障害児の治癒教育 (シュタイナー人智学) | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・障害児の治癒教育について  (シュタイナー人智学)
 「障害児を持つ多くの家庭では、すでに消え去ろうとしている人間的に尊いものが、新たに生まれている」


  “治癒教育に携わる者は、心の手当を必要としている人たちが、実は自分と共に歩んでくれる尊い仲間だということを、だんだんと深く身にしみて感じるようになってくる。精神科学を学んで得た治癒への情熱を、実際の行為として実現するように、この人たちは絶え間なく呼びかけてくれ、同時に、方法として学んだものに自己観照をとおして生命を与えるようにと、治癒教育者を鞭撻してくれる。教育者は、子供たちの持つ生の苦難が、自分自身の内部を見つめたときに生じる残像にそっくりだと気づき、自分を見つめて高めていくことこそ、治癒教育の指導理念であることに、思い至るのである。障害の形で表れているものの背後には、心と魂との根源的な力が活動しているのであって、これは、教育者自身の中で展開しようと脈動しているものと、まったく同じ力であることが、はっきりと見えてくる。この認識に達してはじめて、教育者としての、または社会治療者としての基本的な態度ができたと言えるのであり、そこからしか、個人としての必然に裏打ちされた治癒活動が生み出されることはないのである。子供の魂と自分の魂とが結び合わされているという体験は、やがて、地上の生において自分たちは共通の運命を担うものであるという認識に高まり、これが、教育という相互の働きかけのうちに一つの精神共同体を生み出していく。”
    
 “……現在の「正常な」人間が、自己変革への要求を自分の中に感じなくなればなるほど、その人は、障害者を自分とは無縁の存在と考えるようになり、彼らを否定的な目で見るか、せいぜいその存在を我慢してやるか、もっとも良い場合でも、彼らの生き方を自分たちに都合の良いように適合させてしまおうとする方向に行く。
 治癒教育学が本質的にその任務とするところは、これに反して、次のような認識より生じてくる。すなわち、生まれてきた子供と、その子が親から貰った肉体とは、決して同じものではなく、いわんや、障害を受けた肉体が、即ちその子供自身なのではない。子供は前の世からこのたびの人生に持ち込んできたもろもろの要素から、ひとまずは、運命の命ずるままに自分の肉体を形づくるのであるが、これを変革しつつ、自分自身のものと化そうと努めており、また、そうしなければならないのである。このような認識のもとに、どんな子供たちの中にも必ず存在していて、どんなに複雑な障害をもつき抜けて我々に迫ってくる、各々の子供に特有の本性に向かって、治癒教育学は働きかけ、そうすることによってはじめて、運命を背負うものへの援助の手となり得るのである。
 障害児の親たちは、意識するにせよしないにせよ、運命について、おおよそ次のような疑問を抱いている。


 「この子は、どうしてよりにもよって、私たちのところに生まれてきたのだろう」
 

 この問いは理論的に答えられるものではない。むしろこの問いは、両親にとって、この子との出会いによって自分たち自身の生き方を変え、全く新しい経験を得るためのきっかけとなることができる。障害児を持つ多くの家庭には、普通一般の社会の中ではすでに消え去ろうとしている人間的に尊いものが、新たに生まれてきているのである。自分以外の人間に対する関心、子供たちのほんのちょっとした成長にも感動する謙虚さ、子供たちの行いは決して報酬を求めるものでなく、愛に満たされた励ましを望んでいるのだという実感、有害なことの方が多い社会環境に対して、忍耐強くかつ誠実に、一つの個性の歩む運命の道を守り育てていく能力、数えていけば尽きることがない。

 将来、治癒教育の団体のなすべき仕事としてますます大きな比重を占めて行くであろうと思われるのは、親と障害児との間に、単なる肉親としての家族関係を超えた、運命によって結ばれた精神共同体の関係が生まれ出るように、親に向かって働きかけ、援助することである。その際に生み出される諸々の経験は、一般の社会のあり方にも、積極的な影響を与えることができるに違いない。……(ハンス・ミューラー・ヴィデーマン(ブラッヘンロイトの施設学校校長・レーエンホーフの村落共同体医師))”

    (新田義之、新田貴代「人智学を基盤とする治癒教育の実践」国土社より)