「神宮大麻」 伊勢神宮の大麻の霊験 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “播磨の加古の郡にある別府といふほとりの里人で一団の人が、寛永二年の冬の頃に伊勢の皇大神宮に詣でて、其の御師(おんし)と聞こえた某(なにがし)といふ人の家に宿ったが、その中の一人が云ふには、

 「俺(わし)は元来、神の御徳など其れ程に尊び奉らねばならぬという事を知らなんで、長の年月を過ごしてきたものぢゃが、今年の夏から秋にかけて疫病が大そう流行ったについて、其のために死ぬる者が多く、俺の家でも皆その病気が伝染って健康なのは俺一人だけぢゃった。それで流石の俺も何とも心細くなって、今は何を頼るといふものもなく、今日は熱がうつるだろうか、明日は病気が出るだろうかと思ひ苦しんで居る折に、フト心づいたことは、今は大神を御頼み申し上げるより外にないと思って、毎年拝戴して斎き奉ってゐた伊勢の大神宮の祓の麻を家の清浄な床に取り出して改めて斎き奉り、其の御前に額づいて、

 「今年斯んなに一般が悪い病気に染まって臥せるやうになりましたのは、全く人々の犯した罪を罰し給ふ事があってのことで御座りませう。さすれば今から私をはじめて一同が其の罪を贖ふために善行を積むで御座りませう。どうか家のうちに病んで居りますものの病苦を御緩め下され、命を全うさせて下さりませ」

 と、お願ひ申し上げて、一心に誓ひを立て、只管(ひたすら)に祈願を申し上げたところ、不思議にも其の夜、病んで臥せって居る者の夢に、彼の斎き奉ってた大神宮の大麻から光を放ち給ふのを見たといふものが出た。それから日が経つにつれて、それほど悩み患ったものたちが、自然に熱が解けて皆一命を取り留めたので、近隣の家々にも事のわけを告げて其の事を行ひ始めさしたところ、心に誠があって能くつとめたものは皆な病難を免れて命を全うすることが出来た。その謝賽(おれいまゐり)にといふので、斯んなに時ならぬ時に参詣の本意を遂げたのでござる」

と語った。

 その後は毎年、伊勢にお詣りすることを怠慢(おこた)らず、何時も神徳の事を語って悦び尊み、道すがらにでも遺ちたものを見れば、努めて元の持ち主に返すやうにし、盲人のぬけ参りするのを見ては深く憫んでやるなど、あれやこれやと人のためをはかり、其の一団の講中といふのに入ってる人は、正しくない人はひとりもなく、皆な大神宮の信奉者となったのであった。”

 

(山口起業撰「口語 神判記実」(八幡書店)より)

 

*「神宮大麻」は、今は札型のものがほとんどで、全国各地の神社で領布されています。そのすべてが伊勢神宮内で奉製されたものであり、よって霊験に変わりはありません。

 

*出口王仁三郎聖師は、「伝染病は悪霊の作用」であるとし、霊界を浄化するために禊の神事が行われねばならないと説かれました。「神宮大麻」は大神様の御分霊であるとともに祓い清めの力もあり、各家庭の神棚に「神宮大麻」をお祀りし、日々の行いを正しくするよう心がけることも、ある種の禊といって良いと思います。神様の力が作用するためには、人間の側からの働きかけも必要なのです。

 

 

・エドガー・ケイシー・リーディング

 

 “これまでも見てきたように、主の臨在の約束に対しても、ケイシーは人間の側の働きかけが重要であると言う。この働きかけは、ただ外面的な服従を示すだけではだめで、「神を知ろうとする者は、神のいますことを信じなくてはならない。そして何よりも、そのように行動することである!」(一一五八-九。参照へブル11章9節)。また、内面的、個人的働きかけというものも、等しく強調されている。

 

 あなたにとって神はどれほど個人的な存在であろうか?あなたが望むだけ、神はあなたにとって個人的な存在となるのだ!イエスとして肉体に現れたキリストと、どれほど親密な関係であろう?あなたが望むだけ、キリストは近く、大切なものとなるのだ!……。

 あなたに愛する子供がいるとしよう。求める子供と、求めない子供のどちらに、あなたは応じるか?それはあなたが一方の子供により大きな愛情をかけているというわけではない。これは相互的な反応である!」(一一五八-九)

 

 つまり、神は我々の心からの応答を望んでおられるのであり、また信仰というものは、罰を免れんがための手段ではなく、神との深く高貴な個人的関係を得んがための道であるのだ。このような関係を結ぶために「主は、勇気を失い、失望し、将来の展望を失った者の傍に立つと約束されたのだ!」(二一五六-一)。”

 

(リチャード・ヘンリー・ドラモント「エドガー・ケイシーのキリストの秘密」たま出版より)