歓喜天(聖天)の霊験 (林屋友次郎) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “私が聖天様の可なり熱心な信者の一人であるということは、今でこそは私の周囲の人々は誰でも皆知っていることであるけれでも、初めの中(うち)はそれを聴いた人が皆意外に驚いたものである。恐らくその頃の私の性格には、信仰などがありそうにみえない、甚だ理屈っぽい所があった為であろう。実際又自分を振り返ってみても、その頃の私に聖天信仰に這入る素質などは、全くみえなかったのである。

 もっともその頃と今とは大分時代の空気も違っておったけれども、私の学校時代は科学万能時代であって、神様や仏様の如きものがあり得るものと思っておらなかった。然し私の一家は代々毘沙門天を信仰しておった家であったから、私の父も矢張り毘沙門天を常々信仰し礼拝供養を怠らなかった。そうしてその毘沙門天を祀ってある仏壇の掃除をしたり、又毎日の御供物を盛ったりするのが私の言いつけられた仕事で、学校に行く前には必ずそれだけのことをしてゆかねばならなかった。それが又私にとっては面倒臭くってたまらなかった。そして又そんなことをすることが、如何にも馬鹿々々しいことに思われた。それで或る時、こんな毘沙門天の像などにどんな力があるものであろうかと思って、仏像を掃除する機会にそのお像をお厨子の中から取り出して、足の下に二三度転がしてみたことさえもある。今から考えるとずい分勿体ないことをしたものだと後悔するけれども、その時は幸いに何の罰も当たらなかった。そんなことをしていると、一層神様や仏様などが有りそうには考えられなくって、段々極端な無神論者となり、父の熱心な信仰を見ても心で嘲うような有様であった。従って学校を出たあとでも三十歳位になるまでは、曾て一度だって神仏に手を合わすような気も起ってこなかった。

 所がニ十六、七歳の頃になった時に、或いは神仏というものも有るかも知れん、というような気持ちを起こさせられる事件に遭遇した。この時の事を話す為には、多少一家の内輪にも触れなければならない。そうしてこんな事まで話すことは、私の周囲に多少嫌な顔をする人が出てこないとは限らないが、それを言わなければ話の筋が立たないから、思い切って話すことにしよう。一体、私の家は父が次男であった為に分家した家であって、私の父が出た父の兄の家が本家であった。そうして父は分家の際に譲らるべき財産が、五十歳頃迄快く分けられなかったのみならず、やっと譲り渡された財産も、一家の体面を維持してゆくのに充分なものでなかった。この事は父も勿論不愉快に思っておったことであろうけれども、金のことだけに口に出しては争わなかった。その為に私の兄は早くから仕事を見付けに支那の方に行っておった。幸いその中に日露戦争が起って、支那におったことが便宜となって、御用商人となることができて、そこで幾らかの金を儲けることが出来た。そしてそれを資本に、満洲に旅館を経営しておった。私も明治四十三年に慶應義塾を出るとすぐに兄の許に伴れて行かれて仕事の手伝いをさせられた。父も又郷里金沢を引上げて間もなく満洲に来るようになった。

 この話は父が満洲に来てから後のことであるが、兄の手許に万と纏まった金が暫くあいておった。すると或日兄が突然父に向かって、「此の金を遊ばせておいても仕方がないから、本家にでも要ったら使わせたらどうでしょうか。同じ事なら親類にも都合の良いように、又いくら利息もよく運用できるようにした方がよいと思いますが‥‥‥」という相談をもちかけたのである。私はこの話を側から聞いておって、父や兄の平素の本家に対する感情と対照して実に不思議な感を起こしたのである。而し横から口を出すべき事柄でもなかったから黙っておった。それで本家にその金が要らぬかということを問い合わせると、「タノム、オガム」という返信が来たのである。その電文を見て、父や兄は、いくら金が貸して貰いたくても、頼む拝むと迄いわなくてもよかりそうなものをと非常に笑っておった。

 然し後できいたところによると、その時は本家の主人、即ち私の父の兄がその当時骨董に凝って、身分不相応な贅沢をした為に非常な財政困難に陥り、ちょうどその時送っただけのお金が無いと家も潰れかねない状態に陥入っておった時であった。その為に、金沢市の養智院(裏古寺町の鬼川の聖天)という聖天様を祀ってある真言宗のお寺で、常々御祈祷をして貰っておったが、特にそのお金の要る日が切迫したので、三週間の大浴油を修して貰い、一生懸命聖天様に縋りついておったのである。すると丁度その満願の日に、今まで本家に対して好感をもっていなかった父と兄から突然、本家にお金を貸そうという気紛れな気持ちを起こして電報を打つに到ったのである。向こうが「頼む、拝む」という返電をしてきたのも無理のないことであったのだ。この話をきいて私も全く異様な気持ちになって、矢張り神仏の力というものが、こんな風に働くものであろうかという気持ちを生ぜざるを得なかった。一体、この本家の人達は、平素実によく聖天様を拝みもするが、聖天様の御利益も驚くほどよく受ける家であって、今から七八年か十年も前に家を大整理しなければならないことが起って、その時も三万円程のお金がなければどうとも始末がつかないような事があった。この時にも矢張り聖天様に非常に熱心な御祈祷をした結果、私の兄が突然金を貸す気持ちを起こしたと同様に、金沢の、〇屋という金貸しから三万円貸すという電報を打ってきたそうである。―― その当時本家は金沢を去って京都府下の宇治に移っていた――。この〇屋という家も、私はその名前をよく知っておるけれども、先方が尚生きている人であるから名前は遠慮しておく。そうしてこの話はその当時、その一家の人から直接に聴いた話であるから間違いはない。”

 

(「昭和新篇 大聖歓喜天利生記」(大井聖天堂大福生寺発行)より)

 

*林屋友次郎先生(明治19年~昭和28年)は、金沢出身の方で、大正4年に東京鋼材(現在の三菱鋼材)の社長となられますが、十数年後に仏道修行のために辞任され、新たに駒沢大学教授に就任し、以後仏教学の研究に専念された方です。東京帝国大学からも文学博士の学位を受けておられます。戦後は再び実業界に戻られますが、仏教学について何冊もの著書がおありです。

 

*象頭人身の歓喜天尊(聖天尊)は、十一面観音の化身とされ、凄まじい霊験を現されることでも知られています。歓喜天尊への供養として、華水供や浴油供などの形式があるのですが、いずれも専門の聖天行者に行って頂く必要があり、なかでも浴油供は霊験が顕著であると言われています。ただ御無礼をするとお叱りを受けるということで、一般人が尊像をお祀りすることは禁じられており、「恐い神様」だと思っていらっしゃる方も多いようですが、高名な阿闍梨であった三井英光師は、「『聖天様はみんなに利益を施したい余り、大日如来の最後方便身としてわざわざあのような奇怪な姿を以って出現しているのに、徒にこわがっておしこめてしまい、誰も拝んでくれない』との御不満が障碍ともなる‥‥‥」と説いておられます(「加持力の世界」(東方出版)。この本では、師が高野山奥の院での浴油供の実践により体験された霊験実話も紹介されています)。実際に浴油供が行われている寺院としては、ここで紹介させていただいた金沢市の養智院の他に、埼玉県熊谷市の聖天山歓喜院(妻沼聖天山)、東京浅草の本龍院(待乳山聖天)、品川の大福生寺(大井聖天)、横浜の弘明寺、奈良県生駒市の生駒山宝山寺(生駒聖天)、京都の双林寺(山科聖天)、大阪の了徳院(福島聖天)、香川県の八栗寺(八栗聖天)などがあり、歓喜天尊への御供物として有名な「清浄歓喜団」は、奈良時代から伝わる日本最古のお菓子で、七種類の香りが混ぜられ上品な甘みが特徴で、京都の亀谷清永さんから購入できます(通販も可)。京都駅でも販売されているようです。新型コロナウィルスにより、経済が打撃を受けている現在、神仏のご加護を受けることも必要だと思いますし、神仏に縋っている者には、少なくとも努力が無駄に終わるということはないはずです。また、寺院に祀られている歓喜天尊は、ほとんどが男天と女天が合体した双身像(大聖歓喜双身天王)であり、そのお姿の通り和合の神様ですので、商売繁盛の他にも、特に良縁成就や子宝祈願、人間関係のトラブルの解決に験が大きく、さらに病気平癒や霊障つまり悪霊の調伏などにも力を発揮されるといわれています。

 

*大阪の福島(浦江)聖天こと了徳院は、江戸時代の高名な観相家 水野南北や豪商 高田屋嘉兵衛、そして丸大食品の創業者 小森敏之氏などが信仰しておられたことでも知られています。

 

*天満宮こと、菅原道真公は、生前に篤く十一面観音を信仰していたことで知られていますが、天満宮(天満大自在天)とは、歓喜天(大聖歓喜自在天)と習合した御神名であるとの説もあります。

 

*歓喜天尊の経典の一つに「聖天講式」というのがありますが、これは、新義真言宗の開祖である興教大師・覚鑁(かくばん)上人(1095~1143)の作です。覚鑁上人は、その身そのままで不動明王のお姿になられるなど、類まれな霊力をもっておられた方ですが、歓喜天尊をも篤く信仰しておられたことが伝えられています。

 

‥‥‥若し十方諸仏の利益に預からんと欲する者は須らく此の天に供養すべし。若し一切諸神の冥助を蒙らんと欲する者は須らくこの天に恭敬すべし。一尊一天の讃嘆を致すと雖も普く諸仏諸神の威光を増す。‥‥‥」(「聖天講式」より)

(興教大師覚鑁上人)

 

()(てん)(そん)(もう)するは 和光(わこう)利物(りもつ)表示(ひょうじ)にて 

 

隋類応(ずいるいおう)(げん)ましまして 陰陽(いんよう)和合(わごう)(もと)ぞかし

 

万像(ばんぞう)これより生長(せいちょう)し (こん)(たい)両部(りょうぶ)教主(きょうしゅ)たり 

 

(ほか)には忿怒(ふんぬ)御姿(みすがた)も (うち)には慈悲(じひ)御心(みこころ)

 

(ゆえ)衆生(しゅじょう)()()きて (あまね)()(らく)薩埵也(さつたなり)

 

功徳(くどく)(たか)きは(てん)()し 利益(りやく)(あつ)きは()(ひと)

 

十方(じゅっぽう)周遍(しゅうへん)ましまして 衆生(しゅじょう)(まも)らせ(たま)(なり)

 

福徳(ふくとく)(さい)()()つはまた 延命(えんめい)敬愛(けいあい)その(ほか)

 

降魔調伏除病(ごうまちょうぶくじょびょう)(とう) (ねが)いにまかせて()(たま)

 

(たとえ)(まず)しき(やから)にも (そん)名号(みょうごう)(とな)えつつ

 

(いの)れば納受(のうじゅ)ましまして (たちま)栄華(えいが)(しるし)あり

 

 

               (「歓喜天尊和讃」より)