お日の出を拝む 〔黒住宗忠〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “‥‥‥わが家は先祖代々仏教(真言宗)を奉じて来たが、わたくしの祖父勘太郎は熱烈な日神礼拝者で、毎朝、東の空に昇る太陽に向かって恭々しく柏手を打って、黒住教で今でも厳重に実行している「日拝」を行っていたというし、明治七年以来金光教信者になった父も、井戸端に特別に建てた「行水場」と名づける小屋の中で毎朝身を清めた後、旭日に向かって拍手の音高く礼拝することを終生怠らなかった。旭日礼拝は太古から日本民族に伝わる宗教習俗である。例えば、金光教祖自身も実行していたところで、何も黒住教から始まったわけではないが、わたくしの祖父が毎朝これを励行するようになったのは、たぶん、宗忠大人(うし)の遺風に影響されたものと思われる。父も金光教入信以前から、祖父に見習って早朝日拝を行っていたらしい。

 安永九年(一七八〇)十一月廿六日、冬至一陽来復の佳日を以って誕生した黒住宗忠は、若い頃から既に凡庸の人ではなかった。ニ十歳前後に自ら神になろうという志を立てたことでも、その人となりの一端が窺われる。いくら、神官の子に生まれたからといっても、前代未聞の立志と呼んでよかろう。

 「二十歳ばかりの頃、悪しき事と知りながら身に行う事のなきやうにせば神とならるべしと思ひつき給ひ、是より毎事(ことごと)にかへりみて、心に悪しと思ふことを、断然(たへ)て身に行ひ給はざりしとなり」

とは、彼の高弟星島良平著「教祖宗忠神御小伝」に誌するところである。

 自ら神になろうと思いつくだけなら、単に奇抜といえるに過ぎなかろうが、彼の場合は、真剣に、生きながら神になろうと考え、事ごとにきびしく反省して、心に悪いと思うことは断じて行わぬように努めたというのである。

 文化九年八月、宗忠三十三歳のとき、わずか七日の間に、父と母とを、激しい下痢を伴う流行病によって、相次いで失った。天性正直にして、幼少の頃から人一倍孝心篤かった彼は、傷心のやるかたなく、明けても泣き暮れても歎き、ある日の如きは父の墓前において涕泣の極み、ついに気絶したことさえあった。

 このような悲傷のあまり、翌十年秋からついに病の床につくに至った。そのまた翌年には病勢ますます進み、医師から見放されるほどの重体に陥った。病名は労咳というから、胸部疾患であろう。その重病のどん底で起死回生の体験を与えられたことから、宗忠の新生が始まるのである。この異常体験を黒住教では「天命直受」と呼び、立教の神聖瞬間としている。すなわち、文化十一年十一月十一日、奇しくも十一の数が三つ重なった冬至の朝がその決定的な体験の時であった。

 

 これより先、同年正月十九日、三年越しの病に医師が匙を投げ、宗忠は天命と覚悟した。

 「われ死なば、神となりて、世人の病を治し得させんものと心に誓ひ、今生の永訣(わかれ)に日神を拝し、次に天神地祇、祖先孝妣を拝し、従容として死を待ち給ふ」(御小伝)という次第だった。

 そのとき、ふと彼の脳裏にひらめいたのは、自分は父母の急死を悲しんで陰気になったためこの大病にかかったのであるから、心を陽気にすれば病気は治るはずだ、との考えだった。ただ一息する間だけでも、そのように心を養うのが孝行の道だと考え、天恩の有難さに心を向け、ひたすら、心をもって心を養うように努めたところ、不思議なことに、その時を境にして病が軽快に赴いた。

 それからちょうど二カ月目の三月十九日のこと、臥床中の宗忠が急に入浴して日拝(太陽を礼拝し、深呼吸して、その陽気を臍下丹田に鎮める修行)をしたいと言い出した。快方に向かったとはいえ、なお臥床中のこととて、妻いく子は極力いさめてこれをとめた。しかし宗忠の意志は堅かったので、ついにその言うに任せて入浴させた。久しぶりに心身ともに清くすがすがしくなった宗忠は、縁側に匍い出て太陽を拝んだが、それを契機として、三年越しの病気が一時に全快したのだった。

 さて、問題の十一月十一日冬至の朝、宗忠が日拝をして一心不乱に祈念していると、太陽の精気が身体全体に満ちわたり、肺腑に徹る思いがした。

 「陽気胸間に徹し、ありがたく、嬉しく、思はず日光を呑み給ひしかば心気頓(こころにわか)に快活(いさぎよく)、初めて天地生々の霊機(いきもの)を自得(つかま)へ給へり。」と、この間の消息を、前記『御小伝』は伝えている。いわゆる豁然頓悟の異常体験である。そのときの宗忠の心境は、彼自身の表現を借りれば、「笛を吹き糸をしらべ鐘をたたき鼓を鳴らして歌ひ舞ふとも及び難い」ほどの楽しさで、星島良平の絶妙な文句どおり、「天地生々の霊機(いきもの)を自得(つかま)へた」のだった。

 この冬至の旭日を拝んで内心一転した強烈な宗教体験を、彼は「天照大神と同魂同体」になったのだと確信した。そして、自分だけがこのようなありがたい恵みを受けて、他の人に分かたないのは、太陽神天照大神の御神慮に背くことになろうと考えた。”

 

(笠井鎮夫「近代日本霊異実録」(山雅房)より)

 

*幕末の備前岡山で立教された黒住教は、今村宮という神社の神官であった黒住宗忠(むねただ)教祖の神秘体験、太陽神である天照大御神との合一の体験がその始まりとされています。当然ながら、太陽神信仰がその教義の中心ですが、黒住教で礼拝対象となっている天照大御神は、単なる太陽神ではなく、天地の親神様の顕現としての太陽神=天照大御神であって、これもまた主神信仰の一つの形態であると言って良いと思います。宗忠教祖の時代から伊勢神宮との関係が深く、今も奉賛活動を続けていますが、一方で黒住宗篤 三代教主は出雲大社の千家国造家から妻を迎えており(確か四代教主か五代教主もそうだったと思います)、出雲の霊性とも結びついているようです。なお、京都神楽岡の吉田神社(大元宮)の近くにある宗忠神社は、黒住宗忠教祖の高弟であった赤木忠春先生によって建てられたもので、孝明天皇の唯一の勅願所(天皇陛下が国・国民の平安を祈る社寺)となっていました。宗忠神社で下される神託は孝明天皇にも伝えられ、あまり知られてはいませんが、実は皇室を陰ながら支え続けた神社でもあります。

 

*チベット仏教の最高指導者であり、チベット亡命政権の代表でもあるダライ・ラマ法王は、複雑な国際関係のため長きにわたり日本に入国できなかったことがありました。残念なことに日本の仏教界、宗教界は、中国との関係を考慮して、チベット仏教側の協力要請を無視し続けていたのですが、その時に唯一岡山の黒住教が名乗りを上げ、黒住教が責任教団として招聘することで、平成七年三月に、十一年ぶりにダライ・ラマ法王の来日が実現しました。このとき、ダライ・ラマ法王は、黒住教の本部である岡山市の神道山大教殿で玉串奉奠をされています。

 

*黒住教は、昭和42年に西日本で初めての本格的な重度障害児施設「旭川児童院」を開院させるなど、様々な福祉活動や吉備楽道場などの芸術活動に力を入れています。親子で人間国宝に認定された備前焼作家の藤原啓、雄氏や、藤原建氏、現代アートの横尾忠則氏も黒住教信徒です。

 

*最近、伊勢の内宮を参拝された方が言っておられたのですが、せっかく伊勢まで来られても、参拝を終えた方々で、誰一人として空に輝く太陽に関心を向ける方はいないということでした。天照大御神様の御神霊を見ることは出来なくとも、その御体はただ顔を上げれば拝することができるのに、非常にもったいないような気がします。伊勢まで行けなくとも自宅で、せめて冬至や元旦には、お日さまを拝んでみてはいかがでしょうか。少なくとも節分の恵方巻などよりは、はるかに開運の効果もあるはずです。

 

*黒住宗忠教祖は、「日々家内心得の事・七ヶ条」の第一に、「神国の人に生まれ常に信心なき事」と記しています。日本国民の皆が、早朝日の出を拝むようになったとすれば、それはまさしく神国にふさわしい光景であろうと思います。

 

*大正時代の皇道大本の機関誌「神霊界」に掲載されていた「皇道大本誓約」の第一条にも、「朝は五時に起き、先づ身体を清め、東天を拝し、次で神前に向ひ、天津祝詞及び大本祝詞を奏上し、‥‥‥」とあり、当時は御神前での礼拝に先立って、まず日の出を拝んでいたことがわかります。本文中にもあるように、この旭日礼拝は古来から伝わるもので、柏手を打って、お天道様を拝む行為は、昔は日本各地で行われていました。新型コロナウィルスの影響で、来年正月の「初詣で」も自粛が要請されるようですが、自宅で家族そろって「初日の出」を拝むのも、立派な神事であるはずです。

 

*艮の金神国祖国常立尊が神憑りされた出口ナオ開祖の本霊は、稚姫岐美命(わかひめぎみのみこと)であり、天照大御神の妹とされています。稚姫岐美命は、伊勢の香良洲神社や高野山の丹生都比売神社で祀られています。

 

*出口ナオ開祖の「お筆先」や出口王仁三郎聖師の「霊界物語」には、天照大御神とは別に、「日の出の神」という神様が登場します。狂人を装って世界各地の邪神の陰謀を調査したりなど、ちょっと変わった役割を果たされる神様なのですが、実は救世主神の顕現の一つとも示されています。大本・愛善苑では、日の出の神とは出口王仁三郎聖師のこととされていますが、日清戦争のときに台湾で行方不明となった出口ナオ開祖の次男出口清吉氏が、この日の出の神の働きをするということも「お筆先」に示されており、色々と謎に満ちた神様でもあります