梅松苑の金竜海(現界における龍神界の根拠地) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・綾部、梅松苑の金竜海(現界における龍神界の根拠地)

 

 “大正三年(一九一四年)夏、王仁三郎は、「竜宮の乙姫さんの池を掘る」と宣言した。

 「竜宮の乙姫殿には、お住まいなさる、お遊びなさる所をこしらいて上げますのざ。出口なおに初発の形がさしてあるぞよ。この近くの屋敷のうちに、ざいぶ(大分)大きな堤(つつみ)も掘らなならんぞよ」(明治三十七年旧十二月十八日)

 この筆先が出て十年、沓島ごもりから九年前に王仁三郎はようやくこの神命を果たそうとする。それを果たせずにいた長い間、胸にあたためていたのであろう。

 構想は雄大であった。建築中の金竜殿の西北に大きい池を掘り、池の中央には冠島・沓島のひな型を配し、小さな宮を祀って小舟で渡る。池の西側に大和島をつくり、北と南からみろく橋をかける。池の東南隅から突き出た小島を蛙声園(あせいえん)と称し、小さな茶室を設ける。南の池畔には蝸牛亭を建てる。金竜殿の東側にも島をつくり大八洲神社を造営する。将来は金竜池をさらに西に広げ、東西の池を幅広い水路でつなぎ、その上に本宮橋をかける。全部完成すれば三千余坪の人工池が神苑内に満々と水を張り、お宮のある小島や橋の影をうつす。これらは総称して「金竜池」と呼ばれるはずであった。

 この頃のなおは変わらず神務にはげんでいたが、坤(ひつじさる)の金神の守護となった王仁三郎にすべてをゆだねて、おだやかであった。王仁三郎から新しい神苑の構想に加えて、その中に日本のひな型として大八洲を配し、おしどりの遊ぶ天国浄土を移写すると聞かされたなおは神意の実現として喜んだが、ただ一つ池の呼称にこだわった。

 「この人間界での『型』はたしかに池じゃろうが、神界にうつる姿はそんな小さいものではござへんで。八百万のご竜体の神々さまがみなお集まりになさる大きな海やさかい……」

 王仁三郎は即座に「金竜海」と改名した。”

 

 “「この竜神さんの池水がまず綾部の町の汚濁を洗い清め、やがては火と水で世界の泥をすすぐという型になるのじゃ」”

 

       (出口和明「出口なお 王仁三郎の予言・確言」光書房より)

 

 

 “金龍海が出来る時ですが、龍神さんたちが喜んで、神苑内はどこもかしこも、蛇で蛇で蛇だらけでした。私はその当時、元屋敷の二階に住まわしてもらっておりましたが、戸袋の壁の破れ目のような所にも、蛇がグルグルとナワになっています。私は恐くて恐くて、教祖さまに申し上げたら、上がって来られて蛇に祝詞をあげて「おやすさん、龍体を見たら祝詞をあげなされや」とおっしゃって下さいましたが、屋根の上などにも沢山おるのです。龍神さんがお池の出来上るのが待ちどおしかったのですね。

 あまり沢山の蛇なので二代様が「立替えに働いて貰わんならんが、人のいやがる、見にくい姿を見せんように……」と言いきかしておられましたが、仲々姿をかくさずウロウロしておったので、二代様が「しつこいッ!」と、どなられると、蛇はビックリして、われ先に、ほかのものをかき分けるように一刻も早く姿を隠そうと、瓦の中へ争うて入るのです。ウソのような話ですが、そのため屋根が波打つので、コワいみたいでした。二代様の言霊はえらいものだなァと思いました。それからというものは、そんな所にはおらんようになってしまいました。”

 

     (「神の國」昭和27年12月号 梅田やす『二代さまの思い出を語る』より)