自分にとってはこれで最終になるかもしれない記事を紹介しておきます。
かなり古くて申し訳ありませんが、週刊誌 Le Nouvel Observateur の2012年8月30-9月5日(通巻2495)に掲載された、下記の題名の記事です。
Les débats de l’Ohs
L’économie ne fait pas le bonheur
Exclusif. L’économiste publie “Homo economicus” chez Albin Michel, un nouvel essai passionnant dans lequel il propose une réflexion au long cours sur le rapport entre la quête du bonheur individuel et la marche des sociétés
(経済学者ダニエル・コーエンはアルバン・ミシェルから夢中にさせる新しいエッセー、『ホモ・エコノミクス』を出版した。その中で、個人の幸福追求と社会の進歩との関係に関する長期にわたる考察を提案する)
UN ENTRETIEN AVEC DANIEL COHEN
Le Nouvel Observateur あなたの新著では、「ホモ・エコノミクス」を「新時代の血迷った予言者」として幅を利かせる、世界の主人として描いています。なぜですか?
Daniel Cohen この本は、問題を巧みに要約する逸話で始まります。輸血センターの局長がストックを増やしたいと考え、そうするために、献血者に奨励金を出します。しかし、彼が茫然としたことに、献血者の人数は激減します! マヤ・ボヴァレ Maya Beauvallet の名著、『 les Stratégies absurdes (不条理な戦略)』からお借りしたこの逸話は、何が問題になっているかを完璧に示しています。人々は利害によっても道徳的配慮によっても行動するが、同時に両方ではないということです! 局長は、他者の利益のために献血するという、道徳による奨励と、奨励金とを加算できると考えました。ところが、選ばなければならないのです。そこから、元に戻ることもできるし、さらに先に進むこと、つまり、献血者が戻ってくるように、報奨金を増やすこともできます。1980年代の転換点以後に資本主義が選んだのが、この後者の道です。資本主義は努力を促すために報奨金を増やし罰則を強化します。そうすることで、「労働の価値」を破壊します。良いことをする配慮、同僚に尊敬されること、などの。殆ど全ての分野で、労働は経済学の本に記述されているようなもの、すなわち生きる糧を稼ぐための喜ばしくない手段になってしまいました。労働はもはやそれ自体が満足の源ではありません。
あなたは協力と競争の間の均衡の断絶と言われます…
現代社会は実際、はるかにより競争的になっています。特別手当、あらゆる境域の格付けがいたるところで増えています。競争は協力よりも優位に立っています。ところが社会全体はその二つを結びつける義務があります。「人は人にとって狼である…」などという、この種の格言を口実にして競争が第一であると考えるのは人類学的な過ちでしょう。実験心理学の数多くの経験が、互いに信頼しあう、他者に対して相互性を示す、自発的な傾向を示しています…
資本主義そのものは、その論理が非常に異なる二つの型の機構に基づいています。つまり市場と企業であり、前者は競争を組織するために、後者は協力のために存在します。1980年代初めから金融資本主義によって引き起こされた断絶は、企業の内部そのものに市場の論理を押し付けることでした。しばしば個別化される特別手当、ボーナスは、労働との新たな関係を想像します。次第に多くなる仕事の外部化がさらなる圧力を加えます。至る所で、競争が前進し協力は後退します。
あなたの説では、以前よりもずっと増えた物質的豊かさにもかかわらず、フランスでも他の国でも、豊かな社会において、幸福は減少するか停滞するかしています。なぜですか?
この欲求不満を説明する心理的メカニズムは先験的には、極めて単純です。人々は、何事にも慣れるため、決して満足することがありません。しかし、経済学者が最終的に理解するに至った、本質的な点は、人類がこの適応そのものを予想することができない、ということです。人々は、現在持っているよりも多く持つことで幸福になると考えますが、それは単に、ひとたび豊かになれば、自分の必要も変わっていくということを理解できないでいるためにすぎません。豊かになることで手に入れると考える喜びは消え失せ、さらに多くが必要になりますが、常に無駄に終わります。
もう一つ別の要因が、より豊かであるという満足感を消し去ります。他者との比較です。誰もが、自分と比べる他人よりも相対的に成功することを望みます。そこでカーチェースが、誰もその論理を抑えることなく、始まります。私は隣人よりも豊かでありたい、そして隣人もまたそうでありたい、そして最後には競走は徒労になります。この理屈を用いる限り、幸福の追求は全体としては無駄です。人類は二度、失敗します。自分自身の憧れを理解することと、他者の決定に自己の決定を調和させることに。新本主義が可能とした恐るべき富の蓄積は、幸福な厳密な追求に関連付けるとすれば、不条理な原理に基づいていることになります。
この幸福への競走を規制することはできるでしょうか?
非常に難しいです。幸福は、人間自身の熱望を否定しては得られないからです。所得の下から4分の1の層にとって、月末は数十ユーロで決まります。彼らに例えば、「携帯電話は余計な贅沢品だ」などと言うのは、愚かしいことでしょう。誰もが人類の共同体の一部を成したいと思っています。このことが、社会の残り全体の進歩に比例して、必需品の水準を引き上げます。別の具体的な例を取り上げましょう。あらゆる調査が、一人の人生で最も苦痛に満ちた二つの瞬間が、離婚と解雇のそれであることを示しています。これらは最も頻繁になってしまいました。人が幸福を見つけられなくても驚くことではありません! 離婚は我々の社会で作用しているメカニズムの一部を明らかにします。私は、他者を愛さなくなれば離婚しますが、逆もまた真であって、結婚はより不安定的になり、結婚の競争はより深刻になっています。明らかに認めなければならないことですが、愛するという自由を口実に、しかし事実全体は変わっていません。解雇に関する新しいマネージメントの方法の影響を加えれば、社会は息苦しいものになりかねません。どのようにしてそこから脱却するか? 現代社会の罠について共同で考えることで。個人の幸福と我々の社会の歩みとの関係を緊急に考え直す必要があります。
あなたの考えでは、個人の幸福という問題は経済的思想から除外できません。「悲しき世界化」の時代に、これからは「国内総幸福(BIB、英語だったらGDH)」の範囲で考えることが急を要するのでしょうか?
PIB(国内総生産、GDP)は物質的財産しか考慮しませんが、それらは問題の一部を形作るだけです。経済学者ブリュノ・フレー (Bruno Frey) は人を幸せにする二つのカテゴリーの財産を区別しました。外部的財産と内在的財産です。前者は、威信への社会闘争に勝つことを可能にする、地位や、大きな車、しゃれた家を人に与えます。後者のカテゴリーはより静かな喜び、友人との会話がもたらす喜びあなたを育てる本、近親者への愛がもたらす喜びによって形作られます。聖人か社交界の人間でもない限り、幸せであるためには2種類の財産が確かに必要です。しかしここでの問題もまた、内在的財産がもたらす満足を人は過小評価しがちだということです。人は素晴らしい家を欲しがり、土地の価格を減らすために都心から遠くに家を買わなければならないと考えます。しかしそうすることで、移動の心理的費用を低く見積もり、結局、そう認めることなく、不幸になります。幸福に関する調査は、25歳から60歳にかけて、幸福度が低下する傾向にありますが、続いて再び上昇し始め、徐々に青年期の水準よりも高くなることを示しています。その理由はおそらく、年齢が上昇すると内在的財産により注意深くなるからでしょう… したがって、わずかな費用で幸福を増やせるようになります…
あなたは現在の世界の脱中心化を強調しています。今や70%が新興国からもたらされている世界の経済成長がこの変動を証明しているとあなたは記しています。それはつまり、人口統計、人口の比重が再び世界の富の均衡を再び支配し始めるということなのでしょうか?
1990年代の初めには、世界の成長は実際に70%が富裕国から、30%が貧困国から得られていました。象徴的に、2001年、二つの曲線が交差しました。その後、比率は逆転しました。世界の成長は今や70%が新興国を源としています。我々は議論の余地なく、世界の富の再分配のやり直しの時代を生きています。最も貧しい国々はまた、20世紀には最も人口の多い国々でした。これらの国々は住民一人当たりの所得に関して我々に追いつこうと、したがって全体の富としては我々を追い越そうとしています。過去と同様に、人口統計の比重が再び、力の均衡を決定づけようとしています。そのため、人口動態から旧貧困国が有利になります。それはそれとして、個人の満足に関しては新興国も既に富裕国と同じ障害に直面しています。幸福の経済分析の父、リチャード・イースタリンが、中国における満足度の指標を研究しました。20年間に平均所得が4倍( !)になったにもかかわらず、中国人の幸福感の指標は平均して停滞しています。上位3分の1は確かに増加しましたが、下位3分の1の層の低下分に応じて、であり、中位3分の1は20年前と同じ低水準に留まっています。イースタリンやこの現象を研究した他の著者によれば、極度の社会的な対抗意識が、所得上昇の効果を弱めて、中国の幸福を減少させています。
西洋の金融危機は、その取り返しのつかない衰退を現しているのでしょうか?
世界の金融危機は、これらのあらゆる要素が交わったところに位置しています。新しい金融資本主義は、1950年代と60年代にアメリカに存在することができた中流階級の社会を撲滅しました。アメリカ的な不平等の増大は、中流階級と大衆階級に、社会の中で自らの位置を保つための借金しか残しませんでした。どれだけのアメリカの政治制度がこれらの問題を解決するために理解されるのに苦労しているかは、目覚ましいものがあります。社会が衰退したままにするという驚くほどの諦めがあります。アメリカの市民精神の衰退はその点で、危機の本質的な所与でもあります。社会学者ロバート・パットナムは、著書『 Bowling Alone (孤独なボウリング)』で、アメリカ人が自らの社会生活を形成していた制度全体が崩壊するままにしていたことを示しています。トクヴィルが注意を促していたように、アメリカの個人主義は、教会、保護者会、ボーリング・クラブ…といった、あらゆる種類のコミュニティーを形成したいという正反対の偏執との関係で把握されなければ、理解できません。過去50年間で、この社会構造はほどかれてきました。一人でボウリングをし、選挙へ参加と全く同じように、保護者会は二つに分裂し… その結果、自分が幸せだと言うアメリカ人の割合は3分の1減少しました。
私はこの本の中で、公的財政の危機と道徳的指針の喪失の影響によって既に、3世紀から亀裂が入っていた、ローマ社会との相似性を分析しています。この時代の最も偉大な専門家の一人、ピーター・ブラウンによると、3世紀は強者が、自らの富を白日の下にさらけ出すままにした時代です。私有の別荘が神にささげられた寺院よりも高くなります。彼が説明するには、この時代は均衡の時代から野望の時代への移行を意味しています。自らの成功を、突然流行遅れになった慎みから覆い隠していたエリートが、屈託なくひけらかします。現在のアメリカ社会の危機を記述するために用いられた表現だと思われるでしょう! キリスト教がローマ社会の問題に解決をもたらすことになります。またしてもブラウンによると、他人に「私はキリスト教徒です」と言い、「私もそうです」という答えを聞くことは、社会が解決できずにいた緊張によって蝕まれた社会に解決をもたらすことになります…
だからアメリカの衰退をローマの衰退に喩えるべきなのですか?
たとえ比喩が魅力的であっても、私は衰退という意味での分析は好みません。なぜならこうした分析は歴史を衰退する文明と侵入する野蛮の間の永遠の紛争に固めてしまうからです。私はもっとずっと幅広い問いかけを想定します。中国そのものが、不平等、社会規範の喪失というアメリカと同じ病に苦しむ、老いつつある国民です。それ自身が大きな経済危機には非常に脆弱です。私の目には、世界の不安定さの主な要因がそこにあります。衰退という表現を繰り返すなら、中国の早期の衰退です…
「我々の時代の中心的な逆説は次のようのものである。社会的欲求が商業の論理に組み込まれるのに苦労している時に、経済が世界の指揮を執ることを求められていることだ。」とあなたは書いています。伝統的な経済の型に収まらない、脱工業化社会の欲求とはどのようなものですか?
現代の逆説とは実際、経済は至る所で自らのモデルを書き取らせる傾向にあるが、それは社会的欲求の変化が別の方向に向かっている時だということです。特に教育と健康がそうであるような、脱工業化社会の大きな関心の中心は商業社会の枠には収まりません。教員や医師に、例えば成果に応じて奨励金を与えようと試みれば、直ちに教育や健康の破局に至ります。あなたがある教師に、バカロレアの結果に応じて特別手当を出すと言うとしたら、あなたは彼に、何の機会も持たない最も出来の悪い生徒と、いずれにしても機会のある最も出来の良い生徒を見捨てる気にさせているということです! 結局、効果を上げると見なされる手当は教師に、クラスのごく少数の生徒にしか関心を持たせないようにすることになります! これは何もしてはならないということを意味するのではなく、政権に就いた左翼の試練の一つが、商業の論理から着想を得たものとは異なる規制の手段を作り出すことでしょう。医療制度についても同じことが言えます。
それではデジタル革命は?
デジタルの世界は脱工業化社会のもう一つの側面です。いまでもまだ、自らの「ビジネスモデル」を見出すのに苦労しています。報道、音楽編集といった自らが関わる部門の価値観を破壊しますが、なおも自らにとって効率の良いモデルを探しています。グーグルやフェースブックといった巨人は、その利用者の相当の人数という力によって金を稼ぐことに成功しています。しかしフェースブックは登録者一人につき年間で3ユーロ足らずの売り上げを生んでいるだけです。マルクスは私的所有制と生産力と彼が読んでいたものの発達との矛盾による資本主義の衰退を予測していました。デジタルの世界でも、同じ状態にあります…
あなたによれば、「新技術の経済全体に対する牽引力は不確実なままです。20世紀の産業の成長を繰り返すこと、さらにはそれに近づくことを可能にすることはありそうにないようです」。人類は拡大した貧困化を余儀なくされているのでしょうか?
今日、経済活動の中心は近場のサービス業と無形物の生産にあります。そこでは、著しい生産性と成長の向上が特に情報革命のおかげで可能になっています。しかし、産業革命、情報技術による革命と、それに先立つ、前世紀の電力によるそれと、その前の世紀の蒸気機関による革命との間には、根本的な違いがあります。先の二つはエネルギー革命であり、労働者の力を機械的に増大させました。情報革命は、労働を再構成し強化し、無駄な時間を減らし、重複をなくし、勤労者の同時多重活動を組むことでしか生産性を増大させることができません。フィリップ・アスケナジが「ネオ・スタハノフ運動 néo-statkhanovisme 」と呼ぶものを生み出します。したがって成長は別の性質のものであり、生産の拡大よりもコストカッティング、つまり費用の削減に働きます。その潜在的可能性は、大量生産の偉大な時代よりも弱くならざるを得ません。
あなたの考えでは、ユーロは新たな「黄金の牢獄」に変質してしまい、「弱い国々に押し付けられた緊縮策は病より悪い治療薬を創っている」ということになります。何をすべきでしょうか?
ヨーロッパは実存の危機に直面しています。欧州建設のパイオニアたちは、経済統合が政治統合へと至ることに賭けていました。現在の指導者層は、それが予想通りには進まないという、苦痛に満ちた発見をします。経済はそれ自身にしか通じないし、政治的市民権には至らないのです。今日、ドイツ人はギリシャ人やスペイン人のために金を払いたいと思っていないし、それによって1930年代と同じ過ちを繰り返しています。つまり、結集力も指針もないままに金融市場が冷静さを失うに任せています。ケインズは戦後、中央銀行の金準備高に制約されることなく、困難に陥った国々に流動性を提供することができる、超国家的な通貨の創設を弁護していました。実に、ケインズが強く求めた手段であるユーロが創設されたわけですが、我々はそれを利用することを拒否しています! 現在の問題は次の点に要約されます。ドイツ人が、欧州中央銀行が市場の意に反して国家を防衛することを認めるのか、市場は国家が服従するべき真実を持っていると考え続けるのか、と。ここで人は、理性と迷信の間を漂っています… 経済は市民権には通じていませんが、連帯と混沌の間で選択することを強いるのは経済の機能不全です… ルーズベルトは、1930年代の危機から脱出するためにアメリカ国民にニューディールを提供することができましたが、続いて新しい連帯という理想を創り出すのはとりわけ、戦争です。平時に、同じ努力をしなければならないのです!
Propos recueillis par
FRANÇOIS ARMANET et GILLES ANQUETIL
Le Nouvel Observateu du 30 août au 5 septembre 2012, n° 2495
DANIEL COHEN est professeur à l’Ecole normale supérieure, vice-président de l’Ecole d’Economie de Paris et directeur du Centre pour la Recherche économique et ses Applications (Cepremap). Son précédent ouvrage, « la Prospérité du vice » (Albin Michel, 2009), a été vendu à 100000 exemplaires.
“Homo economicus, prophète (égaré) des temps nouveaux”. Dans son nouveau livre, Daniel Cohen propose une réflexion au long cours sur le rapport entre la quête du bonheur individuel et la marche des sociétés. Passant de la Rome antique au Pékin d’aujourd’hui, scrutant les enjeux des révolutions numérique et génétique, il remet en question l’économie qui impose son modèle hégémonique, celui où la compétition féroce l’emporte sur la coopération. Pour l’économiste, rien n’est pourtant inéluctable dans ces évolutions, et il ouvre de nouvelles pistes.
ここに挙げた本を紀伊國屋書店で1か月かかって取り寄せて、実際に読んだときの知的興奮は忘れられません。特に、皮肉にも新宿の献血ルームの待合室で、序文の献血に関する話題を読んでいるときの皮肉さといったら… この本を訳して、このブログに掲載することも一時考えましたが、現在の仕事の多忙さと片道100キロ超の通勤距離から考えて、とても無理のように思えます。
【追記】
この後、著者による別の著書、La prospérité du vice (悪徳の栄え)の邦訳が出版されていました。
経済と人類の1万年史から、21世紀世界を考える