龍神を見た話 (木曾御嶽山) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “御嶽山は活火山である。一九七九年、有史以来、休眠していたその火山が噴火した。この時、前兆現象はほとんどなかったが、三ノ池だけは異常を示した。いつもは清洌な水が濁り、硫黄の臭いが漂い、遠くで池の水音が聞こえた。かつてないことだった。”

 

“慶応三年(一八六七)卯の年七月、辰右衛門という四十二歳の男が、御嶽の掟を無視し、水行だと池に入ったところ、神罰を受けて死んでしまった。そう記した彼の親類の証文が、麓の旧黒沢村に差し出されている。

 では何故に神聖な三ノ池は、かくも畏ろしく、神聖な場所なのであろうか。講中のひとつ、群馬寛泰講に伝わる話を、老先達が語ってくれた。

 江戸時代後期。御嶽信仰の開祖の一人、普寛(一七三一~一八〇一)が登拝していた時のこと。一天にわかにかき曇り、あたりが暗くなってきた。が、彼が九字(魔除けの呪文と作法)を切るや、空は再び晴れ渡った。さらに登ると神が現われ、こう告げた。

 「そなたの九字により、大蛇が切られ死んだ。行ってみるがよい」

 いわれるがままに普寛が行くと、たしかに息絶えた大蛇が身を横たえていた。彼は大蛇を三ノ池に沈め、龍神として祀った。以来、三ノ池の水は病を癒す「御神水」として人々を救ってきたのである。

 普寛と彼に少し先立つ覚明(一七一八~八六)が現在の御嶽信仰を開き、その講や教会が、今の御嶽教系教団を形成している。

 

 龍神が祀られている故、それを見たという話が生まれて当然だろう。

 リアルな目撃談がある。

 十数年前、瀬尾恵治・清洲心願教会会長が三ノ池畔で経文を唱えていた時である。急に雲行きが怪しくなり、今にも雨が降りそうになった。すると対岸の方より、風もないのに三角波が立ち、五メートルほどの円となってこちらに近づいてきた。波のサークルが岸から二~三メートルのところで止まるや、おわんのような形の頭がとび出した。水中には幅五〇センチぐらいの胴も見える。お経が終わる頃、龍神は没し三角波は遠ざかっていった。

 岩峰直下、霧が去来する中に姿を見せる三ノ池に佇むと、龍神出現の話はふいに身に迫り、ゾクッと震えがきた。

 龍神は池のみならず地母神として御嶽に住まう。昭和初期、筒井行進という行者は修行中に新たな龍神を感得した。

 彼が行に専念すべく見た気に入山したのは五十代半ばであった。最初は玉滝口の新滝で千日の行に入った。食事は木食(もくじき)。火も塩も断って、ただソバ粉のみを水で練って食するのである。三年近く滝にうたれ修行を続けたものの、どうも心からおしあげてくる何かがなかった。仏教的にいえば、悟りに至らなかったのであろう。九百九十八日目の晩、覚明霊神が行進の夢枕に立った。

 「百間滝に往くがよい。そこにはわしが籠もった岩窟がある。改めて千日行をやれば悟れるであろう」

 新滝での千日行を終えた行進は、道を新たに切り拓きながら百間滝へ向かった。

 百間滝は幻想的な滝である。六合目に至る油木尾根に立ち、はるか彼方、御嶽頂上から真下に目を移すと、深い樹林のなかを落下する一筋の白い姿が見える。だが、滝そのものへの道はひどく険しい。絶壁といいたくなる急峻な坂を、笹をかき分け降りねばならぬ。ごうごうという滝の音が近くなるころ、岩壁を伝うように往くと、窟があった。そこが覚明の籠もった岩屋だった。

 行進がその窟に籠もった最初の夜に、霊怪は起きた。まどろんでいると、巨大な龍が口をあけ彼を食べようと襲いかかってくる。行進は九字を切り、印を結び気合いをかけ、龍を追い払った。そのまま祈りながらまんじりともせず夜明けを迎えると、覚明霊神が現出した。覚明が語るには、かの龍は自分がこの窟に封じた悪龍である。だが、龍神として祀ってやれば善龍に成るであろうという。そこで行進は、その龍に「長命龍神」の名を贈り、祀ってやった。今も窟には長命龍神が鎮まっている。

 行進はその後、黒沢口に筒井教会を開いた。彼のことは後継者の筒井義一から聞いたものである。義一は、戦後間もなく結核の身をひきずり、死を覚悟しながら御嶽に来て蘇生した人物である。

 義一も賽の河原で霊異な体験をしたことがある。”

 

(藤田庄市「本朝霊域紀行」(新潮社)より)

*近年、本屋の精神世界のコーナーで、龍神に関するものを多く見かけるようになりました。しかし、手に取ってみると、やたら龍神のことが軽々しく扱われていて、中には金儲けや恋愛などの現世利益を叶えるために龍神の力を借りようとするものなど、呆れるような内容のものもあります。文中にあるように、龍神には善龍ばかりでなく悪龍もいるわけで、一般人が安易に関わるべきではありません。

 

*御嶽教は修験道系の宗教で、「御嶽大神」を主祭神としています。この「御嶽大神」とは、国常立尊、大己貴命、少彦名命の三柱の大神の総称で、皇道大本と同じく国常立尊が祀られています。実は、出口王仁三郎聖師は、青年時代の一時期に御嶽教に身を寄せていたことがあり、御嶽教大阪教会長にまでなっておられたということです。それがある日のこと、神懸かり状態になられた御嶽教五代管長、神宮暠寿(たかとし)師から、「早く綾部に帰り出口ナオ殿と救世の神業に尽くされよ」と告げられて、綾部に帰ることとなり、それからご自身で皇道大本を組織されました。しかし、御嶽教との縁は続き、しばらくは皇道大本と伏見の御嶽教西部本庁とをかけもたれ、当時撮影された御嶽教教服姿の出口王仁三郎聖師の写真も残されています。

 

・人間と龍神 「龍神は祝詞で救われる」

 

 “『人間と龍神とどちらが偉いか』とよく聞かれる。しかし偉いとか偉くないとかいっては語弊があるが、人間の方が上である。ゆえに龍神はどうかして人間に進みたいと願っている。人間が奏上する祝詞の言霊の威力によって、だんだんと浄化されて人間に進まれる。したがって一回でも多く祝詞を聞きたいと願っている。そしてその聞かしてもらったお礼として、人間の要求のまにまに雨を降らしたり風を起こしたりする。また人間は龍神を使役する権利を与えられている。だから有難いものである。しかし今の人間は駄目である。みな四つ足になり切り言霊が濁っているから、龍神どころか大蛇をだって使役する力がない。猫だって犬だって今の人間の言うことは聞かない。彼等は同輩だと心得ているから。

 大和魂をみがいて早く四つ足と縁を切って本来の人に立ち帰ってほしい。神様は人間をば、雨も風も雷も皆わが言霊の自由になし得る魂に生みつけて下さっているのである。”

 

(「瑞祥新聞」昭和二年九月十一日号)

 

 

 

 

 

 

 


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