霊夢で高野山讃岐別院が建った話 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・「夢で高野山讃岐別院が建った話」  安徳祐雄

 

 “現在の高野山讃岐別院大本堂建立にあたっては、「丸大ハム」先代社長・小森敏之氏はじめ大勢の大師信者の方々のご喜捨があった。

 とりわけ小森さんのご尽力は多大であったが、その当時、小森さんの身の上には、お大師様の霊夢による以下のような不思議なお導きがあったのである。

 小森さんは戦前高松市に住んでいたが、太平洋戦争で召集をうけ、終戦後引き揚げてからは大阪の証券会社に勤めていた。ところが、この会社が倒産してしまい、小森さんは経営者に預けていたお金まで失い、家族を抱えて路頭に迷ってしまった。信仰深い浄土宗の家に生まれていた小森さんは、就職先を探しながら、あちこちの寺に職を授けてくれるよう拝み頼んでまわった。

 ある晩のこと、小森さんは夢をみた。夢には大勢の小森さんの先祖が出てきて、今の世の中は食に不自由しているから、ハム、ソーセージを作ってみよとのこと。教えられる通りにしてはじめたのが、現在の大手食品メーカー「丸大ハム」の始まりなのである。

 さて、その小森さんと私共讃岐別院の出会いは、それから十年ほど後の話になる。

 讃岐別院は大正五年に建てられた広壮な堂宇があったが、昭和二十年七月の空襲で堂宇は一夜にして灰じんに帰してしまった。幸いお大師様の御尊像は無事だったので、翌年十二月には焼け跡に一棟の家を建て仮安置した。そして、二十五年には本堂再建の寄付集めにかかったが、時期柄なかなか集まらなかった。

 どうにも困り果てた時、ある古い信者さんが小森さんを紹介してくれた。昭和三十三年二月のことだった。当時小森さんはまだ三十過ぎで、住んでおられた家も小さかったのに、

 「わかりました。百万さして貰いまっさ」とのご快諾。思いがけぬ多額のご寄進に、私は声が出ず、ただ手を合わせて拝んでいた。

 ところがその数日後、小森さんの夢枕にお大師様が立たれたという。二ヶ月ほど経って小森さんが別院に来られ、いちど、お大師さんを拝ませてほしいといわれた。ご案内し、御宝前で御簾を上げた途端、小森さんは、

 「もったいないから下ろしてください!」といって、感じ入ったようすでひれ伏している。小森さんがいうには、夢に見たお大師さんが別院のお大師さんかどうか確かめに来たのだが、まことに寸分たがわぬお大師さんであられたので驚いたという。

 「これ、お大師さんにお供えさせていただきます。後でお送り致します」と小森さんはいって、名刺の裏に「二百万」と書かれた。

 その年十月十六日、小森さんはまた夢を見た。粗雑な平野を汽車が走っていく。やがてそれが大蛇となった。大蛇というのは財運に繋がっているというので、そんな土地があれば買っておけという意味かと思い、前々から周旋屋が持ってきていた東淀川区の五千坪余りの土地を買うことにした。

 さっそく売主の所へ行って内金を入れ雑談していると、十分もしないうちに他の買い手がきてぜひ売ってくれという。だが、すでに小森さんとの契約が成立していた。

 「あんたには弁天さんがついとる……」と売主は小森さんの顔を見て不思議そうにいった。売主がいうには、実は弁天さんの夢告げがあってその通りに待っていたら、小森さんがきて、夢告げの通りの条件で買ったので驚いたとのこと。小森さんの夢と、売主の弁天さんの夢がぴったりと合致したのである。

 それから二ヶ月経ち十二月になると、新幹線・新大阪駅の場所が東淀川区に決定した、と発表があり、小森さんの買った土地は一躍値上がりしたのである。

 翌三十四年二月十三日、別院では本堂再建のために関係者会議を開いた。小森さんのご寄進などで基礎工事はできたのだが、本堂の工事を進めるには、なお、頭金三百万と毎月百万ずつ支払わなければならなかった。一同よい案も浮かばず着工は一時延期ということになったが、私はどうも残念でならず、この上はもう一度小森さんにお願いするより仕方がないと覚悟して、小森さん宅をお訪ねしたい旨電話で申し入れた。

 そして二月十八日、寺の世話人ら五人連れで大阪の小森さん宅をおとずれ、「じつは……」と話しかけたら、小森さんは、

 「わかっております。なんぼあったらよろしいのですか?」といわれ、それから感慨深げな表情で次のような話をされた。

 十三日(別院で関係者会議のあった日)にかぎって、小森さんは眠気を催して早く寝てしまった。まもなくお大師様が窓からはいられて、座禅を組んで枕元でお話になった。お大師様が申されるには、小森さんが戦争に行って鉄砲に当たった時も二十一日だが、その傷が治った日も二十一日、奥さんの里は善通寺だがその奥さんとの結納の日、結婚の日は二十一日、東淀川区の土地の登記も二十一日で、「おまえとは縁が深い、昔から折にふれ目をかけとる。苦労もかけたが、困った時はわしを頼れよ、わしが指導してやるぞ」といった意味のお言葉をかけられた。

 夢から覚めた小森さんは、布団の上に正座して、今日までの一連の不思議な出来事はお大師様がお導きくださったのかと感激して、オイオイ声を出して男泣きに泣いたという。

 このようなわけで、大部分の費用は小森さんに寄進していただき、昭和三十七年六月、讃岐別院大本堂は立派に完成したのである。”

 

(「日本巡礼記集成 第一集」(弘法大師空海刊行会)より)

 

(三田光一によって念写された弘法大師)

 

*この丸大食品の創業者、小森敏之氏の話は、佐伯泉澄師の書かれた「真言密教の霊魂観」(朱鷺書房)や「弘法大師のみ教えを慕って」(高野山出版社)で、より詳しく紹介されています。小森氏は弘法大師と大聖歓喜天(聖天)尊を信仰されており、自宅近くの大阪の福島聖天(浦江聖天)こと了徳院によくお参りに行かれていたそうです。土地の売り手から「あんたには弁天さんがついとる」と言われたのは、了徳院で聖天様を参拝されるときに、境内で祀られている弁財天様も一緒に拝んでおられたからでした。

 

*聖天尊の霊験については、私自身も体験しました。昔、埼玉県熊谷市の妻沼聖天歓喜院を訪れたとき、ふと神仏への祈りは本当に届いているのかと疑問を感じ、一週間の浴油供を申し込むと共に、聖天様に「私の祈りはちゃんと届いておりますでしょうか?もし届いているなら何か証拠を見せてください。これから宝くじを買いますので当選させてください。大金は私の為にならないというのであれば、5万円程度で結構です」と心の中で祈り、駅近くの売店で宝くじを買って帰りました。すると抽選日にそれが3万円当選して驚いたことがあります。

 

*小森氏は大蛇の夢のお示しを受けられたわけですが、夢がしばしば象徴で示され、解釈を必要とするのは、我々の無意識の底には大量の物質的欲望や悪想念が渦巻いているため、より深いところに存在する神的な意識、超意識からの高尚なメッセージは、そこで遮断されて表層の顕在意識まで上がってくることができないからです。そのために超意識は、象徴的なものにカモフラージュしたメッセージを送って、その障害をすり抜けようとするわけですが、これは逆のことも言えると思います。つまり、どれだけ素晴らしい霊的な教えを聞いたり読んだりしても、たいていは我々の表層の意識に止まり、意識の最深部の更に底にある超意識(=魂)のレベルまで達することができないため、聖なる存在との感応は困難です。しかし、それら「霊性」、スウェーデンボルグの言う「内的な意味」「内流」がカモフラージュされていれば、悪想念の層をすり抜けて、我々の意識の深層部に達することができ、それではじめて我々の内部の魂は、外部の聖なる存在と感応することができます。これは私の個人的な考えに過ぎませんが、「霊界物語」が大量の馬鹿話や無駄話で溢れているのは、「霊性」・「内的な意味」をカモフラージュして、我々の意識の最深部にある超意識(魂)に届け、神人感応の状態へと導くためではないかと思います。ある宣伝使の方が言っておられた「読んでいればいつの間にか、知らず知らずのうちに魂にしみ込んでくる」というのは、まさにその通りです。「霊界物語」はさらにウンベルト・エーコの言う「真理を笑わせるためのもの」でもありますし、ただ「あらすじ」を読んでそれだけで満足してはならない、というのも、ちゃんと理由があります。下手に解説してしまうと単なる知的な理解になってしまい、そこに「内流」はありません。また、出口聖師は「天国の天人の言葉は、地獄ミタマの人間には通じない」と言われましたが、真理は常にマーヤーで覆われるのであって、むき出しのままでは、人はそれを受け入れることはできません。グルジェフも、「『象徴』は高次の知性センターの言語である」と言っていますが、イエスがしばしば「例え」で教えを説いたのも、同じ理由からだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 


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