出口聖師と丸山貫長① (聖僧・丸山貫長) | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・出口聖師と丸山貫長① (聖僧・丸山貫長)

 

 “平安時代に編まれた「扶桑略記」に興味深い伝説が伝えられている。東大寺の大仏に塗る金を求めて聖武天皇が使を吉野の金峰山(金の御嶽)に派遣したところ「この山の金は慈尊(みろく菩薩)出世のときに用いる金だ」という託宣があり、結局陸奥の黄金を大仏に用いたという。(陸奥の黄金使用については万葉集の大伴家持の長歌が有名)

 吉野は藤原道長がみろく出現の地と信仰したところでもある。吉野は大本でも、みろく神政のときに使用すべき神宝である潮満・潮干の玉(仏教でいう如意宝珠の宝)が隠されている霊地とされる。

 

 大正九年(一九二〇)五月四日といえば、出口なお開祖が昇天されて約一年半ということになる。夕拝後、その開祖の神霊の鎮まる教祖殿において聖師(王仁師)より命令がでた。

 「明後日六日出立、奈良県吉野郡の竜門山(岳)に出修する。ついては、この出修には役員、信者の随伴を許すから近くの信者に伝達せよ」というもの。聖師は「如意宝珠を丸山貫長にあづけてある」*との神示を古くから受けられていた。だが丸山貫長とはいかなる人物で、どこに住んでいるのか判然としなかったが、ここ吉野・竜門岳の麓に居ることが判明したのである。

 (その場所は?)竜門岳とは竜門山の主峰、九〇四㍍の山で、吉野の北はづれにそびえる。柏森の東方にあり、人工湖の津風呂湖北方に位置し、つまり明日香と大宇陀を隔てている。関西の山登りの本には、竜門岳のコースが必ずといってよいほど載っているが、古く飛鳥時代からこの地でハイキングがおこなわれたことは「懐風藻」の漢詩でわかる。

 「竜門に遊ぶ」―― 葛野皇子駕(が)を命(おほ)せて山水に遊び長く忘る冠べんの情(こころ)、安(いづく)にか王喬(おうきょう)が道を得て、鶴を控(ひ)きて蓬えいに入らむ。(意=馬車の用意をさせて竜門山や清水に遊び、高位高官としての煩わしい気持ちをすっかり忘れよう。なんとかして仙人の術を得て鶴に乗って仙人の住む世界へ入りたいものだなあ。(筆者訳))

 本願寺本三六集の伊勢集でも、伊勢が竜門寺(岳の南中腹にあった)に詣でた時、「雪の中より滝は落つるように見ゆ」とその仙境を感嘆している。これらの先人の例をふまえて平安時代の大納言、源経信(一〇一六~一〇九七)が竜門岳に登って詠んでいる。

 「いにしへの人ならなくに(昔の人ではないが私も)滝の糸を 雲の衣をきても見るかな」

 このように見る人を感動せしめてやまない仙域のゆえに、仙人に関する伝説が多くある。例えば、右の懐風藻の漢詩もそうだが、また有名な中世の久米の仙人も竜門寺の修行僧であった(今昔物語十一巻第二十四他)。同じく平安時代には清和天皇、菅原道真、宇多天皇、また冒頭の藤原道長等が竜門岳・寺に参詣している。(三代実録・扶桑略記より)。くだって江戸時代の元禄元年(一六八八)には松尾芭蕉が竜門岳の滝を訪れる。

 酒呑みに語らんかかる滝の花(滝が「懸かる」と「斯かる」をかけた句)

 竜門の花や上戸の土産(つと=みやげ話)にせん

 酒仙・李白(唐代の詩人)はまた同時に中国の竜門の滝を愛した。それらを心に置いての吟。

 大正当時に竜門寺は既に失くなっていたが、滝の方はまだ落ちている。

 高ほこ(=竜門岳)の清き流れの滝の水 濁るこの世を洗ひ清めむ

 これは丸山貫長の歌である。

 さて、本篇の主役・丸山貫長とは、いかなる人物だったのか。

師は、真言宗豊山派の法主で、高野山で四十年間行をされ、高野山の管長候補者として選抜を受けられていた名僧であった。しかしその後、「今の仏教は堕落している」と感じられ、自ら浮浪の旅にたたれた。そして大宇陀の室生寺におられた大正元年九月二十一日に霊夢を見て竜門岳を開くことを悟られたのである。

 早速、竜門岳に向かわれた師は、徳望の高さで土地の人々の信望を得、竜門岳の宮守をされ、東麓の大蔵(おほくら)寺と一㌖ほど離れた覚恩寺の住職を務められることになった。師は常々自分は法衣をまとっているが僧ではないと言われ、その彫刻、絵画の巧妙なことは美術専門の巨匠でさえとてもおよぶところではないとの評判であった。普通の彫刻家が三年もかかるような精巧な仏像も三ヶ月くらいで仕上げてしまう。それは多勢の神様が来て手伝いをされるからだそうで、創作の室には何人も出入りを許されなかったという。これなど聖師の耀盌制作時と似たものがある。

 丸山貫長師の子息に現在飛鳥寺住職の山本雨宝師がある。筆者は雨宝師に接して貫長師のことを訊ねた。

 「父は絵・詩・歌・彫刻・芸事いっさい人並み以上に秀でていて、さらに竹で八雲琴を創っては法楽として弾いていました。私もその影響を受けて十三歳頃から八雲琴になじむようになりました」

 大実業家で美術品収集家としても著名だった藤田伝三郎男爵(一八四一~一九三二)からも丸山貫長は尊敬を受け、男爵の供応を度々受けられたという。また鶴殿男爵夫人で宮中とも深い関係のある鶴殿ちか子とも、「父は古くから親交があった」と雨宝師は語る。ちか子といえば、竜門岳出修の三年前の大正六年に綾部へ来て即大本に入信し、後に宣伝使となっている。(以下次号)”

 

        (「人類愛善新聞」昭和52年6月号 『竜門岳と丸山貫長①』より)

*本文では、「丸山貫長にあづけてある」との神示があったと書かれていますが、実際は「せかいのたからはかんちょうにあづけてあるぞよ」と、単に「かんちょう」とのみ、ひらがなで示されたため、その「かんちょう」にはいくつもの解釈が考えられたため、最初はさっぱり見当がつかなかったのだそうです。

(写真は、伊藤教純師(貫長師のお孫さん)のブログ『弥勒寺通信』」よりお借りしました。)