橘玲著(日本人)を読む⑤ | Passのブログ (情報部屋)

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④から続く

(青字は著書からの引用)

○官僚内閣制と省庁代表制

政治家や官僚のなかには、個人の立身出世よりも公を第一にする立派なひとがいるにちがいない。だが、それは単なる口先で、ほんとうは自分のことしか考えていないかもしれない。

(中略)

政治家は次の選挙で当選することを目指すはずだ。落選した政治家は“ただのゴミ”になってしまう。同様に官僚は、自らの地位を高めることを第一に考え、自分が所属する組織の権限を拡大しようと努力するだろう。企業でも官庁でも、出世の条件は、組織にどれだけ大きな利益をもたらしたかで決まるからだ。

(中略)

有権者が利己的だとすると、彼らは投票によってどれだけの経済的な利益(補助金や公共事業)が得られるかで候補者を選択するはずだ。

(中略)

このような過程から、米のジェームス・ブキャナンは「民主政国家は債務の膨張を止めることはできない」という論理的な帰結を1960年代に導き出した。政治家は当選のために有権者にお金をばらまこうとし、官僚は権限を拡大するために予算を求め、有権者は投票と引き換えに実利を要求するからだ。

このような説明は、ほとんどの人にとって不愉快きわまりないものにちがいない。だが現実には、日本国の借金は膨張をつづけ、ついには1000兆円という人類史上の未曾有の額になってしまった。


⇒個々人が、自分のために良かれと思うことがつもり重なると、全体のためにはかえって悪いことが起きてしまう(合成の誤謬)

○日本中枢の崩壊

日本の政治には本来の議院内閣制ではありえない奇妙なことが頻発する。ひとつは、各省庁の大臣に実質的な拒否権が与えられていたことだ。自民党時代の閣議は全員一致が原則で、大臣が反対するものは閣議決定に回されなかった。大臣は担当する省庁の代理人として、省庁の利害を代表することを求められていた。

このため、閣議決定には事前の根回しが不可欠で、前日に各省庁の事務次官が集まる事務次官会議が開かれ、そこで反対のなかった案件だけが翌日の閣議の議題とされることになった。大臣が各省庁の代理人となり、その合議体として内閣が構成されるのが「官僚内閣制」だ。

官僚内閣制の特徴は、政府における最終的意思決定の主体が不明確化し、必要な決定ができなくなり、政権が浮遊してしまうことだ。これが日本中枢の崩壊(@古賀茂明)だが、それは日本的な統治機構の必然的な帰結でもあった。


(中略)

議院内閣制では国会議員は国民代表だが、官僚内閣制では社会集団のさまざまな利害を官僚が代弁することになる。これが「省庁代表制」で、日本は自律した省庁の連邦国家なのだから、「省庁連邦国日本」と呼ぶこともできる。

(中略)

官僚にとっては、新しい政策を立案し権限を拡大することが最優先だから、複数の省庁で似たような法律が乱立し、際限なく増加していった。

行政が複雑になり、権限が分散化するにつれて、「拒否権」を持つ者が増えて合意形成に時間とコストがかかるようになった。

最大の問題は、既得権に干渉するような政策の立案がまったく不可能になったことだ。こうして官僚内閣制と省庁代表制は、九〇年代以降の日本の危機にまったく対処できなくなった。


(中略)

民主党の「原理主義者」たちの理解では、政権交代後にこの国にはふたつの権力が並立していた。ひとつは選挙で選ばれた国民代表を基盤とする民主党内閣、もう一つは省庁代表を基盤とする官僚内閣だ。

ひとつの国にふたつの権力は並び立たないのだから、民主党内閣は、権力闘争によって官僚内閣を打破しなければならない。このようにして事業仕分けによる官僚バッシングが始まったのだが、実は主戦場は別のところにあった。

日本の憲法では三権分立だが、実際は省庁が行政権ばかりか立法権と司法権を有し、予算の編成権まで持っている。さらには、各省庁は法によらない通達によって規制の網をかけ、許認可で規制に穴をあけることで業界に影響力を及ぼし、天下りを確保している。


(中略)

「官僚支配」は各省庁が共同して日本を統治しているというイメージで語られることが多いが、これは事実ではない。官僚制の本質は、省庁同士、あるいは省庁内部の局や部、課のあいだの権限争いで、そこに共同の意思はなく、各自が自分たち(と関係者)の利益(なわばり)を最大化するためのはげしい競争を行っている。

合意形成の積み上げによって意思決定する組織は、経済が拡大するなかでの分配には長けているが、全体のパイが縮小するとたちまち足の引っ張り合いを起こしてしまう。


(中略)

日本でもっとも知的なひとたちの集まりであるはずの官僚組織は、何十年たってもこの欠陥を自ら修正することはできない。いつまでたっても変わらないのは、変わらないことに合理的な理由があるからだ。

そもそも公務員の人事制度は、日本社会と独立に存在するわけではない。終身雇用と年功序列の絶対の掟とする公務員人事は、日本的雇用制度の鈍化した姿だ。


(中略)

年功序列と終身雇用の日本的雇用制度では、たとえ現役官僚であったとしても、企業は中途採用をしたがらない。そこで省庁が、コネを使ってなんとか引き取ってもらうのが「官民交流」の実態になっている。

(中略)

官僚機構をアメリカ型につくり変えるには、その土台である日本的雇用制度を解体しなければならなかった。日本の社会制度は誰かが意図的につくったのではなく、(おそらくは)中世のムラ社会で自生的に生まれ、歴史のなかを連綿とつづいて、高度成長期にいまの姿に拡張を遂げた。それは私たちの身近な生活に深く根を下ろし、そこから養分を吸い上げてきた。

私たちは、公務員改革制度を自分たちには関係のない話だと考え、既得権にしがみつく官僚に憤慨し、事業仕分けで立ち往生する姿を嘲笑した。だが、ひとは、鏡に映った姿だけを都合よく変えることができない。「日本改造」とは、官僚の天下りを禁止することではなく、日本社会の本質である「イエ社会」をドラスティックに変えてくことだ。


(中略)

民主党内閣は、不都合な部分には手をつけず、みてくれだけを“グローバルスタンダード”の統治機構に変えようとした。だが、包装紙を取り替えても腐った中身は変わらない。このようにして「改革」は予定調和的に破綻し、与党と政府が敵対する旧態依然の統治構造に戻ってしまった。日本的なイエ社会では、これ以外の統治(ガバナンス)はありえないのだ。

⇒終身雇用や年功序列という日本古来からの「イエ社会」が、日本中枢(永田町・霞が関)でもグローバルスタンダードについていけず、国家組織が崩壊しかけている。

(続く)