宣教について | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  


 

・神教宣伝の大精神

 

 “お前たちは信者をつくるとか、教えをひろめるとか云っているが、それが間違っているのだ。世界の人民は元々神様の氏子であって、忘れてゐる人に知らせに行くのであるから、信者をつくるなど云はないように。(明治末期)”

 

   (木庭次守編「新月のかけ」より)

 

 

・熊野権現(家津御子(ケツミコ)大神=スサノオ)の神勅

 「信、不信をえらばず、浄、不浄をきらはず」

 

 一遍上人(時宗の宗祖、平安時代末期~鎌倉時代)は、“南無阿弥陀仏”の六字の名号を刷った札を人々にわかち与えながら旅を続けていましたが、紀州の熊野権現へ参る途中、ある僧侶から、「疑っているわけではないが、まだ信心の心が起こっていないのに、起こったとしてその札を受け取ることはできない」と言われ、その念仏札を突き返されてしまいます。狼狽した上人は、「信心が起こっていなくても、とにかく受け取ってください」と、無理やりその僧にお札を受け取らせるのですが、この出来事によって、果たして自分の行っていることは、間違っていたのではないかと悩むようになり、答えを求めて熊野権現(仏教においては阿弥陀如来と同体とされています)の本宮に参籠し、神勅を請います。上人の夢に現れた神のお告げはこうでした。「融通念仏すゝむる聖、いかに念仏をばあしくすゝめらるゝぞ。御房のすゝめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあらず。阿弥陀仏の十劫正覚に一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と必定するところ也。信、不信をえらばず、浄、不浄をきらはず、その札をくばるべし。(あなたの考えは間違っている。あなたの勧めによって、すべての人が極楽浄土に往生できるのではない。すべての人が往生できるのは、すでに十劫という遠い昔に、阿弥陀仏が法蔵菩薩といっていたとき正しい悟りを得て、南無阿弥陀仏と唱えることによって、極楽往生できると決定しているのだ。従って、信心があろうとなかろうと、心が清らかであろうとなかろうと、誰かれの区別なく、念仏札を配って結縁せよ。)」

 

参考:栗田勇著「一遍上人」(新潮文庫)、河合隼雄著「明恵 夢を生きる」(講談社+α文庫)

 

 

・G・I・グルジェフ 「あらゆる人に・・・」(アメリカでのムーブメンツの公演の後で)

 “公演後、私はグルジェフに言いました。「観客席を見渡しましたら、半分は関心がなさそうで、眠っているようでした。なぜこういう人たちに見せるのですか?関心のある少数の人だけに見せた方がよいのではありませんか?」するとやや怒りさえ混じえて彼はこう答えたのです。「そんなことを判断できるのか?今日眠っているように見える人たちの内面に、ニ十年後に何かが目醒めるかもしれない。今あんなにも熱心な様子の連中が、十日のうちに忘れるかもしれない。あらゆる人に聞かせなければならない。結果は、時が来ればわかる。”

 

    (トーマス・ド・ハートマン/オルガ・ド・ハートマン「グルジェフと共に」めるくまーる社より)