聖母マリア被昇天の教義 〔C・G・ユング〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 

・C・G・ユング著 「ヨブへの答え」 について

 

 “「ヨブへの答え」は、題名が予想させるところとは異なり、小著ながら考察の対象は「ヨブ記」に留まらない。智恵文学と黙示文学、さらには一九五〇年に公認された《マリア被昇天》の教義にまで論が進む。

 そこで大きな位置を占めるのが、「女性性」、「智恵」、そして「人の子」の問題である。すなわちユングは、「ヨブ記」の直後ないしは同時期に、智恵文学と黙示文学が登場したことに注目する。黙示とは、神が人間に世界の秘密を啓(ひら)き示すことを意味し、未来に関する幻視体験として語られる。いっぽう智恵(ホクマー)とは、生と世界の究極の意味を説き明かす秘密の智恵を指す。そして智恵は、人に宿る霊的な力という形から次第に人格化され、智恵の女神ソフィアという形をとるようになる。たとえば旧約「箴言」八章二二-三一節、外典「集会の書」二四章三-十八節、「ソロモンの智恵の書」八章三節と九章十七節などにソフィアが登場している。これに関連づけてユングは、ヨブの悲痛な叫びを耳にして不安を感じたヤハウェが、世界創成時の古き友ソフィアを想起し、その結果、自らの意識性の向上、つまり受肉の必要性に思い至ったと解釈する。歴史的事実としても、そのため「ヨブ記」にすぐ続いて智恵文学が登場し、それが次の時代に大きな転換をもたらす契機となったというのである。またヤハウェによるソフィアの想起の問題は、男性性に偏った状況に対する補償という意味も持つ。ヨブによる暗黒体験・影領域への通過をへた後に、アニマの問題がクローズアップされたのである。そしてこのアニマの問題は、後述する《マリアの被昇天》の問題へとつながることになる。

 黙示文学に関してユングが注目するのは、「人の子」の問題である。「人の子」はイエスが用いた自称であり、新約の信仰からいえば救世主を意味する。しかしそれ以前に、黙示文学の先駆け「エゼキエル書」(前六世紀)、代表的黙示文学「ダニエル書」(前二世紀)、そして偽典「エノク書」(前二世紀)の中で、それぞれがヤハウェから「人の子」の名で呼ばれている。ことに人の子エノクは正義の代表者として強調されており、しかも彼は「死を見ることなく、天に移された」とされている人物である。つまり肉の身体をもつ人間が、黙示体験をとおして神と霊的につながりうるという考え方の現われである。林道義氏はこれを先の「神の人間化」と対になる「人間の神化」という言葉で整理している。ユング自身の言葉を引用すると、「彼に対する『人の子』という呼びかけによってすでに暗示されているのは、……永遠の昔から予言されている神の息子にだけでなく、まさに人間にも、神の変容と人間化によって受肉……が起こるであろうということである」

 もちろんキリスト教の伝統の中では、「神の人間化」はむろん、「人間の神化」など許されるはずのない観念である。少なくとも、イエスにおいて歴史上ただ一度だけ起こった出来事とされ、」それ以外は正統教義の名の下に厳重に否定されている。しかしユングはここで、人間への聖霊の受肉つまり人間の神化への可能性をあくまで追求する。そしてここで大きな意義をもってくるのが、マリアの問題である。

 そもそもマリアは、硬直化したヤハウェの意識化を援けたソフィアに代わって、男性性に偏った状況を女性性でもって補償するはずの存在だった。ところがイエスの神性を保つための「異常な予防策、すなわち《無原罪の受胎》、《罪の穢れ》の除去、永遠の処女性」によって、「マリアの人格が男性的な意味で高められた」結果、本来の補償作用をうまく発揮できなくなった。すなわち男性的な理論的完全性に引き寄せられて、聖霊の受肉つまり霊と肉の一致といった全体性をもたらすものとして機能しなくなってしまった。しかも、三位一体の教義が確立する過程で、女神ソフィアにも起源をもつ聖霊が男性位格として固定された結果、理論的完全性は成立したが、神の世界から女性性がまったく排除されてしまったのである。

 この問題との関連でユングは、一九五〇年になって初めて教皇により公認された、《マリア被昇天》の教義に多大な関心を寄せている。これはマリアが死後に肉体のまま神の手で昇天させられたという信仰で、四世紀の外典から現われ、その後も一般民衆から強い支持を受けてきたものである。ユングは従来よりこの教義に対して、三位一体の中に女性性が加わることによる、男性性と女性性の対立を統合した全体性――四位一体――の成立を意味するものと高く評価している。しかし本書ではそれに留まらず、これは「神の受肉のいっそうの発展」を意味するものだと主張する。天上で永遠に生きる彼女は、肉の身体をもつ者として、今後も何度でも受肉を続けることになるというのである。

 ユングによると、この肉の身体をもつ者の受肉という問題は、「ヨハネの黙示禄」において予示され、それもより徹底した形で描かれている。引用すると、「ひとりの女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた。この女は子を宿しており、産みの苦しみと悩みとのために、泣き叫んでいた」(十二章一-二節)。この女の前には赤い竜がいて、生まれてくる子を食おうとしていた。女が産んだ男の子は神のみもとへ引き上げられ、女は神の用意した場所にかくまわれた。これが問題の箇所の要約であるが、このイメージに対してユングは、まずこの女性が単に「女」と言われていることに注目している。つまり、宇宙的-自然的な属性の刻み込まれた原人的性格をもつとはいえ、男性的な意味で高められたのではない「ただの女であって、女神でもなければ無垢のまま受胎した永遠の処女でもない」。そしてその肉の身体をもつ「ただの女」が、神の子を宿す。すなわち肉の身体をもつただの人間でも、受肉、さらには「神化」への可能性のあることをこのイメージは示唆しているというのである。” (河東仁『ユングと聖書』より)

 

       (新人物往来社「季刊AZ 27号 ユング 現代の神話」に掲載)

 

 

・「ヨブへの答え」

 

 “主の祈りの六番目の願い「悪から救い出してください」はここでは、ゲッセマネにおけるキリストの願い「できることなら、この杯が私の前を通りすぎますように」の根底にある思想の意味で解されねばならない。すなわち人間を矛盾に、つまり悪に遭わせないということは、原則として、神の意に添うことではないようだ。それゆえこのような願望を口にすることは、人間的なことではあるが、これを原理にしてはならない。こうした願望は神意に反し、人間の弱さと恐れのうえに立つものでしかないからである。弱さと恐れもある意味ではもちろんあってよいのだ、矛盾を完全にするためには、人間は結局のところ過大な要求をされているのではないかと疑い迷うことは必要だからである。

  神の像は人間の世界にあまねく浸透し、人間によって知らず知らず表現されるのであるから、四百年来続いている教会の分裂も今日の政治界の二分も、支配的な元型のもつ広く知られてはいない矛盾の表現であると、考えられないこともなかろう。”(P113~P114)

 

 “黙示録以来われわれは、神は愛されるだけでなく、また恐れられねばならないということをふたたび知った。神はわれわれを善と悪とで満たす。そうでなければ恐れられることはないだろう。また神は人間になろうとするのだから、神の二律背反の調和は人間のうちで実現するにちがいない。これは人間にとってはあらたな責任を負うことになる。みずからの卑小性や無価値性を唱えて逃げをうつことはもはやできない。暗い神が人間の手に原子爆弾と化学兵器を押しつけ、黙示録の怒りの鉢を同時代人のうえにぶちまける力を与えたからである。ほとんど神のような能力が生じたのだから、もはや無分別で無意識でいることは許されない。神の本性と形而上界で先んじて起こることを知ることによって、みずからを理解し、そこから神を認識しなくてはならない。”(P181~P182)

 

 “……神の母の高挙への渇望が民衆の間に浸透するなら、この傾向は、究極のところ、救済者、仲保者、《最高の平和をうちたてる仲保者》が生まれてほしいという願望を意味する。この者はプレローマでは永遠の昔にすでに生まれているにもかかわらず、かれの時間における誕生は、人間によって感じられ認識され宣言されなくては、実現しない。

 重大な結果を招く新しい教義の《荘厳な宣言》を教皇に決意させる一助となった、民衆の動向の動機と意味は、新しい神の誕生ではなく、キリストを最初とする神の受肉の進展である。この教義は歴史的批判的な議論によっては正しく評価されない。さらに、たとえばイギリスの大司教たちが表現した、事実に根拠をもたない懸念も嘆かわしい的外れである。それが的外れだというのは、ひとつにはこの教義の宣言によって、千年以上続いてきたカトリックの見解は原則的になにひとつ変っていないからであり、もうひとつには、神は永遠に人間になろうと欲し、それゆえ聖霊を通じて時間において受肉を継続しているという事実をかれらのように否認するのは、きわめて危険であり、その否認から知られるのはただ、このような見解に表明されるプロテスタントの立場は、時の徴を理解せず、聖霊の継続するはたらきに不注意であることによって、遅れをとったということだけだからである。プロテスタントの立場はあきらかに、個々のひとおよび大衆の魂のうちに起こっていること強力な元型的な展開と、真に黙示録的な世界状況を補償するものと定められているシンボルとを、感じる力を失ってしまったのである。合理主義的歴史論に陥って、心の隠されたところではたらく聖霊を理解する力を失ってしまったようだ。したがって神のドラマが与えるその後の啓示を理解することも承認することもできない。”(P184~P186)

 

 “因みにこの教義をわたしは宗教改革以来もっとも重要な宗教的事件であると考える。心理学を知らない知性にとってはこれは《躓きの石》である。処女の肉体が天へ迎えとられたなどという確証されていない主張を、どうすれば信ずべきこととして提出したりできるのか。しかし教皇の証明法は、心理学的知性にとっては完全に納得できるものである。”(P187)

 

 “教皇の宣言の結果はこのうえなく重大であり、プロテスタントの立場を、形而上的な女性の代表者を欠く男性の宗教という悪評に委ねるものである。この偏見はあきらかに、男女同権を指し示す時の徴に十分注意を払わなかった。同権は、「神である」女性、キリストの花嫁という形における形而上的根拠を要求する。キリストの人格を組織で代替できないように、花嫁も教会で代替されえない。女性的なものは男性的なものと同じく、人格によって代表されることを要求するのである。

 被昇天が教義になっても、教義の見解では、もちろんマリアは女神の地位にのぼったのではないが、(〈地上の空中の国〉の王、サタンに対する)天の女王また仲保者として、王であり仲保者であるキリストとほとんど同じはたらきをする。いずれにせよ彼女の地位は元型の必要条件を満たす。この新しい教義は、魂の最深部を動かしている、危険な緊張を高めてきた対立の解消と平和への、渇望が満たされるというあらたな希望を意味する。”(P188~P189)

 

(C・G・ユング「ヨブへの答え」(ヨルダン社)より)

 

*明日8月15日は、カトリックの典礼暦では「聖母マリア被昇天の祝日」となります。精神分析家のカール・グスタフ・ユングは、ローマ・カトリック教会によって新たに制定されたこの「聖母マリア被昇天」の教義を特に重視し、文中にありますように「宗教改革以来の大事件」とも見なしていました。確かによく考えてみると、これに先立つ「聖母マリア無原罪懐胎」の教義とあわせて、現界において、これらの教義が13億人以上の信徒を持つカトリック教会の教皇によって宣言され、膨大な数の信徒たちにはっきりと意識化されたことは、霊的にも途轍もなく重要な出来事であることは明らかですし、以後世界各地で頻発するようになった「聖母マリアの御出現」とも関係があるような気がします。

 

      「アグニ・パルセネ」(東方正教会の『生神女マリアへの賛歌』)

 

 

              「アラム語による『詩篇53』の朗唱」

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人気ブログランキング