水瓶座時代の宗教 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “正確にどの時点から水瓶座時代がスタートするのかは、研究者によって主張が分かれるところだが、21世紀の初頭という部分では大体、一致しているようだ。

 話をわかりやすくするために、以下では2150年を約2000年として説明を進めていくことにしたい。今からおよそ2000年前、つまり紀元前後における春分点は、ちょうど牡羊座から魚座に移り変わらんとするところであった。その時点から現在に至る2000年間は魚座時代と呼ばれ、イエス・キリストがその象徴とされている。

 イエスが魚座時代を象徴するといわれるのはなぜだろうか。イエスの弟子たちは迫害を逃れるために各地を転々としたが、その際、行く先々に魚のシンボルマークを残してあとから追ってくる仲間たちのための目印とした。これは、イエス自身が教えを広めるにあたって自らを漁師になぞらえたことによっている。ギリシャ語でイエス・キリストを表記するとIesous Christos Theou Uios Soter(イエス・キリスト、神の子、救い主の意)となり、この頭文字をつなげると魚を意味する icthys(uとyは共通文字)という語になるという。

 キリストの登場から現在にかけての2000年期は、キリスト教、仏教、イスラム教がそれぞれ大いなる発展をみた、まさに宗教の時代である。この時代を通して、人類はそれまでの原始的な祭祀形態から一歩進んだ、より体系化された宗教形態を持つに至った。宗教を、個人が自らをはるかに超える存在との一体化を目指すプロセスだと考えれば、これは実に魚座的な意味合いを持つものだといえよう。

 ユングはキリストの出現と反キリストの出現が、魚座の象徴である、リボンで結ばれた2匹の魚の間を春分点が通過していく過程に関連することを指摘している。彼によれば、春分点が1匹目の魚(垂直方向に泳いでいる)と2匹目の魚(水平方向に泳いでいる)とを結ぶリボンのちょうど結び目に達した時(紀元前後)にキリストが誕生し、春分点が2匹目の魚に近づくにつれてキリスト教の屋台骨が揺らいでいくという(宗教改革、ルネサンス、オカルティズムの復興)。春分点が2匹目の魚の尾に達した時期に相前後してニュートン、マルクス、ダーウィンらが登場し、人間は宗教以外に科学というものさしを手に入れるのである。

 魚座時代以前の2000年間は牡羊座時代(BC2000年~紀元)である。この時代は牡羊座の守護星・火星に象徴されるとおり、国家間、王朝間における戦闘の歴史に彩られていた。また、ミトラ信仰が発達した時代でもあり、小羊を連れたミトラ神が牡牛と戦う姿が各地に絵として残されている。バビロニアにおいては、12星座の起点がここで牡羊座に定められており、ユングはバビロニアのハムラビ王を牡羊座時代の象徴だとしている。牡羊座時代の終わりに「神の小羊」たるイエス・キリストが出現しているのも興味深いことだ。

 その前の牡牛座時代(BC4000年~BC2000年)は、牡牛が神聖視された歴史を持つ。エジプトではアピス、クレタ島ではミノタウロスがそれぞれ聖なる牡牛として信仰されていた。

 では、きたるべき水瓶座時代を象徴するものとは一体、何なのか。そして、その時代は今後どのような色づけをされていくのだろうか。過去に時代における象徴は、すべてその時々の時代精神が形をとって立ち現れたものである。言いかえれば、人類の集合的無意識が欲するところの神のイメージであった。

 それでは、水瓶座時代における「神」とは何なのだろう。ここで水瓶座の象徴を思い出していただきたい。それは英知の水を抱える少年ガニメデの姿をとる。牡牛、牡羊、魚と、神の象徴が長らく生き物の形で続いたのちに、有史以来初めてそれが人間の姿となって現れるのだ。

 水瓶座のシンボル♒は、水瓶の中の英知の水を現わす以外に、二つの波動が共鳴し合う状態を示している。これは独立した個々人が、ある共通の目的へ向けて協調し合う様子を暗示しているといえる。水瓶座に対応する11室は、願望達成や同志的な連帯感を司る。それは、お互いが自由を認め合いながらも、なお団結することのできる人間関係を示す。

 水瓶座の守護星・天王星は自由と革命を象徴する星である。長い長い道のりを経て、人間はやっと神の支配から逃れ、ここで真の自由を手に入れることができるのではないか。別の言い方をすれば、きたるべき水瓶座時代こそはわれわれ自身が神となる時代なのだ。

 いわば、天の声を聞いてきた2000年間から、天へ向けて声を発する2000年間への大転換期をわれわれは今、まさに迎えつつあるのかもしれない。”

 

(西山華耶(文)/田島薫美(絵)「FOR BEGINNERSシリーズ72 占星術」(現代書館)より)

 

・「本霊(本守護神)」の覚醒

 

 “(出口王仁三郎)聖師のいわれている宗教心とは特別なものではない。

 

 「腹が減ると飯が食べたくなる。それは経験によって人間が修得するものでなく、生まれながらに神から与えられた本能である。この本能はただ肉体的方面に働くのみでなく、精神方面にも働くものである。即ち人間の精神が健全であると、物の正邪善悪は、丁度腹の中から空腹を訴えると同様に、心の中から私語(ささや)く声によって判断する事ができるものである」

 

 この「心の中からささやく声」は精神的本能の声である。これを本霊(本守護神)の声といってもよい。この本霊を良心、超越意識などという言葉で表現されていることもある。

 この精神的本能を目ざめしめ、活力を与えてその力を発揮せしめることが宗教の本来の使命である。ところが、精神的本能……良心がマヒ状態におちいっているのが今の世の中である。そしてこの良心の発動には「個人的良心」ばかりでなく「社会的良心」の発動が大切であって、それなくして「社会正義」が実現されるものでは決してないのである。”

 

(「神の國」昭和29年7月号 櫻井重雄『精神的本能の覚醒』より)

 

 

・ミロクの世になれば宗教はなくなる

 

 “宗教はみろくの世になれば無用のものであって、宗教が世界から全廃される時が来なければ駄目なのである。主義・精神が第一であって、大本であろうと何であろうと、名は少しも必要ではないのである。今までより広い大きい考えで、世を導く精神にならねばならぬ。

 大本は大本の大本でもなく、また世界の大本でもなく、神様の大本、三千世界の大本であることを取り違いしてはならない。”

 

(「神の国」大正13年新年号 出口王仁三郎『宗教不要の理想へ』)

 

*「古事記」には、スサノオが、畦(あ)はなち、溝埋めをし、そして神殿に屎まり散らしたとあります。彼こそは既存の枠組みをぶち壊し、必要とあらば聖なる伝統ですらも容赦なく汚される、まさにユングが幻視した『生ける神』です。

 

・天にまします神の排便  (ユングの幻視体験) 

 「生ける神は教会のくびきに縛られてなどいない」

 

 “ユングは十二歳のとき、決定的な神体験をした。それは次のようであった。ある晴れた日、彼はバーゼルの大聖堂の広場に行き、その光景の見事さに圧倒されて思いにふけるが、そのとき神の偉大さと共に、よこしまな考えが浮かび出ようとし、これは聖霊に対する罪で、絶対に許されることのない最も恐ろしい罪であるので、その考えを懸命に抑え込もうとした。そして「考えちゃいけないんだ!」とかなり興奮して家に帰ったが、この考えが、強迫的に憑きまとって脳裡から離れなくなった。三日目の晩には、その強迫観念に苦しくて耐えられなくなり、彼はいろいろ考え抜いたあげく、地獄の火の中に飛び込むかのような勇気をふるい起して、考えの浮かぶがままに任せた。

 すると自分の眼前に青空を背景とした大聖堂が見え、神は地球の上の遥か高い所で玉座に坐っておられ、その玉座の下から夥しい量の排泄物が大聖堂にしたたり落ちて、その屋根や壁を破壊するのであった。

 この不敬な幻視体験は、ユングを奈落の絶望感におとしめるどころか、彼は名状しがたい救いをおぼえ、心が軽くなるのを感じた。そして神の恩寵を体験し、かつて経験したことのないほどの幸福感を味わい、感謝の涙を流すのであった。このバーゼル大聖堂の幻視体験は、ユングにとって「生涯の決定的な体験」であったという。

 この体験によってユングは、神は聖書と教会を超える存在であり、生ける神は神聖とされてきた伝統さえも拒絶することがある、ということを知った。と同時に神は自身の教会をも汚される方であり、ユングにとって神は恐ろしいものであると感じるようになった。神は一人子イエスを十字架にかける方であり、善人ヨブに苦難を与える神(「ヨブ記」)であり、アブラハムに対して人身御供を命ずる神(「創世記」十二章)であり、大聖堂に排泄物を落とす考えをユングに起こさせるというような、人間を圧倒する恐ろしい神でもある。ユングにとって神は愛と善なる方であると同時に、人間を圧倒し畏敬を起こさせるという二面性を持つ方であった。

 大聖堂における体験以後、ユングは「自分がもはや人間の間にはいず、ただ独りで神と共にいるのだという気持ちをしばしばいだくようになった。ところが父や牧師たちは教会に集まり、そこで図々しくも大声で、神の意志や行為について語るが、そこには生きた神の体験が欠けていた。しかしユングが自身の体験によって知りえた神はまさに生ける神であり、たとえ伝統的キリスト教からアウトサイダーとされても、生ける神の確信は強固で不動となったのである。”

 

(久保田圭俉(桜美林大学教授)『ユングの宗教体験』より)

(「季刊AZ 27号 ユング 現代の神話」新人物往来社に掲載)

 

・「教会」の最終目的  〔ルドルフ・シュタイナー〕

 

 “未来において人間の中で発達することになる自由な宗教性はすべて、「単なる理論ではなく、直接的な人生の実践において、個々の人間の中に実際に神性の似姿が認められる」ということをよりどころとするのです。そうなるともはや宗教が強制されることもなくなります。もはや宗教を強制する必要がなくなるのです。というのも、そのときには、それぞれの人間が他の人間と出会うということがすでに、宗教的な儀式、秘跡となるからです。そのときには誰も、物質界に外面的な機構を持つ特別の教会によって宗教上の生活を支える必要がなくなります。人生全体が超感覚的なものの表現となることによって、教会がもちうるただ一つの意図は――もし教会がそれ自身を正しく理解するならば――「教会それ自体を物質界で不要のものとすること」のみになるのです。”

          (ルドルフ・シュタイナー「天使と人間」イザラ書房より)

 

・真我の体験  〔ラマナ・マハルシとの対話〕

 

 “「あなたは『私は知りたい』と言うが、言ってごらんなさい、その『私』は誰なのですか」

 かれは何を言おうとしているのだろう。かれは今は通訳者の助けを突き切って、英語でじかに私に話しかける。私はいささか狼狽する。

 「ご質問の意味がよく分からないように思います」と、私はぼんやりして答える。

 「質問がはっきりしないと言うのですか。もう一度考えてごらんなさい!」

 私はもう一度その言葉に頭をひねる。一つの考えが突然頭をかすめる。私は自分を指さして自分の名を言う。

 「それで、あなたはかれを知っているのですか」

 「生まれてこの方ずっと!」と私は微笑み返す。

 「しかし、それはあなたの肉体にすぎないでしょう!もう一度ききます、『あなたは誰なのですか』」

 私はこの変わった質問にすぐには答えることができない。

 マハーリシーはつづける――

 「まず第一にその『私』をお知りなさい。そうすれば真理もわかるでしょう」

 私の心にはふたたび霧がかかる。私は途方にくれる。この当惑は言葉で表現される。しかしマハーリシーはかれの英語の限界に達したらしい。かれは通訳者の方を向き、答えはゆっくりと通訳されるのである――

 「たった一つのなすべきことがある。あなたの自己を見つめよ。このことを正しいやり方でするなら、あなたは自分の問題のすべてに対する解答を得るであろう」”(第9章「聖なるかがり火の山」P149)

 

 “「あなたがおっしゃるこの自己とは正確には何なのでしょうか。仰せの通りだとすると、人の内部にもう一つの自分があることになりますが」

 かれの口元は一瞬、微笑にゆがむ。

 「人が二つの自分を持つことなどができますか」と、かれは答える。「この問題を理解するには、人はまず、かれ自身を分析する必要があります。長い間、他者の考える通りに考えるのが習慣であったために、いまだかつてかれは、正しい態度でかれの『私』に直面したことがないのです。かれは自分というものの正しい概念を持っていません。あまりに長い間、自分を肉体であり頭脳であると思ってきました。それだから、この『私は何者であるか』という探求をする必要があるのです」

 「あなたは、この真の自己を説明してくれ、とおっしゃる。何を言うことができますか。それは、それから人の『私』が生じ、それの中にそれが消えて行くはずの、それなのです」

 「消える?どうして人が自分の個人の感覚を失うことができるのですか」

 「あらゆる人の心にまず一番初めに出てくる思い、原初の思いは『私』という思いです。この思いが生まれて初めて、他のあらゆる思いは生まれてくることができるのです。第一人称代名詞『私』が生まれた後に初めて、第二人称代名詞『あなた』は現れるのです。もしあなたが『私』という糸を心でたどりながらついにその源に到るなら、あなたは、それが最初に現れる思いであると同時に最後に消える思いであることを発見するでしょう。これは、経験することのできる問題です」

 「そのような自己の内部への心理的探求を行うことが十分にできるとおっしゃるのですね」

 「そうですとも!最後の思い『私』が徐々に消えて行くまで、内に入って行くことができるのです」

 「何が残るのですか」と私は尋ねる。「人はそのとき全く無意識になるのでしょうか。それとも馬鹿になるのでしょうか」

 「そうではない!反対に、人の真の性質であるところのかれの真の自己に目ざめると、かれは滅びることのないあの意識を得て、ほんとうに賢くなるのです」

 「しかし『私』の感覚も間違いなくそれについて来るはずだと思いますが」

 「『私』の感覚は個人、つまり肉体と頭脳についています」

とマハーリシーは静かに答える。「人がはじめてかれの真の自己を知ると、ある別のものがかれの存在の奥底から生まれてきて彼を占領します。そのあるものは、心の背後にあります。それは無限で、神聖で、不滅です。ある人々はそれを天の王国と呼び、またある人々は魂とかニルヴァーナとか呼び、われわれヒンドゥは解脱と呼んでいます。あなた方は好きな名で呼んだらよいでしょう。このことが起こると、人は本当に自分を失ったのではなく、むしろかれは自己を発見したのです」

 最後の言葉が通訳者の口から出ると、あのガリラヤを放浪した教師が語った忘れがたい言葉が私の心に閃く。実に多くの善良な者どもを当惑させた言葉である。生命を得んと欲する者はそれを失い、生命を失う者はそれを得ん

 何とふしぎにこの二つの文句の似ていることか!しかしこのインドの聖者は、彼自身の非キリスト教的な方法で、極度に難しく、またなじみ難く思われる心理学的な道を通って、この思想に到達したのである。”(第9章「聖なるかがり火の山」P164)

 

 “しかし、どのようにして、量り知れぬ年を経た思考作用の専制から自分を離すのか。私は、マハーリシーが決して思うことを強いて止めようと努力せよ、とすすめたことがないのを思い出す。「思いをその起源までたどって行け、真の自己が自らを現すのを見まもれ。そのとき、あなたの思いはおのずから消えるであろう」というのが、かれが繰り返し与えた助言である。”(第17章「忘れられた真理の一覧表」P317)

 

“ ついにそのことが起こる。思いは、吹き消されたろうそくのように消えてしまう。知性はそれの真の基礎のうちに引っ込んでしまう――つまり意識が、思考に邪魔されないではたらくのである。私は、自分が少し前から感づいていたもの、すなわちマハーリシーが確信をもって断言していたことを、認識する。心は、超越的な源泉から発するのである。頭脳はちょうど熟睡中のように完全に停止状態に変わったが、意識はいささかも失われてはいない。私は完全に落ち着いているし、自分が誰であっていま何が起こりつつあるかということを十分に知っている。しかし、私の自覚は、別の個人、というせまい限定の中から引き出された。それは、荘厳に一切を抱擁するあるものに変わってしまったのである。自我は尚存在する。しかしそれは、変化した、光り輝く自我である。私であったつまらぬ人格より遥かに優れたあるもの、もっと深い、もっと神聖な存在が意識の中に現われて、私になるのだ。それと共に、完全な自由の驚くべき新しい感じがやって来る。なぜなら、思いは常に行きつ戻りつしている織機の杼(ひ)のようなものであって、それの専制的な動きから解放されることは、牢獄から戸外に歩み出るようなものなのであるから。

 私は自分を、この世の意識の外に見出す。今まで私をかくまっていてくれた地球は、姿を消す。私は光り輝く海のまん中にいる。その海は、それからもろもろの世界が創造されるところの原始の材料、物質の最初の状態である。それは口には表現できない無限の空間にひろがっており、信じられないほど生き生きとしている

 私は閃光のように、空間内で演ぜられているこの神秘的な宇宙のドラマの意味に触れ、それから私の存在の根本の点に戻る。私は、新しい私は、神聖な至福の膝に憩う。私は忘れ川の水の盃を飲んだので、昨日の苦い記憶と明日の心配とは完全に消えてしまったのである。私は神の自由と、ほとんど描写の不可能な幸福を得た。私の両腕は深甚な同情をもってすべての被造物を抱く。なぜなら私は、すべてを知るということは、単にすべてを許すと言うだけでなく、すべてを愛するということなのだ、ということを、能う限りの深い形で理解するからである。私のハートは狂喜のうちに改造される。”(第17章「忘れられた真理の一覧表」P318~319)

 

(ポール・ブラントン「秘められたインド」日本ヴェーダーンタ協会より)

 

 

*西山華耶氏は、「われわれ自身が神となる」と書いておられますが、決してエゴが神になるわけではありません。エゴは最終的に消滅すべきものであって、「神」とはウパニシャッドやラマナ・マハルシによって説かれた「真我」のことであり、エゴが神になろうと企てるのであれば、それは悪魔と変わりません。

 

*「水瓶」とは言うまでもなく水を入れる容器であり、ゆえに「人が神になる」と言うよりも、「『神の器=聖杯』となる」と言う方がより適切であろうと思います。戦後、出口王仁三郎聖師は『耀盌』「ミロクの世の御神体である」と言われましたが、来たるべきミロクの世、水瓶座(アクエリアス)時代の宗教のシンボルとして、この『耀盌』よりも相応しいものが果たしてあるでしょうか。

 

 

 

・仏教の聖杯伝説

 

 “キリスト教の教えの中で、特に興味があるのは、グラール、聖杯です。これは十字架に架けられたキリストの血をアリマティアのヨゼフという人が器に受けたその器が、キリスト教のもっとも聖なる宝物として伝えられたという話と、それから天から降りてきた宝石を聖杯と名づけたという話とが合流して、「宝石のように輝く器」という伝説になったのです。この器は見える人には見え、見えない人には見えないのだそうですが、それを大事に守っている騎士たちは、「聖杯騎士」と呼ばれました。騎士団の代表者がパルチヴァルです。ワーグナーの最後の作品である『パルジファル』は、聖杯伝説をドラマ化して、歌劇にしたものです。

 このグラールを宗教象徴として解釈すると、グラールとは実は私たち一人ひとりのことで、私たちが器となって、自分を空にすると、そこにキリストの働きが血のように満たされるという意味にとれます。グラールを自分の中の聖なる部分、つまり自分の中の霊性ととると、聖杯を求めて巡礼する旅を、瞑想の道であるとも感じることができます。

 ところで、平凡社版東洋文庫の『法顕伝』には、おもしろい話が出ています。法顕は四世紀末から五世紀にかけての中国の仏教者ですが、この人がインドを旅したときの話です。それを読んでいましたら、第五章のところにグラールと同じ伝説が出ていたのです。こんなふうに書いてあります。

 ここにも弥勒との関係が出てくるのですが、釈迦如来が使用された鉢(はつ)がありました。今度は杯でなく、鉢ですが、同じ容器です。鉢は托鉢の鉢で、生命の象徴である食べ物の布施をこれで受ける容器です。釈迦如来の使われた鉢、釈迦如来が食事をするときに使われた茶碗が、

 

 「今中部インドのバイシャーリーから北インドのガンダーラに移っている。この仏鉢は数百年を周期として月氏国(クシャナ朝でしょうか)、于闐国(現在のホータン)、亀茲国(現在のクチャ)などの西域諸国を順次に経て、中国に達し、そしてさらに獅子国を経て中部インドに戻り、釈迦の後継者である天上の弥勒菩薩のところで供養を受け、ふたたび下界に戻って龍宮におさまる。」

 

 つまりお釈迦様の使用された鉢が、中部インドから北インドのガンダーラに移って、それから数百年かけて中央アジアをめぐりめぐって、そしてまた中部インドに戻って、そこから兜率天に昇って弥勒の供養を受け、聖なるものとされて、再び下界に戻り、今、龍宮におさめられている、というのです。

 さらに見ますと、「仏法が衰えて人の寿命が五歳にまでなったとき、そしてそこからふたたび人々が善を志すようになって、人の寿命が八万歳になったとき」―― これは仏教の基本的な考え方で、人類の寿命は最高が八万歳、最低が五歳だというのです。人間の行いが悪くなると、寿命が時代とともに短くなり、最終的には五歳で死んでしまうところまでいきますが、そこからふたたび生命力が少しづつ増えて、ついには八万歳まで寿命が延びるというのです。そして八万歳になると、また寿命が短くなっていくという、そういう周期を仏教は考えています。そして「人の寿命が八万歳になったとき、弥勒が下生して説法を行う。そのときに、この仏鉢があらためて弥勒のもとに献じられる。」こういう話を、セイロン島で法顕が聞いてびっくりして、この話をしてくれた人に、いったいどのお経にそのことが書いてあるのか、と聞くと、その人は、そういうお経はない、これは口伝で伝えられたものだ、と応えたと書いてあります。後に「仏鉢経」というような経典も出ましたが、それは偽経である、と法顕は書いています。

 法顕はびっくりしてそのお経を知りたいと思ったそうですが、この話は、ヨーロッパのキリスト教圏における聖杯伝説とよく似ています。聖なるものを器としてイメージするのですが、一方はキリストの血を受けた器、他方は食べ物を受けた器という違いはありますが、本質的に血と食べ物は、同じ生命であり、アーカーシャです。それが人々に、眼に見えない形で、伝授されます。そのために、一人ひとりが器になるのです。自分を空にして、神仏を受け容れるのです。自分の心が器のようになれば、いつでも兜率天から弥勒がその人間のところに降りてくるというのです。ここに西洋、東洋を問わず、人類の宗教思想、神秘学の思想の核心的な部分があらわれていると思います。

 

(高橋巌「神秘学から見た宗教 ―祈りと瞑想―」風濤社より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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