「神の『鋳型』」 聖母マリア | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “聖霊は、マリアをご自分の花嫁として選び、マリアのうちに、マリアを通して、マリアから、その傑作である人となられたみ言葉イエズスを、この世にもたらしました。聖霊がマリアから決して離別しなかったので、今でも、毎日マリアのうちに、マリアを通じて、キリスト者を生みます。それは、不思議な、しかも本当の方法によってであります。

 神は、マリアに、その子らである人々の霊魂を養い、そして、神のいのちに成長させる特別な能力をお与えになりました。聖アウグスティヌスによれば、わたしたちは地上にいるあいだ、マリアのご胎内に、霊的に閉じ込められています。マリアが永遠のいのちのためにお生みになる時に、はじめて光を見るようになります。

 母の胎内にいる子が母を通じて生きているように、神の子どもたちも、霊的かてと、その力をすべて、マリアから受けています。

 マリアにだけ、おん父は「わたしの娘よ。ヤコブに住まいを定めよ」と、おおせになりました。すなわち、ヤコブによって示されている、わたしの選ばれた人々の中に、住まいを定めよと。また、おん子もマリアにおおせられます、「わたしの母よ、イスラエルの所有地に、すなわちわたしの選んだ人々を自分の遺産として受けなさいと。

 聖霊もまた、マリアに向かって、おおせになっています。「わたしの忠実な花嫁よ。光栄にみちた民、すなわち、わたしの選んだ者の所有地に根をおろしなさい」(シラの書24・8と12参照)と。

 したがって、神のみ心にかなった選ばれた人々は、マリアを自分の住まい、すなわち、自分の魂の中に歓迎し、マリアがその中で深いけんそん、熱烈な愛徳、およびすべての善徳の根をおろすように、まかせなければなりません。

 聖アウグスティヌスは、マリアのことを、「神のかたどり」、すなわち、神の生きた『鋳型』と呼んでいますが、実際にそうです。なぜなら、マリアのうちにだけ、神が人間に形づくられ、神としての特長を、そのまま保ちながら、本当に人間となられたからです。同様に、マリアにおいてのみ、人間は、実際に神性にあずかることができます。もちろん、人性がイエズス・キリストの恵みによって可能な程度にです。

 彫刻家は、立像または胸像をつくるために、二つの方法を使うことができます。一つは、形のない固い材料に、のみ、または他の適当な道具を用いてする方法で、もう一つは、鋳型をもってする方法です。

 第一の方法は、長くかかり、また、むずかしく、容易にまちがいます。なぜなら、かなづちや、のみで、まちがった叩き方をすれば、全部をダメにする危険があるからです。

 第二の方法を使えば、かえって、早くでき、また、費用も安くてできます。それは、もちろん、鋳型が完全であり、作ろうと思っている像を忠実にあらわし、使う材料が展性であって、やわらかいという条件のもとにです。

 まことの人間であり、まことの神であるお方、すなわち、イエズス・キリストを、完全に、ご托身によって形づくるために、聖霊によって準備された偉大な鋳型は、神の恵みによって、マリアであります。

 マリアであるこの鋳型には、神の特長が、一つも不足することはありません。従ってこの鋳型に入り、形づくられるままに、まかせる人は、イエズスの霊的姿をとるようになります。

 そうなるために、これは、やさしい方法で、人間の弱さに適しています。たいした苦労も、悩みもなく、また、だまされる心配もない安全な方法です。なぜなら、悪魔は、これに干渉することも、マリアがおられるところに、入ることもできないからです。また、マリアは、無原罪のお方で、どんな小さな罪の汚れもないお方だからです。

 自分の技術に信頼する彫刻家のように、一般的なふつうの方法で養成される人と、単純で、従いやすく、けんそんで、自分に信頼しないで、マリアにすべてをまかせ、聖霊の働きによって形づくられるままに、まかせる人と、この両者の間には、どれほどの違いがあることでしょう。

 前者には、どれほど沢山の汚れと、欠点、暗いところ、錯覚、自然的、人間的なところがあることでしょう。これと異なり、後者は、清く、恵みにみち、イエズス・キリストに、どんなに似ていることでしょう。(P54~P59)

 

 “神は、旅路にある人間のために、わたしたちが住んでいるこの世界を創られました。また、光栄を受ける人間のために、天国をお創りになりました。でも、ご自分のために、もう一つの世界を創って、それをマリアと名づけました。この世界は、地上にある、ほとんどすべての人間に知られていない世界であって、天国の聖人や天使たちさえも、それを理解できません。かぎりなく偉大な、言葉に言い尽くせないほどの神が、貴いマリアと、あんなにも親密で、その中にかくれておられるのを、驚きのうちに考えて、天使たちは、喜びにあふれ、「聖なる方!聖なる方!聖なる方!」と、やむことなくたたえています。

 マリアという恵みの秘密を、聖霊が示してくださる人は、非常に祝福された人です。聖霊が、この秘密をお教えになるのは、人がそれを知るようにするためです。また、マリアは、封じられた花園であって、聖霊は、その花園を開いてくださいます。また、マリアは、封じられた泉であって、聖霊は、人がその泉から恵みの生きる水をくんで、これによって渇きをいやせるように、この泉を開いてくださいます。

 最も愛すべきマリアの中で、神はそのすべてであります。マリアのうちには、かぎりなく聖であり、言い尽くせない神だけがあります。でも神は、無限に憐れみ深いお方です。

 神は、どこにでも、おいでになります。地獄にさえも、おいでになります。でも、マリアにおいてだけ、わたしたちにとって最も近くにおられます。このためにこそ、神はマリアのうちに人間となられたのです。神はどこにおいても、『つわもの』のパン(詩篇78・25)また、天使たちのパン(知恵の書16・20)。そして、マリアのうちで子らのパンとなられます。

 あるいつわりの神学者はこう考えます。すなわち、マリアはたんなる被造物でしかないから、わたしたちにとって、神との一致のさまたげになる、と。しかし、誰もこのようなことを考えてはなりません。マリアは、かの女自身が生きるのではなく、神だけが、マリアのうちに生きておられるのです(ガラツィア2・20参照、聖パウロが、自分について言っているこの言葉を、モンフォール師は、マリアにあてはめます)。

 マリアは完全に神にかわって、神にみちておられます。天が地よりもすぐれているよりも、マリアの聖徳は、聖パウロよりも、また他の聖人たちよりもすぐれており、完全に神に開かれています。

 マリアは、ただ神のためにだけ生きており、マリアを探す人々の霊魂を自分の中にとどめないで、その人たちを神にみちびきます。それで、人の霊魂が、マリアと一致すればするほど、神と一致するようになります。”(P59~P62)

 

 “といっても、マリアに対するまことの信心があるからといって、十字架と苦しみをまぬがれることにはなりません。この信心をする人は、他の人よりもかえって、十字架と苦しみが多いことがありえます。生きる人の母であるマリアは、その子らに命の木、すなわち、イエズスの十字架の断片をお与えになります。しかし、これらの十字架を与えると同時に、これを耐えしのび、また喜びをもってさえ、十字架を担う恵みもお与えになります。それで、マリアが子らに与える十字架は、苦いというより、かえって甘美なものとさえなります。もし、神の友人たちがどうしても飲まねばならない杯の苦味を、しばらくの間感じなければならないとしても、この善い母が、悲しみの次に与える慰めと喜びは、他の、もっと重たくて、苦い十字架をになうための力と勇気になります。”(P63~P64)

 

(聖グリニョン・ド・モンフォール「聖マリアの秘密」(愛心館)より)

 

*聖アウグスティヌスは、我々は地上にいる間は、マリアの胎内に霊的に閉じ込められている、と語っています。興味深いことに、インド各地でヒンドゥたちの崇拝対象となっているリンガ・ヨーニ像(シヴァ神とカーリー女神の結合した性器の象徴)というものがあるのですが、これはまさに子宮の中からの視点で表された像であり、全宇宙はカーリー女神の子宮の中にあるということを象徴しています。また聖者ラーマ・クリシュナも自分を鋳型に譬えており、弟子たちに、自分と霊的に結びつくことで、神を悟ることができると語っています。リグ・ヴェーダに「真理は一つ、聖者たちはそれを様々な名で呼ぶ」とありますが、まさにその通りです。

 

*この「聖マリアの秘密」の本は、ローマ・カトリックの聖人、聖グリニョン・ド・モンフォール神父によって18世紀に書かれました。彼は、世の終わり近くに人類に起こる大災害の啓示をうけ、それに備えるために、聖母マリアに対する信心の重大さを人々に知らしめるために、まず「聖母マリアへのまことの信心」という本を書き、そしてその次に、この「聖マリアの秘密」を書き上げました。その他にも何冊もの著作を残していますが、特にこの二冊は、多くのカトリック信徒たちを聖母マリアへの信心に導き、聖母を深く崇敬し、自分の紋章の中にもマリアを表す「「M」を入れていた教皇、ヨハネ・パウロ二世もこの本を愛読されていたことが知られています。現在世界60ヶ国以上に拡がる黙想の家「愛と光の家」の創設者で、キリストと同じ聖痕を受け、御聖体以外の飲食物をとることなく生き続けたマルタ・ロバン(1902~1981、2014年にカトリック教会により『尊者』として認定)は、ある日、聖母マリアの御出現を受け、聖母からこの「聖マリアの秘密」の本を渡されて、「私はこの本を世界中に広めたいと思います。これは奉献の本です」と告げられた、と証言しています。また、マルタ・ロバンの勧めによってプロテスタントの牧師からカトリックに改宗し、修道士となったブラザー・エフライム・クロワサン師が、メジュゴリエに巡礼した際、聖母からのメッセージを受けて著した「至聖三位一体への奉献の黙想」(平和の元后マリアの共同体)という黙想の本があるのですが、この本の中にも、「聖母マリアへのまことの信心」や「聖マリアの秘密」の中の聖グリニョン・ド・モンフォール師の言葉が数多く引用されています。これら「聖マリアの秘密」、「聖母マリアへのまことの信心」、「至聖三位一体への奉献の黙想」は市販されてはいませんが、三冊とも大阪府茨木市千提寺の「愛と光の家」から購入できます。「愛と光の家」では、カトリック神父の指導の下で、定期的にロザリオの祈りと黙想の集いが開かれており、カトリック信徒でなくとも参加することが可能です(ただし、ミサでの御聖体の拝領は信徒しかできません)。そして、この千提寺という場所は、かつての隠れキリシタンの里でもあります。マルタ・ロバンは、世の終わりに聖母マリアの介入があると予言していますが、そのためにも人々が聖母を崇敬し、何よりも『ロザリオの祈り』をすることが求められているようです。

 

・聖痕者マルタ・ロバンの預言  〔愛と光の家〕

 

(1936年2月10日 フィネ神父との会見)

 “フィネ神父は彼にとって忘れがたいこのときのことを幾度も語っている。多くの文書にある話を総合して、彼の話を再現しよう。
 「初め1時間、マルタは私に、聖母についてしか話しませんでした。マリアについての講話をよくする私は、聖母についての彼女の話し方にすっかり心を奪われてしまいました。彼女は聖母を『私の大好きなママ』と呼んでいました。そこで私は、聖母と彼女とは非常に深く知りあっているのだなと推測したのです……」
 「2時間目に彼女は、これから繰り広げられるであろう重大な事がらについて話しました。そのうち、あるものは非常に大変なことで、あるものはとてもすばらしいことだろうとのことでした。実際にこの話の段階で彼女は私に『新しい愛の聖霊降臨が起こり、信徒の使徒職を通して教会が若返るのです』と言ったのです。このことについて彼女はよく話してくれました。そして彼女はこうも言ったのです。『信徒は教会の中で、非常にたいせつな役割をもつようになるでしょう。たくさんの人が使徒として召し出されるでしょう』と。ずっとのちに教皇ピオ12世、ヨハネ23世、そしてパウロ6世が『教会の春』とか『新しい愛の聖霊降臨』と語られたのを聞いたときに、私はたいへんな衝撃を覚えました。それをマルタは、なんと1936年に私に言ったのですから。彼女はまた、教会は全面的に刷新されるでしょうと私に言いました。彼女が話していたのは公会議のことだったのです。彼女はさらに、信徒を養成するために多くの方法があるでしょうがとりわけ、愛と光の家が多くできるでしょうと付け加えました。私には彼女の言いたいことがよくわかりませんでした」
 「そこで彼女は私に言いました。『これは教会にとって全く新しいことですね。いままで決してなかったことでしょう。修道会ではなく、聖別された信徒から成るのです』彼女はつづけて言いました。『愛と光の家は、父親である一人の司祭の指導のもとに、自分を奉献した信徒で成り立つのです。これらの愛と光の家は、全世界の中で輝かしい影響を与えるでしょう。これらの家は人々の物質的敗北と悪魔的な誤謬が生じたのちに、イエズスの聖心からの答えとなるでしょう』
 さらに彼女は言いました。『消え去ってしまう誤謬の中には、共産主義や世俗主義およびフリーメーソン結社があるでしょう』彼女は私に、特にこの三つをあげました。それは1936年のことです。
 『ですがそれは、聖母の介入ののちに起きるでしょう』と彼女は言いました。……」”

      (レイモン・ペレ「マルタ・ロバン 十字架とよろこび」(愛と光の家)より)

 

 

・エドガー・ケイシー・リーディング

 

 “地球に関する限り……主が地上に入られた際に、マリアは主と双子の魂(ツインソウル)であった!(5749-8)”

 

 (リチャード・ヘンリー・ドラモンド「エドガー・ケイシーのキリストの秘密」たま出版より)

 

*明日8月15日は終戦の日ですが、カトリック教徒にとっては、聖母マリア被昇天の祝日でもあります。そしてこの8月15日は、1549年に聖フランシスコ・ザビエルが、初めて日本の地に上陸し、キリスト教を伝えた日でもあります。そのとき、聖ザビエルは、日本上陸の日がちょうど聖母マリアの祝日であったことを記念し、日本を聖母マリアに奉献しました(正直、外国人が勝手に日本の国をどうこうするのはいかがなものか、という思いはありますが)。奇妙なことに、2月11日の建国記念日は、ルルドの聖母の祝日、9月8日のサンフランシスコ講和条約調印の日は、聖母マリアの誕生日、そして真珠湾攻撃が行われた12月8日は、無原罪の聖マリアの祝日と、日本にとって重大な出来事のあった日はことごとく聖母マリアの祝日と重なっています。これを思うと、日本と聖母マリアとの不思議なつながりを感じずにはおられません。ちなみに、12月8日は第二次大本事件勃発の日であり、9月8日は大審院で皇道大本が無罪判決を勝ち取った日でもあります。主なる神が、日本についてどのような計画をお持ちでいらっしゃるのかはわかりませんが、やはり日本が神国であることは確かなようです。