人民を統制する方法  | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “‥‥‥生物学者によると、どんな動物でもグループの五%が『支配的』だと認められるそうですよ。

 中国人は朝鮮戦争の時にこのことを証明してくれました。アメリカ人捕虜は一人も脱走しませんでしたが、アメリカ側にはその理由がわかりませんでした。あとになって、脱走を防ぐきわめて確実な方法を、中国人が知っていたことがわかりました。一週間かそこら、捕虜をつぶさに観察し、捕虜のなかで誰が支配力をもっているのか、人を率いる能力のあるのは誰か、を見極めたのです。この支配力のある捕虜は、独房に入れて非常に厳しい監視下におきました、そうすると、そのほかの捕虜はほとんど監視する必要もなかった、というのです。『トラブルメーカー』を隔離してしまえば、残りは受け身で、自分から動くことはできなくなるのでした。そして、支配力のある捕虜はきっちり五%、つまり二十人に一人だったそうです。これは人間以外にもあてはまります。二十分の一が『支配的』なのです。

 もちろん、だからといって、二十人に一人は天才かカリスマ的なリーダーだ、ということではありません。『五%の支配層』には、どんなものであれ、何かで頭角を現した人すべてが含まれます。軍隊で威張り散らす軍曹から、商店の売り場主任までね。本当に支配的なのは、全体の〇.〇五%くらいでしょう。この層が、産業界であれ、政治家であれ、俳優であれ、スポーツ選手であれ、本当に成功した人々だといえるのだと思います。

 心理学者のエイブラハム・マスローはまた、支配的な人々は生まれながらにして、健康に留意しているということも発見しました。ニワトリでおもしろい実験をしたのです。ニワトリを観察して、どの個体がもっとも支配的なのか見分けたあと、二種類のエサをやりました。一つは臭いは素晴らしいがあまり栄養はないもの、もう一方はひどい臭いだが栄養に富んだものです。すると、支配的なニワトリはまったく自動的に、栄養価は高いが臭いが悪い、というエサの方へいったのです。そして、支配的でないものは、ますます力が落ちていったというのです。”

 

(コリン・ウィルソン「ずっと人間のことばかり考えていた」(アスペクト)より)

 

*広大な領土、膨大な人口を抱える国においては、たとえ反体制的な運動が起こり何らかの組織が結成されたとしても、最初のうちは政府はそれに対していくらか警告や圧迫を加えはしますが、影響が一部の区域に限定されている限り、あえてその組織が弱体化し消滅してしまうようなことまではしません。むしろ、その組織が成長するままにしておくのですが、決して彼らが武器を手にすることがないように、彼らと軍や警察との間に憎悪が発生するように仕向け、かつ他の地域での活動は厳格に取り締まって、組織の活動を特定の地域、もともと反体制的な人間が最も多く存在する地域のみに集中させます。そして、どれか一つの団体に同種の団体が全て組み込まれ、さらに反体制的な傾向のある人たちが進んでその組織に加わり、その区域で唯一の巨大な反政府組織が出来上がってから、ちょうど国際社会がそれぞれの自国内の問題で動けなくなり、干渉してくる恐れがなくなったときに、その組織の指導者や、その次に指導者となるであろう者たちを逮捕してしまいます。そうすると、あとに残された者たちは、必ずや強硬派と慎重派に分裂し、以後はひとりでに崩壊してゆきます。これが今、実際に香港で起こっていることです。決して未来は定まっているわけではありませんが、事態がこのまま進行して行けば、いずれ追い詰められて過激な行動に走る者が出たなら、ここぞとばかり暴徒から善良な市民たちを守るという名目で、政府はさらに強硬な手段をとり、完全に民主化運動の息の根を止めてしまうでしょう。

(香港旗)

 

*たとえ共産党が勝利しようとも、暴力による勝利は一時的なものでしかなく、いずれ彼らの振るった暴力は、彼ら自身にはね返ることになります(おそらく内部から崩壊し、分裂することになると思います)。また、民主化勢力が力を盛り返し、人々の権利を護るための法律が制定されることになったとしても、出口聖師によれば、法による支配である限りは、結局は力による支配であることに変わりはなく、いずれは行き詰まることになります(これはどこの国も同じです)。マザー・テレサの言葉に、「私は反戦運動には参加しません。平和運動であれば参加します。反戦運動には、ある特定の人たちに対する怒りや敵意があります。結局はそういったものが戦争を引き起こすのです」というのがありますが、私は、政治的な抵抗運動よりも、霊的な抵抗、特にチベット人たちが果たそうとしておられる役割にもっと関心が向けられるべきだと思っています。

(チベット旗(雪山獅子旗))

 

・天界と現界の相応  〔出口王仁三郎聖師〕

 

 “みろくの世は、霊界が整うのであって、現実の世界がそれに相応して整うて来るのである。神を祈り、神に礼拝していれば、現実界が一切良くなるのではない。神を礼拝し、祈りつつ、その祈りの心を容れている体の世界が現実に完成するべく努力するのでなくてはならない。手をこまねいていて、みろくの世が出現すると思うものは信仰上の痴者である。

 神は天地経綸の司として人を創り給うた。即ち人に地上の経綸をゆだねられたのである以上、人の世における善化、美化は人がなさなければならない使命を負わされている。人のなさねばならぬことをなさずして、良き世界ができるようにといくら祈っても、既に人間のなさねばならぬ、神よりの使命を放棄しているのであるから、左様な人の祈りに、‘みたまのふゆ’があるべき道理がないのである。霊体一致だ。霊魂の向上を期すると共に、体の動作形式はより美しく、より善でなくてはならない。それが信仰的の常識だ。霊にとらわれた没常識、体に堕した非常識であってはならない。霊界物語の中に示してある宣伝使の活動をよく読んで見るがよい。霊体相応の理に基づいて、時、所、位によって、すべて常識的に行動している。そしてそれに配するに、体的に堕したもの、霊的にとらわれたものが織り込まれて、正道を行く宣伝使の言動が、神の道を明らかにしている。しかもその宣伝使にも、或いは荒魂(あらみたま)、或いは幸魂(さちみたま)に優れているもの、或いは和魂(にぎみたま)、或いは奇魂(くしみたま)に勝っているものの、霊魂の動き、差別が現われている。智慧証覚に在るもの、愛善に住するものの別が、それぞれの言説となり、時所位に応じた行動となっていることに注意すべきである。

 霊界が現界に相応してくるといっても、全然異なっている形式の世界が相応するものではない。相応するには相応する形式がほぼ出来ていなくてはならない。動物霊は動物的の形式、即ち精神に相応し、天使は人としての内分が天界に向かっているときに相応してくる。それだから神界を現界に相応せしむるには、現界そのものが神界とやや形式が類似して来なくてはならぬ。そこで神は天国を地に来たらしむるために神意を啓示し、教化の道を開示するのである。そして現界に住む人間の心の中に、天界を容れ収むる形式が少しでもできれば、そこに基礎が相応して来るのである。それだから教えの無い、神の意図の啓示されていない宗教がいかに発展していっても、天国は地上に建てられるものではない。教の権威はその点にあるのであって、人智をもって人の心を導くことは危険至極なことであって、天界との相応が成り立たないのである

 人のあり方が道義的であり、正しい道に向かっているときには法律というものでも、重大に考えられなくなるが、そうして心的の方向が失われて、体的となり、どん欲的となるに従って法律というものが強化され、それが尊重されて来るのである。法律が強化されるには、どうしても権力というものが裏付けされなくては、法が力を発揮することができない。そうなると、力が人を支配することになる。力が支配している間は天界は相応するどころか、次第に天界は遠ざかるものである。天界が接近して来るのは力よりも真理、愛善という状態にならなくてはならぬ。一言にして言えば、正しい宗教、正しい宗教情操が常識化された世界とならなくてはならないのだ。宗教が基礎となった人類文化世界が建てられなくてはならない。それだから、人はそうした世界を建てるための共通の使命、責任があるというのである。

 人類の進歩、人類の文化向上ということは、天国との接近、天界との相応に目標があるのであって、いくら人権が尊重され法律が強化されて秩序ができたからといって、それで進歩した文化の世と思うのは誤りであり、天界と相応しない現界は、永続性があるものではない。それで人々は天界と相応せしむる世を建てるべく目標を置くと同時に、それに向かったあらゆる努力が払われなくてはならない。

 神は静的の存在ではない。常住不断の活動に坐しますものだ。また宇宙万有、活動の無いところに生命も発展も無いのである如く、相応するには、人もまた活動的でなくてはならない。活動を否み、努力を怠る世界に相応はないのである。しかし如何に活動し、努力していても、神と離れた心の状態にある人には、何か淋しい足りないものがあって、次第に努力活動することが嫌になるのである。それは天界と接近する心的状態ができていないで、外分的の努力活動だからである。内分的の状態に在って努力活動すれば、益々歓喜と幸福に満たされてきて、実に光明的となる。天界と接近し、相応するが故である。”

 

(「海潮」昭和25年7月号 大国以都雄録『相応の世界』より)

 

 

・グルジェフ・ワークを通じて理解したこと (P・D・ウスペンスキー)

 

“私の内部のどこか非常に深いところで、暴力の不可能性という秘教の原理を、つまり何を獲得するためであろうと暴力的手段は無益であるということを理解した。いかなることにおいてであろうと、暴力的な手段や方法は必ず否定的な結果、つまり目指す結果とは裏腹の結果を生み出すということを疑いようもなくはっきりと理解し、この感じは後になっても完全に消えることはなかった。私のたどりついたものは外見的にはトルストイの無抵抗のようなものだったが、実際には無抵抗では全くなかった。というのも、私はそれに倫理的観点からではなく実際的な観点からたどり着いたのであり、何が良い何が悪いといった見地からではなく実際的、便宜的見地からたどりついたからである。”

 

(P・D・ウスペンスキー「奇蹟を求めて グルジェフの神秘宇宙論」(平河出版社)より)

 

 

・ルドルフ・シュタイナーの主張    「神秘学的な叡智を普及させねばならない」

 

 “それでは、唯物論と同族の結びつきを克服することを通しての霊性と普遍的人類愛の獲得は、どのような手段と方法によってなされうるかを考えてみましょう。正しい普遍的人類愛を強調する必要があり、人間愛を目的にした結びつきを作らねばならない、という意見が生まれるかもしれません。神秘学は決してこのような意見を抱くことがありません。反対です。普遍的兄弟愛や人間性について語れば語るほど、自分の言説に酔ってエゴイストになってしまうのです。感覚的な歓楽があるように、魂的な歓楽が存在します。「私は道徳的、倫理的にますます向上したい」というのは狡猾な淫蕩のもたらす歓楽なのです。このような言説は通常のエゴイズムではありません。このような歓楽から生じるのは老獪なエゴイズムです。

 愛や同情を説くことによって、人類が進化するのではありません。もっと別の何かを通して、人類は友情を作り上げていくのです。別の何かとは霊的認識にほかなりません。普遍的な人間的友愛をもたらす手段は、神秘学的認識の普及以外にはありません。人々はいつも愛や人類の同胞化について語り、いくつもの連盟が創設されますが、目標を達成することはありません。正しいことを行うには、どのように人類の結びつきを創造するかを知る必要があります。全人類に通用する神秘学的な真理を生きる人々だけが、一つの真理の下にともに存在するのです。植物はみな太陽に向かって生長しながらも、しかも、個々の植物は個体性を有しています。そのように、真理は一元的なものでなければなりません。統一的な真理を目指すことによって、人々はともに在ることができるのです。人間は真理に向かって精力的に働かねばなりません。そうして初めて調和的な共同の生活が可能になるのです。

 「人はみな真理に向かって努力しているではないか。だが、さまざまな観点があるゆえに、闘争が生じ、分裂が生じるようになるのではないか」と反論されるかもしれません。・・・このような考えは、真理について十分に根本的な認識がなされていないために生じます。真理についてさまざまな観点があるということはできないのです。真理は唯一でしかありえないということを、まず認識しなければなりません。真理は国民投票に依存するようなものではありません。真理はそれ自体において真実なものなのです。三角形の内角の和は一八〇度であるかどうかを投票で決めたりするでしょうか。百万人の人々が承認しようと誰一人承認しまいと、この定理は真理なのです。真理には、民主主義というものは存在しません。まだ考えの一致しない者同士が真理に向かう事に、すべての闘争の原因が存在するのです。「だが、神秘学的な事柄に関しても、ある者はこう言い、また別の者は違う意見を主張している」といわれるかもしれません。このようなことは、真の神秘学においては生じません。物質的なことに関しても同じです。ある人はこういい、他の人は違うことをいう場合、どちらかの意見が間違っているのです。神秘学においてもそうです。神秘学を理解する前に神秘学を判断するのは、礼儀を欠いています。

 第六文化期における人類の努力目標は、神秘的真理の普及にあります。これが時代の使命なのです。霊的に結集した協会は、神秘学真理を人生にもたらし、適応させるという課題を持っています。このことが現代には欠けているのです。いかに今日、みなが正義を探し求め、そして、誰も正義を発見できないかを考えてみてください。現代は、無数の問題、教育問題、婦人問題、医療、社会問題、食料問題を抱えています。何人もの人がこれらの問題を解決しようとして、無数の論文や本が書かれていますが、どれも自分の観点から意見を述べていて、中心となる神秘学的真理を学ぼうとはしていません。霊学的、神智学的な真理についての抽象的な知識が問題なのではなく、社会問題、教育問題を研究するために、霊学の真理を直接生活の中にもたらすこと、人生を真の神秘学的叡智の観点から研究することが大切なのです。・・・けれども、そのためには最高の叡智を認識しなければならないと反論されるかもしれませんが、人生に適用されるものをつねに完全に認識していなければならないと考える必要はありません。・・・”

 

(ルドルフ・シュタイナー「薔薇十字会の神智学」平河出版社)

 

 

・ 「ここに集う六十四人が祈り、その祈りにしたがって生きるなら、‥‥‥」  〔エドガー・ケイシー〕

 

 “ケイシーの千年期の予言のうち、1940年6月に語られたふたつのリーディングのなかでは、集合意識に飛躍的な効果を与える境界値の人数が特定されている。ケイシーは二十世紀の世界でこれほど多くの動乱が起きる理由について、人々が神を忘れ去ってしまったからだと言っている。このような状況はあるべきことではなく、どこかの国や地球全体が背負っている宿命といったものでもない。さらに続けて彼は、たとえただのひとりでも祈る人がいれば、ひとつの都市を救うことができると言明する。

 また、同じリーディング(3976-25)のなかのもうひとつの予言では、第二次世界大戦を間近にひかえた当時、ケイシーは六十四人の集団に向かって、彼らにはアメリカの運命を変えるだけの霊的な力があると断言している。

 

 「ここに集う六十四人が祈り、その祈りにしたがって生きるなら、アメリカを侵略から護ることもできる… それがあなたがたの望みであるなら」

 

 最初の予言では、ひとつの共同体や都市の未来を変える境界値は、旧約聖書で語られた十人さえいらないとしている。おそらく、神の意志に沿う人間がひとりいればよいということだろう。ふたつめはさらに挑発的でさえある。これはケイシーの公開リーディングを聞きに来た六十四人の聴衆に向けられた言葉だった。ここには、国家全体の未来に及ぶ影響力がどのように作用するかが示唆されている。ちょうど、アメリカの領土が侵略の脅威にさらされているときだった。この時期、すでにヨーロッパや東アジアでは第二次世界大戦が始まっていたことを考慮に入れておく必要はあるが、それでも合衆国が参戦するまでにはまだ一年と半年の猶予があった。したがって、一九四〇年六月の時点でのケイシーの予言は、かなり大胆なものだったと言える。たとえ六十四人であっても祈り、神の構想に沿うように生きるのであれば、アメリカ国民の未来(侵略を受けること)を変えられるというのだ。しかし、どうやら意識の臨海質量は達成できなかったらしい。その後、二年もしないうちに真珠湾が空襲を受け、アメリカ国民はその領土が侵略されたのを知ったからである。

 ここで非常に興味深いのは、その日公開リーディングに出席したひとりの人物の報告である。それは、リーディングが終わったあとに、メンバーの間で交わされた話を伝えるものだった。この席では、「それではどのような祈りがふさわしいのだろう?」あるいは「皆がそろって祈りに参加するには何時ごろがよいか?」といった疑問はまったく出なかった。かわりに、人々は声をはりあげ、「攻撃を受けるのはいったいどこだろう?」と言い交わした。こうして恐怖が忍び寄り、ケイシーの言葉にこめられた希望の兆しを黒い影で覆ってしまったのだった。

 それから四十年以上もたった今のわれわれからすれば、この一団の人々は愚かにも見え、恐怖に取りつかれて自分を見失ってしまったようにも見える。また、彼らがなぜ兆しとして見えていたはずのものの意味を見落としてしまったのか、なぜ目の前に差し出された魂を向上させる好機をつかみそこなってしまったのかと疑問にも思える。しかし、考えてみれば、われわれも今、おうおうにして同じ様なことをしてはいないだろうか?原理や数は今も変わりはない。状況はやや違っているかもしれない。第二次世界大戦の勃発も終戦も過去のことになった。それでも今日、われわれの世界には同じような脅威の予兆がいくつもある。そして、現代でもやはり、アメリカ規模の国家に変化をもたらすのには六十四人の人間がいればよいのである。

 それでは今のわれわれの反応はどうか?最初に地震に見舞われる地域はどこかと気をもむだけだろうか?経済恐慌がおきたら、その結果どんな暴動が発生するかを懸念するだけだろうか?われわれの目の前にはまだ、集団の意識をいっきに発酵させるわずかなパン種となる機会が見えている。これはひたむきな人々の小さな集団が未来の進路に途方もなく大きな影響を与えることができるという力強い概念である。それは、われわれに約束の感覚と責任への挑戦を授ける思想である。そして「臨界質量」の魔術が人間意識の領域に働きかける作用がはっきりと見て取れるなら、われわれはなにがしかの希望を抱いて、その責任をすすんで担うことだろう。”

 

(マーク・サーストン「21世紀ビジョン」中央アート出版社より

 

*エドガー・ケイシーは、「ここに集う六十四人が祈り、その祈りにしたがって生きるなら、‥‥‥」と語っています。祈りだけではなく、その祈りに従って行動することが重要なのであって、ただ祈るだけで行動が伴わないのであれば、単なる自己満足でしかありません。

 

*以下は、日本エドガー・ケイシーセンター(ECCJ)のメールマガジンから転載させていただきました。

 

■ お知らせ ■

 アメリカ本部A.R.E.では、2020年冬至の始まりである12月20日から21日(日本時間は20日14:01~21日13:59まで)にかけて、祈りと瞑想の24時間イベント「Edgar Cayce's Global Prayer & Meditation Day」が開催されます。

 この日は、土星と木星が800年ぶりに接近し重なり合うという、大変珍しい天体現象が起こります。ケイシーのリーディングは、土星が学びやチャレンジをもたらし、木星が豊かさや崇高な目的をもたらすと述べています。

 ですので、この現象が私たち人類全体と地球に強い影響を与え、2021年へと続いていくことが考えられます。このタイミングで地球規模の祈りと瞑想を行うことは、大変意義深いものとなるでしょう。

 以下のアファメーションに意識を向けながら、祈りと瞑想を行います。

 

「あなたの顔を、神の光に向け続けなさいーーすべての状況に対処できるように、自分自身を、

すべての力とすべての影響力である[ワンネス]に同調し続けなさい」39-4

Keep your face toward the Light, keeping se lf in tune with that Oneness that is all p ower, and all force to meet the needs of  each and every condition. 39-4

 

 当日はA.R.E.のウェブサイトから動画配信も行われる予定です(英語)。ぜひご参加ください!

https://edgarcayce.org/December20