160219
好きなものや好きな人、好きな出来事、好きな状態、少なくとも一日に一度は、そういうものを考えられたら、そういう時間をきちんと作ることができたら、人というのは、きっと少しずつでも「いい状態」になれるのだと僕は信じていたし、たぶん今も信じているんじゃないか、信じていなくてはいけないんじゃないか、と思っている。
嫌なことや嫌な人間や、嫌な出来事や嫌な状況なんてものを毎日毎日ひっきりなしに考えていたら、本当に精神的にも疲れてしまうし、そういう心情は、誰かに対してはもちろんのこと、何より自分自身に対して優しくなれるはずの機能を、他ならぬ自身の力で壊してしまう。
だから、毎日、たとえば起きたときであるとか、眠るときであるとかに、好きなものや好きな人、好きな状態、好きな出来事、あるいは未来についての好ましい願望(妄想でもいい)を持っていることは、とても大切なことなのだ。
せめて10分でもいい。せめて5分でもいいから。
それは大切なエンジニアリングのひとつだ。
でも。
でも、もし。
好きなものや好きな人がまったく思い浮かばなくて、好きな状態がどういうものなのか(どういうものだったのか)思い浮かべることも思い出すこともできなくて、あるいは未来についても過去についても何らの好ましさを見出すことができなくて、そもそもありとあらゆる「好ましさ」についての定義が空白になってしまっていたら。
皆目、見当が付かなくなってしまったら。意味が分からなくなってしまっていたら。
メカニズムを理解しているのにもかかわらず、それを具現するための大切なピースを、失っていることになる。
それなら、心が折れることはない。
もはやそこには折れる心がないのだ。
折れないから、奮い立たせる必要もなく、淡々とそこに立っていられる。
立ち続けられる。
しかし、それはいったいどんな意味だろう。
あるいは嫌いの反対が好きだから、人は嫌いなものを挙げ連ねていって、囲い込むようにして「好き」を構築するのかもしれない。
けれども直感的にいえば、そこに浮かび上がる「好き」はニセモノの「好き」だ。
嫌いの逃げ場としての「好き」。ほんとはどうでもよいもの。なくても一向に問題のないもの。
ほんとうにどうでもいいものは、本当は「嫌い」のほうのはずなのだ。
でもそれは、日常の中、毎日の暮らし、仕事であるとか、家事であるとか、のんびりすごしている時間であるとか、友達と会ったとき、親と会ったとき、兄弟と話しているときに、不意に化学反応のようにしてそこに形成される。
それがひとたびそこに現れると、どうしても、無視できない。
それが生命らしい反応だとは思う。
でも、その「嫌い」は、命を落とすほどの「嫌い」ではないはずなのだ。
どうでもいい、どうにでも対処できるはずの「嫌い」のはずなのだ。
そんなに人は無力ではないし、そんなに人は馬鹿でもないし愚かでもない。そのはず。
ならばその「嫌い」を「なんでもないこと」や「好き」や、せめて「どうでもいいこと」にすることは、不可能ではないはずなのだと僕は思う。
その程度の能力は、きっと誰にでも(もちろん僕にも)あるのだと。
「好き」を探して、「好き」を見つけるのも、だからこれは能力なのだとは思う。
でも、そのためにはやはり自分の中の「好き」を、きちんと認識している必要がある。
自分の中の「好き」を知らないものが、外に「好き」を見つけることはできない。
そしてフリダシに戻る。
「好き」の定義が空白になってしまったとき、「好き」の拠り所なんてものはどこにもないのだと。
そして「好き」もなく、その定義も失ったそれは、本当に「心」と呼べるのだろうかと。
心を失ったイキモノに、魂などあるのだろうかと。
もしないのだとしたら、この肉体は、いったい化学反応によってのみ動作しているものなのだろうかと。
そしてそんなことに意味はあるのだろうかと。
