聖母への「女性性」の奉献 (メジュゴリエ) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “メジュゴリエの何人かの友人がカリフォルニアで話をするように私(シスター・エマニエル)に頼んできた。サンフランシスコに着くと、私は通りが魅力的でハイカラで清潔であるが、子供たちがいないことに気づいた。死んだ町!私がこれから会う人々のために、聖母の母としての心が貯えておられた言葉を私の心の中においてくださるよう願いながら、私はゴスパ(注:聖母マリアのこと)に助けを求めて叫んだ。私が言うべきことは無数の中絶(妊娠9カ月までは「治療的中絶」という誤解を招く用語の下での)を立法化している社会に向けられるであろう。答えは遅れずしてきた。私はそれから公に話す最初の機会を捉え、祈りのうちに私が受けた霊感を伝えた。
 「サタンは人間の命に怒りを燃やしています。サタンはどんな犠牲を払っても命を破壊し、それを永遠に地球の上から消し去りたいと思っています。サタンに屈してはいけません。ファチマおよびメジュゴリエのマリアの精神において(そこでは聖母は個人として奉献するよう私たちを招いておられる)、私は女の性をもつすべての人々がその『母胎』をマリアの汚れなき御心に奉献するよう提案します。それは何を意味するのでしょうか?
 例えば、結婚した女性はこのように言うことができます。
 『今、私は自分の身体のこの部分をあなたにささげます。これ以後、それはあなたのものです。そこで起こるすべてのことがあなたの計画と神の意志に奉仕しますように。これからは、あなたはそこで何人の子供たちが宿され、そして生まれるかを決定なさる方です。この貴い場所をすべての不純、すべての病気、あなたの望みを実現することを妨げるすべてのものから守ってください。それをあなたの比べようのない母胎の反映としてください。あらかじめ生まれてくるすべての子供たちを祝福してください。そこですでに命を得た者たちを祝福してください。あなたを悲しませたすべてのものの結果と傷から私を癒してください。もしこの場所が死(流産あるいは中絶)によって触れられたならば、私の全存在を傷から癒してください。そして私が失った小さい者をあなたの母胎の中へ歓迎してください。いとも愛する御母よ、あなたもまた、あなたに属するすべてのものを私にくださったように、私の持っているすべてのものをあなたのものとしてください。』

 少女、あるいは結婚してない女性は、もちろんそれぞれ異なった仕方によってであるが、この奉献をすることができる。女はその母としての未来、そして彼女が内部に持っている命に対する潜在力を、それが神の恵みに従って発展するよう、いかなる暴力的な攻撃からも守られるよう、そして決して罪をかくまうことがないよう、マリアの配慮に委ねる。一人であること、そして母でないことに苦しんでいる女性は、自分が生きるかもしれない秘密の殉教という次元をそれにつけ加えて自分の奉献とすることができる。この殉教によって、神の救いの計画において数千人の人々を真の命へと連れ戻すことができる。年老いた母たちは奉献すべき多くのもの、すなわち、彼女たちの過去と彼らの子孫たちという二つのものを持っている。”

 

 “ある日、群衆の中の一人の男が尋ねた。

 「ミリアーナ、子どもたちをもつことを拒否する若い既婚の女性に対して、あなたは何と言うのですか?」

 「赤ちゃんをもつことは地上で最も美しいことです!」

 ミリアーナは直ちに答えた。その言葉に拍手の波が起こった。

 その男は満足したようだった。彼は正しく、今や彼はその証拠も得たことをその若い女性に知らせたであろう。それでも、彼はそれ以上の答えを求めた。

 「もしこの女性が未来が非常に暗く、またそのような世界の中へ子どもたちをもたらすことは危険であるからと怯えたとしたらどうですか?」

 「彼女が恐れる理由はありません。彼女はその子どもたちを神とマリアに委ねるべきです。ゴスパ(注:「貴婦人」を意味。聖母マリアのこと)は、私たちが自分の子どもの幸福を決定するのではないと言っておられます。『神を自分の父として、私を自分の母として、そして教会を自分の家として受け入れる人々は恐れる理由がありません』と聖母はおっしゃっています。

 「しかし、このごろでは、多くの両親が子どもを持つことを恐れている……」

 「ゴスパは言っておられます。『子どもを持つことを恐れてはいけません。むしろ、子どもを持たないことを恐れなさい!あなたたちは子どもを多くもてばもつほど良いのです。』」

 

 巡礼者たちは互いにぶつぶつ言い始めた。彼らは聖母からそのような強い言葉を予期していなかったし、それは今日の社会において言われていることとは正反対であった。

 「しかし、ミリアーナ、秘密についてはどうなのですか?私たちはそれらのうちのあるものは困難を告知しているということを知っています。」

 「秘密を恐れてはいけません。あなたの子どもたちをゴスパに委ねなさい。そうすれば、あなたたちは秘密によって恐れることは何もありません。私がすでに二人の子どもを持ち、もっとたくさん持ちたいと希望しているのを、あなたはなぜだと思いますか?」

 彼女の議論と証しは夜の閃光のように輝いた。それはこの千年期の終わりに書店に侵入したあらゆる「最後の審判の日」に関する本よりも強い、反駁できないものだった。

 

 グループがくぼみや岩でいっぱいの小さな道を通って去って行く間に、私は子どもたちに関して、もう少し詳しいことをミリアーナに尋ねた。

 「あなたが今言ったことは西欧世界にとっては爆弾のようなものだわ。それは強力な権威筋が長い間私たちに押し付け、メディアによって毎日私たちの意識の中へ叩き込んできたすべての考え、つまり、子どもは家族を弱らせる重荷である、という考えに反するでしょう。」

 「聖母の声は人間が墓を掘る声を超えて聞かなければならないのよ。」

 「明日来て!」

 

 翌日、彼女の居間に座っている間に私は会話のノートをとった。ミリアーナは彼女自身の意見をゴスパが彼女に委託したものと決して混同しない。彼女は一言一言、彼女が前日に行ったことを私に繰り返した。

 「ミリアーナ、ゴスパは結婚するようにあなたにお求めになったの?」

 「いいえ、私は決定を下す自由をもっていたわ。私の心の中の神のご意志に耳を傾けるように教えられたのよ。聖母はいつも、『祈りなさい。そうすればあなたは何をすべきかを、心の中で知るでしょう。』と言われる。でも、私は心の中に修道女になる望みを感じたことはない。マルコと私は子どもの頃から知り合いで、級友だったの。ゴスパは、私には結婚以外の他の道を示されなかったわ。」

 「ミリアーナ、六人の幻視者のうちの五人が結婚しているわね。これは今の時代に聖母が家庭の方を好まれている一つのしるしだと思う?」

 「いいえ、決してそうではないわ。ゴスパは両方の使命が教会の内部には必要である、司祭や修道者たちが家庭なしには生きることができないように、家庭は司祭たち(そして修道者たち)がいないと生きることができないと言っておられる。幻視者たちは模倣されるべき模範ではないわ。」

 「昨日、あなたは聖母からのとても強い主張を伝えたわね。例えば、『子どもをもつことを恐れてはいけません。むしろ、子どもをもたないことを恐れなさい!子どもたちを多くもてばもつほど良いのです』と。」

 「ええ、聖母はそうおっしゃったわ。そして聖母はなぜそう言われたか、その理由をご存じだわ。私も知っているわ。でもこれ以上はあなたに言うことはできない……。」

 「おお、あなたは知っているのね!」

 ミリアーナはうなずいた。そして強い信仰告白の確信をもってほほえみながら付け加えた。

 「秘密が明らかにされるとき、人々はなぜ多くの子どもをもつことが重要なのか、その理由を理解するわ。私たちは皆、マリアの汚れなき御心の勝利を待っているのよ!」

 私の心は喜びで弾んだ。なぜなら、私はその理由を知らないけれども、ミリアーナはファチマをメジュゴリエに結びつける神秘的な関係を確証したからである。私は彼女を見た。そしてミリアーナがこの世で彼女の目でこの勝利を見るであろうと確信した。おそらく、彼女もまた、その勝利がどのように来るのかを知ったのだ。

 「もし私が、あなたがたった今言ったことを正しく理解しているとすれば、何かとても美しいことが、ゴスパが望んでおられる小さな子どもたちに起こるのでしょう?」

 「あなたが自分自身について話していなければいいのだけれど。聖母はこれを結婚したカップルのために言われたのよ!」

 それは私たちの会話が終りに来たということ、そして彼女はもう付け加えることは何もないということを私に知らせる彼女なりの上手でユーモラスな仕方であった。彼女は子どもたちの食事の準備をしなければならない。私は、また会うときを楽しみにして彼女のもとを去った。”


(シスター・エマニエル「メジュゴリエの証言者たち」(ドン・ボスコ社)より)

*ボスニア・ヘルツェゴビナにある聖母マリア御出現の地、メジュゴリエについては既に何度か紹介させて頂いておりますが、聖母の御出現が真実であるか否か、いまだカトリック教会は調査中で、公式に認められているわけではありません。しかし、2019年5月12日付で、教皇庁は、フランシスコ教皇がメジュゴリエの巡礼を許可されたことを正式に発表しており、今後、更なる動きがあるかもしれません。

 

*「一人であること、そして母でないことに苦しんでいる女性は、自分が生きるかもしれない秘密の殉教という次元を‥‥‥」とありますが、この「秘密の殉教という次元」とは何なのか、よくわからないのですが、すべての女性は母となれるはずなのに、その人をとりまく周囲の環境が整わず配偶者にめぐり会えなかった、あるいは身体的な問題で妊娠できなかった、などの理由で、「母となること」を望んでいたにもかかわらず断念せざるを得なかったという苦しみを受け入れることが、ある種の「殉教」とみなされるのかもしれません。そして「殉教」は、決して無意味なことではなく、本人の魂の救済であるとともに、地上を清め、聖化するものでもあります(十二使徒は、ヨハネ以外の全員が殉教しています)。

 

・エドガー・ケイシー

 

 “覚えておきなさい。人は、瞑想したり、祈ったり、求めることで、偉大な魂をこの世に招き入れるための環境を作り出しているということを。

 なぜなら、妊娠期間には、生まれ来る子供に対して責任を持つ人たちの態度や、子育ての務めを引き受けようとする人たちの姿勢が、彼ら自身にとって、また他の人たちやこの世界にとってすら祝福となり得る偉大な魂を招き入れるかもしれないからだ。

 昔からいわれているように、この世に子供をもたらす人々はまことに祝福された人々である。(540-7)”

 

 “子供は何歳くらいから教えたり、しつけを始めるべきだろうか。

 妊娠の何か月も前からだ。

 その影響力は完全なる賜物の与え主に全く属するものである。(5752-2)”

 

 “ある人たちが述べているように、ハイアラーキー(霊的階層組織)は地球での経験を通して魂が進化向上することを忘れているわけではない。それゆえ、そのような(ハイアラーキーの干渉による)霊的進化が稀だというわけではない。しかし、より自然な霊的成長は、そのような魂をゆだねられた人たちの交流や祈り、献身を通して行われるものである。

 なぜなら、これまでも述べてきたように、生まれる機会を求めている実体の側に、ある種の選択があるからだ。この物質世界、物質性の中にあっては、しばしば自らの霊的意義を否定するような仕方で躾けられたり、教え込まれている。

 魂がこの世に入ってくるのは霊的成長のためではないだろうか?

 ただ単に物や心や肉体の充足のために生まれてくるのだろうか?

 道であり、我らの手本であるキリストにあっては、これらの体と心と霊の側面は常に一つのものとして捉えられる。イエスの母は充分にこれらのことを心にとどめ、思いめぐらされたのである。

 これが全ての親に対する戒めでないとしたら、他にどのような意味があるだろうか?

 成長過程にある子供の感情から発せられる言動についてよくよく熟慮せよ。聖書にあるように、彼らを進ませるべき道に躾けよ。そうすれば大人になって道から外れることはないだろう。(1521-2)”

 

(レイチェル・ランネルズ「エドガー・ケイシーが示す愛と結婚の法則」たま出版より)