「福子の伝承」 (障害者の霊性)  | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “幸福をもたらす白痴  (笹谷良造)      

 

 フランスの作家ドオデエの「アルルの女」という戯曲の中に、

 「……うちの中にばかが一人いることは家の守護(まもり)になる。いいかい、ばかが生まれてから十五年になるが、ただの一度だってうちの羊は病気にならないし、桑の木だって傷まないし、葡萄だって……人間だって……(中略)実際のところ、こりゃ皆この子のお陰なんだ。そして、もしこの子が知慧づいたら、わしらは気をつけなくちゃならない」(下略)

という老羊飼いの台詞がある。この戯曲は南仏のアルル地方の農家の息子が、町の踊り子にうつつをぬかし、皆の意見で一度は堅気になるが、ふとした事からまた撚りが戻って、とうとう自殺しそうになるという近松の「心中天の網島」や「曾根崎心中」と似た一事件を取り扱ったものだが、その陰には白痴がいて、最後の所でこの白痴が急に知慧づいて、引用の台詞の通りの予感が実現するのが、この戯曲の一つの山となっている。

 私は南仏にこういう俗信があったものか、或いは作者の虚構であるのか、知らない。かつて読んだ事のあるバルザックの「田舎医者」という小説も、南仏のある地方に一種の風土病があって、その病気にかかると白痴のようになるが、その家では必ずしもそれを忌まず却って幸福をもたらすものとして喜ばれていたらしいことが主題となっていたように覚えている。そうだとすれば、ひょっとすると南仏には、そんな俗信があったのではないかと思うが、あちらの事に詳しい方の御教示が得たいものだ。

 私はこの雑誌が日本民俗学のものであって、前述の問題が多少まとはずれであるのは知りつつも、特にこれをとり上げたのは、私がかつて大和の五条(西部吉野の奥地へ入るただ一つの入り口で重要な交通路に当たっている町)に暫く住んでいた頃、その付近では白痴が生まれると家が栄えるといって嫌がらなかった。そうしてそういう家が二軒あったのを聞いていたからである。私がこれを知ったのは十年程前であったが、その後も多少気をつけていたものの、私の乏しい経験ではこの問題を取り扱ったものを見かけず、ただ北陸地方にも、このような俗信があるらしいことを知ったに過ぎなかった。偶然に読んだ「アルルの女」の中にこの俗信があるのを見て、急に興味を覚えたので、この際これを取り上げて諸先輩の方々のご意見を承りたいと思ったのである。”(P71~P73)

 

 “「宝」とまではいかないまでも、精神障害者を千年近く、同じ仲間として受け入れてきた町がヨーロッパと日本にある。

 ベルギーの北東部、カンビーヌ平野の中、人口およそ二万七千人の町がゲールである。この町には千三百人の精神障害者がヨーロッパはもとより、遠くアフリカ、アジアなどからやってきて、町の人たちに温かく保護され、平和な生活を営んでいる。

 西暦六百年頃、世界で一番美しいといわれたアイルランドの王女ディンクナが、父の不倫の恋を逃れてやってきたのがゲールだった。彼女は父の追っ手に捕らえられ命を落とすが、その遺骨が不幸な人を救い、精神病者に奇蹟的な治癒を示したという伝説が生まれる。ゲールはそれ以来、精神障害者の巡礼のメッカになり、教会の病室に入りきれなくなった患者を町の人々が引受けるようになったといわれる。

 一八六一年にはベルギー政府も、この町のバックアップを始め、一時は四千五百人もの患者が民家に下宿していたという。精神科医たちも入院させるよりも家庭的保護の効果を認め、精神医学界からもゲールの町は高く評価されている。現在も一、〇三二人の精神病者が八百世帯の家庭で暮らしている。

 このゲールより、もっと古くから精神障害者を温かく迎え入れてきた町が日本にある。京都から鞍馬への途中、京都駅前から岩倉実相院行の市バスの終点で下車したあたり一体の岩倉がその地である。

 

 「平安の昔、後三条天皇女佳子内親王は、妙齢二九歳の御時、挙動常ならず、髪を乱し、衣を裂き、帳(とばり)に隠れて物言わず、言へば胆語にして心全く喪はせらる。ために聖慮穏かならず、神仏に平癒を祈願し給ひたるに一夜霊告あり、此の霊告に依り直ちに勅して皇女を岩倉大雲寺に籠らしめ、境内にある不増不減の霊泉を日毎に飲用せしめ給ひしに、幾ばくもなく疾患癒え、聰明元に復し給ふ」

 

 この話が世に伝わると、各地から岩倉大雲寺に精神病患者が殺到し、籠り堂に寝起きして観世音に祈願する者が相続き、多いときには八百人にも達した。そうなると大雲寺の籠り堂では収容しきれず、門前にお茶屋(宿泊所)ができ、さらに民家や農家に下宿して、不動の滝を浴びたり、田園の間を散歩して療養生活をするようになった。その結果、岩倉の人々は次々とわが家に患者たちを迎え、精神障害の人たちに何の偏見も持たず、農作業などを手伝ってもらいながら、共に生活する状態が、戦後の精神衛生法の改正時まで続いたのである。

 明治二十九年に、この村を訪れたロシアの医師スティーダは、この姿を見て、『日本のゲール』として海外に紹介した。そのため岩倉の名は国内よりもむしろ海外で知られるようになり、今日でもはるばると見学にくる外国人があとを絶たない。戦後、残念なことにこうした形態が精神衛生法で禁止され、その態勢は崩されたが、精神障害者に少しも偏見を持たない伝統は今も受け継がれている。”(P162~P164)

 

   (大野智也・芝正夫「福子の伝承 民俗学と地域福祉の接点から」(堺屋図書)より)

*この「福子の伝承」の本の出版は1983年で、すでに絶版で入手は困難になっています。ここに紹介させて頂いた京都岩倉の他にも、長野県の鹿教湯や南アルプス塩見岳の上村などが紹介されていますが、昔は日本各地に、『不具体を神に近いもの、私たちの願いを神に伝えてくれる能力を持っているものと信じ……』、障害児を福の神、「福子(フクゴ)」や「宝子(タカラゴ)」などと呼んで、彼らを大切に育てると家が栄えるというような伝承がありました。このような素晴らしい伝承・伝統は、ぜひ復活させるべきだと思います。

 

*大雲寺公式ホームページ(現在も、うつ病の方々のケアなどに取り組んでおられるようです)

 

・仙台四郎(「福の神」となった少年)        

 “この仙台四郎は明治時代の人で、その名の通り仙台に住んでいたらしい。明治三十五年(1902)、47歳で亡くなったというので、逆算すれば、安政二年(1855)の生まれである。毎日、仙台の中心街にあらわれては商店街をブラつき、その日、気に入った店があると、その店の前に座り込んでは何時間でも店を眺めるのが趣味という、知的障害者だった。そして店の人たちはそのことを苦にすることもなく、ときどきは彼に食べ物を施したりして、彼の存在を商店街の風景の一部として受け入れた。そんなことから、彼が好んで座り込んで観察した商店は繁盛するといわれるようになり、いつしか〈福の神〉仙台四郎という名がつくようになったというのである。
 その仙台四郎の写真が一枚だけ残っていたらしい。それをもとに、大正期にいくつかの肖像画が描かれ、あるいは、その写真も複製されて、商売繁盛の守り神として祀られるようになったという。それがバブル後退期のころ、仙台の女子高校生の目にとまり、仙台四郎のポートレートのお守りが定期入れや財布の中にしまい込まれ、さらにそのブームがたくさんの仙台四郎グッズを生み出した。その一部が通信販売のカタログにも載り、全国へと販売された。
 こうした仙台四郎のような存在を、明治以前の日本社会は「福子」と呼んだ。ただし、この語は残念ながら『広辞苑』にも載っていない。「福子」とは日本の福祉思想を表現する素晴らしい言葉であることには間違いない。まさに福子とは〈オウ〉(注:著者が説く「根元の言葉」)が発するオクレの贈り物だ。”

 ”いうなれば〈福子〉という存在は、社会を映し出す鏡なのである。彼を追い出そうとすると、その人の中では彼は疫病神や貧乏神へ転じるかもしれないが、そうしなければ〈福の神〉にはならなくても、けっして迷惑をかける存在にはならない。というよりも、〈福子〉への普通の接し方によって、社会は確実に浄化されてゆくのだ。障害児を〈福子〉と捉えるこの考えの中には、日本の社会福祉思想の原点がある。そして、この言葉はきわめて日本的霊性に輝く言葉である。わたしはこの言葉を埋没させることなく、さらに輝かせることによって、日本型社会福祉の原点にさせたいと思っている。

    (菅田正昭著「アマとオウ 弧状列島をつらぬく日本的霊性」たちばな出版より)

 

・マルタ・ロバンが語ったこと

 “私はとくに、自分がマルタからのメッセージと考えていることを伝えたいのです。私は彼女に、脳の運動神経の障害で、話すこともできず、何の意思の伝達もできないで、食事も自分ではとれない、二十五歳の若者の話をしました。そして彼女に、これでもほんとうに人間なのだろうかと怪しんでいる、その若者の周囲の人たちの考えを話したのです。するとマルタは叫び声をあげ、びっくりするほどの強い声で、私に言われました。

「まあ、とんでもない!彼こそ選ばれた者、あがない主であるのに!」

 それから彼女は、その若者が自分ですることはできないので、私が彼の名前で祈るようにとすすめてくださいました。”

            (「マルタ・ロバン 十字架とよろこび」愛と光の家より)

 

*マルタ・ロバンについて、Wikipediaの説明。

 

 “マルタ・ロバン(Marthe Robin、1902年3月13日 - 1981年2月6日)は、カトリック教会信者および神秘主義者である。長期にわたって飲食物を摂らず、聖体を摂取するのみで生き続けたとされ、身体に聖痕が具現化していた。黙想所「愛と光の家」(Foyer de Charite)の創始者でもある。

 (生涯)

 フランス南東部の小村シャトーヌフ=ド=ガロール (en:Châteauneuf-de-Galaure) の農家に生まれ、学校を卒業した後は畑仕事を手伝ったり、家畜の世話をしたりして暮らしていた。16歳のときに健康を害し、徐々に病状が進行して21歳のときには寝たきりとなった。このような苦境の中でも神に対する信仰心は増してゆき、23歳となったロバンは、自分の持っていたすべての能力を主へ捧げることを決意した。アメリカのカトリック教会系ケーブルテレビEWTN(en:Eternal Word Television Network)によると、彼女は多年にわたって聖体以外の飲食物を摂ることはなかったという。 また、睡眠をとることもなく、約50年にわたって毎週イエス・キリストのアゴニア(臨終の苦しみ)を追体験していた。

 1928年、フランシスコ会の第3会(在俗会)に入会した。1936年には「愛と光の家」を創立した。ロバン自身は、シャトーヌフ=ド=ガロールから一生涯離れることはなかったが、「愛と光の家」は、指導司祭や協力者たちの助力を受けて、世界の60以上の国に広まった。死後の1986年に列福調査が開始され、2014年、「英雄的聖徳」が認められ「尊者」となった。”

 


・針灸師、森美智代(超小食の実践者)さんの体験談

 “高校3年生の最後の期末試験が終わると、卒業式までは実質上の休みとなりました。この期間を利用して、私は甲田医院で五日間の本断食を行いました。とくに気になる病気や症状はありませんでしたが、短大に進学する前にもう一度断食を体験したかったのです。
 このころはまだ、準備期間や回復食の期間が長く必要でしたから、一カ月ちょっとの長期入院となりました。
 甲田医院の朝は、先生のお話を聞く朝礼から始まります。私にとっては、大好きな甲田先生のお話が聞ける至福のときです。
 ある朝、朝礼でお話している甲田先生の周りが、妙にまぶしく感じました。「おかしなあ」と思ったのですが、もともと目が悪いので、何か目の不調で光が見えているのだろうと思いました。
 毎朝、気をつけていると、甲田先生の周りの光は、大きい日と小さい日がありました。そして、ほかの人の周りにも、人によって見え方が違うけれども、光が見えるようになってきました。
 これが、第2章でもお話した「オーラ」でした。このときの入院で、断食中に甲田先生の周りに光が見えたのが、私のオーラの見え始めだったのです。
 その後も長いこと、私はこれが「目の不調」のせいだと思っていました。オーラだとわかったのは、発病後、甲田医院に長期入院し、ようやく持ち直して退院したあとです。

 そのころ、私は養護学校に臨時教員として勤めていました。そして、学校で、障害を持つ子供たちを見ていたら、中にとりわけきれいな光に包まれている子がいたのです。
 自分の目がおかしいのだろうと思いつつも、そのきれいさに感動していると、頭の中に「菩薩行」という言葉が、声なのかインスピレーションなのかわかりませんが、突然に響きました。その声(インスピレーション)は、「この子はこの子の周りの人のために、身をやつして障害を持って生まれてきて、周りの人を成長させているんだよ」と続きました。
 「そうなのか。障害を持っていても、すごいんだなあ」と思いました。

 次に甲田医院に行った時、「生徒さんを見ていたら、きれいな光に包まれている子がいる。甲田先生も朝礼の時に光に包まれていて、光が大きくなったり小さくなったりする」と、初めて甲田先生に話しました。
 すると先生は、「ああ、お前、オーラ見えるな」と言われました。”

               (森美智代「食べること、やめました」マキノ出版より)

 

・天使的人類 (ダウン症とルドルフ・シュタイナー)

 “・・・〈モンゴル児〉問題についていち早く関心を持ったシュタイナーは、ここで彼らの「天使性」ということを問題にする。彼らは第一に民族分化以前の人間の容姿を持ち、博愛という形の愛だけを持ち、彼らに接する通常人に対しては「醜さや奇怪さではなく愛らしさ」の印象を与えるのだ。これらの特徴は、彼らが「元型人」としての天使のイメージに近づいていることを示す証拠ではないのか?彼らの「いとおしさ」には、おそらく生物学的な裏付けがあるのだ、とシュタイナーは言う。それはかつてすべての種が一つの形態であった事への超記憶的な郷愁かもしれない。”

 “・・・この〈モンゴル児〉は端的に言って〈私〉という単語を持たない。自我の存在しない精神体なのである。ダウン症候群を研究したC・E・ペンタによれば「ほとんどすべてのモンゴル児が同じ容貌をしているのは、彼らが個性的差異の発現を生む機能の欠損により、民族的並びに家系的特徴を失っているという事実に起因している。その結果、心も体も永遠に成熟しない未完成な幼児が出来上がる」のである。これは〈前人類〉であり、〈パラダイス人〉であり、人間の元型―〈人間〉という言語が想起させる心霊的な原イメージの個体と同義である。事実、ルドルフ・シュタイナーは、モンゴル児の容姿が妙に愛らしく訴えかけ、その未熟な肢体が醜さではなくいとおしさを感じさせる理由を、その元型性に求めている。とすれば、〈モンゴル児〉は退廃化した現代社会に現われたある種の天使のメッセージだろうか?”

 “〔シュタイナーの意見〕シュタイナーはモンゴル症児について並々でない関心を抱き、ハンディキャップを背負った子供たちに精神治療という温かい手を差し伸べた。そしてとりわけ、進化論の立場からダウン症候群に対して述べた彼の意見は興味深い。それは進化した生物ほど幼年期が長く、その特徴として肉体の各組織が特殊化する(専門的機能に分化する)ことが遅れるという事実である。そして人間の子や類人猿の子が互いによく似ている現象こそ、「幼児の方がより〈真の人間〉に近いことを物語る証左である。なぜなら、分化せぬ肉体を常に持ち永遠の若さの中で生存し続けることこそ、生物進化の究極だからである」と考えた。これがつまり〈自由〉である。自意識を持ち、人間の成人となることは、その意味で言うなら「これ以上の進化を拒否した状態」にほかならないのである。”

               (荒俣宏編「世界神秘学辞典」平川出版社より)

 

 

・逆髪(さかがみ)  能楽「蝉丸」

 

 “日本の芸能の始祖の一人である世阿弥のつくった能楽の中に「蝉丸」という曲がある。前世の報いのためか、盲目に生まれついた延喜帝の第四皇子蝉丸は、その異形・畸型のゆえに逢坂山に捨てられる。蝉丸は杖を持ち、琵琶を抱き、その弦をかき鳴らして嘆くが、わが身の宿業ばかりはどうすることもできない。かれは都をのぞむ逢坂山の山中で琵琶をかき鳴らしてただ嘆き歌うばかりである。

 そこへさすらって来たのが、延喜帝第三皇子逆髪(さかがみ)、すなわち蝉丸の姉である。逆髪は哄笑しつつ次のようにモノ語る。

 

 我王子とは生まるれども、いつの因果の故やらん。心寄寄(よりより)狂乱して、辺土遠境の狂人となって、みどりの髪は空さまにおひのぼって、撫づけどもくだらず。いかにあれなる童べどもは何を笑ふぞ。何我髪のさかさまになるがおかしいとや。実(げに)さかさまなる事はをかしいよな。籾は我かみよりも、汝等が身にて笑ふこそさかさまなれ。おもしろしおもしろし。是等はみな人間目前の境界也。夫(それ)花の種は地に埋もれて千林の梢にのぼり、月の影は天にかかって萬水の底に沈む。是等はみないづれをか順と見、逆なりといはん。我は王子なれども疎人に下り、髪は身上よりおひのぼって星霜をいただく。能みな順逆の二つなり。おもしろや(中略)

 狂女なれども心は、清瀧川と知るべし。逢坂の、関の清水に影見えて、今や引くらん望月の、駒の歩みも近づくに、水も走井の影見れば、我ながら浅ましや。髪はおどろをいただき、まゆずみもみだれくろみて、実(げに)さか髪の影うつる。水を鏡とゆふ浪の、うつつなの我すがたや。

 

 狂女であるが心は清瀧川のように澄みきっているという、その暴力的な無垢(イノセンス)の痛々しい提示。雀の巣のように逆立った髪の毛、眉墨も黒く乱れたその醜怪な異形の身体。その身心の極端なまでの乖離。逆髪の語る「是等はみな人間目前の境界也」というのは、順逆の転倒、すなわち現実原則の正当性を転倒させて、その制度性をあばき、逆に幽的原理の世界を現出させる魔術的な行為(magical production)である。逆髪が幻視していた世界は正しく幽界なのだ。髪が天に向かって逆立っているということは、髪がそのまま天上の神に向かってのび、神の言葉を受託することだと、異装の鬼三郎たる出口王仁三郎ならいうだろう。つまり、逆髪とは、「霊主体従」的人間なのだと。いったい何を順と見、何を逆というのか、この逆髪の諦念と呪いに満ちた問いの根は深い。そしてこの順逆の制度性・正当性を逆転することができるのは、ひとえに逆髪が「面白し」と叫ぶ異形の身体をもった神に仕える巫女(シャーマン)だったからである。

 こうしてみると、先にふれたとおり、髪が逆立つことは一種の憑依状態を示すものであり、サカガミとは「原初においては坂の神であり、坂に集まる異形者そのもの」、また「零落した霊性の所有者、巫女」であるという松田修の指摘はするどくも正鵠を射ている。また、近松門左衛門の浄瑠璃「蝉丸」と歌舞伎狂言「二度の出世」にあらわれた逆髪像を分析して、逆立つ髪が「巫女的霊性・嫉妬・忿怒の発動する神性」という三つの意味側面をもつことを探りあてた服部幸雄の指摘も首肯できるものである。服部がいうように、逆髪とは、どろどろと鳴りひびく鳴神のイメージを宿す龍蛇的身体をもち、ゆらゆらと揺るぎ出る怒れる神、荒ぶる神の憑依を受けて神託を告げる漂泊の歩き巫女なのだ。”

 

(鎌田東二「神界のフィールドワーク」創林社より)

 

*スピリチュアル的には、「高いレベルの霊魂ほど、困難な環境を選択して生まれてくる」といわれています。エドガー・ケイシーのリーディングの中にも、ある『てんかん』の二歳の女の子について、「この子が障害を持って生まれてきたのは周囲の人々に愛を教えるためだ」と述べているものがあります。障害者福祉についての議論など、どうしても上から目線で「社会的弱者を救済してあげなければ……」という思いを持たれている方が多いような印象を受けるのですが、実は救済されているのは我々の方かもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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