弘法大師の救い 「生死の境で御大師様に……」 | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・「生死の境でお大師様に……」  吉岡玲子 

 

 “私の家は先祖代々、御大師様を信仰している真言宗で、今はなき祖父の話では、何百年かの昔、部落全部山火事で丸焼けになったという。そのとき、我が家と地蔵堂が丸く炎に取り囲まれているのを他の部落の火消しが向かいの山から見て愕いたという。大勢の白装束のへんろ様が、火を消しているのである。周りは火の海で、カヤブキの屋根の家に来て見ると、その家は屋根に火が飛び散っても燃えず、また家の者だけでへんろ様はおらず、火消し達は二度愕いたという。

 そんな話が今も残っているわが里です。私は昭和十一年七月に出生、父が「私が生まれた事を」六十一番香園寺様にお知らせすると「この子は弱体なので、香園寺の御大師様の子供に貰い受けました。大切に育てられることを御願い致します」と書いた、手紙とお守りが入っていたそうです。

 私は有り難いことに、病気一つせずに成長し、結婚しました。姓が変ってから、いつも父親が御大師様を信仰するようにと、私の顔を見る度に話しておりました。信仰心のある家と、無い家とでは、口では説明することは出来ないが、ちがいがあると言うのです。私は三十四才で二人の子供に恵まれましたが、躯の調子が悪く、病院通いが長く続きましたので、三十九才のとき、母、妹、子供づれで六十一番香園寺にお参りしました。

 そして健康守りと、家内安全のお守りを貰って、帰ってみますと健康守りがありません。不思議に思って、電話で母に「いやな予感がする。重い病気になって、死ぬのじゃないかと思う」というと、母は「健康守りは必要がないからお大師様がお入れにならなかったのよ」と慰めてくれました。

 それから月が変って、石手寺参りの朝、石手寺の大師堂の前でバックを開けた。身に覚えのない小さな箱が入っているので、あけて見ると、香園寺のお守りである。買った覚えもないし、入れた者もないのに、そのとき不思議に思った。

 後日、母が御守りを持って霊能者の所へ行き、出来事を話すと、霊能者は、「娘さんの命が無くなるから、御大師様が御守りをバックの中に入れられたのです。早々に行ってあげなさい」と言われたそうだ。

 年が明けて五十一年一月、私はいやな予感が当って重い病気になり入院しました。

 主治医は私を呼び、「奥さんの生命が危ない。身内は早く呼んであげなさい。おそらくもう駄目だ。助からない」と話しているのが寝ている私の耳に入ってきた。先生は、私が死ぬと話している。ああ、来る時が来た、と思い、寿命が尽きれば誰でも死ぬときは死ぬと思い、割り切って明るく振る舞って見せた。母は風邪をひいて熱があるのに、病院にかいがいしく看病にきてくれた。

 家の人達は、突然の出来事で、みんなびっくりしている。私は出血多量で、十本の輸血をしたので、高い熱が出始め、震えが来て、先生、母、主人が布団の上から私を押さえるが、私は震えがひどく、みんなを押しのけた。そんな状態が三十分位続いて、意識もうろうとなり、白い物が見えるので母と主治医を間違えて、「お母さん!」とエプロンを握ったつもりが、それは主治医の白衣を握りしめていた。何度も母を呼んだ。母は返事をしてくれない。無言のまま、私に顔を耳の所まで近づけてくれたので、「お母さん。なぜ返事をしてくれないの?助からないから…?」。私は夢うつつの中で、目の前の梅岡先生という主治医を母と間違えて話し始めた。

 「霊能者の人にね、言われたことを話しておくよ、お母さん。重い病気になって助からないと顔を横に振る先生がいたら、その先生は逆に貴女の生命を救う先生ですって……。そしてその先生のいる病院は大変繁盛すると……。その霊能者の話が当たれば今がそうよ、きっとこの先生は助けてくれると思う、命の恩人になる先生よ……。ああ、お母さん……」。そこで、意識がまたもうろうとなり、生死の境をさ迷う身がわかる。身体が、頭の所から、二つに割れ、タタターと、脚の所まで二つに分かれて、寝て治療を受けている自分と、立っている自分に割れ、立っている私は目も見え、耳も聞こえる。主治医は、看護人の畳の上に両手を突き、メガネを外して泣いている。主人の兄さんと、姉さんがきて、兄さんは廊下に出て、白いハンカチを目に当て泣いている。

 私がどんなに泣かないでと叫んでも、見向きもしてくれない。母は、六十一番香園寺の御大師様、三十九才になる我が子玲子をお助け下さい、お願いします、と両手を合わせて光明真言を唱え、南無大師遍昭金剛を繰り返し唱えている。それが心経に変った時、病室の片すみに黄金の光が射して、地の底から湧き上がるような男の人の声で「黄金の綿を高く積み重ねたからこの上で休むが良い。背中も全身も痛く無くなるだろう」。声はするけど姿は見えない。

 スーッと、私の体は光る綿の上にのせられ、白いモヤモヤした霧が体を包んだ。見渡すかぎり、何も無く、唯々眩しい光の中で、寒くもなく、暑くもなく、体が抜けるように楽になった。私は夢中で「お大師様、有り難うございました」と三回お礼を言うと、光が消えた。そしてその時、母と主人の声が耳に入ってきた。私は意識を取り戻した。主治医は、良かった、良かった、と微笑んでいる。婦長さんは私に、この先生が助からないと言って顔を横に振った人で、助かった人は無いのよ。病院始まって以来の人ね……。

 私の体はその後何人もの医師が必要だと言って、日赤病院に送られて、ガンの疑いも出て、何度も医師が変わり、主治医も三度変った。三宅先生という最後の先生は良心的に良く診て下さった。でも、けっきょくはあの時が、助かるか、助からないかの瀬戸際だった。

 退院三日前、私は大日如来様と地蔵菩薩様の夢を見た。自分の里の地蔵堂の庭で、お二人は金色に光り輝く御姿で「二度と大病はしないよ、入院することはもうない」とお告げになり、矢の様な光を私の体に当てて下さり、私は思わず庭に土下座してお礼を……そんな夢でした。

 その朝、私の退院は決まった。

 退院後は病気一つせず、健康で、今は毎朝両家の御先祖様に心経を唱え、御宝号を唱えて、心身共に安らかな日々をおくっています。”

 

(「日本巡礼記集成 第二集」(弘法大師空海刊行会)より)

 

*昭和十一年当時の香園寺の住職は、山岡瑞円師です。相当な霊能を持っておられたらしく、大国美都雄先生の著書「真偽二道」によれば、出口聖師を弥勒菩薩の化身とお認めになり、天恩郷に何度か来ておられます。

 

*当時の香園寺(現在はコンクリート製の巨大な建物になっています)

 

 

 

 

 

 

 


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