世界で唯一の「笑える聖典」(「笑い」は真理を暴く) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “人生に帝王の主権の及ばざる無限の深みがある様に、霊界の広大無辺なる事は、とても現代の法王や教主らの支配の及ぶ限りではない。只人間は惟神(かむながら)に一身を任せて、日々の業務を楽しみ、歓喜の生涯を送ることに努めねばならぬ。故にこの物語も、読者をして天国浄土の片影を覗はしめむとして滑稽的の言語を聯(つら)ねられたのも、大神様の深遠なる仁慈の籠る所である事を口述者は感謝するのであります。『温かい笑ひの波は一座を漂はす』といふ事がある。法悦の歓びは終に笑ひとなる。笑ひは天国を開く声である、福音である。併し笑ひは厳粛を破るもののやうだが、その笑ひが徹底すると又涙が出るものだ。笑ひ泣きの涙が、最も高調された悲哀と接吻する様な感じがするものだ。併(しか)し法悦の涙と落胆悲痛の涙とは天地霄壌の差あるは勿論である。読者は本書を読んで充分に笑ひ且つ泣き、法悦の天界に遊ばれむことを希望いたします。人間の笑ふ時と泣く時と顔面の筋肉が同じ様に作用することを思ふと、善悪、歓苦、笑哭不二の真理が怪しく光つて来るやうです。” (「霊界物語 第四十六巻 舎身活躍 酉の巻」『総説』)

 

 “経(たて)の神諭は拝聴すると、涙が出る様だが、緯(よこ)の物語を聞くと少しも真味な所がなく、可笑しくなつてドン・キホーテ式の物語か又は寄席気分のやうだと云つてゐる立派な人格者があるさうだ。之れも身魂相応の理に仍(よ)るものだから、如何ともすることは出来ない。併(しか)し乍ら悲しみの極は喜びであり、喜びの極は悲しみであることは自然界学者もよく称ふる所である。而して悲しみは天国を閉ぢ歓びは天国を開くものである。人間が他愛もなく笑ふ時は決して悲しみの時ではない、面白可笑しく歓喜に充ちた時である。神は歓喜を以て生命となし、愛の中に存在し玉ふものである。赤子が泣いた時は其母親が慌てて乳を呑ませ、其子の笑顔を見て喜ぶのは即ち愛である。吾子を泣かせ、又は悲しましめて快しと思ふ親はない。神の心はすべて一瞬の間も、人間を歓喜にみたしすべての事業を楽しんで営ましめむとし玉ふものである。此物語が真面目を欠いて笑はせるのが不快に感ずる人あらば、それは所謂精神上に欠陥のある人であつて、癲狂者か或は偽善者である。先代萩の千松の言つたやうに……お腹がすいてもひもじうない……といふ虚偽虚飾の態度である。かくの如き考へを捨てざる限り、人は何程神の前に礼拝し、神を讃美し、愛を説くと雖も、到底天国に入ることは出来ない。努めて地獄の門に押入らむとする痴呆者である。” 

(「霊界物語 第四十九巻 真善美愛 子の巻」『第二章 大神人』)

 

 

・ウンベルト・エーコ 「薔薇の名前」    『理論化できないことは物語らなければならない』


 「『笑い』には真理を暴く力がある」

 

 *ネタバレがあります

 “観念したホルヘはウィリアムに本を差し出します。革手袋をはめて読み始めるウィリアム。ページの端に毒が塗ってあること、すなわち、ページをめくるために指を舐めると毒がまわって死ぬこと、この本を手にした者は皆それが原因で死んだことを見抜いていたからです。彼はホルヘが施療院から持ち出し、塗ったものでした。本には、ベンチョが証言し、また目録にも記載があったように、まずアラビア語の写本があり、次にシリア語の写本があり、三つ目にギリシャ語の『キュプリアーヌスの饗宴』の注釈が綴じられていました。そして四つ目が、『書き出しを欠いた書物で、娘の乱交や娼婦の情事について記したもの』、すなわち、アリストテレスが『詩学』の第一部で悲劇について語ったのち喜劇について書いた第二部でした。

 ウィリアムは、ここでアリストテレスが笑いを「いわば有徳の力として、認識的価値さえ備えうるもの」とみなしていると解釈します。笑いは、「機知に富んだ謎や予想を超えた隠喩を介して、事物をあるがままと異なるかたちで、まるで欺こうとでもするかのように、わたしたちにつたえることによって、実際には、わたしたちが事物をもっとよく見るように仕向け、なるほど、確かにそのとおり、知らずにいたのは自分のほうだ、と言わざるをえないようにする」と、その効能を説くのでした。

 喜劇についての本がほかにもあるなかで、なぜこの一巻だけを隠し通そうとしたのかを問うウィリアムに、ホルヘは「なぜなら、あの哲学者の手になるものゆえ」と答えます。アリストテレスの哲学思想はキリスト教世界にとって基盤となるものであり、それゆえにとびきり危険な影響力をもっており、そのアリストテレスの喜劇論が流布すれば、ついには神のイメージが転覆を免れられず、人々は笑いによって神への畏怖を忘れてしまう、とホルヘは嘆きながら述べます。そして、「この書物は、間違えば、平信徒たちのことばには何かしらか智慧がふくまれているという考えを是認しかねないものだ。それは食い止めねばならぬ。…〈中略〉… ホルヘがアドソからランプを奪い、床に積まれた本の山に投げました。たちまち火の手が上がります。ホルヘはそこにアリストテレスの本も投げ入れます。燃え盛る炎はやがて建物全体にまわり、長きにわたって世界中から集められてきた膨大な本は、巨大な迷宮とともにすべて失われてしまいました。

 ホルヘが隠しつづけてきたもの、それはアリストテレスが喜劇について記した書物でした。ホルヘはなぜそれを隠したのか。ここでは笑いと真実の関係をめぐる議論というものが中心にあると考えられます。これはエーコという作家、そして哲学者にとって生涯にわたり中心的なテーマでもありました。つまり、真実とはどこにあるのか、どこから来るのか、という問いがエーコにとって生涯変わることのない問いであり、その問いをめぐって理論書がかかれ、小説が書かれ、エッセイが書かれてきた。そして真実と笑いの関係の考察を小説において最初に実践したのが、この『薔薇の名前』という作品でした。

 焼け落ちた図書館から脱出したあとのウィリアムに、エーコはこう言わせています。

 

 「ホルヘがアリストテレスの『詩学』第二部を怖れたのは、もしかしたら、その説くところがあらゆる真理の貌を歪め、ほんとうにわたしたちがみずからの幻影に成り果てかねない点にあったのかもしれない。おそらく人びとを愛する者の務めは、真理を笑わせ、真理が笑うよう仕向けることにある。なぜなら唯一の真理とは、わたしたちみずからが真理に対する不健全な情熱から解放される術を学ぶことであるからだ」”

 

       (「NHK 100分de名著『ウンベルト・エーコ 薔薇の名前』」和田忠彦)