日本とインド 〔スワミ・ヴィヴェーカーナンダ〕 | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・日本とインド  〔スワミ・ヴィヴェーカーナンダ〕

  「日本のために何かをしたい……」

 

 “日本に、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの名―― インドの偉大な僧でありヒューマニストであった彼の名―― をお聞きになった人はたくさんあるでしょう。しかし、かならずしもその全部が、彼が1893年アメリカに行く途中、日本に立ち寄り、何日間かここに滞在したということを御存じではないでしょう。彼はこの年の9月11日、シカゴで開かれる世界宗教会議で歴史的な講演をしたのです。日本に滞在中、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、1893年7月10日、インドの弟子たちの一人に宛てて横浜から長い手紙を出し、日本までの旅の様子を簡単に報告しています。その中で彼は、日本およびその文化と文明を高く評価しています。そして、「われわれの若者たちを何人か、毎年日本と中国を訪れさせるべきだ」と言っています。

 ある人々はもちろん、右に引用した手紙のことはご存知ですが、これだけでなく、ほかの場合にもスワミジーがしばしば、日本について考え深い見解を示したことは、ほとんど知られていません。1897年、彼はマドラスの有名な新聞「ザ・ヒンドゥ」の記者会見で、リポーターから、「日本で何をご覧になりましたか。また日本の進歩にならって、インドも変わると思われますか」とたずねられ、次のように答えています。

 「三億のインド民族が一つの国民として団結するのでなければ、何の変化も起こらないでしょう。日本人のように愛国的でしかも芸術的な国民は見たことがない。彼らの一つの特色は、ヨーロッパその他の地域では美術は一般的に不潔をともなっているのに、日本の美術は美術プラス清潔さだ、ということです。

 私は、わが国の若者たちの一人ひとりが少なくとも一生に一度、日本を訪れたらよかろうに、と思います。日本へはごく、楽に行けるのです。日本人は、インドのものは何もかも立派であると思い、インドは聖地である、と信じています。日本の仏教は、君たちがスリランカに見る仏教とはまったく違います。ヴェーダーンタと同じです。スリランカの消極的な無神論仏教ではなく、積極的な有神論仏教です」

 リポーターが質問しました、「日本の突然の成功のカギは何なのでしょうか」。ヴィヴェーカーナンダは答えました、「日本人の、彼ら自身への信仰、そして彼らの母国への愛です。もしわが国に、母国のために自分のすべてを捧げることをいとわない、骨の髄まで真面目な人たちがいて、そのような人々が立ち上がるなら、インドはあらゆる点で偉大になるでしょう。

 国をつくるのは人間です!国の中には何があるのですか。もし君たちが、日本人の社会道徳と政治道徳を獲得するなら、君たちも日本人と同じように偉大になるでしょう。日本人は本当に、自国のためにすべてを捧げる、それだから彼らは偉大な民族になった。しかし君たちはそうではない。そうはなれない。自分の持ち物と家族のためだけに、一切を捧げるのです」

 そこで記者は、次のような複雑な質問をして専門的な議論をしたことを述べています。「では、あなたはインドは日本のようになってほしい、とお思いになりますか」まるでこの質問に促されたかのように、スワミジーは、インドと日本との関連はどのような理想のもとにつくり上げられるべきか、についての彼の真意を説明しました。「絶対にそうは思いません。インドはあくまで、今のままであり続けるべきです。どうしてインドが国のあり方について、日本、またはどこであれ、他の国のようになることができましょう。それぞれの民族は、音楽の場合と同じように、他のすべてを従えて中心となる、主たる旋律を持っています。それぞれの民族が、あるテーマを持っています。インドのテーマは宗教です。社会改革および他のすべては二義的なものです」

 ですから、インドは日本のようにはなれません。「ハートがはり裂ける」と、思いの流れが湧き出す、と言われています。インドのハートははり裂けなければなりません。すると、霊性の流れが湧き出すでしょう。われわれは日本人のようではありません。われわれはヒンドゥです。インドの雰囲気そのものが、心をしずめるものです。私はここで絶えず働いてきました。この仕事の真っただ中で、私は休息を得ているのです。インドでわれわれが休息を得ることが出来るのは、霊的な仕事からだけです」

 日本とインドの関係についてのスワミジーのこの見解はまさに、世界中のあらゆる二国間の関係についての彼の考えを代表するものです。スワミジーは、国々は自分を見失うことなく、自分たちの文化と自分たちの文明のよきものを犠牲にすることなく、有無あい通じることによって共に豊かになるべきだ、と信じていました。これと同じ考えを、もう一人の偉大なインド人、詩人のラビンドラナート・タゴールも持っていました。彼はこの考えを、「バーラタティルタ」と題する美しい詩の中に表現しています。

 スワミジーはまた、1901年頃ベルル僧院で、後に彼の弟子ともなった、長年の友の一人との会話の中で、次のような発言をしています。「もし何人かの未婚の卒業生を得たら、私は彼らを日本に送り、あそこで技術教育を受けさせるようにしたいと思う。そうすれば彼らは帰ってきたら、その知識を十分に、インドのために役立たせるだろう。それはどんなにいいことだろう!」

 問 「まあ、マハラージ、私たちはイギリスに行くより日本に行った方がいいのですか」

 スワミジー 「そうとも!私は、もしわが国の裕福で教育のある者たちが一度日本に行ったら、彼らの目は開かれるだろうと思う」

 問 「どのようにですか」

 スワミジー 「日本では、知識が見事に消化されていて、わが国に見られるような不消化がない。彼らはあらゆるものをヨーロッパ人から取り入れた。しかし、彼らはあくまでも日本人であって、ヨーロッパ化してはいない。ところがわが国では、西洋風になろうというおそるべきマニアが、疫病のようにわれわれをとらえてしまっている」

 (私は言った)「マハラージ、私はある日本画を見ました。彼らの芸術には、驚嘆せずにはおられません。そのインスピレーションは彼ら独自のものであって、模倣ではありません」

 スワミジー 「まったくそうだ。彼らの美術を見ても、彼らは偉大な民族だ。彼らはわれわれと同じアジア人ではないか。……まさにアジア人の魂が、美術の中に織り込まれている。アジア人は決して、その中に芸術の含まれていないものは使わないのだ。君は、美術はわれわれにあっては宗教の一部なのだということを知らないか……」

 右の二つの会見記によって、スワミジーが若いインド人を日本に送ることを熱心にすすめていることがわかります。その理由は簡単、彼はインドの復興という思いにとりつかれており、若いインド人を日本に出すことは復興に役立つ、と深く信じていたからです。また、これら二つの会見は、スワミジーの横浜からの手紙に表明された、彼の日本への高い評価に確証を与えるものです。スワミジーは、西洋文明に対しては、複雑な意見を持っていたが、日本の文明はただ称賛するのみであった、ということには注目しなければなりません。

 それでも彼は、日本が数々の素晴らしいものを持ってはいるが最高の点では方向を欠いている、ということには十分、気づいていました。この方向は、インドが見いだし示し得る、霊的方向にほかなりませんでした。その時代のもっともすぐれた人物の一人であった岡倉天心および少数の彼のような人びとは、同じ必要を感じていたにちがいありません。それだから岡倉は、1901年、はるばるインドまで行き、スワミジーを日本に招いて生命をみたす彼の教えを普及させようとしたのでしょう。

 結局、スワミジーは日本に来ることはできませんでした。興味がなかったからではなく、健康が衰えつつあったためと、すでに今生の終わりが近づきつつあることを知っていたためでした。しかし、あの偉大な、そして愛深い魂は、どれほど日本に来てこの偉大な国に何かの貢献をしたい、と思ったことでしょう!この地上を歩んだまさに最後の日、1902年7月4日にも、彼は「日本のために何かをしたい」ともらしました。彼は肉体に宿っている間にはそれを果たすことはできませんでした。

 しかし、彼ははっきりとこういったではありませんか、「私は、自分の体の外に出ようと―― 着古した着衣のようにこれを捨てようと―― 思うときがくるだろう。それでも私は働くことをやめない!この世界が、それが神と一つのものだということを知るまで、私はいたるところで人びとを鼓舞し続けるだろう」

 ですから私たちは、スワミジーは生前果たし得なかった日本での使命を今取り上げた、と信じたいと思います。西洋文明から生まれた病癖の在るものが現代社会にますます顕著になりつつある今日、それは日本にとって、緊急に必要なものとなっています。スワミジーは今まででも、この国の霊的福祉のために働いてきたのですが、彼は日本が完成という目標に達するまで、働き続けるでありましょう。”

 

(「不滅の言葉」スワミ・ヴィヴェーカーナンダ訪日100年特集号 スワミ・メダサーナンダ『日本で生きるスワミ・ヴィヴェーカーナンダの精神』より)