結婚について 〔ヴィヴェーカナンダ〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “パタンジャリは言っています、(サンスクリット章句引用)「自分の畑を灌漑する農夫のように」と、畑の隅に小さな水門をあけて、かれはどこかにある貯水池から水を引き入れます。そして多分、かれはせきを作って、水がドッと流れ込むのを妨げているのです。かれが水を欲するならただそのせきを切りさえすればよいのであって、そうすれば水はおのずからドッと流れ込むはずです。水に力を加える必要はありません。それはすでに貯水池にたたえられているのです。そのようにわれわれの誰もが、あらゆる生きものが、各自の背後にこのような、無限の力、無限の純粋さ、無限の至福、および無限の存在という力の貯蔵庫を持っているのであって、ただこれらのせきが、すなわちこれらの肉体が、層一層精妙に組織されて来るにつれて、タモグナ(タマスの性質)がラジョグナとなるにつれ、ラジョグナがサトワグナとなるにつれて、この力と純粋性とが層一層明らかになります。ですから、わが国の人々は飲み食いや食物のことについて非常に深い注意を払って来たのです。今は本来の考え方は忘れられてしまっているかも知れません。ちょうどわれわれの結婚についての場合と同じように―― このことは、今日の主題に属する事柄ではありませんけれど、一つの例として取り上げましょう。もしまた機会があったら、これらの問題についてお話ししたいと思います。いまはただ我らの結婚制度の背後にある思想は、それによって初めて真の文明はあり得る、という思想なのである、ということだけを言わせて下さい。他の考え方では駄目です。もし男か女が、どんな女でも、または男でもを妻または夫として自由に取り上げることを許されたとしたら、もし個人の快楽つまり動物的本能の満足がしまりなく社会に横行することを許されたとしたら、その結果は悪いに決まっています。悪い子供たち、よこしまで悪魔のような子供たちが生まれるでしょう。ああ、あらゆる国々で、人が一方ではこのような獣的な子供たちを生み出しつつ、もう一方ではこのけものたちを抑えつけるべく警察力を倍加しつつあります。問題は、どのようにしてそのような形で悪を抑えつけるかと言うことではなく、どのようにしてまず悪が生まれるのを防ぐかということです。そして皆さんが社会生活をしておられる限り、皆さんの結婚は間違いなく社会の各員に影響を与えます。ですから、社会は皆さんに、誰と結婚せよ、誰と結婚してはならぬ、と命令する権利を持っているのです。また古来この国の結婚制度の背後には、人々が花嫁と花婿の星占いによる合性と呼ぶ、この種の非常に立派な考え方があります。そしてついでに申し上げますがマヌによると、色欲から生まれた子供はアリアン人ではないということです。その受胎と死とがヴェーダの規則に依っている子供、そのようなのがアリアン人なのです。そうです、そして、どこの国でも、このようなアリアンの子供たちは次第にその数が少なくなりつつあり、その結果は、われわれがカリ・ユガと呼ぶところの悪のかたまりです。”

 

(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ講演集「わが師」(日本ヴェーダーンタ協会)より)

 

*言うまでもないことですが、決して恋愛による結婚が否定されているわけではなく、息子や娘が、親や一族の虚栄心や金銭欲などの低次のエゴの犠牲になるべきでもありません。しかし、各人の結婚が社会に対して影響を与えるものであるならば、そのことについても考慮に入れなければならないのは当然です。

 

*スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、インドでは占星術が活用されていることを語っていますが、日本では、各自、各家庭がそれぞれの産土神社を大切にすることが何よりも重要だと思います。産土の神様に、日々御守護や導きをお祈りしておれば、必ずや最良の結婚相手にめぐり会えるはずです。なお、前にも書きましたが、インド占星術がどのようなものであるかは、流水りんこさんの漫画「インド占星術は深いぞ」(主婦と生活社)がよく纏まっていると思います。

 

“人は結婚に先立ち、産土(うぶすな)の神の認許を受け神示を蒙つた上にて結婚せざれば、地位財産名望義理人情恋愛等の体主霊従的境遇に支配されて、一生不愉快なる夫婦の生涯を送る様な事が出来てはならぬから、人倫の大本たる夫婦の道は、神の許しを受け、妄(みだ)りに軽々しく結婚してはならないものである。”

 

            (「霊界物語 第十二巻 霊主体従 亥の巻」『宣直し』より)

 

*ヒュー・リン・ケイシー(エドガー・ケイシーの長男)は、エドガー・ケイシー・リーディングやカバラ(ユダヤ神秘主義)の研究によって、ソウルメイトと出会うためには、何よりも道徳的でなければならないことを主張しています。不倫相手を、自分のソウルメイトだと錯覚して、不倫を正当化しようとする人もいるようですが、そのような不道徳な行いそのものが、相手がソウルメイトではないことを証明しています。ケイシーのリーディングには、結婚した相手がソウルメイトではなかったケースもありますが、それはその結婚から学ばねばならないカルマがあるからであり、決して不倫が正当化されることはありません。

 

“「神の掟に従っている人々が自分の本当のソウルメイトと出会い、結婚するのです。神の掟を拒んでいる人々は、この結合をも拒むのです。つまり、不純がソウルメイト同志を引き離し、道徳が彼らを共に引き寄せるのです」とヒュー・リンは語った。”

 

(ジェス・スターン「ソウルメイト 上」中央アート出版社より)