放任主義の教育(ある程度の干渉は必要) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・放任主義の教育(ある程度の干渉は必要)

 

 “王仁が子供の教育には放任主義をとれといふのは、今日の児童教育があまり干渉がひど過ぎるから、その反動としていふので、矢張り放任の中に干渉があり、干渉の中に放任があらねばならない。親が子供に、物を貰つても直ぐ両手を重ねてお礼を云ふことを教へるが、あれなども乞食根性を強ひるやうなものであつて王仁は大嫌ひだ。余り親が子供に干渉し過ぎてゐるのである。

 今大本式の教育を受けた子供を世間で悪く云ふのは善悪に対する標準が違ふからで、本当は親の干渉を受けすぎないで暢び暢びしたのがいい。年頃になれば礼儀などはひとりでに覚えるから、余り干渉してはいけない。(昭和七年十一月)”

 

           (「玉鏡」より)

 

 

・社会主義的な教育について (ルドルフ・シュタイナーによる警告)

 “いやしくも教育者ないしは授業者たるものは、授業を普通一般の人間関係に合わせて作っていくだけでは十分ではないということを、認識することが肝要なのであります。教師はこの内部に住む人間を把握することから出発して、そこから授業を形成しなければならないのです。

 授業を普通一般の人間関係に合わせるというこの誤謬を犯しかねないのが、まさに世に広まっている社会主義なのであります。もし普通一般のマルクス主義的社会主義者達の理想に従って未来の学校が組織されるとどうなるものかを、考えてみて下さい。ロシヤにおきましては、すでにそうなっております。ですから、その地におけるルナチャルスキーの学校改革は恐るべきものであります。これはあらゆる文化の死であります!そして、ボルシェヴィズムからは他にもすでに多くの恐ろしいことが生じてきているにしましても、その最も恐るべきものとなるのは、ボルシェヴィズム的教育方法でありましょう。なぜかと申しますと、それは古い時代から伝えられて来た文化的なものの一切を根絶してしまうであろうからです。最初の世代のうちに直ちにそうなるということはありますまいが、しかし幾世代かのうちには、それだけ一そう確実にこれを成し遂げることができるでしょう。そしてそのために間もなく、あらゆる文化は地球上から消滅してしまうでしょう。これを見通すことのできる人が今いなければならないのです。この部屋におられる皆さんもきっと聴いたことがおありでしょう。ボルシェヴィズムへの讃歌を歌い上げ、しかもそれによって悪魔的なものが社会主義の中へ呼び込まれるのだということには全く気づいていない人達のする話を・・・。

 このことは特に注意しなければならないのです。「社会的な方向に向かっての進歩をするには、それだけ一そう深い教育の側からの人間把握が必要である」ということを知っている人間が、どうしてもいなければならないのです。ですから人々は次のことを知らねばならないのです。「まさに未来の教育者ないしは授業者こそが、人間本性の最も奥深くにあるものを捉えていなければならない。そして、この人間本性の最も奥深くにあるものと共に生きなければならない。大人同志の間になり立っているような普通一般の人間関係を、決して授業の中に適用してはならない」ということを。マルキシスト達は何を望んでいるのでしょうか?彼等は学校を社会主義的に組織しようとしています。校長職を廃止し、それに代わるものは何も置こうとしません。そして、できるだけ子供達を子供達自身の自己教育にゆだねようとしております。そこからは恐ろしいことが生じて来るに違いありません!

 私達はある時、某田園学舎を訪問し、そこで行われている授業の中で最も品位の高い、すなわち宗教の授業を見学しようと思いました。私達は教室の中へ入りました。そこには窓べりに一人の腕白坊主が横になっていて、両脚を窓から外へぶらりと垂らしておりました。もう一人は、どこかその辺に腹ばいになって、首をもたげておりました。どの子供もこれと同じような格好をして、部屋の中のあちこちに散らばっていたのです。そこへ宗教の教師と称する者が入って来て、特別に何の導入も与えることなく、いきなりゴッドフリート・ケラーの短編小説を読み出しました。そうすると生徒達は、教師の朗読にありとあらゆる野卑なことをして伴奏をつけるのです。そして教師が朗読してしまうと、宗教の時間は終わりになって、皆は野外へ出て行ってしまいました。以上のことを見学致しました時、私にはこの田園学舎の隣に大きな牛舎が立っている姿が思い浮かびました――そこから何歩もへだたっていないところで、この学校の生徒達は生活しているわけであります。――もちろんこういったことも、ひどく悪く言うべきではありません。沢山の善意がその根底にあるのです。しかしこれらは、「未来の文化のために何がなされねばならないか」についての完全な誤認なのであります。

 いわゆる社会主義的プログラムによって、一体今日何を彼等はしようとしているのでしょうか?彼等は子供達を、ちょうど大人同志がするように交際させようとしているのです。これは教育の場において行い得る最も誤った行為であります。私達は子供の心や肉体の力を発達させるにあたって、彼等は大人が他人と交わることを通して自分の力を磨いて行かねばならないのとは全く違う状態にあり、全く違う課題を持っているのだということを認識していなければなりません。すなわち意識下深くにあり心性の中に住んでいるものに向かって、教育と授業は入り込んで行くことが出来なければならないのです。これができなければ先へは進めないのです。それゆえに次のような問いが出されねばならないでしょう。「授業や教育の何が一体、人間の意志本性に働きかけるのだろうか?」と。この問題は一度真剣にとり組んでみる必要があるものです。”

 

      (R・シュタイナー「教育の基礎としての一般人間学」人智学出版社より)