木曾御嶽山登拝 (御嶽教) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “木曾御嶽山・王滝口一合目。御嶽神社里宮。ネズミ色の行衣に身をつつんだ行者五人を中心に、約五十人の一団が詣でている。唱和が、六根払いから般若心経にうつり、読経がすすむ。と、行者の一人が、突然、身をひるがえし石段に座った。身体がケイレンし、硬直している。ほかの行者が幣束をわたす。手にすいつくように幣束がつかまれ、小刻みに揺れる。一人の行者が平伏する。

 「さっそくの降臨、御鎮座ありがとうございます。御神名をお知らせください」

 「木食普寛(もくじきふかん)」

 好々爺然としていた行者が、えらく権威をただよわせ、声音(こわね)まで変わっている。行者が、御嶽山の夏山登拝に来た旨を申し出る。すると、普寛は、ねぎらいの言葉とともに、登山の際の隊列の順序や秩序について指示を与えた。

 こうして一九八二年夏の御嶽教群馬寛泰講による御嶽山登拝は、始まった。神がかりしたのが、講の六代目先達の長井寛泰師(六十六歳)で、御嶽信仰では、神が降りてくる人を「中座」とよんでいる。これにたいし。神と問答するのを「前座」といい、飯塚国男師がつとめる。そして、この降神現象を、「お座をたてる」という。『お座たて』は、いわば御嶽信仰の核心であろう。さきほど登場した普寛とは、江戸時代、木曾御嶽山(二〇六三メートル)を開き、民衆が登拝できるようにした行者である。普寛とならび称されるのが、覚明(かくめい)であり、この二人の大行者が現在の御嶽信仰のもとを築いたといえよう。覚明が開いたのが黒沢口、普寛が開いたのが王滝口。群馬寛泰講は、普寛につらなる講社であり、それ故に、王滝口から登るのである。

 里宮につづいての登拝は、講の霊神場であった。御嶽信仰では、行者が死ぬと「霊神」というものになり、霊神碑がたてられる。石碑であり、霊神名が彫ってある。各講社ごとの霊神場が、延々と御嶽山の一合目から四合目ぐらいまでつづいている。

 一部バスに乗り、滝めぐりに向かう。新滝と清滝(きよたき)である。両滝とも見上げるばかりの大滝で、新滝には本龍山不動明王、清滝には、清滝不動尊・弁財天・弘法大師がお祀りしてあった。行者五人が次々に滝行に入り、信者さんたちは諸尊にお参りをした。

 山道を登ってハナド(花戸)につく。普寛の遺骨が分骨されて、石塔が立ち、その前に鳥居がある。茶店だと思った小屋には「開闢普寛本堂」の額が掲げてあった。

 普寛が旧来の道者たちから妨害をうけながら、御嶽山を開こうと嵐をついて山に登りはじめたとき、弟子にしてくれとついてきた樵夫(きこり)がいた。その樵夫が場所をもらい、登拝する人々に「湯茶の接待をしたのがこのハナドである、という。御主人の小谷吉右衛門さんは、その樵夫の子孫で六代目とのことであった。御嶽山の山小屋や茶店は、すべて長野県王滝村営であり、入札により業者が決まるが、ここだけは例外で私営である。

 両側に霊神碑をみながら山道を登り、十二権現に着く。子ども授けの神さまで、手のひらにのる小さな手作り人形が社祠にたくさん奉納されていた。これを借りて帰り、願いがかなったら、翌年二つにして返すのである。「おかげさんで嫁に子ができました」などとお礼をのべながら幾人かが人形を返していた。飯塚行者は、今年来られなかった人にかわって、住所・氏名をあげながら感謝の報告をしている。

 再びバスに乗り、五合目、八海山神社に来た。八海山大須羅神王(はっかいさんおおずらしんのう)をお祀りしてある。その境内から出る水を、何人もがビンや水筒につめている。この御神水は目に効くといわれているのだ。

 八海山よりお札をもらい、石を借りていって、失明していた奥さんの目があいた人の話を聞いた。熊田正延さん(五十歳)である。何カ所も病院をまわり、最後は「あきらめてくれ」と医者から宣告されもした。しかし、御嶽山へ、縁者の誘いで登り、下山してから、あきらめかけていた気持ちをふるいたたせて、またほかの病院へ奥さんをつれていった。そこで治るといわれ、何回かの手術ののち回復したという。

 「道がひらけたのは、なにかあったのではないかと思います。登るたび、欠かさずお札をもらい、先達にも家へ来て貰ってお祓いをうけました。お山へ登るのは、つらいこともあるが、ご恩がえしと思っています。みなさん、和気あいあいとして登るし、眺めもいいし、来るのが楽しみですね。今年で十回めです」

 話の途中、涙ぐむところもあり、長井先達は、

 「真剣に八海さんを信仰したもんねえ」

 と、しんみりもらした。

 五合目の旅館で宿泊。大広間で祈祷のとき、また座がたった。八海山大須羅神王(クニサツチノミコト)、武尊大権現(ヤマトタケルノミコト)が降臨し、最後は普寛が、起床時間を告げ、

 「明日は通路悪ければ、足の弱きもの先頭に、充分休みながらゆけ。信者の顔色よく見て、落伍者なきよう注意せよ」

 と行体(ぎょうたいと講ではよぶ)の指示をした。

 食事は行者のみ精進である。”

 

 明くる日は四時起床。五時出発。曇っていて肌寒い。バスで七合目までゆく。山頂は雲におおわれている。ひとまず三笠山に登る。コケと石と樹木の原生林をすすむと、数々の祠がならんでいる。半僧坊天狗、長崎稲荷、三宝荒神、秋葉大権現、妙見菩薩などなど。いちばん上が三笠山忉利天であった。三笠山忉利天は、御嶽山の総取締役であるとか。警察庁長官といったところだろうか。

 いよいよ山頂めざしてすすむ。空はくもったままだが、山頂をつつんでいた雲はだんだんと切れ、ついに頂上が見えた。田の原大黒天にお参り。お金もうけの神さまらしく、お賽銭を借りてゆき、もうかったら倍にして返すしきたりである。山道が急勾配になってきた。息切れする人が出はじめる。”(P56~P61)

 

 “あくる早朝、まだやまない強風と雨・霧のなかを下山した。長井先達が、信者さんに語りかけている声が聞こえる。

 「家業に励むことが、神に通ずる行なんだよ。信仰とは、人を信じて自分の家業に励むこと。なにもお経をあげることが信仰ではないんでね。汗でもってミソギをしなさい。だって、真剣に家業に励まなければ、汗だって出ないだろう」

 下からは、続々と白い行衣に身をつつみ、御嶽信仰を抱く人々が、風雨をものともせず、頂上めざして登ってきていた。”(P63)

(藤田庄市「異界を駆ける 山岳修行と霊能の世界」(学研)より)

 

*以前にも書かせていただきましたが、御嶽教とは「御嶽大神」を主祭神とする修験道系の宗教です。「御嶽大神」とは、国常立尊、大己貴命、少彦名命の三柱の大神を御一体とみなしての奉称であり、国常立尊を祀る教団としては大本教よりも歴史が古く、出口王仁三郎聖師も一時期御嶽教に籍を置かれていたことがありました。長野県木曽町の御嶽教木曾本宮の他に、奈良県奈良市に御嶽教大和本宮があり、各地に小規模な講があります。

(御嶽教教服姿の出口王仁三郎聖師)

*御嶽教大和本宮のHP

 

*文中に、子宝祈願や病気平癒祈願のことが書かれていますが、神仏への祈願は、単に自分一人でお願いするよりも、ちゃんと行を積まれた行者の方、先達の方に取り次いでいただいた方が、より霊験があらたかであることは明らかですし、祈る人数も多い方が神仏との感応がより強くなります。

 

・聖人の取り次ぎ (インドのお話)

 

 “インドの賢者ナラダが、ヴィシュヌ神の神殿へと巡礼の旅に出ました。ある夜彼は、とある村に足を止め、貧しい夫婦の小屋で歓待を受けました。「ヴィシュヌの神殿にいらっしゃるのですね。私と妻に、子供を授けてくださるようにお願いしてくださいませんか。私たちには、もう何年も子供がいないのです。」

 

 神殿に着いた時、ナラダはヴィシュヌ神に言いました。あの人とその妻は、私に大変親切でした。二人に慈悲をおかけ下さり、子供を与えてください。」神はきっぱりした態度で答えました。「子供を持つことは、あの男の運命にはない。」そこでナラダは祈りをささげ、家に戻りました。

 

 5年後、ナラダは同じ巡礼に出かけ、同じ村に足を止め、同じ夫婦から再び歓待を受けました。今度は小屋の入口に、祈っている二人の幼い子供がいました。

 

 「どなたのお子さんですか?」とナラダは尋ねました。「わたしのですよ。」と男は言いました。

 

 ナラダは当惑しました。男は続けました。「5年前、あなたがここを去られた後、一人の聖者が私たちの村に托鉢に来ました。夜、私たちは彼を泊めました。翌朝、出発前に、彼は妻と私を祝福しました……そして神様はわたしたちにこれら二人の子供を授けてくださったのです。」

 

 これを聞いたナラダは、直ちにヴィシュヌの神殿に向かいました。着くなり神殿の入口から叫びました。「あなたは、あの男の運命には子供を持つことはないとおっしゃったではありませんか?彼は二人も持っています!」

 

 これを聞いてヴィシュヌ神は高らかに笑いました。そして言いました。「それは聖者のわざにちがいない。聖者というのは、運命を変える力を持っておるのじゃ!」

 

 イエスの母が、イエスに奇跡を行わせた婚礼の話を思い出します。イエスはマリアの祈りによって、彼自身の時が来る以前に、奇跡を行ったのでした。”

 

(アントニー・デ・メロ「小鳥の歌 東洋の愛と知恵」(女子パウロ会)より) 

 

*妊活、不妊治療で苦労しておられる方は多いようですが、野口整体の野口晴哉先生は、「腸骨が揃えば妊娠する」と言われており、妊娠のためには骨盤の歪みを正す必要があります。以前知り合ったヨガの先生から聞いた話ですが、体はどこも悪くないのに、妊娠できないという女性は、真向法の第一体操、つまり両足の裏を上に向けて揃え、両ひざを床につける座り方がちゃんとできない人が多く、ヨガを続けてこの座り方ができるようになったら妊娠した方が何人もいらっしゃった、ということでした。また、骨盤の歪みを正すことで、つわりも軽減できるということです。エドガー・ケイシーも、妊婦にオステオパシー(整骨療法)を勧めています(「オステオパシーの学校を出た優れた婦人科医であれば、多くの母親を産みの苦しみから救うことができる」457-14)。

 

 

 

 


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