御陽気修行  (黒住教) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “さて、宗忠の修行に於て「数の祓」の履修と共に、今ひとつの重要な修行は、日拝及び陽気の修行である。宗忠は、太陽の礼拝を日拝と称し、終生これを怠らず、尚、日拝に際して、その陽光を丹田に吸引する一種の呼吸法ともいうべき独特の行事を修している。後世これを「御陽気修行」などと唱えているが、その要旨は、地上の万物を照育する太陽の徳を讃仰する感謝の至情に出るものであって、勿論単なる呼吸法ではない。彼にありては、太陽は、物質的な天体現象ではなくて、大元神としての天照太神の神徳の具現者であって、万物は、太陽なくして一日も生を保つことが出来ない。高弟赤木宗一郎は、

   天照す恵みしなくば片時も

        たつかたたぬか考えて見よ

と詠じているが、よく師の意を得たものというべく、宗忠は、この太陽の万物生々の大徳に於て、直ちに天照太神の神徳を体感していたものと解して差し支えあるまい。勿論、文明教期の宗教である彼の信仰に於けるこの日徳讃仰は、劣等自然教期の単純なる、自然崇拝ではない。太陽の万物生々の作用の中に、彼は神格の光を如実に体験し、その神徳を直接に感謝と感激を以て丹田におさめ、天地と共に気を養うという、極めて純情な心持ちから、この法を自得したものである。ここに彼の宗教の特色がある。単なる絶対神を讃仰する宗教はいくらもあるが、我々の現実生活に最も痛切なる太陽という具体的な生命源を通じて、生かされつつあることへの感謝の至情を披瀝するということは、極めて合理的であり、真実味を帯びた礼拝の形式である。唯物論者として有名なヘッケル教授あたりも、このことの合理的なことを認め、太陽崇拝は、有神論中の最良なものであるとさえいっている。また、有名なかの後期印象派のゴッホなどは、西洋人には珍しく、太陽を礼拝していたという。文明教期に於ける太陽礼拝は、世人が往々嘲笑するような偶像崇拝とは全く撰を異にしている。現に太陽のみか、自分たちを支えて、太陽の光熱と協同し吾等人間に衣食住を提供してくれる大地をも礼拝すべきが至当である。これこそ人間らしい人間のなすべき業であろう。

 ともあれ宗忠は、日拝と陽気法とを、重大なる彼の修行として終生変らなかったことは、特筆すべきことがらである。

(註) 陽気法(仮にかく呼ぶ)は、座立共に併せ行なう。感謝と共に口腔を細く鯉の口の如くにひらき、太陽の光を胸腹より丹田に吸収しておさめ、息を止めて心を凝らし、限度に至って息を鼻腔より、徐々に吐き出し、これをくり返すこと数十回すれば、心気頓に壮快となり、継続して行えば、万病を治癒するの効果がある。筆者の如きもその体験者の一人である。但し、呼吸器系統の疾患にありては、極めて静粛に行う必要がある。

 なお書き漏らしたが、「数の祓」の修行は、腹部に力を罩め、音吐朗々と、思い切って行うのをよしとし、これまた、修行すれば、精神壮大となり、陽気頓に加わり、万病治癒の偉大なる功徳がある。”

 

(延原大川「哲人宗忠」(明徳出版)より)

 

*ちなみに、「数の祓」とは、「中臣祓詞(大祓祝詞)」を繰り返し唱えることです。延原大川氏は、「妄心を祓って清明心に復する修法であり、普通人で日に三百回唱えれば大したものであるが、彼(黒住宗忠教祖神)はそれを、千回以上唱えている」と書いておられます。大祓祝詞を一日に千回唱えるなど、時間的にも不可能なはずですが、かつて黒住宗忠教祖神が五社参りをされたとき、丸一日かかるはずが一時間ほどで廻られ、つまり不思議なことに時間が止まっていたとしか思えないことが起こっておりますので、やはり一日で千回唱えられたのだと思います。

 

*明日は「夏至」の日で、24日はバプテスマのヨハネの生誕を祝う「聖ヨハネ祭」です。ルドルフ・シュタイナーは、夏至のころは、「人類に警告を与えるようなまなざしをした大天使ウリエルが天空におり、その声が宇宙から響いてくる」と言っています。夜空を見上げて耳を澄ますと、もしかしたら大天使の声が聞こえるかも知れません。

 

 

 

 

 

 

 

 


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