日本の将来 (五六七(みろく)の神代が実現する) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 

 “聖師はむずかしい問題を質問すると、或る程度までは、まったく懇切丁寧に教えられたが、質問者の程度を超しはじめると、「これからあとをきくと嘘を言うぞ。本当の事は皆、霊界物語に書いてあるから、物語を読むように」と教えられた。あまりにも偉大な聖師に、その弟子たちは真剣に霊界物語に学ぶことなく、直接におたずねしつづけていた。そのために、昭和十年十二月八日の第二次大本事件を迎えて、多くの人たちが当局の追及にトチ面棒をふったのである。

 このことは、直接、弟子が師匠に学ぶことであって、あながち悪い事ではないが、刊行された文献を真に研鑽しなかったことは申し訳なく、また残念なことであった。”

 

 “……六十五巻の七福神の章は、日本に完全な五六七(みろく)の神代が実現することを意味している。玉国別一行があっちこっちあるき回るようにある文字を、日本の向上の歴史と見ることによって、ますます明確となるのである。玉国別とは道義的世界統一の意味である。

 玉国別が河鹿峠の祠の森で、猿の大群に囲まれるところは大東亜戦の突発を意味し、イタ公すなわち軍人の暴走によって衝突の開始となり、白毛の大猿によって、玉国別が両眼をかきむしられて倒れるところは日本の無条件降伏を意味し、ライオンにまたがった杢助(もくすけ)は、五六七(みろく)大神が世界の大指導者に神がかりしてその発言、宣言によって、終戦となったことを意味している。ここにおいて治国別(はるくにわけ)の言霊によってバラモン軍が逃げ散り、玉国別がバラモン軍によって包囲された時に再び、獅子にまたがる時置師神(ときおかしのかみ)によってバラモン軍が逃げさり、玉国別一行が救われたとあるのは、太平洋戦争によって日本が滅亡すべき処を天祐によって救われた意味である。

 昭和十七年八月七日、出口聖師が保釈で出所されて、寸言をもって世の中について予言されたが、物語については素直に拝読するようにと教えられていたが、御昇天近きを予想されたためであろう、序々に読み方を教えられた。聖師さまの御教示に従って拝読していると、そのお言葉の通りに大本、日本、世界の動きが実現していった。

 祠の森における神示による神殿の造営はそのまま、世界の平和につながった。聖師はかねて五六七殿は祠の森の神殿であると教えられていた。物語に示された通りに、二代教主の命によって二回目の五六七殿が節分に完成すると、日本が本当によみがえった。「不景気は何時直るかと問ふ人に吾艮(うしとら)の春とこたえし」と聖師がよまれた通り、日本は二十五年から景気を取り戻し、二十七年節分の五六七殿の完成から、本格的に正常に動き始めた。

 テルモン山における三千彦と玉国別の活動は、小国日本の世界相手の戦いにおける国内の惨状が、三千彦すなわち大本神の経綸と大本の教による国内の平和回復のありさまが書かれている。

 テルモン山を降り、テルモン湖を渡って和泉の国のスマの里に行く湖上の道は、終戦から、囚人解放、海外の引揚(復員)、農地解放。天王の森の神殿造営は、日本が本来の姿をあらわす意味である。まったく聖師の示された通りに日本は更生して行った。タクシャカ竜王、サーガラ竜王の帰順は陸上と海上の主権の復帰、大きくは主神への主権の奉還を意味している。

 その後に、スーラヤ山のウバナンダ竜王の話は日本が神代につくられた惟神(かむながら)の国体を表現する順序が述べられている。

 虎熊山における悲劇は、日本の各地にわずかながら残っている。噴火山上の岩窟における状況は戦争の遺産としてウヅいている。

 仙聖郷が、三千彦によって救われる姿は、三千年の神界の経綸によって、今後の日本民族の活動と大本宣教によって、世界が神代のままの聖域にかえって行くことを示してある。

 玉国別が、初稚姫(はつわかひめ)の祈りによって、マナスイン竜王の難を逃れるところは、偉大なる大本開祖の祈りによって神権発動される世界の大峠における日本の運命を示してある。

 初稚姫の神がかりによる神命のまにまに道をかえて一人旅した宣伝使たちが、某年の〇月〇日に神定の聖地に集まり、神徳を讃美する。玉照彦と玉照姫のご結婚の祝宴は、日本人が神の子・神の宮の本来の姿にかえり、神格にみたされて、日本国のまのあたりに五六七の神代を樹立完成する意味である。〇〇〇〇の仕組といわれる玉照姫=国常立尊の厳霊(いづのみたま)と玉照彦=豊雲野尊の瑞霊(みづのみたま)の神業経綸の合致によって、日本を聖地として、世界に七福神すなわち伊都能売(いづのめ)大神のあらゆる美徳が顕現して、世界平和に突入する意味をもっている。”

 

    (「大本教学 第十四号」 木庭次守『予言書として視た霊界物語』より)