アジアの聖杯伝説 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・釈迦如来の聖鉢

 

 “キリスト教の教えの中で、特に興味があるのは、グラール、聖杯です。これは十字架に架けられたキリストの血をアリマティアのヨゼフという人が器に受けたその器が、キリスト教のもっとも聖なる宝物として伝えられたという話と、それから天から降りてきた宝石を聖杯と名づけたという話とが合流して、「宝石のように輝く器」という伝説になったのです。この器は見える人には見え、見えない人には見えないのだそうですが、それを大事に守っている騎士たちは、「聖杯騎士」と呼ばれました。騎士団の代表者がパルチヴァルです。ワーグナーの最後の作品である『パルジファル』は、聖杯伝説をドラマ化して、歌劇にしたものです。

 このグラールを宗教象徴として解釈すると、グラールとは実は私たち一人ひとりのことで、私たちが器となって、自分を空にすると、そこにキリストの働きが血のように満たされるという意味にとれます。グラールを自分の中の聖なる部分、つまり自分の中の霊性ととると、聖杯を求めて巡礼する旅を、瞑想の道であるとも感じることができます。

 ところで、平凡社版東洋文庫の『法顕伝』には、おもしろい話が出ています。法顕は四世紀末から五世紀にかけての中国の仏教者ですが、この人がインドを旅したときの話です。それを読んでいましたら、第五章のところにグラールと同じ伝説が出ていたのです。こんなふうに書いてあります。

 ここにも弥勒との関係が出てくるのですが、釈迦如来が使用された鉢(はつ)がありました。今度は杯でなく、鉢ですが、同じ容器です。鉢は托鉢の鉢で、生命の象徴である食べ物の布施をこれで受ける容器です。釈迦如来の使われた鉢、釈迦如来が食事をするときに使われた茶碗が、

 

 「今中部インドのバイシャーリーから北インドのガンダーラに移っている。この仏鉢は数百年を周期として月氏国(クシャナ朝でしょうか)、于闐国(現在のホータン)、亀茲国(現在のクチャ)などの西域諸国を順次に経て、中国に達し、そしてさらに獅子国を経て中部インドに戻り、釈迦の後継者である天上の弥勒菩薩のところで供養を受け、ふたたび下界に戻って龍宮におさまる。」

 

 つまりお釈迦様の使用された鉢が、中部インドから北インドのガンダーラに移って、それから数百年かけて中央アジアをめぐりめぐって、そしてまた中部インドに戻って、そこから兜率天に昇って弥勒の供養を受け、聖なるものとされて、再び下界に戻り、今、龍宮におさめられている、というのです。

 さらに見ますと、「仏法が衰えて人の寿命が五歳にまでなったとき、そしてそこからふたたび人々が善を志すようになって、人の寿命が八万歳になったとき」―― これは仏教の基本的な考え方で、人類の寿命は最高が八万歳、最低が五歳だというのです。人間の行いが悪くなると、寿命が時代とともに短くなり、最終的には五歳で死んでしまうところまでいきますが、そこからふたたび生命力が少しづつ増えて、ついには八万歳まで寿命が延びるというのです。そして八万歳になると、また寿命が短くなっていくという、そういう周期を仏教は考えています。そして「人の寿命が八万歳になったとき、弥勒が下生して説法を行う。そのときに、この仏鉢があらためて弥勒のもとに献じられる。」こういう話を、セイロン島で法顕が聞いてびっくりして、この話をしてくれた人に、いったいどのお経にそのことが書いてあるのか、と聞くと、その人は、そういうお経はない、これは口伝で伝えられたものだ、と応えたと書いてあります。後に「仏鉢経」というような経典も出ましたが、それは偽経である、と法顕は書いています。

 法顕はびっくりしてそのお経を知りたいと思ったそうですが、この話は、ヨーロッパのキリスト教圏における聖杯伝説とよく似ています。聖なるものを器としてイメージするのですが、一方はキリストの血を受けた器、他方は食べ物を受けた器という違いはありますが、本質的に血と食べ物は、同じ生命であり、アーカーシャです。それが人々に、眼に見えない形で、伝授されます。そのために、一人ひとりが器になるのです。自分を空にして、神仏を受け容れるのです。自分の心が器のようになれば、いつでも兜率天から弥勒がその人間のところに降りてくるというのです。ここに西洋、東洋を問わず、人類の宗教思想、神秘学の思想の核心的な部分があらわれていると思います。”

 

         (高橋巌「神秘学から見た宗教 ―祈りと瞑想―」風濤社より)

 

 

・ジャムシード王の聖なる七輪の杯(ジャムの酒杯) 〔スブド同胞会のシンボル〕

 

 “……スブドの表象する七つの輪は、古くからイスラムやアラビアに伝わるジャムシード王の七輪の杯―― それは七天、七星、七海、七音、七光、七色、七秘伝などをあらわすものとも考えられ、この七つの輪の秘義がわかった時は、スブドの奥義に通暁したと伝えられる。また七つの輪は鉱物、植物、動物、人間、小天使、大天使、神への七界を象徴し、その各々にまた鉱物、植物、動物、人間、小天使、大天使、神にわかたれているので、つごう七七・四十九の階層があるように解釈されている。

 そこでスブドによって魂のひらきを受けるオープニング(opening)を受けたことは、この七つの輪の外側の、七面の一方に立たされたこととなる。

 その扉が何であるかは、われわれには皆目わからない。自分勝手に人間であると決めているかもしれないが、実際は鉱物であるかもわからないし、植物や動物であるかもしれないのである。何も知らされていないからこそ、神のみまえに人間の顔をしてのこのこと大手を振って出ていくことも出来るし、最も低い世間智や、少しばかりの智恵で鼻をうごめかしたり、また低級な動物霊の手先とされて怪しげな〈霊能力〉で空威張りもできるわけとなる。

 キリストは、叩けよ、しからば開かれん、とこの扉のことを教えている。そして幼児のごとくあれ、とも教えている。

 スブドにおいては、一切の知識、人間智、理性、意志、感情をすてよ、とオープニングにあたって教えるのは、このスブドの道がいかに一見やさしく、平易にみえていかに実際険しいかを、この七つの輪によって示しているのである。”

 

            (トービス星図「神秘学入門」霞ヶ関書房より)

*ジャムシード王とは、古代ペルシャのゾロアスター教の聖典「アヴェスタ」や叙事詩「シャー・ナーメ(王書)」、あるいはオマル・ハイヤームの「ルバイヤート」などに登場する伝説の王で、彼が持つ酒杯には、七天、七星、七海などを象徴する七つの輪が刻まれており、宇宙間の森羅万象をことごとくその中に映し出すことができたと伝えられています。