普遍宗教 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 

 “よく世間では「宗祖にかえれ」と叫ばれるが、「主神にかえれ」と叫んだ方が誤解される恐れがなくてよい。何故ならば、各宗団の信徒が宗祖の意志を誤解して、偏狭固陋な牢獄的信仰の束縛から解かれないうちは、世界の夜は明けないであろう。大本教団としては開祖、聖師を二代教祖と仰ぎ、その神示を教典とし、生命としていることは申すまでもないが、「愛善の道」には、

 

  古今東西聖者の説をとりまとめ活かすはみろくのはたらきなりけり

  いそのかみ古きを捨てずあたらしきみのりも捨てずわれ世を開くも

  広き世にひろき教えをひらきつつ狭き教えをただす伊都能売(いづのめ)

  もろもろの死神死仏に生命をあたえて活かす伊都能売の神

 

と示されているように、主神のみ心を地上に実現しようとするのが大本教団の大目的である。

 ここに一つの実例があるので参考に供したい。かつて東京において浅野和三郎氏が心霊科学協会なるものを知名の士を集めて創立したときに、出口聖師は一部の信者の誤解を解くために、次のように「神の國」誌に書かれたことがある。

 

 「大本の教は決して宗派ではありませぬ。又既成宗教のごとく教祖の示現のみを以って唯一の宗旨とするのでもありませぬ。教理や経典や儀式や信条と種々の鉄条網を張りまわして人間の生きた霊を拘束したり殺したりするような所でもありません。それ故に、大本にはキリスト教も仏教もその他各国の宗教信者も集まってきて、互いにその霊性を研き、時代に順応したる教義を研究する所であります。信者の争奪に余念なきソコイラの宗教とは大いにおもむきが違っております。如何なる宗教の教義も思想や主義も抱擁帰一して世界人類相互の向上発展のために活動している聖団であります。云々」”

 

       (「神の國」昭和29年1月号 桜井重雄『真の自由と平安と幸福』より)

 

 

 

・スワミ・ヴィヴェーカナンダのシカゴ宗教会議(1883年)での講演から

  “ヒンドゥ教徒にとって、宗教の全世界は要するに、さまざまの男女がさまざまの条件と環境を通じて同一の目標に向かってやって来つつあるところなのです。各々の宗教は、物質的な人間から神を引き出しつつあるものにすぎず、しかも同一の神が、すべての宗教の背後で霊感を与えておられるのです。ではなぜ、そこにこれほど多くの矛盾があるのでしょうか?それらはそう見えるだけだ、とヒンドゥは言います。矛盾は、異なる性質のさまざまの環境に自らを適応させつつある、同一の真理から来るのです。
 それは、さまざまの色のガラスを通ってくる、同一の光です。そしてこのようなささやかな変化は、適合のために必要なのです。しかし一切物の中心には、同一の真理が君臨しています。主は、クリシュナとして化身しておられたときに、ヒンドゥに向かって断言なさいました。「真珠の首飾りを通る糸のように、私はあらゆる宗教の中にいる。何であれ、並々ならぬ聖らかさと並々ならぬ力とが人類を高め浄めているのを見たら、私がそこにいるものと知れ」と。そしてその結果はどうでしょう。私は全世界の皆さんにお願いします。サンスクリット哲学の全体系を通じて、ヒンドゥ(教徒)だけが救われて他は救われない、などという表現がそこに見出せるものかどうか、確かめて下さい。ヴィヤーサ(ヴェーダの編集者)は、「われわれは完成された人々を、われわれのカーストや信条の外にも見出す」と言っています。もう一つ、ではどうして、その思想の全組織が神を中心としているヒンドゥ教徒が、不可知論的な仏教を、また無神論的なジャイナ教とを信じることができるのでしょうか?
 仏教徒やジャイナ教徒は神に依存しません。しかし彼らの宗教の全精力は、人の内なる神を開発するという、あらゆる宗教の偉大な中心真理に向けられています。彼らは”父”を見ていないけれど、”息子”を見たのです。そして”子”を見たる者は”父”をも見たのであります。
 これが、兄弟達よ、ヒンドゥたちの宗教思想の簡単な描写です。彼らはそのプランの全部を実現させることはできなかったかもしれません。しかし、もしここに普遍宗教というものがあるとしたら、それは特定の時間と空間には限定されないものでなければならず、それが説く神のように無限であり、その太陽はクリシュナとキリストの信者たちの上に、聖者たちと罪びとたちの上に、同じように輝くでありましょう。それはバラモン教的でも仏教的でも、キリスト教的でも回教的でもなく、これらすべての総計であって尚その上に発展のための無限の余地を持っているでしょう。その普遍性のゆえに、獣と大して異ならぬ最低の野蛮人から、その頭脳とハートの徳によって人間のレベルをほとんど超越し、社会をして畏敬の念を起こさせ、人間としての性質を疑わしめるほどの最高の人に到るまでを、その無限の腕に抱擁し、それらの各々に場所を与えるものでありましょう。それは、その政策の中に迫害や不寛容のための余地を全く持たず、一人一人の男女の内に神性を認め、その全意図、その全力を人類が自らの神性を自覚するのを助けることに向けている宗教でありましょう。”

      (「わが師 スワミ・ヴィヴェーカナンダ講演集」日本ヴェーダーンタ協会より)