか。
 人間の判断能力などというのは、不確かな基礎の上に、曖昧模糊とした判断基準を噛ませて、その結果という柱を載せて、都合という梁でつなぎ合わせて成り立っている、それはそれは不安定なビルディングなのではないのか。
 しかしそれを拠り所にするしかない場面ばかりだ、というのもまた事実。

 それならそれで、せめて、その事実を、事実として認識するくらいの謙虚さは持っていていいと僕は思う。
 もっとも、そんな事実さえ残らないほど目の粗い、ザルな解像度の人間も、まぁ、いないわけではないのだ。
 そうなると、僕は、話が通じないが故に自分の意見を言わぬまま飲み込み、相手の意見は言われるまま飲み込み、となる。
 言い続けてもいいのだけれど、相手に聞く耳がない場合、馬に念仏、猫に小判、何も通じず、価値は逆転しさえする。
 ただ、今後は、せめて、心の中で強くアカンベしたり、中指を立てたりすることを忘れずにいようと思った。

 相手の価値観に飲み込まれてゆくのは確かに楽しい。
 そこには自分が変化することによって生まれる、自分の知らない新しさが、確かにあるのだ。
 でもその一方で(どんなに頑固で変わらないことが分かっているにしても)自分自身のかけらを、あろうことか自分自身の手で殺してはいけないのだ。
 飲み込むことと、飲み込まれることは、そのくらいには違うことなのだ。

 相手がバカでザルならばこそ、僕は自分の中の曖昧模糊として複雑怪奇で繊細な中間色の数々を、自分の手で守らないといけないのだ。

 色相マップで色を探しながら、見つからないことに悩みつつ、短い時間(およそ30秒ほどだろうか)でそれらを想った。

 人生はやはり長さなどではない。
 長いだけで何の発見もない人生よりは、短くても何も持たなくても、いつも何かを発見できる生き方がいい。

 もし今日死ぬなら、今日の発見を。



 それにしても、思った色が見つからない。
 願わくば、もし今日死ぬなら、今日の発見を。









::もちろん素数を見つけたときは気分がいい。ならば素数でなかった時、落胆するかと言えば、決してそうではない。素数の予想が外れた場合には、またそれなりの収穫がある。11と31を掛け合わせると、かくも紛らわしい偽素数が誕生するのかということは新鮮な発見であり、素数に最も似た偽素数を作り出す法則はないのだろうか、という思いがけない方向性を示してくれる。







 冒頭、文末の引用は、
「博士の愛した数式」(p.177-178)(著作:小川 洋子 / 発行:新潮文庫)
 によりました。






 



::ええか、これしかあれへんねん。
 一枚はオマエ。一枚はオマエ。
 で、もう一枚は……オレや。
 少のうて悪いがええか、コレで。





160216

 思い出したようにギターの練習をすることがある。
 送るこのとできる会社の全てに履歴書を送り、受けられる範囲で全ての面接を受け、しかし午後の予定が全くない、今日のような日に。

 一部の人が知るとおり、僕はギター用語に詳しくない。タブ譜(ギターのための「どの弦のどのフレットをどのように押さえてどう弾くか」についての譜面)は読めるが通常の楽譜は「ミ」か「ソ」か「ラ」の音を起点に探り当てる始末だ(DTMをしていた時代は、もうちょっと読めた気もするが、遠い昔のことだ)し、ギターのどの弦のどのフレットを押さえると何の音が出るのか、僕は知らない。
 かすかに覚えているのは、以下の用語くらいか。

○ハンマリング(左手のみで弦を上から押さえることで音を出す)
○プリング(左手のみで弦を引っ張って音を出す)
○チョーキング(弦をスライドさせて微妙に音を変調させる)
○スライディング(左手で押さえているフレットをスライドさせて大きく音を変化させる)

 道具や部品の名前も、ネックぐらいしか知らない気がする。
 当然のように、自分のギターのメーカも知らない。
 今見たら、Morris、と書いてあるのだが、それがどんなところなのか知らないし興味も特にない。

 たびたび書いているが、僕はコードも知らない。
 ちょっとやってみて、Cメジャーらしきものの音くらいは出せるが、あとは全く知らない。
 見ればなんとなく分かるし、コードが万能であることも心得てはいる。オリジナルにアレンジが効くのも理解している。
 でも、僕はコード奏法でギターを覚えなかったので、コードを弾いて歌っても、全く面白くない。
(学校で習ったときもそうだったから、僕はギターに興味を持たなかった)
 ピアノや琴を弾く人でもおそらくそうだろう。
 コードというのは、結局のところ和音を鳴らしているだけの状態でしかないから、演奏としてはとてもつまらない。
 弾き語りをするには、その単調さが便利だとは思うのだけれど、僕は自分のために弾いて歌うわけだから、上手かどうかより楽しいかどうかを重視してしまう。
 上手に、綺麗に弾けて退屈するくらいなら、下手くそに失敗しながら楽しいほうがいい。
(そういう弾き語りの楽しみ方を、僕はBPに教わった)

 さらにたびたび書いていることだけれど、僕は今のところ2曲しか弾けない。
 3曲目はタブ譜もあって練習している。
 4曲目はタブ譜もなく、ネットに出ている耳コピタブ譜は何度聴いてもニセモノにしか聞こえないので、自分でコピるしかない状況にある。だからこれはもっと先。



 最初に覚えたのは「Hey Hey」

 2年くらい掛かって、ようやく弾けるようになった。すごく遅いと自分でも思う。
 スライディングが特徴的でチョーキングしている箇所は脇役にもならない。
 久しぶりに弾くときに、この曲を何度も弾いていると、あっという間に左手の人差し指の皮が(スライディングで擦れて)なくなってゆくという恐ろしい曲。
(皮膚が硬くなるため)何度も練習してよくなるのは、だいたい4日目くらいから。
 硬くなる前に弾くと、皮が傷だらけのでこぼこになって、修復に長い期間を要する。
 1週間くらいかけて、少しずつ皮膚を馴らしてゆくという、何の修行なんだこれは。




 2番目に覚えたのは「Tears in Heaven」

 僕のギターの師であるBP(仮名)は、この曲がたいそう好きであり、僕に何度も推してくるので、Hey Hey を覚えたあとに練習を始めた。
(ちなみにBPは、いくつもの曲を並行して、そのうえサビから練習するため、細かい部分でモノになっていない曲も多いけれど、レパートリィはとても豊富だ)
 この曲、昔よりは慣れたが、フレットを押さえるのに親指を使わない(使えない)僕には、今でもちょっとむつかしく感じる部分がある。




 今、メインに覚えようとしている3曲目「More than words」

 これもBPが教えてくれた曲で、とても綺麗な曲だと思う。歌詞もなかなか深くていい。
 かじっただけでは甘ったるいだけに感じる(実際にそういう和訳も多い)が、甘ったるいモノしか知らない人間が作れる甘さではない。
 ということを http://ladysatin.exblog.jp/20748545/ このサイトの考察を読んで感じました。
(ぼくはえいごがあまりとくいではありません)
 英語は得意ではないものの、和訳のニュアンスが、他のサイトの訳に比べてすごくナチュラルなんですよ。
 なんていうんだろう、日本語吹き替えをした海外のコメディドラマにあるような「わざとらしいクサさ」が抜けているというか。

 で、この曲はギターの弦とか腹(なんて言うんだ、あの「腹」の部分を!w)を叩く。これが演奏の中でとてもいい効果を出していて、そこがとても好きなのだ。
 頻繁に「チャ」と入るリズムが弦を叩いている音(腹にもちょっと爪を当てたりしているみたい)、アクセントに「トトン」「トトト」と大きく響くのが腹(ほんとに腹なの!?)をノックしている音。
 綺麗に弾けるととても気持ちがよいのだけれど、4小節目に難関があり、ここで毎回ひどい音を出すため数年前から挫折を繰り返している。
 押さえているコードの1弦だけを1フレットだけスライドさせる。
 16分音符で。
 16分音符で!

 この一見どうでも良さそうで無駄に見える作業をいい加減に誤魔化すと、メロディが台無し。
 といってこの部分を完璧に演奏する技術がじつに簡単ではない。
 なので、そこばっかり練習する羽目になる。というわけです。
 これがこの曲だけで3年くらい掛かっている理由。もちろん、練習は毎日なんてしていませんが。
 ただ、最近はちょっと上手くなってきたと実感している。
 やはり少しずつ上達するものなんだなぁ、と感慨にふけったり。

 それにしても、どのミュージッククリップもそうなんですが、BPも言っていたとおり、本当に、左手だけをアップにして撮影してくれないのでしょうか。もうそれだけで需要があると思うんですよ。
 売れるはず。




いつか覚える予定の4曲目「楽園」

「TRIGUN」という漫画の、TVアニメ版で使われた曲(のはずなのだけれど当時から僕はTVを真面目に見ない性格なので、アニメ版のほとんどを見逃している)。
 Wolfwood という、主人公の相方みたいな役回りのキャラがおりまして、これがたいそういいキャラで、牧師のくせにとっても強いし優しいし面白いし生い立ちや背景がドス暗いし関西弁(それもエセ関西弁)だし非常にキャラが立っているわけなのですけれど、途中で死にます。
 原作でもそうですが、自分が育てられた孤児院にいる子どもたちのために殺し屋まがいの世界に足を踏み込んで、原作だと主人公を殺すための刺客だったりして、そのあたりの葛藤も含めて2人目の主人公と言っていい役なのですが。死にます。
 都合よく復活なんかしないストーリィです。
 で、その彼のための曲なんですね、多分。

 掠れかけた、でも優しく語りかけるような、祈るような、静かな歌声がセクシィだと思います。
 歌詞らしい歌詞がないぶん、込められた情感を、曲や声(やストーリィ)から補完すると、とても奥行きのある、いい曲だなぁと。

 しかしこの曲、ネット上に(耳コピしたであろう)タブ譜を公開している人もいるのですが、どうしても同じ音階に聞こえない(笑)。
 僕が耳コピすると、そもそも2フレット目をすべて押さえる必要があるように思えるんです。
(ネックをあるフレットで、丸ごと押さえるためのその器具を僕は持っているものの、その固有名詞を僕は知らない)
 しかし、押さえても、イマイチいい感じにコピーできない。

 たぶん練習開始から5年は掛かる気がしている。
 この四曲をマスターする頃、僕の人生は終わると思う。







::心配しとったんや。
 あんた、いつもニコニコ愛想ええけど笑い方がカラッポで胸が痛なるんや。
 ツラくてしゃあないクセに、やせガマンだけで笑っとる、そんなふうに見えとったで。







 引用は
「#18 魔人集結す」From「TRIGUN」第3巻(P.148-150)
(著作:内藤 泰弘 / 発行:徳間書店)
 によりました。







 

 


::男というのはオカシな動物で、自分が才能豊かな男であることと忙しいことは、比例の関係にあると思いこんでいる。私などは、そんなことはないと確信しているけれど、男のほうはなぜか、とくに日本の男の場合はほとんどといってよいくらい、忙しければ忙しいほど『たいした』男であり、それを女に誇示する傾向から無縁でいられない。
 そういう男たちは、暇をつくることこそ、とくに愛する女のために時間をひねりだすことこそ、男の才能の真の証明であります、などという正論で屈服させようとしてもまったく効き目のない人種であるから、それを独占するのは、目的のためには手段を選ばず、式の戦法でいくしかない。病気にならないかな、と悪魔にでも願うわけである。それに、病床に横たわる男は、意外にも色気を漂わせるものです。少なくとも、たいしたことをやってるわけでもないのにやたらと忙しがる男に比べれば、ずっとステキで可愛らしい。





160208

 インフルエンザで体重のおよそ5%を失った。3kgほどである。
 現在の体重は60kgにわずかに満たない。
 体脂肪率は16%より下回り、骨格筋率は相対的に上昇し38%を超えている。
 当然ながら、有酸素運動ができるほどの持久力を失っている。
 その能力は失われた3kgに含まれているから。

 そのようなわけで昆布と干し椎茸と人参と玉葱に少々の塩を加えて弱火で煮出しつつ、雑煮を作っている。
 まともに取った出汁というのは、なんというか、身体にきちんと沁みる味わいがある。
 美味しいものは数あれど、天然のものと人工のものとで、調味料ほど明確に分かるものもそうはない気がする。

 もちろんジャンクフードにはジャンクフードの美味しさがあるし、化学調味料には化学調味料の良さがある。
 それでも、病後や絶食後にはきちんとしたものを摂らせたい(でないと戻したりするから)。

 出汁の旨味の主成分は、グルタミン酸なのだろうか。
 いずれにしてもアミノ酸系に由来しているものであろう。つまるところ水溶性タンパク質であるわけだから、上手くすれば身体に蓄積してくれる。
 どういうわけか、粉末のアミノ酸をかき集めても、同様のものにはならない。このあたりが、きちんとした出汁の奥深いところだと思う。
 煮出した出汁から昆布を椎茸を取り出して、椎茸は細く切って鍋に戻す。

 塩と砂糖を少々加える。
 醤油を加える前から綺麗な黄金色をした、いい雑煮の汁だ。

 餅を焼いている。
 焼き上がったら、もうできあがりのようなものだ。

 ワークアウトを今日から再開した。
 体重はすぐには回復しないだろう。









::一度、夫でも恋人でもボーイ・フレンドでも、愛する人が病気になってくれないかなと願ったことのない女は、女ではない。
 といって、まじめな病気では困る。生命に心配のあるような病気では、話が深刻になるから「願う」どころではない。だから、風邪か骨折ぐらいの病気、ということにしよう。
 なぜ病気になってくれないかなと思うのは、病気にかかって寝床から起きあがれない状態になってはじめて、女は男を独占することができるからです。







引用は、
「第22章 男の色気について(その三)」(p.167 - 168)
From「男たちへ」(著作:塩野 七生 / 発行:文春文庫)
によりました。




 

 




まどろみの水色はねる君の髪の毛の先
ふわりきらめき反転急転直下の日差しの鈍角
吸い込むような呪文のようになめらかに流れる口もと
風に誘われるように足音はステップを呼ぶ

雲の陰の境界を追って君が僕を呼ぶのなら
水たまりを揺らす波動お日様はふるりと震え
角張った迷路の曲がり角をぶつけてみても
届かない夢色はカーペットで眠りを誘う



大あくびは陽射しあびる君の爪の先
ゆらりゆらめく暗転急上昇でも驚かないよ
吹き飛ばすような魔法のように超音速で笑う口もと
夢に踊るようにつま先でフラップを叩く

夜の影の境界を追って君が僕を呼ぶのなら
月明かりで照らす鼓動お月様はそっと見つめ
欲張った迷路の出口足をぶつけてみても
届かない鈍色はバスタオルの水気を誘う



爪を研いで引っかかるものなんてだいたいがまやかしさ
都合の良い嘘と共に消える口どけのよいクリィム
ただそれだけの白昼夢
誰も救わない狂詩曲



うすもやをはじく金色君の睫毛の先から漏れる
くるり回って反転超音速の朝陽の模様
吹き込むような夢幻にも似たゆるやかな微笑み
夜に追われるように追憶をクリップで留め

光と影の境界で迷う君が僕を呼ぶのなら
水の中に眠る望郷どんな距離さえもすっと超えて
入り組んだ迷路の扉をいくら歪めてみても
届かない虹色はカーテンでただ光を誘う






// ----- >>* Initialize Division *<< //

// ----- >>* Header Division *<< //
~ Remainable Exist ~

Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 窓の外から汽笛が聞こえた。
 電気機関車だろうか。

 電気機関車といっても、今はたいてい電車だから当たり前のことだが、鉄道マニアの人には非難されるかも知れない。
 私はあまり鉄道には興味がないので、御容赦いただきたい。
 要するに、モータも電気機関だ、という程度の認識である。

 汽笛が鳴るということから、通常の旅客車ではなく、観客車、あるいは観覧車であろうと考えられる。
 通常、鉄道といえば移動(運搬)が、その機能であり、サービスであり、目的である。

 私が電車に乗る場合は、移動が目的なのだが、目的と手段が入れ替わる時、人間はそれを趣味と呼ぶのだろう。
 上記の「観客車(観覧車)」という表記はそれを意識しての記述である。
 あるいは「客観車」と呼んでもいいだろう。

 多分メカニズムは旧式。
 それでもそのカタチが生き残っているということは、それなりの理由があるはずだ。
 少なくともそれに乗って移動することは主な目的としていないのだろう。

 それを見ること(より正確には、その存在があるということ)に価値がある、という指標にもとづいた方向性だと思う。

 おそらく、私のいる地方のような、ローカル路線だからこそ実現できるサービスだろう。
 本来の運搬ではない目的で運搬機械を動かすのだから、これは結構フトコロの広い、太っ腹なサービスではないだろうか。

 もちろん「環境負荷が」なんて言い方もできるんだけれど、そこにファンタジーがあるならば、多少の環境負荷はいいじゃないか、というのが現代社会が成熟した証であるともいえる。

 たとえば花火大会なんてどうだろう。
 大量の火薬と、そこに集まる人間たちが費やす化石燃料。
 電気、渋滞、事故、マスコミ、人力、その他諸々。
 まさに目が回るほどの浪費ではないか。

 それが悪いというのではない。
 むしろ、歓迎している(私は出かけないが)。

 火薬で弾丸を飛ばし、燃料で戦闘兵器を動かすよりは、ずっといい。

 ただ、私は非凡なファンタジーよりも、平々凡々な日常をよりいっそう愛している。



 日本人に限らず現代先進国人の好奇心の方向性として、ハレとケのうち、ハレを特に歓迎する風潮がある。
 これにマスメディアや商業が加速をつけ、人間は自分でも知らないうちにそれを特別視するようになったのではないだろうか。
 バレンタインデー、クリスマス、誕生日、子供の日、各種宴会、まぁ、その他諸々。

 今はわざわざ祝うまでもない。
 なぜなら普通は子供も大人も、そう簡単には死なないようになったからだ。
 年が越せない、なんていうのは、冗談で使われこそすれ、実際に年貢の納めどきってやつで悪代官によって、見せしめに処刑されることもないだろう。

 七五三でお祝いをするのも、大晦日、お正月と祝うのも。
 人間が生きているということが、容易ではなく、特別であることを知っていたからこそ生まれたのではないだろうか。
 だから、祝ったのだろうし、自然と神々に(あるいは人々に)感謝をしたくもなる。

 それだけ昔は人が生きるのが難儀だったということだろう。

 今は生きているのが当たり前だから、何を祝っているのか分からない人も多いのではないだろうか。
 少なくとも、私は分からない。
 祝ったって祝わなくたって、生きていられる。
 死ぬほど困れば祈りもするが、そんなに困らないようにと作られた社会ではないのか。
 だから分からなくても問題ないと思うし、分かる必要もないと思う。
 分からないことが幸せの証なのだ。

 祈りが感謝に、感謝が祝いに、祝いが祭りになり、けれども昔は、それはあくまでも手段だった。
 神々に、豊作に、隣人に、人々に、
 自分が生きていることに、大切な人が生きていることに感謝する。

 感謝しないでは生きられなかったのだから、当然、命の重みも今とは違ったものだろう。

 今は豊かになったから、感謝しなくても生きていられる。
 徐々に手段は目的となり、本来の意味を失い形骸化していったのだろう。

 生きることも同様で、生きることが目的だった大昔と違って、生きることはただの手段になりつつある。
 その手段を使って、何をするべきか。
 まぁ、そこまで考えが及ばないのは過渡期だからだろうと、都合よく考えたい。

 本当に感謝の気持ちが鐘のように鳴りやまない、ということも確かにごくごく稀にあるが、
 そういうことは一般に騒がれる「お祭り」とは関係なしにやってくる。

 思った時に感謝すればよいのである。
 コンビニエントな指向性が時代の先端だと私は思っているから、間違ってはおるまい。



 たとえば恋愛についても同様で、十分に豊かになったにもかかわらず、いまだに人間がハレとケの原理意識を捨てられない場合、ついつい好奇心や射幸心が先に立ってハレの部分に目が行ってしまう。
 要するに、いつでも浮気相手や愛人の方が可愛く見える、ということ。

 もちろんそれはそれで結構なことだと思う。
 物質的にも、精神的にも(それ以外に知識や経験も)豊かでなければ、そういうことは不可能だろう。

 ただ、恋愛に限らず、人間関係や仕事、趣味など人間の持つすべての活動において、好奇心や目新しさだけに目が行ってしまうと、それで何かを見失うような気がする。

「女房と畳は新しい方がいい」なんて、タチの悪い冗談もあったものだ。
 同類の方向性に「女性は若い方がいい」とか「女性に年齢を尋ねるのは失礼」という考え方がある。

 私にはそれらの概念がさっぱり理解できない。
 まぁ、畳は新しい方がいいが、奥様は畳ではない。
 それを自身の片割れとして認識する場合には、古くても、馴染んでいることが大切である。

 これは工具などでも一緒で、高くていいものほど、馴染むのに時間がかかる分、馴染めば手放せなくなり、また長持ちする。
 電化製品が高級品であった頃のものは、だいたいが丈夫にできている。
 使い続けて飽きない雰囲気を持っている。

 最近のものにはそうした「残ろうとするテクノロジのカタチ」があまり感じられない。
 来年になったら飽きられて捨てられそうなモノ、
 来月に登場するものに負けそうなテクノロジがほとんどである。
(利口な人なら、そのほとんどが上塗りだけいじって、名前を付け替えただけのモノだとすぐに分かるだろうが)



 女性と話すことが年齢しかないというのも、かなりつまらない状況だけれど、

 そもそも「年齢を口外したくない」なんて本気で言っている女性というのは
「若い女性ほど価値がある」という、バカな男性の理論を認めていることになる。
(それ以前に「年齢に何の価値がある」と言えるようになれば、それが正しい)

 若い方が価値があるとしたら、赤ん坊が(より厳密には受精したばかりの胚が)もっとも価値があるということになる。

 そこにあるのは可能性であって、より正確な意味での価値ではない。
 可能性とはつまりギャンブルであって、当たればいいけれど、その分当たることは少ないといっていい。
 受精しない卵子と精子の数を考えれば、すぐに分かりそうなものである。

 ムダに年齢だけを重ねてしまった場合は、確かに難しいかもしれないが、それでも取り返しがつかないわけではあるまい。

 若さと引き換えに手に入れられる「価値」があるはずで、それはただ「若さ」を持っているだけではどうやっても手に入らないものである。

 これはテクノロジと同様の問題である。
 現在は未来よりも可能性に満ちている。
(「未来は可能性に満ちている」というのは視点が現在にあるからで、所有している可能性は現在の方が大きい)
 しかし、未来に至るまでにはその時間を消費して、今は実現していないものを実現できているかもしれない。
 価値とはそのように、可能性よりも確固とした機能ではないか。

 昔、人間の価値はそうやってはかられていた。
 今だって、基準が少しズレているだけで、本来の価値は変わらないと私は思う。

 よって「ガキはひっこんでろ」というのは常に正しい大人のあり方だ。
 現代は「ガキ」の定義を年齢で判断したりするが、これだけ多様化が進んでいるのだから、それは絶対ではない。
 10代で「ガキ」を脱ぐ者もいるし、いくつになっても「ガキ」が脱げない者もいる。



「自分に価値があるか自信がない」なんて、いい大人になったら口にするべきではないだろう。
 自分が、持てるすべてを削って、時に痛めつけられて、そうやって傷跡のようにカラダに刻み込まれたものが、時に価値となる。

 いわば宝石のようなもので、その価値は外部からしか観察できないかもしれない。

 けれども自分以外の人がどう感じるかをきちんと知っていることが優しさであるとするならば、
 優しい人はすべて、自分の価値をきちんと知っているものである。
 そしてその価値は、謙遜するでも誇示するでもなく、そこにある小さな光としてきちんと認められるべきものだろう。



 私は日常を、平凡さを愛している。
 特別である必要を感じないし、特別でありたいとも思わない。

 日々が平穏無事に過ぎ去ってくれることが、どれほど喜ばしいかを忘れたくないし
 時折振り返って、それがどれほど奇跡的であるかを感謝せずにはいられない。

 そんな、ありきたりを大切に過ごして。
 削られながらも生き残れる、
 そんなカタチでありたい。






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NEXUS
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  自分自身の価値は、自分には定められない (あえてInterceptor、実はCrossLink)
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[Cat-Ego-Lies]
-カタチ-:工場長の設計室:-主力製品--ShowCase-
:ひとになったゆめをみる。:いのちあるものたち





//何回リリースし直しているんだろう。もうほとほと嫌なんだけれど、この文書にリンクするものが多いのも事実なのではある。
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