親英体道 (親和力(ムスビの力)の武道) | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・親和力(ムスビ)の武道・・・井上鑑昭(のりあき)の親英体道

 

 “「生まれながらにして赤子は柔軟性をもっているでしょう。その実体に帰らなければいけないのです。それが人間の本来のあり方なのです。」(合気ニュース74号)

 

 親英体道(親和体道)は一般にはほとんど公開されることもなく、神秘の武道という声も聞かれる。道主の井上鑑昭は松涛流(空手)の江上茂の師事した人物でもあり、「橋の上から川に飛び降りて、水面からそのままジャンプして橋の上に戻ってきた」とか、「紫の光につつまれて武道の奥義を悟った」、また「道場では弟子たちの間を歩くだけで人がバタバタ倒れる」など、いくつもの不思議が伝えられている。

 鑑昭(本名は与一郎)は、明治35(1902)年に植芝盛平の甥として和歌山に生まれる。家は貿易業を営み、大変に裕福な家庭であった。また幼い頃から武道を嗜(たしな)んでおり、十歳のときに高木喜代市(講道館)を田辺に迎えて柔道を学んだこともある。しかし13歳になって、

 「強いということはいかなることであるのか。また弱いということはどこから来ているのか。そもそも人間には強い、弱いということはあるのか」

 といった疑問を抱くようになる。そして、この疑問は六年後に大本教の出口王仁三郎との邂逅によって解決されたのであった。鑑昭は王仁三郎によって武道のあり方の根本に「親和力」というものを置けばよいことを悟るのである。

 親和力とは宇宙に実在する力であり、宇宙はこうした力の働きにより生成を繰り返している。人は親和力の在り方から生まれてくる力の徳、つまり力徳から得られる胆力を養成しなければならない」これが親英体道の創始につながる理念であった。

 親英体道は、宇宙の親和力の在り方を研究する親和学を基にして構築されたものであり、従来の武道とは完全に一線を画するものであるという。植芝盛平は一時期、大東流をかなり熱心に修行していたが、井上鑑昭は、

 「坊、一緒に稽古せえ」

 という武田惣角の勧めにも関わらず、

 「わしは、お前の稽古は嫌いやからいやや。お前の稽古をしたって役に立たない」

 と公言していた。しかし惣角はそうした井上少年を決して怒ることはしなかったという。鑑昭が大東流の稽古に否定的であったのは、最初に北海道で惣角の教える様子を見たときに、

 「ああこれは違うな、流れが全然違う」

 と強く感じたことがあったためであるらしい。これについては、後年、インタビューに答えて、

 「全然動きが違うのです。これは何ヵ条、これは何ヵ条って教えるでしょう。僕に言わせたら何ヵ条も何もない。流れの実在は一貫しておるのです。その一つの流れの実在において、色々なものが生成化育しておるのです。だから僕としては嫌なもんは嫌だと言ったわけです」(「合気ニュース」74号)

 と述べている。

 しかし親英体道の中に大東流の影をまったく見出すことが出来ないわけではない。柔術技法の幾つかは大東流との関連性が伺われるし、太刀を二本使う二刀の操方は大東流に特徴的なものである。ただし、これは大東流から直接来ているのではなく、植芝盛平との稽古の中で間接的に伝わったと理解するのが正鴰を得ていよう。合気道は大東流の技法を「気の流れの結び(合気=親和力)という視点から、かなり整理・改変しているが、それをより推し進めたのが親英体道である。”

 

       (「別冊歴史読本 『秘伝』のすべて」新人物往来社より)