善女竜王の再生 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・善女竜王の再生

 

 “大正十年の第一次大本事件によって、本宮山の神殿が壊され、一時穢された山頂も、穹天閣などが建立されて、一応整備がととのううた昭和四年、聖師は、

 「開祖さまがかねてから言われていた和知川の竜神さまが、本宮山に登って来られ、聖地を守護される時節が近づいてきたので、そのお道を準備せねばならん」

といわれ、竜神道の建設を始める旨を申し渡された。

 そのとき聖師は工事着工に当たって

 「近松光さんを呼んで来い」

と言われた。

 近松光次郎氏は、京都出身の第二世の信者で、大工職であったが、後に綾部に移り住み、当時、町の大工仕事をしていた人である。

 聖師のお呼び出しを聞いて、近松さんが息せき切って現場に駆けつけて来たところ、

 「あんた、始めに鍬入れをしな……」

と、側にあった鍬をとって聖師が近松さんに渡され、鍬入れ式が行われた。

 その場にいた人々は勿論、本人すらその理由が判らなかったが、後になってその因縁話を聖師さまが側近の人に、次のように話されたのである。

 今から三千年前、天竺に「無熱悩池」という池があった。そしてその池で片目の女竜神が修行を続けていたが、釈尊がその池のほとりで、およそ次のような説法をされたことがあったとのことである。

 「……自分は間もなく涅槃に入るが、滅後五百年間は正法が護持されるが、年とともに正法が廃れ、五百年にして法滅時に入り、衆生は大三災の下に塗炭の苦しみに陥る。このとき、後仏たる弥勒如来が東方日の出の国に下生し給い、三会の教法によって前仏の導化に洩れた万衆を済度し給う……」

 その説法を聴聞していた善女竜神は、自ら思うに「自分はいまだ修行の日浅く、到底釈尊御生存中に悟りを開くことが出来ない」と覚り、弥勒下生の地である東方日の出の国に渡って後仏の説法を拝聴し、弥勒神政成就の御役にいささかなりとも尽くしたいとの誓願を立てて日本に渡来し、京の都の神泉苑の池底深くに潜んで修行を続けていたのである。これが「弘法・守敏の法力争い」に現れてくる「善女竜王」である。

 京の都、平安京を御造営になったのは、今を去る千百八十余年前の帝、桓武天皇であるが、それより数千年以前の山城一帯の地は、大きな湖水であって、その一番深い湖底が、今も残存している神泉苑であった。

 桓武天皇が平安京を開かれた時も一帯は湖沼地であって、降雨のたびに鴨川の流れが変わり、今も「御池通(おいけどおり)」や「伏見」の名が残っているように、池や伏水地帯が多かったのである。天皇は鴨川の大改修を行われ、新たに「堀川」の支流を造られて、今日の京都の基礎が完成したことは衆知の通りである。

 それから約三十年後、天長元年(八二四)淳和天皇の御宇、近畿地方一帯に大旱魃が襲来し、農作物は枯死寸前の状態に陥ったので、帝は非常にそれを憂慮し給い、西寺の守敏僧都に雨乞いの祈願を命ぜられたが、効験が全く現われなかった。

 それで今度は東寺の弘法大師に、祈雨の勅令をお下しになった。大師は詔を畏み、七日七夜の法要を行ったが、やはり効験いささかも現われず、自ら深く怪しみ、定(じょう)に入ってその原因を観じたところ、守敏の法力によって全ての竜神が封じ込まれていることが判った。

 しかし、それらの竜神の内、神泉苑の池底深く修行を続けていた年老いた片目の女竜神一体だけが、守敏の呪力を免れていたことが判り、それを勧請して降雨の法を修したところ、慈雲たちまち起こり、甘雨によって早天の災はたちどころに解消されたと伝えられている。

 この女竜神こそ、天竺の無熱悩池で修業していた竜神であり、その名を善女竜王と呼ばれていたのである。(註、以上の説話は、仏典または神泉苑の縁起録とは多少相違している。)

 それらの話をされた後、聖師は、

 「その善女竜王が、三千年の修行を積んで、人体を受けて生まれてきたのが近松光さんなのである。そしてその唯一の誓願であった『ミロク神政成就の御用をしたい』という思いをかなえてやったのじゃ……」

と語られたのである。

 その後、近松光次郎さんは、開祖さまの四女であるお竜さんの養子となり、金竜餅の店主になった人である。そして光次郎さんも片方の目が不自由であった。”

 

       (「おほもと」昭和52年6月号 葦原萬象『聖地にまつわる因縁』より)

 

*この「金竜餅」とは、出口聖師がつけられた名称であって、現在の店舗は綾部市の大本神苑(梅松苑)の駐車場の側にあります。