鬼=異形の神々の記憶 (クトゥルフ神話) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “ラヴクラフトの作品を読んでいて思うのは、かれが子どもの頃「鬼」を見ていたのではないかということだ。もちろん北アメリカ東部海岸の田舎町プロヴィデンスに日本的な「鬼」の形象など存在すまいが、「異形の神々」ないし怪物や妖怪などの「異形の存在」を形象化する仕方を見ていると、かれが何らかの形で接神体験や宇宙体験をもっていたのではないかと思えてくる。そして私にとって何より興味深いのは、四歳にして聖書を読めたというラヴクラフトが、聖書の神と異形の神々との関係をどのように見ていたかという点だ。

 ブラヴァッキーの神智学や黄金の夜明け団や大本教をみてもわかるように、近代における異形の神々の復権、蘇生は、けっして単にローカルで特殊な現象ではない。一九世紀末から二十世紀頭にかけてのオカルティズムや神秘主義の復興運動は、たしかに、唯物思想や物質文明の発達との緊張関係のもとに展開した。それはしかし、単純な物質文明対霊的復興運動という対立図式にとどまるものではなかった。霊と物質との対局性と同時に、両者の関係性ないし連続性が大きな問題となっていたのである。一九七〇年前後のカリフォルニアを中心としたオカルティズム、ヒッピー、学生運動の流行という、いわゆるカウンター・カルチャーの運動は、非常にラディカルでまたポップなシンクレティズムの様相を呈し、ラヴクラフトの再評価をも含みながら、今日の「ニュー・サイエンス」やニュー・エイジ・サイエンスの動向にまでつながってくるが、それはいいかえれば、われわれの文明が十九世紀末からの課題(もとよりその課題は古代にまで遡りうるものなのだが)を解決していないということである。さらに敷衍していえば、それは、ラヴクラフト自身が近代化のプロセスで捨象されながらも根強く生き続けて来た魔術的想像力の発現媒体となっているということだ。異形の神々、妖怪、畸型者の発現のための。

 ラヴクラフトのみならず、泉鏡花や出口王仁三郎や折口信夫などに否応なく関心を持たざるをえないのも、つまるところ、自身のかそけき体験が投げかける不可解さを解きほぐし、精神史的な流れのもとに再布置化したいというやみがたい欲求があるからかもしれない。その意味では、物理学や化学を素朴に賛迎し、神秘的な霊界を作りあげることは祖先の過ちをくりかえすことでじつに馬鹿げたことだと言い切る(『宇宙と宗教』)自称唯物論者のラヴクラフトは、いさぎよい物言いだとは思うものの、率直に言って、出口王仁三郎や折口信夫のような霊的インパクトを与えない。しかし私は、善悪や倫理の根拠のなさを批判するラヴクラフトを「失敗した接神家」とも考えない。かれの、神秘的なもの、幽冥的なもの、邪悪でグロテスクなものへの関心とイマジナティヴな資質、そして病弱(あるいは家系から来る分裂病への恐怖)は、錯綜しつつ神々への無意識的な憧れと意識的な憎悪という二律背反を生み出している。その結果、生まれてきたのが神々の悪意と人間の卑小さという観念である。そして、それが「太古の神々」の復活というスタイルをとることに関心を引かれる。私は、こうしたラヴクラフトの想像力を衝き動かす力の源泉がいったい何であったかということに興味を持つ。たしかにかれは、作品の中で、「失敗した接神」、「死や狂気と引き換えの見神」について語ることがままある(たとえば『異形の神々』の賢者バルザイ、『幻視境カダスを求めて』のランドルフ・カーター、『超時間の影』のナサニエル・ピースリーなど)。それはしかし、いいかえれば、死を賭けてでも正体を見届けようとする「見神への意志」をかれの語る主人公たちが強烈に持っているということでもある。”

 

       (鎌田東二「神界のフィールドワーク 霊学と民俗学の生成」(創林社)より)

 

*「クトゥルフ神話」とは、アメリカの怪奇小説家、H・P・ラヴクラフト(1890~1937)によって創造され、彼の友人の作家たちによって発展していった“架空の”神話体系のことです。それまでの幽霊や悪魔、吸血鬼などが登場する怪奇小説と異なり、宇宙的恐怖(コズミック・ホラー)という新しい分野を確立し、その後のSFなどにも多大な影響を与え、世界中に多くのファン、信奉者が存在します。

 

*鎌田東二氏は、この本「神界のフィールドワーク」の中で、さらに詳しくラヴクラフトと彼が少年時代に繰り返し見た悪夢(得体のしれない妖怪が登場する)について述べておられます。また、確かあるアメリカのオカルティストの本に掲載されたラヴクラフトの手紙には、彼がしばしば「古代エジプト的、あるいはインド的ともいうような絢爛豪華な異教の神殿」の夢を見ていたことが書いてありました。ラヴクラフトの小説は、霊的な次元におけるある種の真実を伝えるものではないか、とも言われていますが、彼自身が感じた凄まじい恐怖心のせいか(自分自身の絶叫で夢から覚めることもあったようです)、ほとんどの作品が破滅的な結末となっているのは残念です(そこが魅力でもあるのですが)。

 

 “気味の悪いほど心をそそられるメロディが響き、わたしは目が覚めた。重なり合い、震え、共鳴する音の愉悦は、周囲にあふれ、情熱をかき立てた。そして恍惚としたわたしの目の前に巨大な光景が一挙に開けた。それは美の極致だった。高い壁、円柱、燃えさかる炎の台輪、空を漂っているらしいわたしのまわりを煌々とその火は照らしていた。(山本昭訳『眠りのとばりを超えて』)”

 

(田辺剛 コミック版「クトゥルフの呼び声」(KADOKAWA))

 

*ここに掲載させていただいた文章の前に、鎌田東二氏はご自身の見鬼体験について書いておられます(子どもの頃、実際に何度も「鬼」を見たのだそうです)。鎌田氏は、鬼や妖怪について、彼らは実は太古の異形の神々、零落した神々なのではないかと考えておられるようですが、皇道大本では、これまで恐るべき祟り神として畏怖され忌避されていた鬼門の金神が、実は愛と恵みをもたらす天地の親神であり、その艮(うしとら)の金神が完全にご再現になられた世こそが地上天国「みろくの世」であると説いています。「艮の金神」は、本来は善神であったにもかかわらず、今の「世に出ている神々」によって無理やり根の国底の国に封印され、祟り神、鬼門の金神と悪神よばわりされて長らく無念の涙を呑んでおられたわけですが、その妻神の「坤(ひつじさる)の金神」を始め、運命を共にして同じように根の国底の国に封印された眷属の神々も数多く存在したのであり、それら「落ちぶれた神々」を引き上げ救済する事も、皇道大本のご神業の一つとされました。そして、ここが重要なのですが、出口王仁三郎聖師によれば、すでに神界では「今の世に出ている神々」と「根底の国に押し込められていた神々」とが和合しており、これからは互いに手を携えて、地上に「みろくの世」、「万劫末代つづく神国の世」を建設してゆかれる、ということになっています(ただ、あまり神々が激しく活動されると世がつぶれてしまうからか、現在は『引っかけ戻し』の時期で、神々も御神威を抑えておられるようです)。

 

 “因縁ありて、昔から鬼神(おにがみ)と言われた、(うしとら)(こん)(じん)のそのままの御魂であるから、改心のできた、誠の人民が前へ参りたら、結構な、いふに言われぬ、優しき神であれども、ちょっとでも、心に()(よく)がありたり、(まん)(しん)いたしたり、思惑(おもわく)がありたり、神に敵対心のある人民が、傍へ出て参りたら、すぐに相好は変りて、(おに)か、大蛇(おろち)のやうになる恐い身魂であるぞよ。”(「大本神諭」)

 

・「節分祭の甘酒」 大本愛善苑 出口すみ子苑主      (「愛善世界」№58より)

 

 “天地の親神様が世に落ちなさるにつきましては、艮(うしとら)の金神様とご一緒に、その系統(ひっぽう)の神様が皆世に落ちてござって、長らくの間苦労なされたのでございます。

 これは霊のことで、人間の目には見えないのですが、聖師様が初めて大本においでになりました頃なども一番初発から世に落ちておられた神様が、なんぼおあがりになったか判りません。業をなさって苦しんでおられた神様や、根底の国に落ちておられた霊が沢山あがってきました。この霊のあがって来る有様は、実際口では云えません。

 まるで蜂が集団(たま)になって宿替えするときのようなゴーッという音をして何万という霊があがって参りました。みな大変に喜んで、親子の対面とか、夫婦の対面、主従の対面とかいうふうにそれは芝居のようでありました。その頃には、私などまだ霊のことがはっきり判らない時分でしたから、「おかしなことやなぁ、開祖様も聖師様も、おかしいことを仰るし、しなさるもんやなぁ」と思うて笑っておりましたけれど、ボツボツその時分の事を考えてみますと、なかなかそうしたわけのものではございません。これは一番初発の地獄の蓋開けで、大神様がお出ましになりましたに就きまして、沢山の霊がつぎからつぎと出て来たのであります。

 「助けてくれ、助けてくれ云うて、なんぼ出て来るやら知れん」と開祖様も云われました。わたしたちは根底の国に行ったことがないから、その苦しさは判りませんけれど、怖ろしい処に落ちていた霊が、こんどの神様のお出ましに際して、ちょうど陛下が御位につかれたり、お子様がお出来になったりお目出たいことがありますと懲役に行っている人が許してもらえますように、つまりああゆうふうに許されなさるのでしょう。

 そのときにあがってきた沢山の霊にこの甘酒を頂かしてやったのです。これは根底の国からあがってきた霊ばかりでなく、前に申しました大神様の系統の神々様も沢山ありました。その霊たちが喜んでこの甘酒を頂いて、元気一杯になって、どんどん世界にご活動なさるのです。”