・大本とティヤール・ド・シャルダン
〔 天地の経綸: みろくの世とオメガ・ポイント〕
“大本とカトリック教とでは、その起源や神話、それに文化母体に大きな違いがあるはずだが、ウォレス・グレイ教授は「日本の宗教」(1978年刊)に掲載された「凝視」に関する論文の中で、大本の世界観と有名なイエズス会の思想家タイラール・ド・シャルダンの世界観との間にある相似性を指摘している。タイラールは、自分の研究は「凝視」から生じたものであり、それを促すことを意図したものだった、と告白している。彼はこういっている。「もし凝視することがほんとうにより深くなることであるなら、もし洞察力がほんとうにより充実した存在であるならば、われわれは、われわれの生きる能力をさらに増大するために、人間をもっと近くで眺めなければならない」と。彼は凝視することによって、自然との、神との、そして人間とのより充実した結合をはかる方法を見出した。それは「たとえ感化にしかすぎなくても」、一部の人のためだけでなく人類全体に必要なものである。
私は、ここで私自身の考えがこだまするのを耳にするばかりでなく、王仁三郎の思想が共鳴するのを聞く。タイラールと大本の両者とも地球の更新を説いている。文盲の直と同様に、学のあるフランスのイエズス会士が現代人の歴史の中で「重要度の大巾な転換」が起こるのを凝視(予見)したのである。すなわち、科学技術によって大きく変わった工業、今日われわれが「第三世界」と呼ぶ目ざめた大衆の台頭、貴金属や土地など伝統的基盤にはもはや結びつかないで、それ自体の変動性を前提とする貨幣価値などがそれである。このような大巾な社会の変化は新しい傾向を生み出した。それは、もし人類が避けがたい災害で押しつぶされることから免れようとするなら、社会構造そのものを根本的に改める必要にせまられているということである。
博識なフランス人と日本人農婦の両者が揃って、われわれの価値体系の「立替え立て直し」と「再教育」が必要であり、新しい実際的な形を持った「改心」が必要なのだ、と繰り返し説いている。大本では人類歴史の頂点にくるのがみろくの世であると説くのに対し、タイラールはそれをオメガ点(最終段階)と呼んでいる。みろくは「最後で未来の仏陀」であり、一方のオメガ点は歴史の絶頂に現れるキリストを象徴している。王仁三郎は戦争を「最大の悪事」とし、軍備を「最大の愚挙」ときめつけているが、それと軌を一にしてタイラールは同じ主題について「われわれの曽孫たちは、われわれのことを野蛮人だと考えるだろう」と悲しんでいる。タイラールは「金銭への盲目的崇拝」に疑いをもつが、同じように直はお筆先の中で「金銀への心酔」を戒めている。直が、人間は何事をするにもすっかり「われよし」になってしまっている、と非難すれば、それはタイラールの「自我がその自己制限を失い万有大我に集中しない限り、進歩は不可能である」という診断に共鳴する。
「今や物ごとはすすんでいるのだから、われわれがお互いに全速力でぶつかり合う時も間もないことだろう。もしわれわれが、自分たちのつぶれかけの掘っ立て小屋の中にこれからは世界的な規模で現れる物質的、精神的勢力を無理やり押し込もうとつとめるならば、何かがきっと爆発するにちがいない……」これはタイラールの言葉であるが、まるで直もこれには実質的に同意しているように思われる。すなわち「世界中が泥海となりて……人種(ひとだね)もなきようになる」と。それにもかかわらず、両者が洞察する人類の運命の行方には、「もし」がついている。”
(「おほもと」昭和50年10月号 フレデリック・フランク『大本〈偉大なる根源〉との出会い』より)
・エドガー・ケイシーとティヤール・ド・シャルダン
(アカシック・レコードとヌ-スフィア)
“一九六九年二月二十一日付の『テキサス・カトリック・ヘラルド』紙に、ウィリアム・D・スティール教授は、「エドガー・ケイシー:彼はシャルダンの『宇宙精神』と接したか」と題する、次のような一文を寄せている。
「世間一般の常識でいえば、ケイシーは教養人の分類からはずれていた。彼は、小学六年生の時に学業から落ちこぼれた。彼の語るところによると、眠っているあいだに『宇宙精神』あるいは『宇宙意識』に触れたという。この接触は彼自身の潜在意識を通じなされたもので、催眠状態でケイシーが行った数多くの「リーディング」の際中に明らかにされた」
「宇宙精神と交信したというエドガー・ケイシーの言葉の真偽は別としても、ケイシーの考えをティヤール・ド・シャルダン神父の考えと比較してみることは興味深い。ティヤールは、現実の『外側』すなわち現実の外部構造は、彼が『意識』と名づけた『内側』によって左右されると信じていた。事物の『外側』に顕れる進化の過程を導くのは、そのものの『内側』であるということである。さらにシャルダンは、すべての創造物の内なる『意識』は着実に強さを増してゆくとも書いている」
「ティヤールは、意識の強さは個々人においてのみか、人類全体においても増してゆくと信じた。彼は、しばしば人類の『集合的無意識』(すなわち彼が『ヌースフィア』と呼ぶ存在)について書いているが、この『人類の集合的無意識』は、エドガー・ケイシーが接触したと思われる『宇宙精神』に不思議なほど似通っているのである」”
“ケイシーとティヤールが指示してみせた情報――あるいは想念とでも呼ぶべきもの――は、誰にでも可能な手段を通して得られたものではなかった。ケイシーの手段とは、言うまでもなくリーディングであり、これには常に証人が同席していた。ティヤールの伝記作家の中には、ティヤールが「心理的な体験」をしたことがあると記している人々がいるが、それがどんな性質のものであったかはさだかではない。とはいえ、まったくかけ離れた人生を送り、また「生」についての考えも異なっていたにもかかわらず、ケイシーとシャルダンが非常に多くの点で共通する信念を抱いていたという真実が、ここに残されている。”
“黙示録にこうある。
「主なる神が仰せになる、『わたしはアルパでありオメガであり、初めであり、終わりである。今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者であり、全能者である』」(訳注:ヨハネの黙示録一-八参照)
ティヤールは、この部分を、万物はキリストを通じて発しているのと同様、究極的にはキリストを目指しているという意味に解釈した。それ故、神の顕現は自らの想念・言葉・行為によって世界の完成――キリスト化――へと向かう、正しい道を歩む人間を鼓舞する要因であった。
ティヤール神父は、現世に苦難や悪が存在していることを現実的に受けとめていたが、その著書においてそれらに言及することは稀であった。彼は、苦難や悪を進化の過程に内在する、進歩という陽の部分に対応する陰の部分であると考えていた。彼の言葉を借りると、人は山の高さは語っても、谷の深さは語らないものである。苦難と悪とは進化の過程の一部であるばかりか不可欠な部分であり、人間が想念と愛を通じてこの世の不完全な部分を克服してゆくにつれて、それらも姿を消してゆくと、彼は信じていた。さらに、彼は人間たちが想念や愛に反した行動をとると――罪を犯すと――互いに反発し合うことになるため、この世から苦難や悪が消滅するときがさらに遠のく結果になるとも信じていた。彼によれば、罪悪とは調和、統合、そして神の愛を拒否することにほかならなかった。
再びティヤールの言葉を借りると、想念には探求――人類のためになる知識と、世界統一のための知識を追求し、まとめ上げること――が含まれていた。ここから、ティヤールの所説の中でももっとも難解なもののひとつが生まれてくる。ティヤールは、知識の積み重ねは進化に固有なものであり、地球が進化の過程で金属層、岩石層、水層を蓄積していったのと同様に、人間の創造的な思考の産物たる知識の層をも積み重ねていったと考えていた。彼はこの知識の層をヌースフィアと呼んでいたが、「ヌース」とはギリシャ語で精神を意味する。このように、生き方の進歩向上や人間関係の改善に役立つ発見、発明、決定、互譲の一つ一つが、ヌースフィアに加えられていった。ヌースフィアは、地球の周囲でゆっくりと大きくなってゆく覆いのようなもので、いつの日か地球を取り囲み、人間をオメガの入り口へと導いてくれるものだという。
ティヤールの説に従えば、完成に向かってたゆまず前進する人間の歩みの中に含まれる第二の要因は、愛、キリスト者の愛、すなわちキリスト教の精神であった。想念と愛の両方が、ヌースフィアに包まれた世界を覆い尽くすと、進化は完了する。その時こそ、神の世界が創造され、世界は神のものとなったと言えるのだという。”
(グレン・D・キトラ―「エドガー・ケイシーの死海写本」たま出版より)
〔大本教旨〕
神は万物普遍の霊にして人は天地経綸の大司宰也。神人合一して茲に無限の権力を発揮⦿
〔大本三大学則〕
一、 天地の真象を観察して、真神の体を思考すべし
一、 万有の運化の事差なきを視て、真神のカを思考すべし
一、 活物の心性を覚悟して、真神の霊魂を思考すベし
(月宮宝座)