「聖なる母」の礼拝 〔ラーマクリシュナ〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

*シュリー・ラーマクリシュナが崇拝したドッキネッショルのカーリー女神像

・シュリ・ラーマクリシュナとホーリー・マザー

 

 “ホーリー・マザーは、インド内外で神の現れと称される近代の大聖シュリー・ラーマクリシュナ(一八三六~一八八六)の妻だった。波乱に富んだ生涯を送った夫に添い遂げ、またその霊的体験の目撃者でもあった。シュリー・ラーマクリシュナご自身の薫陶を受け、師が他界された後は使命を全うするよう任命されていた。

 外面的には平均的なヒンドゥー女性として暮らし、時には不快感を催させるような家事も忠実に果たした。内面的には完璧な無執着を実践し、物質界で生じる出来事に心を乱されることはなかった。神との交流が途絶えることは決してなかった。今日では、まさに家住者と出家者の鑑となっている。

 特にヒンドゥー文化に馴染みの薄い読者がホーリー・マザーの生涯に共感できるように、その教えと人格の重要な特徴を二つ指摘しておくべきだろう。まず、一つ目は、ホーリー・マザーが弟子に教えを垂れる時には、シュリー・ラーマクリシュナを神の化身と見なすように促していたことである。他の化身も受け入れてはいたが、絶えず神に没頭し、完璧な放棄を実践し、様々な信仰を神の実現に有効な方法として受け入れておられたシュリー・ラーマクリシュナこそ、我々の時代に相応しいと考えたのだ。自分自身の体験を通して夫の神聖さに気づいたホーリー・マザーが、目に見える神の象徴として夫を語ったのは当然のことだった。しかし押しつけがましいところや排他的な教えは一切見られなかった。他の理想神を思い抱いている求道者には、その信仰が深められるよう教え導いた。

 二つ目は、ホーリー・マザーが本書の中ではしばしば『宇宙の母』『聖なる力』と形容されている点だ。こうした表現は単に信者側の感傷的なものではなく、哲学的な意味合いを持つものだ。ヴェーダーンタ哲学に従うならば、ブラフマンすなわち究極の真理は活動性を持たない。創造・維持・破壊という活動に関わるのは『それ自身』ではない。こうした活動は、マーヤーあるいはシャクティと呼ばれる計り知れないエネルギーによって続行されている。火とその燃やす力、あるいは宝石とその輝きのように、ブラフマンとシャクティは不可分のものだ。異なった二つの働きに応じて、まったく同一の真理に二つの名前が付けられているのだ。生物・無生物の宇宙全体はこの聖なるエネルギーの投影であり、その胎から生まれ出る創造物をあたかも大地の母のように養うのだ。そして最終的には再びこのエネルギーが創造物を神の中に引き込み、世の束縛から解放するのだ。それゆえヒンドゥー教徒はその力をすべての『母』、あるいは『救い主』と見なすのだ。あらゆる創造物に存在するこのエネルギーを、ヒンドゥー教徒は男性よりもむしろ女性に似たものとする。確かに女性はすべてシャクティの経路だが、世俗にまったく毒されていない女性がもっとも強力な経路となる。ホーリー・マザーはまさにそのよい例であり、『救世主』『宇宙の聖母』として描かれるようになったのだ。女性の胎から誕生した子供すべてが自身の子供と見なされたのだった。”(P9~P10)

 

 “ヒンドゥー教では妻のことをサハダルミニ、すなわち夫の霊的探求における伴侶であると言う。結婚は夫の優位や妻の劣位を意味するものではない。お互いなくして完全にはなり得ない。この観念は半身が女で半身が男のヒンドゥーの神アルダナーリシュヴァラ神に象徴されている。夫が妻を単に肉欲を満足させるための対象とみなすと、家族に災難がふりかかる。あるヒンドゥー教の聖典は言う。『彼女は正義の人々にとっては富をもたらす女神であり、邪悪な者たちにとっては災いの力である』”(P14)

 

 “普通の女性が感じる母性愛の衝動は、生命が存続するように、そしてまた肉欲が徐々に昇華されるようにと、神が心に植え付けられたものだ。肉体において創造的である女性は肉体的に子供を産むことでこの衝動を満足させる。しかしその霊性において創造的である数少ない女性は霊性の子供をもつことでこの同じ衝動を満足させることがある。サーラダー・デーヴィーは後者の分類に属すがゆえにその弟子たちやシュリー・ラーマクリシュナの信者から愛情をこめてホーリー・マザーと呼ばれた。ある日彼女が一人の弟子に言った。「師はすべての創造物を聖なる母の現れと見なしておられました。この母性を表現することを私に託して逝かれてしまったのですよ」

 神の母性の観念と神を聖なる母として礼拝することは、ヒンドゥー教徒の特徴を成している。聖なる母への礼拝を通して神との最初の交霊を得られ、生涯彼女に献身し続けられたシュリー・ラーマクリシュナは、母としての神を礼拝することは、霊的な進化の最終段階であると述べられた。ヒンドゥー教徒はもちろん、神を父や友や最愛の者として礼拝するが、母なる神という認識は、神に最も近い場所に引き寄せてくれる。ヴェーダーンタによると、ブラフマンとして知られる究極の実在は、名も形も持たない超越的で中性的な存在だ。最終的な非二元の体験では、ブラフマンのみが存在する。魂と宇宙はそれとひとつとなる。マーヤーと呼ばれるシャクティ、ブラフマンの不可思議な力が、宇宙と、生物、無生物とをつむぎだし、保持しているのだ。ひとつの循環が終わると、すべての名も形も『彼女』に帰して種子の状態に留まるが、また新たな循環が始まると有形の粗雑な形で再び姿を現す。シャクティとは善と悪、苦と楽、生と死などの対極を伴った創造の全体である。智慧と無明の両方を通して機能する。そして創造を永続させるにはその両方が必要だ。『彼女』の無明の相であるアヴィッデャー・マーヤーを通して、『彼女』は創造物を幻惑し、世界に縛りつけ、その現象を延長させる。『彼女』の智慧の相であるヴィッデャー・マーヤーを通して『彼女』は霊的な求道者に洞察力を与え、その鎖を外して最終的には解脱に導く。このシャクティは、束縛と解放の両方を支配する。シュリー・ラーマクリシュナは、『彼女』をカーリーとして、『母』を礼拝し、しばしば愛情をこめて『我が母』と呼ばれた。神なるブラフマンとそこに潜む力シャクティは、火とその燃える力、宝石とその輝き、あるいは言葉とその意味のように、分けることができないのである。神々と天使、預言者と聖者、世俗者と邪悪な者といったすべての創造物は、『彼女』の現れであり、『彼女』の子供たちである。『彼女』から万物が生まれるという意味において、『彼女』はこの世の母に似ており、誕生後は『彼女』に守られるのだ。そして最終解脱の時には、『彼女』の恩寵の門をくぐってブラフマンに入る。

 人々への神の愛――無私にして、請わずとも与えられる、身にあまるばかりの愛――は、あらゆる宗教の神秘主義者や預言者たちによって強調されてきた。人々が経験するこうした愛の最も身近な例は、母が子に抱く愛だ。母親の愛と犠牲によって、他のすべての関係に優る霊的性質を有す。妻の愛は、自分の受ける愛情次第で変ってしまうこともあり得る。しかし母親の愛情は、まさにその本性ゆえに、必要が大きくなればより深くなり、地獄の果てにまでも愛する我が子について行く。決して我々を拒めない思慕の愛、永遠に我々と共にある祝福、我々が離れられない存在、我々が常に安全でいられるハート、深遠な甘美さ、断ち切れることのない絆、陰りのない神聖さといったものすべて、更にそれ以上が母性愛を成しているのである。

 現代の世に聖なるシャクティが、サーラダー・デヴィーの汚れない心身を通して最大限にその姿を現したことから、シュリー・ラーマクリシュナは、彼女を神の母性の象徴とした。こうすることで師は二つの重要な目的を果たされた。神を全能にしてあわれみ深く、すべてを許してくれる母としてあがめることで、求道者はおそれを知らぬ者となり、実在に近づいて行く。女性の中に神を見ることで、徐々に肉欲は昇華される。異性との肉体関係による満足を求める肉欲は、霊性を求める男女が取り組まざるを得ない不倶戴天の敵だ。女性は男性を自分の子供と見なすことで容易に肉欲に打ち勝てる。女性が、その本質においてすべての男性の母親であることは、社会が他のどのような関係を容認し、取りざたしようとも変らない。男性もまた女性の内に母の象徴を見る事で、欲望を抑制することができる。しかしながら無知な者は女性を肉体的欲求を満たす対象として見てしまう。そうした者は女性の肉体を渇望し、女性の内にある『神聖さ』を排除してしまう。こうしてこの世の渦中に巻き込まれるのだ。女性の内にある『神聖さ』をあがめれば、不死の甘露の祝福を受けるのだ。

 ある時シュリー・ラーマクリシュナは一人の若い弟子に女性をどのように見ているかとお尋ねになった。弟子は答えて言った。「ぞっとします。女は霊的生活の障害です。汚れそのものとして避けています。私の内には女たちの前では雄叫びを上げる獅子がいるのです」「我が子よ」師は言われた。「女性を毛嫌いしても、性の迷妄に打ち勝つことはできない。そんなことをするとますます罠に巻き込まれてしまうのだ。女性を自分の母親として見ることだ。そうすれば女性はお前を悩ますことなく情欲の克服の手助けとなってくれるだろう」シュリー・ラーマクリシュナは、性的本能に打ち勝つための、より安易な方法を示された。サーラダー・デヴィーを瞑想することで男性が不純な思いを跡形もなく根絶できるように、師はサーラダー・デヴィーを残して逝かれたのだった。彼女は常に肉体の純潔と性質の浄らかさを保った純粋さの権化だった。

 ここでは妻は夫を神と見るようにヒンドゥー教が教えていることも述べておこう。夫を神性と結び付けることで、妻は徐々に肉欲を昇華できるようになる。夫婦がお互いを神の現れとして、また子供たちが両親を地上における神の象徴として見ている家庭は、真に祝福されている。”(P88~P90)

 

“『聖なる力』は、宇宙的な霊性の必要を満たすために肉体をまとって下生する。ヒンドゥー教では神の化身を、特定の人や時代に限定しない。シュリー・ラーマクリシュナは、今日この時代に神人と見なされているが、彼を通して具現されたのと同じ神が、サーラダー・デヴィーを通しても具現されたのだ。サーラダー・デヴィーの生涯のドラマがページを追って展開するに連れて、世が夫婦と呼ぶ二つの神人があらわれたことの目的があきらかになるだろう。シュリー・ラーマクリシュナは、かつてサーラダー・デヴィーに言われた。「お前が誰なのか私にはわかっている。しかし今はあかさずにおこう」”(P91~P92)

 

 (スワーミー・ニキラーナンダ「ホーリー・マザーの生涯」(日本ヴェーダーンタ協会)より)

 

*19世紀インドの聖者ラーマクリシュナについては、日本でも何冊かの本が出版されていますが、まずは田中嫺玉著「インドの光 聖ラーマクリシュナの生涯」を読まれることをお勧めします。すばらしい内容で、精神世界に関心を持つ者の必読の書です。この本は、過去に三学出版や中公文庫からも出版されましたが、ブイツーソリューション発行(発売:星雲社)のものには、貴重な写真が数多く載せられています。同じく田中嫺玉さんが翻訳された「不滅の言葉(コタムリト)」全五巻(ベンガル語原典訳)、「マハーバーラタ 上・中・下巻」(第三文明社)なども素晴らしい本です。

 

*以前にも書きましたが、男女は平等・同権であっても役割は異なっており、同一ではありません。不幸なことに、歴史的に女性が男性よりも下位の立場に置かれ続けたのは事実ですが、この問題は男女双方がお互いを「神の生き宮」として相手の内なる神性に意識を向け、敬意を払いあうことによってこそ解決されるものだと思います。今、ジェンダー平等を主張している連中は霊性を無視し、男女の性を唯物論的な視点からのみ論じていますが、これは人間の性を動物と同じ次元に引き下げるものでしかありません。

 

 

・スワミ・アドブッターナンダ(聖者ラーマ・クリシュナの高弟)

 

 “あるとき、ラトゥ・マハラージ(注:スワミ・アドブッターナンダのこと)は男性信者の一団に語った。「女性を虐待する男性がいるが、彼女らに対して決して手を上げるべきではない。彼女らがどれほど耐え忍んでいるか君たちは知らない―― 彼女らは忍耐そのものなのだ。女性を虐待したら、彼女らはそれをどこに転じればよいだろうか?彼女らは母なる女神のあらわれなのだ。『母』がさげすまれれば、主はお怒りになる。だから、君たちの安寧は彼女らを幸福にすることにあるのだ。シーターの涙がラーヴァナの民を滅ぼしたように、女性の涙は君たちを滅ぼすだろう」”

 

(スワミ・チェタナーナンダ「スワミ・アドブッターナンダ 教えと回想」日本ヴェーダーンタ協会より)

 

・パラマハンサ・ヨガナンダ

 

 “人生の唯一の目的は神を見つけることです。もし、あなたがすでに結婚しているなら、夫婦そろって神を見つけなさい。まだ独身なら、今すぐキリストの「まず神の国を求めよ」という教えに従いなさい。神を見つければ、神があなたの取るべき道を教えてくださいます。さもないと、結婚生活にどのような運命が待ち受けているかしれません。想像もできないような悲劇の話がいろいろと私の耳に入って来ます。それは、ほとんど人間関係の不和から生じる悲劇です。人は若いうちに、自分の感情を制御することを教えられるべきです。だれでも、自分の衝動的感情を抑えることを学ばずに結婚すべきではない、と私は考えています。自分の感情が抑えられないうちは、家庭を持つ資格はありません。まず自己制御を身につけることが何よりも大切です。そのうえで結婚を考えれば、あなたにとって最良の伴侶が自然にあなたの前に引き寄せられて来るでしょう。

 

     (「人間の永遠の探求 パラマハンサ・ヨガナンダ講話集」(森北出版)より)

 

・エドガー・ケイシー

 

 「ソウルメイトについて」

 

 “質問の中には個人的なものも、抽象的なものもあるが、「ソウルメイト探し」という人間の永遠の課題に光を与えている。

 

 問: わたしは双子の魂(ツインソウル)という説に関心を持っています。夫とわたしがツインソウルであるかどうかわかりますか。

 答: それは二人が何を目的としているかによるのである。全く同じ二枚の木の葉も、草の葉も存在しないのである。人は互いを補い合っているのだ。

 

 問: 物質界の魂一人一人にとって霊的な相性というものがあるでしょうか。

 答: セックスのことを言っているのなら「ノー」である。助け合いと霊と意志のことを言っているのならば、人は創造的力と一つになるべきである。

 

 問: この二人は何か特別な目的のために一緒になったのでしょうか。二人が互いに引き寄せられたのはそのためなのでしょうか。

 答: 一つの目的の為に一緒になったのである。

 

 問: わたしにソウルメイトがいるでしょうか。どこでその人を見つけたらいいですか。

 答: あなたが自分自身を神に受け入れていただけるものにしてゆくにつれて、ソウルメイトはあなたの人生に現れ、あなたはそれと知るであろう。

 

 ヒュー・リン・ケイシー(ブログ主注:エドガー・ケイシーの長男)は、ケイシー・リーディングをまとめて、次のようなソウルメイト観を導き出している。これは先の続きだ。

 

 「ではソウルメイトとは何でしょうか。それは殆どの過去世で結婚を共にした魂なのでしょうか。ソウルメイトの状態が長い時代に渡って人生を共にすることによって築かれることは明らかです。しかし、そこには肉体的な引き合いだけでなく、精神的、霊的にも互いを助ける能力があるのです。

 ソウルメイトは一人以上いるかもしれませんが、他にソウルメイトと思える人がいるからといって結婚相手と離別することにはよく注意しなくてはいけません。エドガー・ケイシーは、今の結婚相手との間には学びのための機会があるので、すでに結婚している人は安心してよいと言いました。

 また、これから結婚する人たちでソウルメイトを探している人たちに対しては、リーディングは「より助けとなり、より支えとなる、より均り合いのとれた生活を与えてくれる人、〝正しい波動″を持った人」を選ぶように助言しています。

 ですが、ソウルメイトを見つけたことが、良い結婚を保証することにはならないのです。その関係を花開かせるために、お互いがそれに取り組み、努力を尽くさなくてはなりません」

 

 誰かがこんな質問をケイシーにした。

 

 問: 彼女はこの人の人生が成功するのに最適のタイプでしょうか。

 

 眠れるケイシーは、まるで自分自身と息子に対して語りかけるように答えた。

 

 答: 互いにそうなるかもしれない。互いに結婚し合った沢山の生涯を通して築き上げてきた絆によって運命があらかじめ決められていない限り、初めから完璧に合った魂などいないのだ。

 

 エドガー・ケイシーは、ソウルメイトを伴う生まれ変わり、生まれ変わりを伴うソウルメイトの理論を作り出した先駆者だった。ヒュー・リンはキリストにも、またその使徒たちにもよく知られているユダヤ教の秘密教義「カバラ」が、生まれ変わりとソウルメイトを関係づけているのを知って興味を持った。

 

 「神の掟に従っている人々が自分の本当のソウルメイトと出会い、結婚するのです。神の掟を拒んでいる人々は、この結合をも拒むのです。つまり、不純がソウルメイト同志を引き離し、道徳が彼らを共に引き寄せるのです」とヒュー・リンは語った。”

 

(ジェス・スターン「ソウルメイト 上」中央アート出版社より)

 

 「受胎のときの両親の意識」 

 

 “覚えておきなさい。人は、瞑想したり、祈ったり、求めることで、偉大な魂をこの世に招き入れるための環境を作り出しているということを。

 なぜなら、妊娠期間には、生まれ来る子供に対して責任を持つ人たちの態度や、子育ての務めを引き受けようとする人たちの姿勢が、彼ら自身にとって、また他の人たちやこの世界にとってすら祝福となり得る偉大な魂を招き入れるかもしれないからだ。

 昔からいわれているように、この世に子供をもたらす人々はまことに祝福された人々である。(540-7)”

 

 “子供は何歳くらいから教えたり、しつけを始めるべきだろうか。

 妊娠の何か月も前からだ。

 その影響力は完全なる賜物の与え主に全く属するものである。(5752-2)”

 

 “ある人たちが述べているように、ハイアラーキー(霊的階層組織)は地球での経験を通して魂が進化向上することを忘れているわけではない。それゆえ、そのような(ハイアラーキーの干渉による)霊的進化が稀だというわけではない。しかし、より自然な霊的成長は、そのような魂をゆだねられた人たちの交流や祈り、献身を通して行われるものである。

 なぜなら、これまでも述べてきたように、生まれる機会を求めている実体の側に、ある種の選択があるからだ。この物質世界、物質性の中にあっては、しばしば自らの霊的意義を否定するような仕方で躾けられたり、教え込まれている。

 魂がこの世に入ってくるのは霊的成長のためではないだろうか?

 ただ単に物や心や肉体の充足のために生まれてくるのだろうか?

 道であり、我らの手本であるキリストにあっては、これらの体と心と霊の側面は常に一つのものとして捉えられる。イエスの母は充分にこれらのことを心にとどめ、思いめぐらされたのである。

 これが全ての親に対する戒めでないとしたら、他にどのような意味があるだろうか?

 成長過程にある子供の感情から発せられる言動についてよくよく熟慮せよ。聖書にあるように、彼らを進ませるべき道に躾けよ。そうすれば大人になって道から外れることはないだろう。(1521-2)”

 

 (レイチェル・ランネルズ「エドガー・ケイシーが示す愛と結婚の法則」たま出版より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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