::なるほどご自身が我利我利であるならば、その目で見る全ての人間が我利我利に凝り固まって見えることでしょう。
 理解できないならばそれはそれで結構ですし、そうなると、どうやらわたしには興味のないお話ばかりのようなので帰ります。






151203

 雨のち晴れ。
 朝から寒い。

 しかし昨日からヒータを使わずに過ごしている。
 いわゆる「筋トレ暖房」であるのだけれど、これで不思議と不足がない。
 室温13℃までは耐えられることが確認できている。
 もちろん、基礎代謝の上昇が大きく影響しているとは思う。
 実際に、寝ているときはちょっと間違うと汗だくになってしまう。
 また、最近気付いたのだけれど、睡眠を十分に取ると体温が下がって目が覚めるようだ。
 逆に体温が高いうちはまだ眠いということ。

「アヲネコくんは眠くなると手があったかくなるからねぇ。おいで」とか、
「青猫さま、眠くなってきたでしょう?」とか、
 僕の体温でたいていのガールたちが僕の眠気を悟るのは、ある意味、合理的なのだろう。

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 仕事の戻りに、山間を通った。
 最初は、人間の微分積分に当てはまる、最近発見したパラメータ「忍耐力」についての考察をしていたはずなのだが、気がついたら景色を眺めていた。

 紅葉の名残が、山の木々を未だ染めていて、ひとことに「枯れる」といっても、そこにはいろいろな「枯れ色」が見られた。

 もちろん濃いオレンジになっても綺麗な枯れ色があるし、一方で、まだ薄黄色いのに汚い枯れ方の木もある。
 きっと人間も同じだと思う。

 たとえばだけれど、ある程度まで年齢を重ねるうち、恥ずかしいという気持ちを失う人は多い。
 これは男性でも女性でも同じように発生していると思う。
 僕自身、振り返っても、子供の頃はもっと自意識過剰で、恥ずかしがり屋だった。
 だんだん厚かましく、無神経になっているわけだ。

 無論、過剰な空回りの自意識であるならば、そんなものはなくてもいいのだとは思うけれど、一事が万事、ということもあるわけで、自分のそうした感覚はどこかで他の感覚とつながっていると考えると、やはり無神経なのは考えものだ。

 周囲を見回しても、二,三十代で「おばさんだなぁ/おじさんだなぁ」と思わせるような人はいるし、五,六十代で「乙女!/青年!」と感じさせる人もいる。
 気持ちが若い、とか、新しいことに意欲的にチャレンジする、というのはもちろんあるけれど、その一方で、やはり恥じらう気持ちというのがない人は厚かましいものだし、デリカシィが欠けては他人に対して無神経に、自分のことについてはふてぶてしくなってゆくのだと思う。

 年齢を重ねることそのものさえ恥じる人がいる一方で、何でも年齢のせいにして片付けようとする人もいる。
 前者は前者で、潔癖に過ぎるような気もするし、後者は後者で、怠惰だなぁと呆れる。
 もっとも、適度な清潔さであるならば、前者のほうが今後も美しくいられるだろう。
 僕もそろそろ、自分が無駄に年齢を重ねていることを恥じてしかるべきなのだろう。
(さて、何から恥じてゆこうか)(ちょっと違う気がする)

 枯れてなお綺麗な枝葉というのは、あちこち見ているとそれなりにあるものだ。
(街を歩いて年上ガールを物色していたことを詩的に表現しているのではないので誤解のないように)

 金属色とも違う、艶やかな葉を纏った樹を眺めて、なんともうっとりとした気持ちで坂を下っていった。
(街を歩いて年上ガールを物色していたら年上眼鏡ガールに一目惚れしたというようなことを詩的に表現しているのではないので誤解のないように)


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 今朝、叔母が一人死んだ。
 10年ほども前、我々の血族に特有の血管血液系の病で入院した際、お見舞いで会ったのが最後だ。
 ここ1、2年は、自分の身体をまともに動かせない状態で、鬱病にもなり、誰にも会いたがらないのだと別の叔母から先日聞いたばかりだった。

 別のある叔母は、記憶や判断力に障害が残っている。
 そうすると、直接の血縁で比較的健康な叔母はひとりしかいない。

 病とともに生きるのは、時に重すぎる。
 そうなのだ。生きるのは、意味もなく重いことがあるのだ。
 本当に、安楽死が制度化されればと、心から願ってやまない。

 忍耐力を要する時期というのは、確かに人間には存在する。
 しかし、どうなんだろう。
 老いらくにして不治の病を抱えながら、自らの身体もままならないままに生きて、その重い生に耐えても、いったいその先にあるのは死だけではないのか。

 若い頃ならば、たとえどんな苦痛が心や身体にあったとしても、時間がまだあるならば、つまり自由があるならば、確かにつらいとは思うけれど、それでも耐える価値はあるだろう。
 先見という意味で、これからの時間を計算する能力さえあれば、それはまだ耐えられるものだろう。

 けれども、時間が見えない場合は、あるいは明らかに時間がない場合はどうだろう。
 それでも生きろというのが、この社会なのだけれど。

 僕は計算の結果、これ以上無駄だと感じたら、できれば死にたいと思う。
 もちろんまだまだ先のことらしく「あなた80くらいまで生きちゃうわよぉ」なんて叔母に言われたりするものの、今が折り返し地点だなんてとてもじゃないけれど考えたくもない。

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 先日、財産相続で親族に呼ばれてキレて(本当に大人げなくキレて)帰ってきたものの、まぁ、そういうことが今後もあるのかもしれないのだから(いや、多分もうないと思う。お願いだからありませんように)、今後はもっと偏屈に磨きをかけようと思った。
(ちなみに、キレるまで4時間くらい、同じような話を延々と聞いたり、話したりしていたのではある)

 人間は、自分の所有している時間というリソースを、うまく認識できる人と、できない人がいる。
 物質的なリソースと同じように、あるいはお金のように、ただただ多ければいい、質が良ければいい、とにかくたくさん欲しい、誰より自分のところに欲しい、と思う人は多いだろうし、それが悪いとも思わない。なぜなら、それが生命だからだ。

 一方で、節度であるとか、そういった、慎ましさのようなものは、どんどん風化してしまっているのだろうと思う。
 恥じらう気持ち、遠慮する気持ち、一歩引く心。それが、人間らしさなのではないだろうか。

 損だ得だと、もうどこを見てもうんざりするほどの潜在的な計算式が踊っている。
(フィルタリングをスルーしてしまった)Web広告も、厚かましくこちらの欲や不安を刺激しようと待ち構えているわけだ。

 数値演算はもちろん、非数値演算も下手な人たちは、いったいどこに自分を運ぼうとしているのだろう。








::結果として、外からは同じに見えるかもしれません。
 でも、意味が違うんです。あるいは方向性といってもいい。
 何かを制限して「それはダメだ」と言っているのではなくて「こういう可能性もあります」と言っているのです。
 そしてそれは、私や私の損得には全く関係のないことなのです。