イエス・キリストと日本、スサノオ  | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 

・イエス・キリストの過去世  〔エドガー・ケイシー〕

 

 “初期ユダヤ・キリスト教の主要かつ重要な記録文書として、クレメンスの説教集がある。この説教集の中では、「真のメッセンジャー」もしくは「唯一人の預言者」としてのキリストが、この世の初めから名を変え姿を変え、いろいろな時代に歴史的人物として何度も生まれ変わっていると、はっきりと書かれている。同書によれば、キリストはアダム、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーゼ、そして最期にイエスに受肉したのである。モーゼは、場合によって、キリストの過去世のリストからはずされる。そうすると、イエスはこのリストの第七番に来ることになる。ケイシーのリーディングによるリストは、共通するところもあるが、明らかに異なっている。すなわち、アダム、エノク、メルキゼデク、ヨセフ、ヨシュア、エシュア(ケイシーによると、エシュアは聖書編纂事業に対して責任者的立場にあったらしく、それが後に後期ヘブライ語聖書の形式を決めたようだ)、そしてイエスという順になる(五七四九-一四)。このリストも七人で構成されている。つまり七という神秘数である。

 

 ケイシーのリーディングによると、アダムとして、そして最期にイエスとして受肉した魂は、聖書に登場する人物以外としても受肉している。そのイエスの過去世の名前がすべて挙げられたわけではないが、聖書以外の人物として特に重要なのは、ペルシャの預言者ゾロアスターの父としての過去世である。その時の名をゼンドといった(三六四-七)。また、イエスとなった魂が最初に受肉したのはアトランティス時代のことで、その時の名はアミリウスである。リーディングによると、アミリウスとしての受肉はアダムとしての受肉以前のことである。しかし現代的な意味での肉体を最初にまとったのはアダムである。あるリーディングは、イエスが全部で三〇回の受肉を経験したと述べている。ちなみに、ヨブ記はイエスがメルキゼデクとして受肉している時に書いたものであると述べている(二六二-五五)”

 

(リチャード・ヘンリー・ドラモント「エドガー・ケイシーのキリストの秘密」(たま出版)より)

 

 

 “主なるキリストは、ご自分が教えを述べた土地では決して受け入れられませんでした。主は、パレスチナ・エジプト・インド・ペルシャ・中国・日本……少なくとも以上のすべての土地で教えを垂れました。”(エドガー・ケイシー『キリストの再臨』より)

 

(ヒュー・リン・ケイシー「E・ケイシー ライブラリー 精神革命ガイドブック」(たま出版))

 

 “ギリシャ人であれ、パルティア人、ユダヤ人、非ユダヤ人であれ、イスラム教徒であれ、儒教徒であれ、さらには日本の神道やオン(オン)やムー(MU)の信者であれ、主は、神は、一つである!(1494-1)”
 

*エドガー・ケイシー本人が、『キリストご自身が過去に教えを述べられた地の一つ』として『日本』を挙げており、またリーディングには『日本の神道』とはっきりと述べているものもあり、これらのことからイエス・キリストに日本での過去世があったのは明らかです。ちなみに、出口王仁三郎聖師は、素盞嗚尊は神代の日本に実在した人物で、人々を教え導くと共に皆の罪を贖う救世主でもあり、岡山県の熊山戒壇はその素盞嗚尊の御尊骸を葬った御神陵である、ということを述べておられます。現在も出雲地方ではスサノオが人々に衣食住の生業(なりわい)を教えたと伝承されていますし、陶器を焼くことを教えてくれたのもスサノオです。また、「スサノオ贖罪神説」については、神道学者の西田長男先生や国学者の折口信夫先生も同様の事を述べておられます。さらに、アマテラスへの反逆行為によって高天原を追放されたスサノオは、神に叛いてエデンを追放されたアダムと同じパターンの繰り返しであり、私は、高天原から地上に降りて来て救世の神業をされたと伝えられる素盞嗚尊こそが、イエス・キリストの日本での過去世であったと思っています。そして主なる神であるイエス・キリストが、結局は被造物にすぎないエンゼルとは、その神格において遙かにかけ離れた、全く異なる存在であると同様、素盞嗚尊もまた、神道における主神であって、本来の神格は単なるエンゼルである八百万の神々と同じではありません。また根源神である天之御中主大神は、「幽の幽」神で「名」と「形」を超越した存在であり、「顕」の世界に生き、肉体意識に閉じ込められている我々には不可知の存在であって、崇拝の対象とすることは不可能です(出口聖師は『天之御中主大神については、一通りの概念を得れればそれでよしとする』と言われています)。出口王仁三郎聖師の説かれる神素盞嗚大神は、天之御中主大神=大国常立大神が救世の御業を為されるためにこの世界に顕現されたお姿であり、『見える神』であって、彼こそが三千世界の救世神です。

 

 

 “最上天界即ち高天原には、宇宙の造物主なる大国常立大神(おほくにとこたちのおほかみ)が天地万有一切の総統権を具足して神臨し給ふのであります。そして大国常立大神の一(また)の御名を天之御中主大神(あめのみなかぬしのおほかみ)と称へ奉り、無限絶対の神格を持し、霊力体の大原霊と現はれ給ふのであります。この大神の御神徳の完全に発揮されたのを天照皇大御神(あまてらすすめおほみかみ)と称へ奉るのであります。そして霊の元祖たる高皇産霊大神(たかみむすびのおほかみ)は、一名(またのみな)神伊邪那岐大神(かむいざなぎのおほかみ)又の名は日の大神と称へ奉り、体の元祖神皇産霊大神(かむみむすびのおほかみ)は一名神伊邪那美大神(かむいざなみのおほかみ)又の名は月の大神と称へ奉るのは、此物語にて屡(しばしば)述べられてある通りであります。又高皇産霊大神は霊系にして厳(いづ)の御霊(みたま)国常立大神(くにとこたちのおほかみ)と現はれ給ひ、体系の祖神なる神皇産霊大神は、瑞(みづ)の御魂(みたま)豊雲野大神(とよくもぬのおほかみ)又の名は豊国主大神(とよくにぬしのおほかみ)と現はれ給うたのであります。この厳の御魂は再び天照大神(あまてらすおほかみ)と顕現し給ひて天界の主宰神とならせ給ひました。因(ちなみ)に天照皇大御神様と天照大神様とは、その位置に於て神格に於て所主の御神業に於て大変な差等のある事を考へねばなりませぬ。又瑞の御魂は、神素盞嗚大神(かむすさのをのおほかみ)と顕はれ給ひ、大海原の国を統御遊ばす神代からの御神誓である事は神典古事記、日本書紀等に由つて明白なる事実であります。然るに神界にては一切を挙げて一神の御管掌に帰し給ひ宇宙の祖神大六合常立大神(おほくにとこたちのおほかみ)に絶対的神権を御集めになつたのであります。故に大六合常立大神は独一真神にして宇宙一切を主管し給ひ厳の御魂の大神と顕現し給ひました。扨(さ)て厳の御魂に属する一切の物は悉皆(しっかい)瑞の御魂に属せしめ給うたのでありますから、瑞の御魂は即ち厳の御魂同体神と云ふ事になるのであります。故に厳の御魂を太元神と称へ奉り、瑞の御魂を救世神又は救神と称へ又は主(す)の神と単称するのであります。故に此物語に於て主(す)の神とあるは、神素盞嗚大神様の事であります。主の神は宇宙一切の事物を済度すべく天地間を昇降遊ばして其(その)御魂を分け、或は釈迦と現はれ、或は基督となり、マホメツトと化り、其他種々雑多に神身を変じ給ひて天地神人の救済に尽させ給ふ仁慈無限の大神であります。而して前に述べた通り宇宙一切の大権は厳の御魂の大神即ち太元神に属し、この太元神に属せる一切は瑞の御魂に悉皆属されたる以上は神を三分して考へることは出来ませぬ。約(つま)り心に三を念じて口に一をいふことはならないのであります。故に神素盞嗚大神は救世神とも云ひ、仁愛大神(みろくのおほかみ)とも申上げ、撞(つき)の大神とも申し上げるのであります。この霊界物語には産土山(うぶすなやま)の高原伊祖(いそ)の神館(かむやかた)に於て神素盞嗚尊が三五教(あなないきょう)を開き給ひ数多の宣伝使を四方に派遣し給ふ御神業は、決して現界ばかりの物語ではありませぬ。霊界即ち天国や精霊界(中有界)や根底の国まで救ひの道を布衍し給うた事実であります。ウラル教やバラモン教、或はウラナイ教なぞの物語は、大抵顕界に関した事実が述べてあるのです。故に三五教は内分的の教を主とし其他の教は外分的の教を以て地上を開いたのであります。故に顕幽神三界を超越した物語と云ふのは右の理由から出た言葉であります。主の神たる神素盞嗚大神は愛善の徳を以て天界地上を統一し給ひ、又天界地上を一個人として即ち単元として之を統御したまふのであります。”

 

 “太元神を主神と云つたり、救世神瑞の御魂の大神を主神と云つたりしてあるのは前に述べた通り太元神の一切の所属と神格そのものは一体なるが故であります。読者幸に諒せられむことを。” 

 

(「霊界物語 第四十七巻 舎身活躍 戌の巻」 『総説』より)

 

(神素盞嗚大神)

 

・バハイ教の聖典「キタベ・イガン(確信の書)」

 「『最初の太陽』と『最後の太陽』は同一であり、それは『総ての太陽』である」

 

 “ここで、しばらくマホメットの宗教制における同胞達の振る舞いについて考えてみよう。マホメットの蘇生の息吹により、彼らがいかにして世俗の虚栄の汚れから清められ、利己的欲望から解放され、また彼以外の総てのものから超脱させられたかをよく考えてみよ。いかにして彼らが、地上の総ての人々に抜きんでてマホメットの聖なる御前……それは神ご自身の御前である……に到達し、この世と、そこにある総てのものを投げ捨てて、栄光に満ち給う御方を顕示する者の足下に、自ら進んで、喜びを持ってその生命を犠牲にしたかを見てみよ。さて、バヤンの点(注:「バヤンの点」とはバハオラの師であった預言者バーブを意味する、1850年に〝異端者″としてタブリーズで処刑された)の同胞達が示したところに、これと全く同一の決断、節操、克己心の「再来」を見ることができよう。如何に、これらの同胞達が、主中の主に在す神の恩寵の不可思議な力により、到達しがたい栄光の最高峰に、崇高な克己自制の旗を掲げたかは、汝がその眼で見ているとおりである。これらの数々の光明は、只一つの源から発したものであり、またこれらの多くの果実は皆、一本の木に実ったものである。汝は、それぞれの間に、少しの相違も差別も認めることはできない。これは皆神の恩寵によるのである。神は自ら望み給うものに、その恩寵を授け給う。神もし許し給わば我々は、否認の地を避けて、容認の大洋に乗り出して行こう。そうすれば、総ての相反する要素から清められた眼をもって、統合性と多様性、変動性と単一性、有限性と超越、の種々の世を認めることができよう。そして神の御言葉の奥深い意味の最上にして、内奥なる聖所に向かって我々は羽ばたくことができよう。

 従って、これらの説明から次のことが明白になってきた。即ち「始めのない始め」に、一人の人物(顕示者)が宣布し信奉した大業を、「終わりの知れない終わり」に、他の人物(顕示者)が宣布し信奉しようと出現して起ちあがったとしたら、最初のものも最後のものも、両者は同一の大業の唱道者であるため、彼らは全く同一であると真に言明することができるのである。このような理由で、バヤンの点(預言者バーブ)は、神の顕示者たちを太陽にたとえられた。その太陽は「始めのない始め」から「終わりの知れない終わり」まで昇るのであるが、尚それは全く同一の太陽である。さてそこで、もし汝が、この太陽はあの太陽の「再来」であると言ったとしても、汝は真実を語っているのである。同様に、この説明から、「最初のもの」も「最後のもの」も、双方とも同一の教えを宣布するために起ちあがったのであるから、「最後」という語は、「最初のもの」に適用することができるし、「最初」という語もまた「最後のもの」に適用できることは明白となる。

 知識と確信の美酒を飲み干した人たちの眼から見れば、この論旨は全く明白なのであるが、「預言者たちの打ち止め(マホメットの称号の一つ)」という語の意味を理解し得なかったがためにこの語が自らの理解力を曇らせることを許してしまい、神の多様な恵沢の恩寵を自ら遠ざけた人が何と多くいることであろう。マホメットは自ら、「我は総ての預言者達である」と言われたではないか。我が既に述べたように、マホメットは、「我はアダム、ノア、モーゼ、そしてイエスである」と宣言されたではないか。「我は最初のアダムである」と言われた不滅の美であるマホメットは、何故また「我は最後のアダムである」とお述べになることはできぬと言えようか。同じく、彼は自らを「最初の預言者」つまり、アダムと見なされたが、同様に「預言者達の打ち止め」という語もあの聖なる美(マホメット)に正しく適用できるのである。マホメットが「最初の預言者」であれば同様に彼は、「預言者の打ち止め」でもあることは、疑いもなく明白である。”

 

(バハオラ「ケタベ・イガン 確信の書」バハイ出版局より)

 

*19世紀のイランに出現したバハイ教は、単にイスラム教の枠内にとどまらず万教同根を主張し、全人類にとっての普遍的真理を説いたためにひどい迫害を受けましたが、かえって欧米諸国に多くの信徒を獲得することとなり、ロシアの文豪トルストイもその教えに傾倒していたことが知られています。そして、戦前の皇道大本とバハイ教は提携関係にありました。大本がエスペラント語に力を入れていたのはバハイ教の影響です。

 

*万教は同根であるといっても、その信仰の対象は、神が人として受肉された「化身(アヴァターラ)とあくまでも人間である「主神の神格に充たされたる預言者」とでは異なりますし、同じようにそれぞれの宗教の教義もまた異なっています。しかし、そもそも宗教の第一の目的は、各人の霊魂の救済であって、客観的な霊的事実を明らかにするのは二の次であり、よって各宗教の高位聖職者達がどのように判断したかによって、それぞれの宗教の崇拝対象や教義が違ってくるのは当然です。人々の霊魂を救済する力を持っている限り、その宗教はその信者にとっては正しいのであって、皇道大本の教義は皇道大本の信者にとって正しく、キリスト教の教義はキリスト教の信者にとって正しく、仏教は仏教の信者、イスラムはイスラムの信者にとって正しい、ということで良いのです。そして、ある宗教の教義を他の宗教に持ち込むのは単に混乱を引き起こすだけでしかなく、スウェーデンボルグは『他の宗教の教義を個人的に学ぶのは良いが、それを自分の属する宗教に持ち込んではならない』と言っています。ただし、一方でスウェーデンボルグやスワミ・ヴィヴェーカナンダは、各宗教の進化についても語っておりますので、これから先、各宗教は次第にその教義や形態を変化させていくであろうことが予想されます。

 

*あと、出口聖師によれば日本神道に欠けているのは「主神への信仰」であり、この「一神教的な主神信仰の確立」が、これからの日本人にとっての霊的な課題となるのではないかと思います。また、崇拝の対象となるのは「主神」および「主神の精霊に充たされたる預言者」のみです。八百万の神々は、キリスト教のエンゼルに相当します。

 

・「主神信仰の重要性」 出口王仁三郎聖師

 “信者はな、自分のご先祖さんを一生懸命拝むけれども、本当の誠の、天地の神様のことはも一つ分らんのや。本当は天地を創造された、誠の神様をこれからしっかり信仰するようにせんといかん。そやさかいに祖霊舎はつくらん。”

 “アメリカやヨーロッパはまだキリスト教の影響もあってなあ、主神信仰というものはどっかに残っとるわいな。しかし日本には主神に対する信仰がないさかい。今後どないなるかなあ。手がつけられんようになってしまうなあ。困ったことやけど。どないもしょうがないわ。”


          (出口栄二「王仁三郎精神に生きる」(愛善世界社)より)

 


 “祈りは天帝にのみすべきものである。他の神様には礼拝するのである。私はそのつもりでたくさんの神様に礼拝するのである。そはあたかも人に挨拶するのと同様の意味においてである。誠の神様はただ一柱しかおはさぬ。他はみなエンゼルである。”

 

(出口王仁三郎述・加藤明子編「如是我聞 水鏡」より)
 

・一神教と多神教 〔ルドルフ・シュタイナー〕

 

 “多神教の方が、実は神界の現実に則しており、その意味で正しいのである。一神教は永遠の真理なのではない。世界の根底の統一性を開示する存在が自我の力を人間に与えるとき、一神教という思想が生まれるのである。その意味で、一神教は非常に重要なものなのであるが、これからは一神教によって強められた思考を保ちながら、数多くの神々に向かい合う時代に来ている。たんに多神教的に神々に向かい合うだけでは、太古の意識状態に先祖帰りするだけで終わってしまい、今までの進化は無駄になってしまう。一神教的な思考力をいささかも失うことなく、神々に向かい合う必要があるのである。

(松澤正博・西川隆範共著「いま、シュタイナーの「民族論」をどう読むか」(イザラ書房))

 

・「新しい教会で崇拝対象となる神」 スウェーデンボルグ

 

 “天使たちが感知している神は、「かたちのない神」と呼ばれているような〈見えざる神〉ではなく、人間の姿をとった〈見える神〉です。”

 

(インマヌエル・スウェーデンボルグ「天界と地獄」アルカナ出版より)

 

 “人々は救い主イエス・キリストなる神を信じなければならない、即ち、彼に対する信仰を持たなければならないのは、これは見えない神がその中に在すところの神に対する信仰であるからである。何故なら、人でありまた神である見える神に対する信仰は人の受け入れ得るものであるからである。

 純粋に霊的なものは実際人間に入りはするが受け入れられない。単に自然的な信仰または霊的本質を欠いた信仰は信仰ではなく単なる確信あるいは知識に過ぎない。確信は外的には信仰のように見えるけれども、内的には霊性を欠いているゆえ、その内には救うものは少しも存在しない。これが主の人間性の神性を否定する凡ての者の信仰である。見えない神に対する信仰は盲目である。それは人間の心はその神を見ないからである。このような信仰の光は霊的自然的なものでない為、偽りの光である。この光によって見られる物は凡て錯覚に過ぎず、外面的なものが真実なものとして誤認されるのである。

 しかし、救い主に在す主なる神に対する信仰はこれと異なっている。彼は神と人であるゆえ、思考によってこれに近づき、これを見ることが出来るのである。かかる信仰は不確定なものではなく、一定の対象をもち、一度受け入れられた時、止まるのは、人はその一度眺めた皇帝あるいは王の姿を思い浮かべることが出来るさまに似ている。“

 

 “救い主に在す主なる神に近づかなくてはならない。人間は外の道より超ゆるべきでないということは、父なる神に近づくべきでないことを意味する。それは彼は目に見えず、近づき得ず、また彼との結合も在り得ないからである。それゆえ彼御自ら、単に人間が救われんがために、世に来たり、自らを目に見える者となし、これに近づき得る者となし、これと交わることのできる者と為し給うたのである。”

 

 “前の教会は主として創造者なる神に対する信仰であり、贖罪者と救い主に対する信仰ではない。しかし新しい教会の信仰は創造者であり、贖罪者であり、救い主である一人の神に対する信仰である。”

 

(イマヌエル・スエデンボルグ「真の基督教」静思社)

 

 

*尚、スウェーデンボルグは、『主の再臨は新しい聖典が印刷され、出版されることによって成就される』と興味深いことを語っています。ならば、「霊界物語」の拝読もまた、スサノオをこの現界に再臨させるための御神業であると言ってよいかもしれません。

 

・「啓示された新教会の教義が印刷され、出版されることによって、主の再臨が成立する。」

 

(真のキリスト教768より)

 「この主の到来とは、〈主が新天地の創造をまえにして、見える天と人類が住む地を、滅ぼす為に来られる〉というような意味ではありません。」

 

(真のキリスト教779より)

 「この再臨は、主が個人的に、御自身を啓示された人を通して、行われる。主はかれを、おんみずからの霊で満たされるが、それは主御自身に由来する〈みことば〉をとおして、新教会の教義を教えられるためである。」

 「ということは、その教会の教義を理性でもって受けとめるだけでなく、その教義を印刷出版できる人をとおして、それを実行なさったわけです。主は、ご自分のしもべであるわたしの眼前に、ご自分を示し、わたしをこの職務につかせられました。そのあと、わたしの霊の眼をひらかれ、わたしを霊界に連れていかれました。そして、天界や地獄を見せて下さり、それでわたしは、天使たちや霊たちと話すことができました。それがもう何年も続いていることを、真理として証言します。しかも、その招命の日以来、その教会の教義に関しては、どんなことでも、天使からではなく、主おひとりから、わたしが〈みことば〉を読んでいる時、教えられました。」

 

(天界の秘儀9807:4より)

 「主の到来とは、教会の末期になって、神の真理が啓示されることをいいます。」

 

(黙示録解36より)

 「『代の終わり』とは、……教会の最後のことです。そのときの主の再臨とは、主ご自身の啓示のことであり、これは〈みことば〉の内的意味をとおして行われます。主は〈みことば〉以外のところで、ご自身を啓示なさいません。そして内的意味を通してなさる以外の方法は、おとりになりません。」

 

 

・「著作の中で、再臨の主は、その神人性において現存される。それは神の真理であり、教義そのものである

 

(新教会への招き44より)

 「主はわたしをとおして、〈みことば〉の霊的意味を開かれました。これは〈みことば〉がイスラエルの子らの中で記されたとき以来、初めて啓示されたものです。そしてこの霊的意味は、〈みことば〉の至聖所です。主ご自身が、その神性をともなって、この霊的意味の中に臨在しておられ、またその人間性をともなって、自然的意味の中に臨在しておられます。」

 

(黙示録解724:1より)

 「『彼女は男の子を生んだ』。いわゆる新エルサレムである新教会のため、与えられた真理の教義のことです。……『男の子』は教会の教義を意味します。なぜなら〈みことば〉で『息子』というと真理を意味するからです。そして教会の教義は、その全体像の中での真理なのです。」

  

  (「著作の自己証言 スエデンボルクの神学的著作からの抜粋引用集」アルカナ出版より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人気ブログランキング
人気ブログランキング