薄雲をかき分けるようにして、一筋の青い線が引かれている。
 反転飛行機雲。

 久しぶりに見上げた気持ちの良い空に、凛と引かれた境界線。
 最後に空を見上げたのは、いったいいつだったろう。
 星空を、月を、祈るような気持ちで眺めたのは、いつだったろう。

 砂糖をたくさん落としたカプチーノにスプーンを差し入れるように、曖昧模糊とした自分の気持ちを、僕はかき混ぜる。
 混沌を混沌のままに。
 明瞭にならないアナログな気持ちを、あるいはそうしたありのままのありようは、少し重たいながらも、僕は気に入っている。

 軽いほど有利なことはあるし、シンプルに純化されたものの気持ち良さも、もちろん分からないではない。
 それはそれで、とても素敵なことだと思う。
 しかしそれらは非常にアーティフィシャルだ。
 自然界において、そこに存在する多くのものは、混合され、結合し、多くは酸化することで安定している。
 あたかも金属の精錬のように、あるいは油脂の精製のように、つまりは分離することによって純度の高い精製物と不純物を分ける。
 それが人工的でないわけがない。

 明瞭であること、単一であること、表明されたディスプレイ。
 伝えられるメッセージ。
 言語化されたキモチたち。
 悲しみも、喜びも、怒りも、感謝も。

 その陰に、たくさんの「不純物」がかつて含まれていた事実を僕は思う。
 ユーモアに変わる前の苦悩を、涙の陰に隠れた傲慢を、怒りの芯にある期待を、感謝を発露させる活き活きとした感性を。

 コンプレクス、すなわち複合体こそが人間も含んだ多細胞生物が獲得した優位性であり、単一の意識が所有権を主張するこの肉体には、実のところ様々な生命体がコロニィを作って共生している。

 個々の細胞の意識さえ、僕たちは知らない。
 今日生まれた細胞が、どのような気分で最初の呼吸を行い、今日死ぬ細胞が、どのような遺志を遺したか、僕たちの頭脳、脳細胞の集積体は知らない。

 微細をいちいち拾い上げることなど、それは途方もない労力と時間を必要とし、また自身の出力する大意の価値を薄めることにも繋がる。
 あるいはもとより微細なノイズでかき消えるほどの希薄さで、いっそう不毛で無目的で衝動的に不純な意思思考であるからこそ、人は単一の、すなわち「シンプル」なありように美しさを見い出し、あるいは力強ささえ感じるのかもしれない。
 そのまっすぐさを、尊ぶのかも知れない。

 それでは微細なる、つまるところ力のないものたちは、益体もなくただただ文字通り黙殺されるためだけの存在なのだろうか。
 力を持たない、ルートを持たない者は、消費材のようにされておしまいか。
 組織を形成するという多細胞生物に見られたはずの優位性は、ではいったい、何者のための仕組みであるのか。

 優しさ、という言葉は使い古され、一部は形骸化し、一部は腐乱し、一部は霧散した。
 優しいことは、今や玉石混交。
 誰かの為の優しさが、そのまま誰かの血肉によって成り立っていて、あるいは誰かの為の優しさが、誰かに血を流すほどの傷をつけることを知って、人々は過剰に反応する。
 それが全てではないにもかかわらず、あまりにも狭窄した視野で、近視眼的に、優しさの持つ醜さ、あるいは優しさに含まれた「優しくなさ」を指摘するのに躍起になる人もいる。

 優しさに純度を求めて、つまるところそれはクリアな、明瞭な、単純化された、分かりやすい優しさだけを求め、認めることによって、優しさは、優しさの色を、ぬくみを失い、つまり死んでゆく。

 それが優しさかと、私は思う。
 私の中の猫は吠える。

 もちろん、優しさに厳しさは必要な要素であろう。
 ならばどうして、優しさを構成するのに不可欠であるところの「優しくなさ」という部品を易々と見限るのかと、かえって疑問に思う。

 ときどき僕は、ものすごく抽象的なことを書くけれど、それはなぜなのだろうと僕は疑問に思ったり思わなかったりする。

 もしも組織というものが、力のためにだけ構成されたのだとすれば、それは短命に終わるだろう。
 8:2の法則よろしく無駄のないシステムは、遊びのないハンドルのように、目的を果たすためだけの純粋さがゆえに自滅する。
 右でもなく左でもない。
 そうした曖昧さが許せない「純粋至高」の境界は、それの持つシステムを容易に破綻させる。
 もちろん、優しさのためにだけに組織が構成されたのだとすれば、それもまったく同じ原理によって短命に終わる。

 そうした全体性、ミクロとマクロの分水嶺は、本来明確な定義さえままならないままに横たわっている。
 現象と、それを定義づける論理や意識のギャップは、グレイに白黒の判定を与えるのと同じ、苦痛の道のりのはずなのだ。
 にもかかわらず、人はあっさりと見限りをつける。
 それは白だ、それは黒だと、あたかも自分の設定した境界線こそが正義であると言わんばかりに。

 宇宙から見た地球に国境などないと誰かが言ったように、ある程度以上の俯瞰によってのみ、本当の優しさは体現ができるはずなのだ。
 我利我利にやせ細った単一の意思ではなく、混沌と混迷のマーブル模様に浮かび上がる逡巡こそが、優しさの正体ではないのだろうか。

 優しくなければ生きていく資格がないのだとしたら、そんなライセンスは、すでに多くの人が失ってしまったはずだ。
 無許可で無免許の生けるものたち。
 ではそれを裁くのか。
 誰が。どのように。どんな力で。

 あるものを、あるままに。
 そしてより広く、遠く、より深い場所まで。
 それをただただ眺めているときに、ふと、自分の中に降りてくるものが、見つかるものがあるはずなのだ。
 自分自身の姿を見失う頃になって、初めて見えてくる、より大きな構図が。

 切り取られた雲は、青い切り取り線とともに流れて行く。
 あれは白なのか黒なのかと考えて、少し笑う。

 僕たちは。僕は。
 何度となく、物事を切り取る。切り離す。そして白黒をつけようとする。つけようとしてきた。

 あまりにも不完全な人工的な行為によって。
 あまりにも不純な人為的動機によって。

 苦さも甘さもクリーミィさも、ほどよく混ぜこぜのまま、僕たちはそれを味わうことが、本来はできるはずなのに。

 いつか、それらの意味が、正しく反転することを、僕は思う。
 個体の意味を越えて。個体の意思を越えて。
 混沌の中の、それどころかそれら全体によって織りなされる模様をきちんと評価できるだけの仕組みが個々の意識にきちんと組み込まれる日を。

 微少な単細胞生物が集まって個々の役割を果たすことで多細胞生物としての優位性を確立しつつ、個が個であることの優位性を正しく守るためのフィードバックをそこに内包してきたように。