「生身の不動」 箱崎文応大阿闍梨 | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “明治2~平成2年(1892~1990年) 天台宗大阿闍梨。北嶺大行満。明治25年4月7日、福島県小名浜村(現いわき市小名浜)に農家の三男として生まれる。本名・箱崎作次。40歳で得度。無動寺回峰などを満行後、横川の飯室回峰を約350年ぶりに再興。大峯回峰、御嶽回峰、比良回峰などを行う。その「生身の不動」の法力で多くの人々を救った。昭和18年(1943年)から飯室谷長寿院に住し、平成2年2月6日、長寿院付属三昧堂で示寂。享年98歳。”

 

 “豪僧・箱崎文応は、天台宗きっての破天荒な不動行者であり、あまりの過激な荒行ぶりに「不死身の鬼行者」とまでいわれた。

 実家は農家で、父親が厄年のときの子だったため、間引きされるところだったが、母のおかげで助かる。

 長じて親戚の家に婿入りしたが、38歳で妻子を捨てて出奔。職を転々とし、北海道の小樽で魚の卸問屋をやっていた友人を頼って、「手代として雇ってもらった」という。そのころは鮭と博打(花札)と喧嘩の無頼生活で、本人曰く、「当時、酒は3升から4升は呑んだよ。体はじょうぶなんだね」。

 そして39歳のとき、友人の紹介でふたたび所帯をもつことになった。だが、結婚式当夜に痛飲。翌朝、目覚めてみたら、女房に逃げられてしまっていた。激怒して女房の実家に乗り込み、暴れたところで警察沙汰になって、留置所に拘留。

 「友だちがもらい下げに来てくれた。縁起直しに小樽一番の料亭で呑んだ。半生をふりかえってみても、俺はろくなことをしていない。このままでは俺は人間失格だと深く反省し、比叡山にのぼり、坊主になって罪滅ぼしをすると、その友だちに打ち明けたんだ」

 しかし、友人は本気にしない。そこで彼はナイフで左手の小指の咲をぶった切って、「このとおりだ。俺の覚悟を聞いてくれ」と迫ったのである。

 さすがに友人も了承したが、すでに箱崎の小指はもげかかっている。いまつければ治ると言われ、その指をからめて治すと、ふたたびその友人と呑み直し、翌朝、小樽を発った。

 昭和5年(1930年)5月26日、叡山の事務所の門を叩き、「坊さんにしてほしい」と頼み込む」はじめは門前払いだったが、その真剣さに打たれたのか大乗院を紹介され、小森文諦師に弟子入りを志願した。

 そのとき、小森から「飯炊き方向を1年やれば、弟子にしてやる」と言われ、箱崎はやり通し、昭和6年(1931年)40歳で得度したのである。

 昭和9年(1934年)、箱崎は無動寺谷より千日回峰行に入った。回峰行中も、寺の雑事や信者の世話は自分で行うというのが絶対条件である。昭和15年(1940年)、51歳で北嶺の千日回峰を満行、ついに大行満大阿闍梨となる。だが、「箱崎の僧位は中律師で、まだ小僧同然。とうてい満行とは認められない」と一部の大先達からクレームをつけられた。

 さらに、行者道の遙拝所で定められていた遙拝をせず、遠方の現地まで足を運んで礼拝した。いわば、『勇み足』であったのだが、それがルール違反として問題にされたのだ。しかし、問題視した大先達が急逝するにおよんで、不問に付されたという。

 ともあれ、箱崎はいっこうに動じなかった。修行地をかえて大峯回峰に挑戦。吉野から大峯までの往復48キロの難路を50日間歩きつづけたあと、奥駆けの峰入りを40日間抖擻(とそう)した。

 さらに締めくくりとして、山上ヶ嶽から大台ヶ原を経由し、伊勢神宮まで徒歩参拝するという、前代未聞の大荒行を敢行した。

 昭和19年(1944年)の木曾の御嶽回峰行では、かつて体験したことのない雷光、雷鳴、豪雨の嵐のなかで、怒髪を逆立て真っ赤な顔面をして立ちあがった五大明王を感得。そのすさまじいパワーを浴びて、恍惚状態におちいったという。

 昭和23年(1948年)には、59歳で比良山に1年間籠もり、比良八講を復興。その後飯室谷に住み、約350年間途絶えていた飯室回峰を、回峰手文の古文書を手がかりに再興する。まさに行の鬼である。

また、年末から正月にかけて、9日間の断食・断水行を36回遂行。ある年などは、仮死状態となっているところを引きずり出されたが、瞳孔が開き、死臭がしていたという。晩年は足が弱ったものの、毎日午前2時からの滝行と勤行は欠かさなかった。

 弟子志願者は何人かいたが、きびしい修行に耐えられず、皆逃亡か破門。唯一残った弟子(後継者)が、回峰行者の酒井雄哉師である。”

 

(「ブックス・エソテリカ・シリーズ 21 天台密教の本」(学研)より)

 

*今回紹介させていただいた箱崎文応大阿闍梨は、あまりにも別格で常人離れしておられますが、このような方が平成2年までご存命であったということは驚きでもあります。過去に「大法輪」誌に、冨永航平氏が『大天狗 比良山次郎坊の再来』という記事を書かれ、箱崎師のすさまじい験力のことを紹介されたということなのですが、どのようなものだったのか、ぜひ読んでみたいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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