ゾロアスター(古代ペルシャの預言者)  | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 

・ゾロアスター(古代ペルシャの預言者) 〔ルドルフ・シュタイナー〕

 “普通、キリスト教の特性は正しく理解されていません。ローマでキリスト教は、財と富を楽しむことのできた人々の共鳴はわずかしか得られず、反対に、感覚界で働く人々の共感を多く得ました。感覚界、物質界の中で働いていながらも、これらの人々は死後に携えてゆけるものをこの地上で発展させているということを知っていました。これがキリスト教を受け入れた人々を活気づけた高い感情です。「キリストを理想とすることによって、死によって破壊されない何かをこの世界で発展させることができる」と、いうことができたのです。

 この意識は、キリストがデーヴァ存在ではなく、一人の人間の体のなかに受肉して、実際に地上に存在したということをとおしてのみ形成されえました。このことをとおして、どの人間もキリスト存在を理想とすることができたのです。しかし、そのためには衝動と力が創造されねばなりませんでした。その条件をゾロアスターが作ったのです。この使命を引き受けるために、ゾロアスターは非常に多くのことを準備しました。”

 

 “……ゾロアスターはゴルゴダの出来事を通して実現されるべきものを指して、人間はみずからの内面の力を通してデーヴァの世界を見出す事ができ、未来に向けてますます進化し、歩みを前方に向けることができると語りました。おなじころ、仏陀は、「霊界が存在する。霊界に対して、感覚界はマーヤーである。地上存在への渇きが目覚めるまえに汝らがいた世界へと歩みを向けよ。そうすれば、神的なもののなかでの安らぎ、涅槃を汝らは見出すであろう」と、語りました。

 これが仏陀とゾロアスターの教えの相違点です。仏陀は「歩みを後ろに向けることによって人間は神的なものにいたることができる」と教え、ゾロアスターはザラトスとして、「光が地球のなかに受肉するときがくる。そのことによって、魂は前方に向かって歩めば、神的なものに近づく」と、教えました。

 仏陀は「後方に歩めば魂は神を見出す」と語り、ゾロアスターは「前方に歩めば魂は神を見出す」と語ります。

 神はアルファのなかに探求しても、オメガのなかに探求しても見出されます。後方に向かって歩んでも、神にいたるのです。ただ、高められた人間の力によって、神を見出すべきなのです。アルファの神を見出すのに必要な力は人間の原初の力です。オメガの神を見出すのに必要な力は、人間がみずから地上で獲得しなければなりません。アルファに戻るか、オメガに向かうかはどちらでもいいことではありません。ただ神を見出し、霊界に参入することだけを望む者には、後方に向かっても前方に向かってもおなじことです。しかし、地球を一段高められた状態へともたらすことに責任をとろうとする者はオメガへの道を歩まねばなりません。

 このことをゾロアスターはおこなったのです。地球の力に手を加えようとする人々のために、ゾロアスターは道を拓きました。ゾロアスターは仏陀を完全に理解していました。ゾロアスターも仏陀もおなじものを探求していたからです。ゾロアスターは何をなさねばならなかったのでしょう。キリスト衝動が地上に下ることができる可能性を生み出さねばならなかったのです。ゾロアスターはナザレのイエスとして再受肉します。そして、それまでの転生のなかで獲得してきた成果をとおして、ゾロアスターは霊的経済によって残されていたものの多くを結合できました。世界は深く、真理は込み入っています。”

 

        (ルドルフ・シュタイナー「輪廻転生とカルマ」水声社より)

 

 

・「バガヴァッド・ギーター」 クリシュナの言葉

 

  行動を正しく放棄すれば自由となる

  行動を正しくおこなえば自由となる

  しかし行動の放棄よりも

  行動をおこなう方がすぐれている

 

  欲望や怨念を持たなければ

  放棄の心は動揺しない

  彼には嫌悪も願望もなく

  妄想の鎖は切れて落ちる

 

  行動のヨーガと

  ブラーマンを知るヨーガとは 

  異なっていると愚者は言う

 

  賢者は知識と行動を同一視する

  賢者の眼は正しい

  どちらかの道をとれ

  そして最後まで歩め

 

  最後はおなじところにゆく

  行動を経てきた者は

  同じ自由の中で

  知識を経てきた者と出会う  

 

       (「バガヴァッド・ギーター」ヴェーダーンタ文庫より)