拝神の記 (亀山神社元宮司・潮武臣) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “夜来の雪に掩われて、見渡す限り白銀の世界に包まれた瓶山の杜に、尚も降り続く雪は止みそうにもない。

 私が住みなれた故郷を後に、此の神域に移り住んでから半年が過ぎていた。昭和二十二年と云えば、近来にない豪雪に見舞われ、正月以来の雪が二月の中端を過ぎても消えず、神域はスッポリと雪の中に埋まって訪れる人影もない。唯、裏参道の細い坂道だけが、やっと人の通れるほどに雪が両側に掻き分けられていた。山裾に湧き出る水が六人の生活を支える唯一の水源であった。一町余の雪の坂道を二つの担桶(たご)にいっぱい汲んだ水を担ぎ上げるのが、日課の一つとなっていたが、こんな生活は初めての体験で、雪に明け雪に暮れる山のくらしには、春の光が一入(ひとしお)待ち遠しかった。

 雪を交えて終日吹き荒れた風も夜に入ってからはおさまったが、それでも時々木立を揺るがして、"ゴウ"と音を立てて寒風が吹き過ぎて行くと、さすがに緊張した身にも寒さが肌に沁みて、思わず身震いする。

 二月二十五日の真夜中、更けわたるしじまの中に、今夜で三十日目の夜を、私は一人ひそかに拝殿に端座を続けていた。

 先祖代々の社家に生まれ育った私は、神に対する疑いなど一度として抱いたことはなかったが、それが此の頃になって、俄に神の実在について不信の念を持ち初めたのであった。神の御実在と云う問題を私はこれまで考えて見たこともなかった。それが、極端な生活の窮乏と、当時の国民の皆んなが抱いていた祖国必勝の悲願が無惨にも打ち砕かれたことに依って、自分でも思いもかけぬ岐路に立たされたのであった。あれ程期待した天佑神助の神風も卆に吹かなかったことを思うと、果たして、神は実在し給うものであろうかと云う疑惑の念が湧いて来るのをどうすることも出来なかった。

 降って湧いた様な神に対する不信の念は、日を逐て熾烈となり、悶々の日を過ごす内に、遂に私に容易ならざる決意をなさしめた。それは家族にも秘して、ひそかに神の御実在を確かめるべく、只管神の姿を逐い求めることであった。

 「仰ぎ冀(こいねがわ)くは、天神地祇八百万神等正に此の所に降臨鎮座坐しまさば、、速に御尊影を顕現し給い、吾をして御神姿を拝さしめ給わんことを。畏きことながら、この至願納受せられざらむには、吾、神の御実在を信じ難く、実在なき神を有るが如く振る舞う神主の業(わざ)たるや、己を欺き、人を欺き、世を誑かしその罪真に軽からず。仮令(たとえ)家職たりとも、瞬時も其の職に留まることを得ず。神明坐しまさば、昭鑑を垂れ給い、吾が至誠を納受し神愍(しんびん)を以って奇験を顕現し給むことを。」

 願文を浄書し神前に奉献しては、来る夜も来る夜も拝殿に端座して、深い祈りをささげ続けた。

 一旦降りやんでいた雪が又降り出したのであろう。更けわたる夜の静けさの中に、時折雪折れの竹の音が遠く聞こえて来る。夜の更けるのにつれて、寒さは一段ときびしさを増して肌を刺す様であった。

 時は丑三ツ刻である。いつもの通り、奏上する大祓の詞が、一際(ひときわ)高く静寂の中に響き渡って、一言一句が身に沁み通る様に感じられ、この夜はいつになく心の隅々まで清められて、冷たい雪の中に、熱い生命が全身に躍動するのを覚えた。生きていることが、こんなにも深い感動を心に与えるものであるかを知ったのは、初めてのことであった。私はその時、ただ生きている、そのことだけで、此の上ない喜びを感じた。自分の存在が、自分の生命が限りない恩寵の中に包まれている様に思われた。

 私をこんなにまで感動せしめる、

 「生命とは何か。」

 「生きているとはどう云うことなのか。」

 激しい感動の中で、私はいつしか自問自答を始めていた。

 私を含めて、地上の一切の生物は親から生まれたものである。何物も自分の生命を、自分で産んだものはいない。自分で産んだものでない以上、生命を自分のものと云うことは出来ない。親から生まれた生命である限り、生命は自分ならぬ親のものである。私を産んだ父母の生命も、祖父母から生まれたものであり、更に祖父母はその上の曽祖父母から生まれたものである。此の様に、私の生命の根元を求めて、生命の流れを次々と遡って行くと、果てしなく遠い祖先の生命へと繋がり、その生命の根源にこそ、私の生命の出発があり、その根源から、その"生命の泉"から私の生命は流れ出たものである。

 三十余年間、自分のものとのみ思っていた私の生命が、私ならぬ親のものであり、祖先のものであると云うことは、私の人生に取って大変なことであった。然し、それは真実であり、どうすることも出来ない事実であった。

 毎夜のように戸の隙間から吹き入る風は、薄い白衣を通して肌を刺し、凍りつく様な寒さの中にもその夜は、少しの寒さすらも感ぜず、いつしか私は、唯一の目的であった神の姿を求めることさえ忘れて、次々と切れ目もなく続く内省の糸をたぐってゆくだけであった。

 与えられた私の一日の生命が生きる為にも自然の豊かな恵みに支えられながら、実に限りない無数の命が失われている。一粒の米にも一つの生命が舎(やど)っている。一汁一菜にも物のいのちが籠っている。一滴の水、一息の空気にも豊かな自然の恵みが溢れている。降り積もる雪の中に身を横たえながらも、安らかな一夜の夢を結ばれるのも、今こうして正座して居られるのも、凡て自然の暖かい恵みの中に抱かれている為である。寒さから私の身を守っている一枚の白衣にさえ、綿を耕作した人、糸を紡いだ人、布に織った数多の人達の辛労のぬくもりが、ぢかに肌に伝わる様に感じられた。

 神に願文を書いたことも、人に自分の意志を自由に伝えることの出来るのも、親や教師から教えられた云葉に依るものである。親は又その上の親から教えられたもので、親から親へと遡れば、遠く云葉の源泉にまで到る。原初の云葉が、その侭人の世の云葉として語り継がれたとすれば、それは数え切れない祖先の人等の口から口へと伝承せられて、私に語られたものである。

 思えば、私の生命が長い一章を生きて行く為には、想像だにしえない無数の生命の犠牲と天地自然の恵み、人の恩恵との集積の上に唯一個の生命が生かされて生きるのである。

 「なぜであろう。斯程(かほど)までにあらゆる犠牲を払って、私一人の生命が活(いか)されなければならないのは、何故であろう。」

 そう思った途端、"プッツリ"内省の糸が断ち切れた。然しそれはほんの僅かな間であった。次の瞬間、私の内省の世界は一転した。

 「私でなくては誰にも果たされない使命を。私は与えられている。そうだ、その使命を果たす為に、私を産み、はぐくみ且つ育てられた」と、そう思うのと「神」と云う文字が一瞬、鮮烈な光を放って見えたのは同時であった。

 「神だ、それが神なのだ。」

 瞬間、異様な戦慄が背筋を走った。

 凡ての物に舎(やど)り給うて、私一個の生命を活かし続けて下さるものが、神でなくて、何であろう。神の心に生かされて生きる私の生命は、神の定められた使命の為に、捧げられなければならない。それが私の生命を与え、且つ支えられたものへのただ一つの報本の道である。

 その私が、神の御実在を疑うなど思い上がりも甚だしいことであった。悔恨と感激の涙が両頬をつたって流れた。

 その時であった。静かに重々しい声が何処からともなく聞こえて来た。

 「気がついたか、それでよい、それでよい。‥‥‥儂(わし)は産土神じゃ。」

 それは、私の心の中の呟きであったかも知れないが、其の時の私には、外からの声として聞えて来た様に思われた。不思議な声に、思わず両眼を見開くと、其処に異状な光景を目にして、私はハッと息をのんだ。その時私は咫尺の間に尊い神姿を拝したのである。

 頭に頭巾を召され、温容に長く白髯を垂れさせられ、白き装束に沓を履かれ、長剣を杖につきて立ち給う御姿は、言語に絶して神々しい極みであった。

 やがて、神殿に向かって音もなく歩まれ、階段を緩やかに踏まれて、静かに御翠簾の内に入御あそばされた。

 余りのことに呆然自失して、平伏することすら忘れて、御神姿の入御を拝んでいたが、此の時、漸く吾に返って其の場に平伏して、時の過ぎるのも分からなかった。

 

 鎮守の森の黎明を告げるかの様に、神木立の雪を散らして小鳥の一群が、羽音も高く暁の大空さして飛び立って行った。

 当時は産土神が如何なる神であるかは知る由もなかったが、廿五年后の昭和四十八年秋、御尊影と寸分違わない神像が本殿に安置せられてあるのを拝して、大いに驚嘆した。御神像には由緒書きが添えてあった。

 「大三輪神(おおみわのかみ)にして、天平の末、友兼山麓大樹の下に老翁と現われ給い、立ちて神託し給う。故にその神姿を彫刻して、神体と成し奉る」。

 温顔慈父の如き老翁の一歩一歩昇階でられて、正殿の御萃簾の陰に入り給う御姿を伏し拝んで三十余年を経た今も、尚その御姿は、私の眼底から消え去ることはない。”

 

(潮武臣「鎮守の杜の神々」(山雅房)より)

*著者の潮武臣氏は、広島県の山奥にある亀山神社(広島県三原市大和町下徳良2363)の宮司をしておられた方で、この本の中には、昭和の時代に潮宮司ご自身が体験された数々の不思議な話、感動的な話が紹介されています。ぜひ多くの人に読んでいただきたい本です。

 

*現在の潮清史宮司は、かつては宮内庁東宮職におられた方で、平成三〇年に亀山神社の宮司に就任されました。今も全国各地で、主に神職の方々を対象に講演活動をされています。また、東広島市の杉森神社(広島県東広島市河内町中河内375)の岡田光統宮司も御親族でいらっしゃるようです。

 

亀山神社のHP ↓

https://seawater29.wixsite.com/kameyama

 

杉森神社のHP ↓

https://sugimorikunameba.amebaownd.com/

 

 

・産土神について   〔出口王仁三郎聖師〕

 

 “産土神社はその土地の神様で、その土地を創造せられ、その土地へ永遠に御住居ます神様のことで氏神様とは異なる。

 それで産土の神様を拝みまたお祈りする時には、その土地の地名を始めにつけて、何々村の産土の大神様と唱えて奏上すれば、必ず御許に届くものである。世界中各地に産土神は居られるが、そこの地名をあげて申し上げればよいのである。”

 

(「木の花」昭和26年1月号『聖師の言葉』より)

 

 

*終戦直後の絶望的な状況の中で、当時の神職の方が体験された霊験譚としては、他にも愛知県岡崎市の岡崎天満宮の先々代宮司、伊奈佐太男氏の「奇跡の松の由来」があります。岡崎天満宮のHPから、左上の「岡崎天満宮」の右横の「当神社について」、次に「御復興と奇跡」をクリックされると、全文を読むことが出来ます。こちらも感動的な素晴らしい内容です。

 

岡崎天満宮のHP ↓

https://www.tennjinn.com/